実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

布辨神社(広瀬町布辨)

布辨神社(ふべじんじや)は 『出雲國風土記』の「布辧社(fube no) yashiro」の比定社です 古文書には 古くは要害山上に鎮座していたが 天文年間(1532~55)山麓に遷したと伝承しています 江戸期には「二所大明神」と云われ「大山咋命(おほやまくいのみこと)市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」の2柱の神が坐ます 

ここからは 掲載神社の呼称名を時代順に説明していきます

まず初めは 今から約1300年前・天平5年(733年)2月30日に完成した『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』
次に 今から約1100年前・平安時代中期(延長5年927年)に完成した『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )』
最後に『出雲國風土記』と『延喜式神名帳』の論社(現在の神社)となっています

【約1300年前】About 1300 years ago

【出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in February 733 AD.

【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 意宇郡(ou no kori) 条
    神祇官社(jingikan no yashiro )
【社名】布辧社(fube no) yashiro
【読み】(ふべ の)やしろ

国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国風土記』写本
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用

【約1100年前】About 1100 years ago

【延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in December 927 AD.

【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 意宇郡(ou no kori)
【社名】布辨神社(nunohe no kamino yashiro)
【読み】(ぬのへのかみのやしろ)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【現在】At the moment 【論社】Current specific shrine

【神社名】(shrine name)

 布辨神社(fube shrine)
 (ふべじんじや)

【鎮座地】(location)

 島根県安来市広瀬町布辨1158

【地 図】(Google Map)

【御祭神】(God’s name to pray)

《主》大山咋命(oyamakui no mikoto)
   市杵島姫命(ichikishima hime no mikoto)

(合祀)天日神社
《合》天照大神(amaterasu okami)
   天鈿売命(ameno uzume no mikoto)
   猿田彦命(saruta hiko no mikoto)

(合祀)安米神社
《合》罔象売命(mizuha no me no mikoto)
《合》伊邪那美命(izanami no mikoto)

【御神格】(God’s great power)

・農業神 God of agriculture
・布の神 Cloth god

【格式】(Rules of dignity)

・『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』所載社
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )』所載社

【創建】(Beginning of history)

当社は 古くは要害山上に鎮座していた

【由緒】(history)

大正8年5月8日 布辨神社・天日神社・安米神社の社を合祀 現在の布辨神社となった

【境内社】(Other deities within the precincts)

・廣田神社《主》倉稲魂命・撞榊厳魂天疎向津姫命
     《合》稲背脛神・天児屋根神・天日鷲神・伊弉冊神・事解男神・速玉男神・大山祇神・大己貴神・菅原道真・伊弉諾神

・愛宕神社 《主》迦具槌命

・天日神社 《主》天照大神・天鈿売神・猿田彦神

・新宮神社 《主》伊弉冊神
      《配》事解男神・速玉男神

・山之神神社《主》大山祇神

以下
31社 荒神(ko jin)を祀る

・横手荒神・後ケ市荒神・橋本荒神・杉森荒神・井手谷荒神・土井荒神・万谷荒神・下向原荒神・踊原荒神・金原荒神
・上り原荒神・薬研荒神・水谷荒神・小根尾荒神・根尾荒神・中曽根荒神・成廻荒神・森木荒神・鉄穴内荒神・松本荒神
・三反田荒神・原尻荒神・山之神荒神・川向荒神・小前荒神・鑛所荒神・鍬地谷荒神・丸山荒神・笹廻荒神・平野荒神
・乙見荒神

【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

布部城跡のある「要害山」は 当社の旧鎮座地と伝わります

当社は 古くは要害山上に鎮座していたが 天文年間(1532~55)山麓に遷したと 古文書では 伝承しています 

現在の『ひろせ史蹟名勝ガイドブック 比田・西谷・宇波・布部編』(月山尼子ロマンの里づくり委員会)より

もともと布部山(一円山)に愛宕神社があり、「軻遇突智命(かぐとちのみこと)」を祀っていた。
 元亀元年(1570)布部合戦のとき、神社が被害に及んではと、現在地の清和山に奉還された

『ひろせ史蹟名勝ガイドブック 比田・西谷・宇波・布部編』(月山尼子ロマンの里づくり委員会) 

【神社にお詣り】(Pray at the shrine)

松江駅から R432号経由 約31km 車50分程度
飯梨川に添って遡上するようなイメージ 安来市広瀬町と通りながら布部町に入っていき 布部小学校の隣に鎮座します

布辨神社(fube shrine)に到着

参道入り口に合祀記念の碑と石灯篭が建ち 山の裾野にある社殿へと石段が続いています

鳥居には注連縄が張られています 一礼して鳥居をくぐり 

石段を登っていきます

石段の上には随神門があり 狛犬の右手に手水舎があります

隋神門には 注連縄が張られていますので 自然に一礼してくぐります

境内は 2段の構成になっていて 今立っている下の境内には 左手に立派な屋根付きの土俵があります

この下の境内 土俵のある境内から 社殿のある境内は一段高みにあり 土塁の石垣が まるで城壁のように切立って積まれていて その石には「合祀された神社名」や「遷宮時の寄附者名」が刻まれています 石垣の上に社号標「布辨神社」とあり 誰もが上段には上がれない様式になっています

参拝者はこの石垣を割るように続く石段を上がり 横に構える狛犬に見定められながら 真っ直ぐの参道を社殿に向かいます

近づきますと なかなかの立派な佇まいのお社です 拝殿の屋根ののびのびとした反りや「太い注連縄」と「彫刻の類も美しく」気品ある社殿です

拝殿にすすみます 賽銭箱に亀甲の御神紋が刻まれます 中の紋様は 左前の鷹の羽(taka no ha)ですので「亀甲に 違い鷹の羽」

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

向かって右手より本殿を仰ぎます

本殿向かって右手より 境内社にお詣りをします

境内社の右脇から山へ上がる小径があります

参道を戻り境内を後にします

土俵や神門がのある下の境内へ出ます 境内は綺麗に維持されて 信仰心の篤さを感じます

石段を下り 鳥居をくぐり 振り返り一礼

【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)

当社は 古くは要害山上に鎮座していたが 天文年間(1532~55)山麓に遷したと それぞれの文献では 伝承しています

『雲陽志(unyo shi)』能義郡 布部  にある伝承

『雲陽志(unyo shi)』では
現在の「布辨神社(fube shrine)」が
   「二所大明神(nisho daimyojin)」として記されています

意訳
『  布部  二所大明神(nisho daimyojin)

大山咋命(oyamakui no mikoto)市杵島姫(ichikishima hime)をまつる 祭禮 9月29日なり

延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )に 雲州 布辨神社(nunohe no kamino yashiro)と云う
当国の風土記に 意宇郡 布辧社(fube no) yashiro とあるは これなり

郷中で 園山あり400崚嶒(りょうそう)をして高さ100丈にて絶頂に神地あり
この社は古墳なりて
天文年中(1532~55)尼子の勇士 山中鹿之助 その山に 駐屯した時 里人が 社殿を今の地に遷座して 参拝の便を良くし 山の号を根尾とする 
  』

『原文』参照『雲陽志(unyo shi)』[黒沢長尚著]天保6 [1835] 国立公文書館デジタルアーカイブ『雲陽志』写本
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002424&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『出雲国式社考(izumo no kuni shiki no yashiro ko)』意宇郡 にある伝承

意訳
『  布辨神社(nunohe no kamino yashiro)

風土記に同じ 布部村に有り 今は 能義郡なり 

昔は この社は 山の上に鎮座しました跡が 今もあります
天文の頃 尼子の臣 山中鹿之助という者 この山上に駐屯した時 里人が 今の地に御社を遷し奉じたと 言い伝えられている

祭神 大山咋命(oyamakui no mikoto) 市杵島姫命(ichikishima hime no mikoto)をまつり ・・・・・・今 二所大明神と申す 』

『原文』参照 『出雲国式社考((izumo no kuni shiki no yashiro ko))』[選者:千家梅舎/校訂者:岩政信比古]写本 明治02年(1906)
国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国式社考』写本https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000040615&ID=&TYPE=&NO=画像利用

江戸期には「二所大明神」と云われ「大山咋命(oyamakui no mikoto)市杵島姫命(ichikishima hime no mikoto)」の2柱の神が坐ます 

布辨神社(fube shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳(Jimmeicho)』に戻る

一緒に読む
『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳』399社

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

続きを見る

『出雲国 式内社 187座(大2座・小185座)について』に戻る 

一緒に読む
出雲國 式内社 187座(大2座・小185座)について

出雲國の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている当時の官社です 出雲國には 187座(大2座・小185座)の神々が坐します 現在の論社についても掲載しています

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています