実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

氣比神宮 土公〈氣比大神降臨の地〉(敦賀市曙町)

氣比神宮 土公(どこう)は 氣比之大神 降臨の地とされます 御祭神 氣比之大神(けひのおほかみ)は 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)とも 笥飯大神(けひのおかみ)御食津大神(みけつおほかみ)とも称し 2千有余年 天筒の嶺に霊跡を垂れ 境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝わり 神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を今に留めています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

氣比神宮 土公(Doko)〈氣比大神降臨の地〉

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

福井県敦賀市曙町11

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》氣比大神(けひのおほかみ)降臨の地

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社の古殿地

【創  (Beginning of history)】

比宮 古殿地の事

 比神宮 境内東北部に位置し 当神宮鎮座にかかる聖地として 古来より「触るべからず 畏み尊ぶべし」と社家文書に云い伝えられているが 嘗て筒山の嶺に霊跡を垂れ 更に神籬磐境の形態を留める 現「土公」は比之大神降臨の地であり 伝教大師・弘法大師がここに祭壇を設け七日七夜の大業を修したところとも伝えられる
土公は陰陽道の土公神の異称で 春は竈に夏は門に秋は井戸に冬は庭にありとされ その期間は其所の普請等を忌む習慣があったが此の土砂を其の地に撒けば悪しき神の祟りなしと深く信仰されていた 戦後境内地が都市計画法に基づき学校用地として譲渡の已む無きに至ったが土公の参道はかろうじてそのままの形で残された
大宝(七〇二)造営以前の氣比宮は此の土公の地に鎮座され祭祀が営まれていた
この聖域を通して比之大神の宏大無辺の御神徳を戴くことが出来るよう此のたび篤信者の奉賛により遥拝設備が立派に完成されるに至った次第である

現地石碑より

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【由  (History)】

由 緒

 伊奢沙別命は、筍飯大神、御食津大神とも称し、二千有余年前、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境の形態を留めている。
 上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。
 仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。
神功皇后は勅命により御妹玉妃姫命と武内宿禰命とを従えて筑紫より行啓せられ、親ら御参拝された。
その時に筍飯大神が玉姫命に神憑りして「天皇外患を憂ひ給ふなかれ、兇賊は刃に血ぬらずして自ら帰順すべし」と御神託があったという。
 文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮とし、後に、日本武尊を東宮殿に、應神天皇を総社宮に、玉姫命を平殿宮に、武内宿禰を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。

・・・
・・・

福井県神社庁HPより抜粋
https://www.jinja-fukui.jp/detail/index.php?ID=20151027_161953

【境内社 (Other deities within the precincts)】

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

現在の氣比神宮

・氣比神宮(敦賀市)越前国一之宮

一緒に読む
氣比神宮(敦賀市曙町)

氣比神宮(けひじんぐう)は 太古 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)〈氣比大神〉1柱を祀りましたが 大宝2年(702)文武天皇の勅命で 仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命・武内宿禰命の神々が合祀され七柱の御祭神となりました 延喜式には「祭神七座並 名神大社」とあります

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Meijin sai)」の条 285座

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂

延喜式巻第3は『臨時祭〈・遷宮天皇の即位や行幸国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で名神祭Meijin sai)』の条に 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

名神祭 二百八十五座

・・・
・・・

比神社 七座 巳上 越前國
・・・

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩

嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦) 

大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合

加えるに 
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺 
絲(イト)1絇を 布1端に代える

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越前国 126座(大8座・小118座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)敦賀郡 43座(大7座・小36座)

[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 名称 ] 比神社 七座(並名神大)
[ふ り が な ]きひの かみのやしろ ならび ななくら
[Old Shrine name]Kihi no kamino yashiro Nanakura

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

氣比神宮 主祭神 氣比大神神(けひのおほかみ)について

氣比神宮 主祭神は 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)〈別名 御食津大神(みけつおおかみ)〉とされます

さらに 異説伝承として
主祭神・氣比大神(けひのおほかみ)は 都怒我阿羅斯等つぬがあらしと仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)天日槍(あめのひぼこ)説などがあります

都怒我阿羅斯等つぬがあらしと)は
古代朝鮮の加羅国王の王子とされ 角鹿(つぬが)角鹿から敦賀に転訛の語源とされる
天日槍(あめのひぼこ)と同一神とする説もある

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は
足仲彦天皇(たらしなかつひこの すめらみこと)〈第14代 仲哀天皇で 皇后は 氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后

伊奢沙別命(いざさわけのみこと)
神の伊奢沙別命で
“伊奢沙別”という名は 元は神功皇后皇子 譽田別尊(応神天皇)の名り 譽田別”という名は 元は伊奢沙別の名り 名(な)と魚(な)を交換したとされる

