荒田神社(あらたじんじゃ)は 天正十三年(1585)豊臣秀吉の根来攻めにより 灰燼に帰し 縁起 寄進状 宝物等すべて焼失し 由緒は定かではありませんが 『延喜式神名帳(927年)』には 紀伊國 那賀郡 荒田神社二座(あらたの かみのやしろ ふたくら)と所載される由緒ある古社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
荒田神社(Arata shrine)
【通称名(Common name)】
・森の宮(もりのみや)
【鎮座地 (Location) 】
和歌山県岩出市大字森237
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》高魂命(たかむすびのみこと)
剣根命(つるぎねのみこと)
天疎向津姫命(あまさかるむかつひめのみこと)
気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉
誉田別命(ほむたわけのみこと)〈応神天皇〉
菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
丹生都比賣命(にうつひめのみこと)
大山咋命(おほやまくいのみこと)
大山祇命(おほやまつみのみこと)
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
素盞嗚命(すさのをのみこと)
香具都智命(かくつちのみこと)
大社命(おほやしろのみこと)
白髭大明神(しらひげだいみょうじん)
祓戸九柱神(はらえどのくはしらのかみ)
大己貴命(おほなむちのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・成功勝利、諸願成就、学業成就、厄除開運、交通安全、山の神、鉱山、治水、安産、火難除
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
荒田神社(あらたじんじゃ)
神社の由来
当神社の起源は明確ではありませんが「延喜式神名帳」や「紀伊国神名帳」等にも記載されているたいへん由緒ある神社です。現在は森、今中、川尻、堀口、押川の産土神となっていますが、往時には西坂本(現在の根来)も含む弘田庄、更に古くは山崎庄、岡田庄を加えたこの地域の総産土神でありました。末社は百二十社、社領も十町八反二畝(約十万七千平米)を数えたと伝えられていますが、残念ながら天正十三年(一五八五年)秀吉の根来攻めの際、周辺の寺社とともに灰燼に帰し、縁起、寄進状、宝物等すべて焼失しました。
その後、寛永元年(一六二四年)の頃、十分の一に縮小して再建され、現在に至っております。明治四十一年(一九〇八年)には川尻、堀口、押川の各神社のご祭神が合祀されました。
本殿はその歴史的価値が認められ、平成七年四月、和歌山県より有形文化財の指定を受けております。
ご祭神
高魂命(たかむすびのみこと)、剣根命(つるぎねのみこと)
天疎向津姫命(あまさかるむかつひめのみこと)、神功皇后(じんぐうこうごう)、応神天皇(おうじんてんのう)菅原道真、丹生都比売命、大山咋命、大山祇命、天忍穂耳命、市杵島姫命、素盞鳴命、香具都智命、大社命、白髭大明神、祓戸九柱神
(稲荷神社)倉稲魂命、大国主命
ご神徳
成功勝利、諸願成就、学業成就、厄除開運、交通安全、山の神、鉱山、治水、安産、火難除、(稲荷神社)農耕の神
主な行事
一月一日 歳旦祭、二月十九日 春祭、七月七日(一週間)祇園祭、十月五日 秋祭
平成十八年三月 宗教法人 荒田神社
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
当神社も天正の兵火のため、伝うる文書等は一つも存在していないが、『紀伊続風土記』に次の様に記され往時が偲ばれる。
「荒田神社、境内周二町四十間、祀神、高魂神、剣根命、拝殿、神楽所、御供所、攝社、丹生明神社、末社、二社 延喜式神名帳那賀郡荒田神社二座、本国神名帳那賀郡地祇従四位上荒田神、森、堀口、川尻、今中、西坂本、押川六箇村の産土神なり、古は岩出、山崎両荘の総産土神にて荘中の末社百二十社と言伝う、祀宇も壮巖に神職も九名あり、社領十町八反二畝ありしに天正の兵火に罹りて祀宇尽燒亡し、縁起寄附状宝物等皆紛失し社領皆没収せらる、是より神事祭礼廃絶す 且中古以来両部に祭りて社地に別当寺を置来たれり、寛文年中命ありて唯一に復して別当寺を外に移し、神事祭礼稍舊に復する事を得たり、此の神は式に二座とありて和泉国大鳥郡陶器荘にも、陶荒田神社二座と見ゆるに後世両部に祀りし等、改めしや宮居三社造となし来り、且地名弘田なるを以て攝津國廣田社と同神にて、天疎向津姫尊とし、神功皇后、譽田別天皇を合せ祀るといひて三座の数に合せたる説あれとも索強附会にして取るに足らず、神主を西堀氏という」とある。
(社叢)
境内にある樹木は、楠の大樹が多く、古社の面影を偲ばせるものがある。
(例祭)
祭典は現在実に簡素な祭典であり、往古の盛大さを残すものは何一つもない状態である。
(神社の現況)
当社は現在は荒涼たる状であるが、氏子より御造営修復の気運が起り着々と準備を進めて居るのは真に喜ばしい限りである。
時恰も、文化財として、本殿1棟が平成7年4月11日付で県より有形文化財として指定を受け御修復の計画もより一層進行するものと思考される。
神社側らの町道も整備拡幅され、これに伴い神社も駐車場を設けて整備し、今後の発展を期している。
附近は、新興住宅が多く、転入者も多くなっているので、この人等を氏子として如何に受入れるか、が今後の対策として課題となる。和歌山県神社庁HPより
https://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=3042
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
和歌山県指定文化財 荒田神社 本殿
この本殿は、三間社流造(さんけんしゃながれづく)り、桧皮葺(ひわだぶき)の建物で、寛永元年(一六二四年)に再建されたものと考えられています。社殿全体は丹塗(たんぬ)りで華やかに彩られていますが、彫刻類だけは白木(しらき)のままです。社殿を飾るこの繊細(せんさい)で華麗(かれい)な彫刻類は、江戸時代初期の特色を遺憾なく発揮しています。
これらの彫刻は、西坂本(現在の根来)の出身で、当時江戸で活躍していた大工「塀内正信(へいのうちまさのぶ)」が江戸で制作し、当社に寄進したものではないかと推測されています。塀内正信は寛永九年二江戸幕府 作事方大棟梁(さくじかただいとうりょう)の職に就いており、当時を代表する名工でした。
このような歴史的、文化的価値を有することから、平成七年四月、和歌山県指定文化財となっています。
本殿は平成十四年から解体修理が行われ、平成十八年三月完成し、華やかな姿が再現されました。平成十八年三月 和歌山県教育委員会 岩出市教育委員会
現地案内板より
・春日影向石(神石)〈本殿の奥〉と丹生神社〈本殿向かって右横〉
・八坂神社〈本殿向かって左横〉
・神門〈拝所〉
・割拝殿
・稲荷神社〈割拝殿向かって左手前〉
・社頭の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊國 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那賀郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 荒田神社 二座
[ふ り が な ](あらたの かみのやしろ ふたくら)
[Old Shrine name](Arata no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(927 AD.)』に所載のある ゛荒田神社゛について
①和泉國 ②播磨國 ③紀伊國に各々一社 計三ヶ所が記載されています
①和泉國 大鳥郡 陶荒田神社二座(鍬)(すえのあらたの かみのやしろ ふたくら)
・陶荒田神社(堺市中区上之)
陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)は 第十代 崇神天皇の勅により太田田根子〈素盞鳴命十世の孫〉が創建し 社号゛陶荒田(すえあらた)゛は 地名の゛陶邑(すえむら)゛〈古代の陶器生産地〉・人名の゛荒田直(あらたのあたい)〈祖神の祭祀を司る一族〉から付きました
陶荒田神社(堺市中区上之)〈古代の陶器の生産拠点゛陶邑(すえむら)゛鎮座〉
②播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)
・荒田神社(多可町加美区的場)
荒田神社(あらたじんじゃ)は 社伝に゛孝謙天皇 天平勝寶元年(749)゛少彦名命゛が降臨し創建と云う 一方『播磨国風土記』〈霊亀元年(715)頃〉には゛天目一命゛と゛道主比賣命゛の伝承が語られ 延喜式内社 播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)とも 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)とも云います
荒田神社(多可町加美区的場)〈播磨國二之宮〉
・荒田神社(多可町中区安楽田)
荒田神社(あらたじんじゃ)は 天平神護元年(765年)創建の古社〈兵火により荒廃し 寛文年間(1661~72)現在地に社殿が復興〉鎮座地名は゛安楽田(あらた)であり ゛延喜式内社 播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)とされ 中世以降に隆盛を極めた加美町の二宮荒田神社と式内論社の本家争いをしたと伝わります
荒田神社(多可町中区 安楽田(あらた))〈式内社 荒田(あらたの)神社の論社〉
③紀伊國 那賀郡 荒田神社二座(あらたの かみのやしろ ふたくら)
・荒田神社(岩出市森)
荒田神社(あらたじんじゃ)は 天正十三年(1585)豊臣秀吉の根来攻めにより 灰燼に帰し 縁起 寄進状 宝物等すべて焼失し 由緒は定かではありませんが 『延喜式神名帳(927年)』には 紀伊國 那賀郡 荒田神社二座(あらたの かみのやしろ ふたくら)と所載される由緒ある古社です
荒田神社(岩出市森)〈延喜式内社 荒田神社二座の論社〉
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR和歌山線 船戸駅から北上約3.2km程度
京奈和自動車道 岩根根来ICから南下約3.2km程度
両地点からの中間辺りになります
荒田神社(岩出市森)の境内の東南の角地には゛石塔゛がまとめられて置かれています
左折して 境内の南 社頭へと進みます
荒田神社(岩出市森)に参着
一礼をして鳥居をくぐると手水舎も設けられています 砂利の敷き詰められた境内には コンクリートの参道が真っ直ぐに割拝殿へと伸びています
割拝殿にすすみます 拝殿内には 年間の祭事や寄付者銘板などがあります
割拝殿を抜けると 神門が拝所となっています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『紀伊國名所圖會(kiinokuni meisho zue)』〈文化9年(1812)〉に記される伝承
荒田神社(岩出市森)について 式内社 荒田神社二座であると記し 摂津國の廣田神社と同じく 天照大御神の荒魂を祀るので 荒田と呼ぶ
応神天皇の荒田皇女〈荒田郎女〉によるもの
荒田直(あらたのあたい)の祖 劔根命を後に祀る
と記しています
【抜粋意訳】
紀伊國名所圖會 巻之六下 荒田神社(あらたのじんじゃ)
廣田庄森にあり 当社 六ヶ村の産土神(うぶすなかみ)といふ
祀神(まつるかみ)五座
天疎向津姫命 息長足姫命 応神天皇 高皇産霊尊 剣根命・・・・
・・・・
【原文参照】
『紀伊續風土記(KizokuFudoki)』〈天保10年(1839)完成〉に記される伝承
荒田神社(岩出市森)について 式内社 荒田神社二座であると記し 大鳥郡 陶器荘にも陶荒田神社二座〈荒田氏の祖「高魂命」「劔根命」を祀る〉と類社だが 地名が広田なので 摂津國の廣田神社と同じであると付会してしまった と記しています
【抜粋意訳】
紀伊續風土記 巻之二十八 那賀郡 弘田荘 森村
○荒田神社
境内周二町四十間 禁殺生
祀神 高魂命 剣根命
拝殿 神楽所 御供所
摂社 丹生明神社
末社二社 春日明神社 八幡・愛宕相殿延喜式神名帳 那賀郡 荒田神社二座
本国神名帳 那賀郡 地祇 従四位上 荒田神森堀口川尻 今 中西坂本押川六箇村の産土神なり
古は 岩出山崎両荘の総産土神にて 荘中の末社 百二十社といひ伝う 祠宇も荘厳に神職も九名あり 社領十町八段二畝ありしに
天正の兵火に罹りて 祠宇盡焼亡し 縁起寄附状賓物専 皆紛失し 社領皆没収せらる
是より神事祭礼廃絶す 且 中古以来両部に祭りて 社地に別当寺を置来れり
寛文年中 命ありて唯一に復して 別当寺を外に移し 神事祭礼稍々旧に復する事を得たり
此神は 式に二座とありて 和泉國 大鳥郡 陶器荘にも陶荒田神社二座と見ゆるに 後世両部に祀りし時 改めしにや宮居三社造となし来り 且 地名 弘田なるを以て 摂津国廣田社と同神にて 天疎向津姫尊とし 神功皇后 誉田別天皇を 合せ祀るといひて 三座の数に合せたる説なれとも 牽強付会にして取るに足らす 神主を西掘氏といふ
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 荒田神社二座について 所在は゛廣田庄森村に在す゛〈現 荒田神社(岩出市森)〉と記し
祭神は 荒田直祖神として 荒田直の祖である高魂命と剣根命としています
【抜粋意訳】
荒田神社 二座
荒田は 阿良多と訓べし
〇祭神 荒田直祖神〔神社録〕
〇廣田庄森村に在す、〔名勝志、神社録〕
例祭九月廿五日、〇姓氏錄、〔和泉國神別〕荒田直、高魂命五世孫 劔根命之後也、
名所圓會に、日本紀 譽田天皇二年三月、立ニ仲姫爲ニ皇后、后生ニ荒田皇女云云、古事記によるに、木之荒田郞女、舊事紀によるに、荒田皇子、かかれば、荒田皇女を祭るにや、
古事記傳丗二の卷に、木之荒田女は、此地に因れる御名なるべしと云り、
類社
和泉國 大鳥郡 荒田神社の條 見合すべし神位 本國神名帳、從四位上 荒田神 從四位上前神、
神社録に、前神は、荒田神社二座の其一なりと云るはしかり、氏人
諸書いまだ考へ得ず
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 荒田神社二座について 所在は゛廣田庄森封に在り゛〈現 荒田神社(岩出市森)〉と記しています
【抜粋意訳】
荒田(アラタノ)神社 二座
今 廣田庄森封に在り、〔南紀名勝志、紀伊式社考〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 荒田神社二座について 所在は゛森村 (那賀郡根來村大字森 )゛〈現 荒田神社(岩出市森)〉と記しています
祭神について 諸説を考証しています
【抜粋意訳】
荒田神社 二座
祭神
今按 本社祭神 或は 天照大神荒御魂と云ひ 木荒田郎女 また 荒田皇女荒田別なとも云ひ 又 地名弘田なるを以て 攝津廣田社と同神にて天疎向津姫命とし 神功皇后 譽田別天皇を合祀ると云て 社殿を三社造りにしたるなとは 式にも違ひて殊に非なり 又 紀伊績風土記に髙魂命 劔根命とせるは何に據りたるにや詳ならす
祭日 九月二十五日
社格 村社所在 森村 (那賀郡根來村大字森 )
【原文参照】
荒田神社(岩出市森)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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紀伊国(きいのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 紀伊国 31座(大13座・小18座)の神社です
紀伊国 式内社 31座(大13座・小18座)について