粟皇子神社(あわみこじんじゃ) 〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 元祿五年(1692)大宮司 河邊長春が現在地に再興しました 創建は垂仁天皇の御宇 倭姫命が 皇大神を伊勢に鎮座の明年 御贄所を定めるため志摩國にいでまし御帰途 淡良伎(アハラキ)之島を經て 伊氣浦(イケノウラ)に至り ここで御贄を奉られた神を淡海子(アハミコノ)神と名付けて社を定めたと伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
粟皇子神社(Awamiko shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県伊勢市二見町松下字鳥取1687-2
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》須佐乃乎命御玉道主命(すさのをのみことのみたまのみちぬしのみこと)
〈別名 淡海子神(あわみこのかみ)〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・〈皇大神宮(内宮)摂社〉
【創 建 (Beginning of history)】
粟皇子神社(あわみこじんじゃ) 皇大神宮摂社
須佐乃乎命御玉道主命(すさのおのみことのみたまのみちぬしのみこと)
祭神は海岸鎮護の神と伝えられる、須佐乃乎命御玉道主命。別名、淡海子神(あわみこのかみ)。池の浦の西岸の岬に鎮座し、白砂青松の海岸から飛島が望まれる美しい景観の社域である。倭姫命に御贄(みにえ・神様にお供えする神饌)を奉った故事により定められた
伊勢神宮崇敬会HPより
https://www.jingukaikan.jp/125mairi/m10/1005.html
【由 緒 (History)】
『神宮要綱』〈昭和3年1928)〉に記される内容
【抜粋意訳】
攝社末社所管社
栗皇子神社
鎭座地 三重縣度會郡二見町大字松下
殿舎
正 殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉 垣 連子板打・・・壹重
鳥 居 神明造・・・壹其
神宮司廰造替粟皇子神社も亦、延喜大神宮式及び神名式に見ゆ。
垂仁天皇の御宇 倭姫命 皇大神を鎮め祭り給ひて後、明年 御贄處を定めんがため志摩の國にいでまし御帰途、淡良伎(アハラキ)之島を經て伊氣浦(イケノウラ)に至り、其處に参り相ひて御贄仕へ奉れる神を淡海子(アハミコノ)神と號けて社定め給ひしこと太神宮本記に見え、皇太神宮儀式帳には、其の祭神を須佐乃乎命御玉道主(スサノヲノミコトノミタマミチヌシ)命ど爲せり。然らば道主命は卽ち道中貴にして、天照大神と須佐之男命との誓約によりて生れましゝ三女神を指し奉るなるべし。伊勢は古來近畿地方と東國との交通の門戸なれば、伊勢湾口の伊氣浦(イケノウラ)に宗像(ムナカタ)の神を奉祀するは、深き故あることなるべし。寛文三年攝社再興の時 本社を伊氣浦湾上の小嶼(こじま)に建てんとしたれど、其の地風濤の憂あるを以て果さず、元祿五年に至り大宮司 河邊長春乃父精長の志を継で、之を湾邊の一地に再興したり。而も其の地 尚海潮の浸すあるを以て、正徳二年更に之を現地に移し奉りしが土地狹少なるを以て、明治四十一年民有地三畝步を購入して、社域を拡張したり。
但し其の四至 儀式帳に合はず、故に一説 小濱(ヲハマ)村の土宮と稱するー祠を以て本社の遺趾に擬せり。
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
〈粟皇子神社の遙拜所〉・潜島(くぐりじま)
『伊勢参宮案内』〈昭和5年(1930)〉に記される゛潜島゛の内容
潜島(くぐりじま)について 粟皇子神社の遙拜所であり 潮が引いていれば徒歩で行ける と案内を記しています
【抜粋意訳】
潜り島
神前(かみさき)の岬(みさき)にある巨岩(きょがん)は、天然の洞(ほら)があって潮干(しほひ)の時には徒步で潜(くぐ)れる、粟皇子神社遙拜所(あわみこじんじゃ ようはいしょ)である。
【原文参照】
神前(こうざき)海岸と潜島(くぐりじま)〈Kozaki Coast Kugurijima〉
神前海岸は海水や磯波の激しい侵食によってできた岩石海岸で、各所に急峻な海食崖が発達しています。
崖面にみられる断層や節理と呼ばれる天然の割れ目などの弱帯には、立石崎の天の岩屋を始めとする海食洞が形成されており、特に神前岬の潜島は唯一の海食洞門を成しています。この潜島は神格化されており、旧暦6月1日頃になると村民総出で注連縄(しめなわ)を作って洞門へ懸け替え、家内安全を祈願しています。
潜島はこの先800mですが大潮の干潮時でないと行くことができませんので潮時にご注意ください。
堤防の案内板より
粟皇子神社は 皇大神宮(内宮)の摂社です
・皇大神宮(内宮)
皇大神宮(こうたいじんぐう)は 私たち日本人の総氏神「伊勢へ行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」と全国の人々で賑わう伊勢詣が有名です 通称を゛伊勢の内宮(ないくう)゛鎮座は゛垂仁天皇26年〈今から2000年前〉 御祭神は゛皇祖神 天照大御神゛御神体は皇位のしるし三種の神器の一つ゛八咫鏡(やたのかがみ)゛です
皇大神宮〈内宮〉(伊勢市宇治館町)〈伊勢神宮〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻4「神祇四 伊勢太神宮」
「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定が含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています
【抜粋意訳】
伊勢太神宮
太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】
瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】諸社卌座
太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社
度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社
山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社右諸社,並預祈年、神嘗祭
以下略
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 粟皇子神社
[ふ り が な ](あはかうしの かみのやしろ)(あはみこの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ahakaushi no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
粟皇子神社(伊勢市二見町松下字鳥取)の旧鎮座地〈土宮神社〉について
粟皇子神社は 元祿五年(1692)現在地に再興されました
しかし 再興地については異論があります
江戸時代末期の国学者〈豊受大神宮)の神職〉御巫清直(みかなぎ きよなお)の説では「本来の社地は 鳥羽の小濱村(現・烏羽市小浜町)であり そこの産神の地〈土宮神社〉が 元來の粟皇子神社の地」との説を唱えています
土宮神社(つちのみやじんじゃ)は
皇太神社儀式帳には 粟皇子神社について「粟皇子神社一處 在伊氣郷伊介島」とあり この゛伊介島゛とは則ち 現在の゛小濱゛の古名であって 元々は 此處(このところ)に淡海子神(粟海子神)を祀った社〈粟皇子神社〉を倭姫命が定めたとされ
この淡海子神を祭祀した宮が 土宮神社 (旧名 土宮社)の元宮と考えられるとする説があります 三世紀後半から四世紀前半の事と考えられます
其の後 此の地に再興されたましたが 再興の後 高波にあって 正徳二年 (一七ー二年 )に現在の粟皇子神社の場所〈二見町大字松下字かいけつ〉へ移転したので この跡地に 村人が大土祖神 (大土御祖神 )を祀つたのが 土宮神社です
〈旧鎮座地とされる〉土宮神社(鳥羽市小浜町)
土宮神社(つちのみやじんじゃ)
三重県鳥羽市小浜町三十三番地
御祭神 大土御祖神(おおつちのみおやのかみ)
由緒
中世の神道書『倭姫命世紀』には、倭姫命(第十ー代垂仁天皇 第四皇女)が、天照大神を伊勢の地に奉斎 (垂仁天皇二十五年三月丙甲)した後に、御船で志摩の浦々を巡覧し、小浜の近くに停船した折のことが記されています。