天日槍(あめのひぼこ)は
記紀等に伝わる朝鮮半島の新羅からの渡来神
神功皇后母は 天之日矛の子孫
都怒我阿羅斯等つぬがあらしと)と同一神とする説もある

いずれも 長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉に関連する神です

この天日槍(あめのひぼこ)を祀る神社に 但馬國一之宮 出石神社 があります

神紋を同じくする 越前國一之宮 氣比神宮 と 但馬國一之宮 出石神社 について

双方とも 日本海側の大社であり 新羅からの渡来神 天日槍(あめのひぼこ)との関連あります
ともに・桐・三つ巴・十六八重菊を御神紋としているのは何故なのでしょうか

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越前國一之宮 氣比神宮〈神紋は 五七の桐 三つ巴 十六八重菊

・氣比神宮(敦賀市)

一緒に読む
氣比神宮(敦賀市曙町)

氣比神宮(けひじんぐう)は 太古 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)〈氣比大神〉1柱を祀りましたが 大宝2年(702)文武天皇の勅命で 仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命・武内宿禰命の神々が合祀され七柱の御祭神となりました 延喜式には「祭神七座並 名神大社」とあります

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但馬國一之宮 出石神社神紋は 五三の鬼桐 三つ巴 十六八重菊

・出石神社(豊岡市出石町)

一緒に読む
出石神社(豊岡市出石町)〈式内社 伊豆志坐神社 八座(並名神大)・但馬國一之宮〉

出石神社(いずしじんじゃ)は 祭神は出石八前大神〈天之日矛が将来し 出石神社に安置した八種の神宝の神格化〉・天日槍命(あめのひぼこのみこと)です 社伝には 天日槍命が日本に渡来後 泥水が充満する当時の但馬の有様を御覧になり 円山川河口の岩石を切り開き泥水を日本海へと流し 現在の肥沃な平野を造られたとの伝承があります

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR北陸本線 敦賀駅から北へ約1.1km 徒歩15分程度

氣比神宮 表参道には 旧国宝の氣比の大鳥居が建ちます

氣比神宮(敦賀市曙町)に参着

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境内を抜けても良いのですが
そのまま車道を西へ進み 参道口 さらに参道へと進むと最寄りの入口になります 境内案内図参照願います

氣比神宮案内図

正安2年(1300年)まで 東口が境内表口であったと伝わります
参道には 社号標が立ちます

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参道を進みます

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東参道の左手は 境内社〈・角鹿神社兒宮大神下前神社〉が鎮座します

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〈式内社〉摂社・角鹿神社(つぬがじんじゃ

《主》都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)《合》松尾大神(まつのおおおかみ)

・角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)

一緒に読む
角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)

角鹿神社(つぬがじんじゃ)は 社伝には 祭神 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)〈任那(みなま)の皇子〉は 崇神天皇の御代 氣比の浦に上陸し 天皇に貢物を奉り 氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられたとあり その政所(まんどころ)の跡に鎮座する門神〈往古は氣比神宮の東門口が表参道〉でした 敦賀(つるが)の地名は 御神名 角鹿(つぬが)が語源とされる

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〈式内社〉摂社・大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ

《主》大己貴命(おほなむちのみこと)
《合》稲荷大神,金刀比羅大神

・大神下前神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)

一緒に読む
大神下前神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)

大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)は 氣比大神四守護神の北方鎮守社で元は北東の天筒山山麓の宮内村(現・敦賀市金ケ崎町)に境外末社として鎮座していた 明治四十四年(1911)鉄道敷設に伴って現在の地に遷座 稲荷神社 金刀比羅神社を合祀しました

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・兒ノ宮(このみや

《主》伊弉冊尊(いざなみのみこと)

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その更に東に 土公の遥拝所あります

氣比神宮 土公〈氣比大神降臨の地〉(敦賀市曙町)に参着

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遥拝所の先に見えている山は 筒山(てづつやま)
嘗て筒山の嶺に霊跡を垂れ 更に神籬磐境の形態を留める 現「土公」は比之大神降臨の地であり」とあります

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遥拝所にすすみます 

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遥拝所には 鳥居が建てられていて 鳥居柱には「比宮 古殿地」と刻まれています

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一礼をして 鳥居をくぐります

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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遥拝所の先に見えている 筒山(てづつやま)にも 改めて一礼をします

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氣比神宮境内へと向かいます

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廻廊の門から本殿に参拝します 氣比神宮の記事を参照ください

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・氣比神宮(敦賀市)越前国一之宮

一緒に読む
氣比神宮(敦賀市曙町)

氣比神宮(けひじんぐう)は 太古 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)〈氣比大神〉1柱を祀りましたが 大宝2年(702)文武天皇の勅命で 仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命・武内宿禰命の神々が合祀され七柱の御祭神となりました 延喜式には「祭神七座並 名神大社」とあります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承

氣比神宮の神名氣比大神(けひのおほかみ)の由來として「皇太子(ホンダワケノミコト)と地主神(イザサワケノミコト)が 名(な)と魚(な)を交換したやり取り」が 記されています

【抜粋意訳】

仲哀天皇 の段 伊奢沙和気大神氣比大神けひのおほかみ)〉

かくて 建内宿禰命(たけしうちすくねのみこと) みそぎをしようと
その太子〈ホンダワケノミコト
〉(後の第15代 応神天皇をおつれ申し上げて
淡海近江〉から 若狹國わかさのくに)経歴した時 高志の前〈越前角鹿)〈敦賀に假宮を造くられました
その時 この土地に坐(ましま)す 伊奢沙和気大神いざさわけのおほかみ 夜の夢にあらわれ「わたしの名 を 御子の名 とかえたい」と仰せら
の言にお答えして「恐れ多いことです 仰せの通り 御名をおかえ致しま」と申しあげた

また その神が仰せになり「明日の朝 濱にるがよい 名をかえたので 幣献上しよう」と云われた

よって 翌朝 濱においでになつた時 鼻の毀やぶれた入鹿魚イルカ すでに或る浦に寄っていました
そこで 御子は 神に申された神は わたくしに 御食の魚(みけのな)給わられた
それで この神の御名を稱えて 御食大神みけつおほかみ)号〈名付け〉された その神は は 氣比大神(けひのおほかみ)と申し上げます
また その入鹿魚イルカの鼻の血が臭かったので その浦を血浦(ちぬら)と言います 今は 都奴賀(つぬが)〈敦賀と言います

ここにてお上りになる時 母君の息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)は 酒を造り待っていて 獻上された ここにを詠まれた

このお酒は わたくしのお酒ではございません
酒の 常世とこよにおいでになる 石に坐(まし)ます少名御神(すくなのかみ)の
神の寿〈神の祝〉寿きほし〈祝い狂くるわせ
寿き〈豊かに祝〉寿き廻ほし〈祝い廻り〉
献(たてまつ)り(いらし) 御酒です
さあ召しあがれ

う歌われて お酒を献(たてまつ)りました ここに建内宿禰命(たけしうちすくねのみこと) 御子のために答え申し上げた歌は

この酒を釀(かも)した人は その鼓(つつみ) うす)のように立て
歌いつつ(かも)した 舞いつつ(かも)した
この酒の 御酒の なんと楽しい酒

これは酒楽さかくらの歌でございます

【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』仲哀天皇の段 に記される伝承

気長足姫尊〈神功皇后〉を皇后とし 角鹿(つぬが)〈敦賀にお出でになられ 行宮かりみや建て 笥飯宮けひのみや)と称したと記しています

【抜粋意訳】

仲哀天皇の段 二年春正月甲寅朔甲子春一月十一日〉の条

気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉を皇后とされた
これより先に 叔父 彦人大兄(ひこひとのおおえ)の娘 大中媛(おほなかひめ)娶り妃とされた
籠坂皇子(かごさかのみこ)忍熊皇子(おしくまのみこ)を生まれた
次に 来熊田造くくまたのみやつこの祖 大酒主(おほさかぬし)の娘 弟媛(おとひめ)を娶り 誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)を生まれた

二月癸未朔戊子二月六日〉の条

角鹿(つぬが)〈敦賀にお出でになられた
すぐに 行宮かりみや建てて 居とされた
これを 笥飯宮けひのみや言う
その月に 淡路屯倉(あわじのみやけ)を定められた

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』神功皇后の段 に記される伝承

【抜粋意訳】

神功皇后の段 十三年春二月丁巳朔甲子十三年春二月八日〉の条

武内宿禰(たけのうちすくね)に命じて 太子(ひつぎのみこ)〈応神天皇〉に従わせて 角鹿(つぬが)〈敦賀の笥飯大神(けひのおほかみ)参拝された

癸酉十七日 太子は角鹿つぬが)〈敦賀から戻られた

この日 皇太后は 太子のために 大殿(おほとの)で宴(とよあかり)〈宴会〉を催された 
皇太后は(みさかずき)〈御挙げて 太子寿(さかほい)〈酒を呑み祝う〉をされた そして 歌を詠まれた