「海中に七つの島があり、以南は潮淡く甘く、( 倭姫命は )その島を淡良伎之島 (飛鳥の旧名 )となづけ、その潮の満ち溢れる浦の名を伊気の浦(後に伊介の浦、現在は池の浦)となづけた。
その処に現はれ参上して、御贄を仕へ奉った神を淡海子神(粟海子神)となづけて社を定め、そこを朝御饌・夕御饌島と定めた。」この淡海子神を祭祀した宮が土宮神社 (旧名 土宮社)の元となりました。
土宮神社は、三世紀後半から四世紀前半を起源とする御宮ということになります。淡海子神と飛鳥明神 (淡良伎之島に在る神 )は、内宮の贄海神事における要の神であったと考えられます。
飛鳥明神については、
「 飛鳥明神、小浜村前海 飛鳥島に在り、神号を称するも社を建てず未だ何れの神と云う事を知らず (志陽略志 )」
「飛島明神社は、飛島の内御膳島にあって、今は廃されている伊勢内宮の贄海神事が行われた宮で、神宮雑例集、内宮儀式帳等に記されている由緒の社」などの記録が残されています。『三重県神社誌』には、土宮社について、
「比の社は元 粟海子神を祭りたりしも、風波のため社域の欠損を来す憂いありしを以て、伊気浦の海岸に移せしも此処も又、風波の害をうくるを以て
正徳二年 (一七ー二年 )に今の二見町大字松下字かいけつと申所に移し奉りたるにより、村人其跡に大土祖神 (大土御祖神 )を祭りしものなり。」
と記されています。この記述から、淡海子神が祭祀されていた宮の跡に、現在の御祭神である大土御祖神が祭祀された時期は、江戸中期以降と推定できます。その後、土宮社は小浜に遷されましたが、その年代は不詳とされています。明治四十年 (一九〇七年 )、境内社であった八王子社、蛭子社、山神社、鍬宮社、竜宮社、須賀社、稲荷社、天神社、金刀比羅社、八幡社、弁天社を合祀、名称を土宮社から土宮神社に改めました。
現在は、十三柱の御祭神を祭祀しています。境内案内板より
『鳥羽誌』〈明治44年(1911〉)に記される内容
小濱の土宮神社は 内宮攝社二十四座のーなる粟皇子神社の旧鎮座地である
儀式帳に所載の四至も東西大海 南北山と地勢も良く一致していると記しています
【抜粋意訳】
小濱 ▲土宮神社
字里に在り、村社にして境内四百廿八坪、祭神大土御祖命、境内に末社蛭子神社、山神社、鍬神社、寵神祉、須賀神社、稻荷祉、金比刀羅社、八幡社、天神神社、辨財天社、八王子社あり、明治四十年九月二十七日 國狹槌神雁と共に之を本社に合祀す、祭日五月丗日、九月廿九日、
傳へ云ふ此社八百年以上の古祠にして、元内宮の末社なるを以て、古來神宮の式年に做ひ、廿一年目に遷宮式を行へりと、按ずるに今勢州度會郡二見村松下の東、伊氣の浦の西岸に坐(いま)す内宮攝社二十四座のーなる粟皇子神社(あはみこのじんじゃ)は 皇太神社儀式帳に、「粟皇子神社一處 在伊氣郷伊介島(中略)坐地八段、四至 東西大海 南北山」とあり、此伊介島は則ち小濱の古名にて、元 此處(このところ)に粟皇子神社ありしも、風波のために社域の缺損せるを以て、元祿五年 (二三五二 )西の海岸に移せしに、其所も亦水濱に近く、度々高浪に浸されしため、正徳二年 (二三七二 )に至り再び今の地に移轉し、最初の社地へは小濱の産神、乃ち此土宮神社を設けたるものなるべく、其地勢のよく儀式帳所載の東西大海、南北山といへるに合せり。
【原文参照】
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR参宮線 池の浦シーサイド駅から 北へ約600m 徒歩20分程度
ホテルの敷地を通るので 駐車場に駐車することと参拝についてフロントに許可を頂いて進みます
ホテルの裏手の道路には 粟皇子神社300Mと案内板があります
ホテルは高台にありますので 海岸までの急こう配の下り坂を歩きます
ずいぶん歩いたような気がしましたが まだ100mしか歩いていないのかな
海岸が見えてきました
左手には 小さなお社〈祭神はわかりません〉があります
白砂の海邊は 穏やかなで静かです
森の入り口に来ると 社殿が見えてきます
粟皇子神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に参着
正殿にすすみ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます
古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待ちます〉
社殿に一礼をして 道を戻ります
道に轍があるので 此処まで車で入ってくる人がいるようです
湾内と云え 湖のような静かな海です
高台の上に出発点のホテルがあります
という事は 行の急な下り坂は キツイ上り坂になります
じつはこの時から数年前に一度訪れたのですが ホテル経由であることがわからずに 粟皇子神社の西側の浜に出てしまい 迷って戻った経験があります
綺麗な景色でしたので
実は
飛島が見えています
この飛島は『倭姫命世紀』に次のように記されています
「海中に七つの島があり、以南は潮淡く甘く、( 倭姫命は )その島を淡良伎之島(あはらきのしま)(飛鳥の旧名)となづけ、その潮の満ち溢れる浦の名を伊氣の浦(後に伊介の浦、現在は池の浦)となづけた。
その処に現はれ参上して、御贄を仕へ奉った神を淡海子神(粟海子神)となづけて社を定め、そこを朝御饌・夕御饌島と定めた。」
飛島の右側の島は浮島です
後で知ったのですが この浜の東側に゛粟皇子神社゛がありますので
磯伝いに行けるようです
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 粟皇子神社について 所在は伊氣郷伊介島に在す〈現 粟皇子神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉or土宮神社(烏羽市小浜町)〉と記しています
【抜粋意訳】
粟皇子神社
粟皇子は 阿波美古と訓べし
〇祭神 道主命
〇伊氣郷伊介島に在す、神名略記
〇式四、伊勢大神宮 大神宮所摂廿四座の第十六に載す、
〇倭姫世記云、從其以西之海中爾、在に七ヶ島、從其以南鹽淡甘支、其島乎、淡良伎之島號支、中略 其處参相弖、御饗仕奉神乎、淡海子神止號弖、社定給支、」
御鎮座本紀云、氷沼道主、素戔鳴尊孫也、亦號に粟御子神、』
儀式帳云、粟御子神社、稱に須佐乃乎命御玉道主命、形石坐、倭姫内親王定祝、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 粟皇子神社について 所在は宇治郷伊氣島にあり 近世 伊氣浦海邊松原に遷す〈現 粟皇子神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
粟皇子(アハミコノ)神社
昔 宇治郷伊氣島にあり、神名秘書、
近世 伊氣浦海邊松原に遷す、延暦儀式帳、神境紀談
〇按 伊勢式社検録に、小濱村の土宮と稱する社、千古の舊風ありて、本社の四至に符へりと云り
須佐乃乎命の御玉道主命を祭る、形石に坐せり、倭姫命定祝奉る、延暦儀式帳、
醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 粟皇子神社について 所在は宇治郷松下村〈現 粟皇子神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています
゛舊社は今志摩國小濱村 舊伊勢國伊氣郷 の産神社を里俗 摂社なりと口傳す゛゛とあり 土宮神社(烏羽市小浜町)を挙げています
【抜粋意訳】
粟皇子神社
祭神 須佐乃乎命
御玉道主命祭日 同上
社格 内宮所攝 二十四所之一(内宮摂社)所在 三重縣宇治郷松下村(度會郡二見町大字松下)
今按に 検録に寛文三年諸社再興の節 遅滞
元禄五年に松下村池浦の西岸に創立す
其後 風波の為に地を易ふること三四度にして 今の社地にあるなり 其地は宇治郷にして伊介島に在といふに差ふ 舊社は今志摩國小濱村 舊伊勢國伊氣郷 の産神社を里俗 摂社なりと口傳す 是ならむと云へり
【原文参照】
粟皇子神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
お伊勢さん125社について
゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉
伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る
伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について