此の御酒(ミキ)は 吾(ワ)が神酒(ミキ)ならず
神酒(クシ)の司(カミ) 常世(トコヨ)に坐(イマ)す
いはたたす 少御神(スクナミカミ)の
豊寿(トヨホ)き 寿(ホ)き廻(モト)ほし
神(カム)寿(ホ)き 寿(ホ)き狂(クル)ほし
奉(マツ)り来(コ)し御酒(ミキ)そ
あさず飲(ヲ)せ ささ

コノミキハ ワガミキナラズ
クシノカミ 卜コヨニイマス
イハタタス スクナミ力ミノ
卜ヨホキ ホキモ卜
カムホキ ホキクルホシ
マツリコシミキソ
アサズヲセササ
〈歌の意〉
この神酒は 私だけの酒ではありません
神酒の司で常世の国に坐(まし)ます名彦神が 祝いの言葉を述べながら そばで歌い 天皇に醸し献上した酒で
さあ 残さず お飲みなさい

武内宿禰(たけのうちすくね) 太子に変わり答えて歌った

此(コ)の御酒(ミキ)を 醸(カ)みけむ人は
その鼓(ツミ) 臼(ウス)に立てて
歌ひつつ 醸(カ)みけめかも
この御酒(ミキ)の あやにうた楽しささ

コノミキヲ 力ミケムヒ卜ハ
ソノツツミ ウスニタテテ
ウタヒツツ 力ミケメカモ
コノミキノ アヤニウタタノシササ
〈歌の意〉
この神酒を醸した人は 鼓を臼のように立てて 歌い醸したからだろう
この神酒の 何ともおいしいことよ さあさあ

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』応神天皇の段 に記される伝承

ある伝として 笥飯大神(けひのおほかみ)応神天皇が名前交換した と記しています

【抜粋意訳】

応神天皇の段〈誉田天皇(ほむたの すめらみこと)〉

誉田天皇(ほむたのすめらみこと) 足仲彦天皇(たらしなかつひこの すめらみこと)〈仲哀天皇の第四子
は 氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后という

天皇は 皇后が新羅しらぎを討歲次庚辰仲哀九年〉冬十二月に筑紫ちくしの蚊田かだ お生まれになった
幼少から聡明 物事を深く遠く見通された
立居振る舞いに 聖人の兆しがあられた

皇太后の摂政三年 皇太子立たれた
時に 年三歳

天皇が初め 孕まれておられる時 天神地祇てんじんちぎ 三韓(みつのからくに)を授け
生れた時すでに 腕の上に盛り上った肉があり その形が鞆ほむた(弓を射る革の防具)に似ていた
これは 皇太后神功皇后雄々しいなり〉をして ほむた履いた様子に似られた

肖は阿叡(ヘエ)と読みます

その名を称え 誉田天皇ほむたのすめらみことという
古の人は 弓の鞆(とも)のことを褒武多「ほむた」と言いました


あるによると
天皇が初め 太子となり 越国こしのくに)〈北陸にお出ました

角鹿(つぬが)〈敦賀の笥飯大神(けひのおほかみ)拝祭(おがみ)奉りました
その時 大神と太子とが名前交換した
それで 大神を名付けて 去来紗別神(いざさわけのかみ)言うようになった
太子は 誉田別尊(ほむたわけのみこと)名付けたと云う

すなわち 大神のは 誉田別神(ほむたわけのかみ) 太子のは 去来紗別尊(いざさわけのみこと)云う
しかし 何も所見は無く 未だ詳らかではない

摂政六十九年夏四月 皇太后が崩御された ときに年百歳

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』持統天皇の段 に記される伝承

越前国司えちぜんのくにのつかさ 白鵝(しろきひいる)〈蚕の成虫〉を捕らえ献上した これにより神封気比神宮笥飯神(けひのかみに寄進された封戸)について 具体的に記されています

【抜粋意訳】

持統天皇の段 即位六年九月 癸丑二十一日)の条

伊勢国司いせのくにのつかさ) 嘉禾よきいね二本を奉った
越前国司えちぜんのくにのつかさ 白鵝(しろきひいる)〈蚕の成虫〉を奉った

戊午二十六日)の条

みことのりして
「白鵝(しろきひいる)〈蚕の成虫〉を角鹿郡つぬがのこおりの浦上うらかみの浜で獲えた
よって 笥飯神(けひのかみ気比神宮 封(へひと)を二十増し これまでの分の上に加える

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

氣比神宮 土公〈氣比大神降臨の地〉(敦賀市曙町)に (hai)」(90度のお辞儀)

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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について

日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です

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越前國 式内社 126座(大8座・小118座)について

越前国(えちぜんのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 越前国には 126座(大8座・小118座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています