実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

阿良加志比古神社(七尾市)

阿良加志比古神社(あらかしこひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社で その鎮座の由来について 阿良加志古神(アラカシコノカミ)が年老いた時 郷民を害す 毒虫及び妖鳥が棲んでいた この時に 少彦名神(スクナヒコナノカミ)が 海から漂い憑き 力を合わせて これを亡ぼし国土を平定し 土民を安堵させ それにより 神として祭られたと 古老の伝えがあります

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

阿良加志比古神社Arakashikohiko Shrine)
あらかしこひこじんじゃ

 [通称名(Common name)]

大宮(おおみや)

【鎮座地 (Location) 

石川県七尾市山崎町カ35

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》阿良加志比古神Arakashikohiko no kami)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

延喜式内 阿良加志比古之神之社
仝    貞 宿那彦神像石社

御由緒
勧請歴不詳なるも、
延宝5 神主家明細お届書によれば、天平宝字8 勅使 藤原永平、口能登 大呑熊(おほのみま) 別山東邑(わけやまとのさと)に熊武都(くまむつ)の長者(たけお)と諱(いなみ)賜ひ祀らる 大呑六合郷里 大宮にと玖郎前関に坐す
 宿那彦(シクナヒコ)神像石社(ヤシロ)とに神鏡面を賜り 再興の宣旨を給うと所載されている

 延長2年、藤原忠平撰集「延喜式 巻第十」府 能登郡17座末行 阿良加志比古ノ神ノ社 末筆  宿那彦神像石社 と録す

 122 明治天皇14 辛巳歳遷歴「大解除式(おおはらへののり)」第20回解斎(げさい)と在るを逆算すれば 初回は聖武天皇 神亀天平13年辛巳歳「蔵開らき」されたことなる

亦、奈良正倉院の御物丹物の調庸銘が当 大宮の鎮座地名に合致

葉集の国守 家持卿の出挙の歌
3881 珠洲能宇美に 朝開らきして 榜ぎ来れば 奈賀浜の浦に 月照りに家里
右、治布に還る時之を作る

注に 治布は大沼郡(元の郡名)
今、大呑熊郡 別山東邑小字治布天の地名其れならむ
神護院 霊夢山真言布陀楽寺別当舎跡地は治布大門なり
宮司 大畠義成 謹写

境内石板より

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【由  (History)】

由緒

郡内唯一延喜式に社号を留め、
創祀由緒として、熊渕川の長者、黒崎関縄に座す貞観式内 宿那比古神像石社の御祭神との協力物語による平定神話が伝承され、慶安年の家録による山崎村外73村の崇敬を以て祀られ、古式年中行事が多く、例大祭の御内渡幸解除式があり、垂姫ヶ崎での弓神事が行われる。

石川県神社庁公式HPより
https://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/shrine/j1258/

【境内社 (Other deities within the precincts)】

東枝神社《合》天照皇太神帝釈天道祖神別熊武都大井出之神少名彦神大幡神目伊豆牟比売命御婆助角間明神四郎左衛門句句廼智命

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

2つの式内社の論社になっています

①「能登國 能登郡 阿良加志比古神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)能登国 43座(大1座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)能登郡 17座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 阿良加志比古神社
[ふ り が な ]あらかしひこの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Arakashihiko no kamino yashiro) 

➁「能登國 能登郡 宿那彦神像石神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)能登国 43座(大1座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)能登郡 17座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 宿那彦神像石神社(貞)
[ふ り が な ]すくなひこのかみのかたいしの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Sukunahikonokami no kataishi no kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

能登国を平定した 2柱の大神〈大国主神 少彦名命〉を像石(カタイシ」として祀る神社が 能登国にはあります 

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
能登國 能登郡 宿那彦神像石神社(貞)」の論社は 4神社あります

・宿那彦神像石神社(中能登町)

一緒に読む
宿那彦神像石神社(中能登町金丸)少彦名神が神霊を石に留めたと云う

宿那彦神像石神社(すくなひこのかみかたいしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社です 社伝によれば 神代の昔 御祭神 少彦名命が 大名持命とともに能登国を巡行し 国土平定の後 大己貴命は氣多崎に 少彦名神は此地に 神霊を石に留めたと伝わります この神代の2柱神に因んで 氣多大社の例大祭 平国祭は 氣多大社の神輿が 3月20日夕刻 本社〈宿那彦神像石神社〉拝殿で一泊 翌朝 祭神〈少彦名命〉が 右神輿に遷座せられ 七尾の気多本宮に神幸し 23日午前に右神輿が 本社に還御あって祭典を奉仕します

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・宿那彦神像石神社(七尾市)

一緒に読む
宿那彦神像石神社(七尾市)神の上陸の地に祀られた御神体「神像石(カムカタイシ)」と伝わります

宿那彦神像石神社(すくなひこかむかたいしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 古老の云うところには 少彦名命(スクナヒコナノミコト)が 海から依り憑き 阿良加志比古神(アラカシヒコノカミ)と協力して 郷民を害す毒虫 及び 妖鳥を亡ぼし この地方の平定を成し遂げた その神の上陸の地に一種の神像に代わる霊石として祀られたのが御神体の「像石(カタイシ)」であると伝わります

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・宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(七尾市)

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宿那彦神像石神社〈旧鎮座地 神像石〉(七尾市)御神体の「神像石(カムカタイシ)」は縦七尺二寸 下幅三尺八寸 上幅二尺五寸の巨石と伝わります

宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(カムカタイシ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社の旧鎮座地です 古老の云うところには 少彦名命(スクナヒコナノミコト)が 海から依り憑き 阿良加志比古神(アラカシヒコノカミ)と協力して 郷民を害す 毒虫 及び妖鳥を亡ぼして この地方の平定を成し遂げたと伝わり その神「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」の上陸の地に一種の神像に代わる霊石として祀られたのが御神体の「神像石(カムカタイシ)」縦七尺二寸 下幅三尺八寸 上幅二尺五寸の巨石とされます

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・阿良加志比古神社(七尾市)

一緒に読む
阿良加志比古神社(七尾市)

阿良加志比古神社(あらかしこひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社で その鎮座の由来について 阿良加志古神(アラカシコノカミ)が年老いた時 郷民を害す 毒虫及び妖鳥が棲んでいた この時に 少彦名神(スクナヒコナノカミ)が 海から漂い憑き 力を合わせて これを亡ぼし国土を平定し 土民を安堵させ それにより 神として祭られたと 古老の伝えがあります

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『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
能登國 羽咋郡 大穴持像石神社」の論社は 4神社あります

大穴持像石神社(羽咋市)

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大穴持像石神社(羽咋市)神が降臨し現われた霊石は神像に代わる「像石(カタイシ)」とされ境内に鎮まります

大穴持像石神社は 民俗学者・折口信夫(おりくちしのぶ)博士〈明治20年(1887)2月11日~昭和28年(1953)9月3日〉が 論文集『古代研究』で「漂着神(よりがみ)を祀ったタブの杜」と紹介した神社で タブノキの大樹に覆われた社叢も知られます 氣多大社の摂社で祭神も同じ 大己貴命(オホナムチノミコト)相殿神に少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祀ります 神社名の「像石(カタイシ)」は 神が降臨した際に現われた自然石とされ 一種の神像に代わる霊石「地震石」とされ 地元では産土神「オナッサマ」とよばれ信仰されています

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身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉

一緒に読む
身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉

身代神社(みしろじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載「能登国(ノトノクニ)羽咋郡(ハクイノコオリ)」の条にある2つの式内社「大穴持像石神社」と「久麻加夫都阿良加志比古神社」の論社でもあります 社伝よれば「出雲国より舟に乗りて 当村に着かれた大真石が 御神体として仰がれている」とされていて かつては神社名称を 大穴持身代社(オヲナモチミシロノヤシロ)を称していました

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八千鉾神社(羽咋郡志賀町)

一緒に読む
八千鉾神社(羽咋郡志賀町)

八千鉾神社(やちほこじんじゃ)は 「町八千鉾神社古墳」〈円墳 径6m、横穴式石室の天井石露出〉の上に鎮座しています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社でもあり 大穴持像石神社とも称せられたといいますが 明治の初期に至り 八千鉾神社と改称された伝わります

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天神神社(羽咋郡志賀町)

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天神神社(羽咋郡志賀町穴口)

天神神社(てんじんじんじゃ)は 口碑によると 鎮座する穴口村は 穴持村といわれ 本神社は 大穴持像石神社であるとも伝えられています 故に『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社でもあります

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御祭神「阿良加志比古神(アラシヒコノカミ)」を祀る式内社について

能登國 能登郡 阿良加志比古神社

阿良加志比古神社(七尾市)

一緒に読む
阿良加志比古神社(七尾市)

阿良加志比古神社(あらかしこひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社で その鎮座の由来について 阿良加志古神(アラカシコノカミ)が年老いた時 郷民を害す 毒虫及び妖鳥が棲んでいた この時に 少彦名神(スクナヒコナノカミ)が 海から漂い憑き 力を合わせて これを亡ぼし国土を平定し 土民を安堵させ それにより 神として祭られたと 古老の伝えがあります

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能登國 羽咋郡 久麻加夫都阿良加志比古

・久麻加夫都阿良加志比古神社(七尾市)

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久麻加夫都阿良加志比古神社(七尾市)お熊甲祭(おくまかぶとまつり)の社

久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこじんじゃ)は 日本中でも長い名前の神社の部類になると思います 地元では「おくまかぶと」と称されて お熊甲祭りでも有名です 御祭神は 久麻加夫都阿良加志比古神(くまかぶとあらかしひこのかみ)と都奴加阿良斯止神(つぬがあらしとのかみ)の2柱の神を祀っています この神々は 韓国(カラクニ)の王族だと伝わり 阿良加志比古神については 地神とも言われたり 3~4世紀頃の南朝鮮の阿羅国の王族とも言われています

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

七尾駅から 能越自動車道経由 約17km 車25分程度
富山湾を南下しながら 宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石を過ぎて 熊淵川を遡るように道を進みます

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山崎神社前というバス停があり 石灯篭が建ちます

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社号標「阿良加志比古神社
阿良加志比古神社Arakashikohiko Shrine)に参着

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鳥居の扁額には阿良加志比古神社」とあり 一礼をして 鳥居をくぐり抜けると 緩やかですが長い階段の参道を上がって 拝殿にすすみます 

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承

宿那彦神石神が 官社に列したと記されています

【意訳】

貞観2年(860)6月9日 戊子の条

能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)
宿那彦神石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)
二前 並び於いて 官社に列す

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=

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『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承

式内社の阿良加志比古神社は 社名を記すのみ

式内社の宿那彦神石神は 安倍屋アブヤ村にあり 赤衾(アカブスマ)産神(ウブスナノカミ)と 比定しています

【意訳】

阿良加志比古神社(アラカシヒコノカミノヤシロ)

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【意訳】

宿那彦神像石神社(スクナヒコノカミカタイシノカミノヤシロ)

三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す

〇今 安倍屋アブヤ村にあり 赤衾(アカブスマ)産神(ウブスナノカミ)

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承

阿良加志比古神社について 山崎の当神社を比定しています

【意訳】

阿良加志比古神社

阿良加志比古は 仮字なり

〇祭神 明らかなり
〇大吞六合の内 山崎村に在す 神社帳

〇当国 羽咋郡に
 久麻加夫都阿良加志比古(クマカブト アラカシヒコ)神社もあり

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

阿良加志比古神社について 山崎の当神社を比定しています

【意訳】

阿良加志比古神社

祭神 阿良加志比古神

祭日 4月17 18 19日 7月28日 10月24日
社格 村社 (明細帳に維持14年2月17日許可 郷社)(郷社)

所在 山崎村(鹿島郡南大吞村大字山崎)

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

阿良加志比古神社宿那彦神像石(スクナヒコノカミノカタイシノ)神社について 山崎の当神社を比定しています

その鎮座の由来として 阿良加志古神(アラカシコノカミ)が年老いた時 郷民を害す 毒虫 及び妖鳥棲んでいたが 少彦名の神(スクナヒコナノカミ)が海から漂い憑き 力を合わせて これを平定したと記されています 

【意訳】

石川県能登国鹿島郡南大吞村大字山崎

阿良加志古(アラカシコ)神社

祭神 加志(カシヒコノ)神

宿那彦神像石(スクナヒコノカミノカタイシノ)神社
祭神 少名比古(スクナヒコノ)神

神体は 檜の御木像なる由
延喜式内の古社にして 
神名帳考証に祭神 阿羅斯等なりとあり 
神祇志料に能登国 阿良加志古神社は今 山崎にありと記せる神社にして 大吞六合の総社なり 熊渕山 小字 生出は 祭神 阿良加志古神(アラカシコノカミ)の生地なりと

その鎮座の由来は 当神 年老いし頃 当所 熊淵に大熊住み 庵は小字 蟲崎 に毒虫 及び妖鳥棲みて 郷民を害す
翁は これを除かんとする意あり 一日 海辺にある神が来る
しかして黒崎東浜の沖より小舟に乗じ 着きありしかば
翁 まず神と謀りて その意を達し 遂には これを亡ぼして 士民を安堵せしめたり それにより 神として祭れるなりと云う

而して 事を助け給いしは 少彦名の神(スクナヒコナノカミ)なり されば御心を留め給いし 黒崎小字関にある 要石を奉崇して その社を宿那彦神像石神社とし 両社 共に大吞六合の総産土神として崇敬す

されば 天平寶字8年 勅使藤原永平を以って 両社の再興の宣旨をも給わり
社僧 施楽寺 神主 大畠氏 外48人 及び 神事奉行等を定めて 中世頗(スコブ)る盛大を極めたりと

天正年間 上杉の兵火を蒙(コウム)りて 記録 社伝等を失うい雖(イエド)も
唯 旧神官 蓄蔵の遺書等により その一端を窺(ウカガ)うべし 
又 山崎村 外73ヶ村 殊(コト)に当社を尊敬し 人民の信仰も深しと云う
近世に至る迄 大吞20ヶ村の祭礼として 正月6日 新年祭を執行し その大玉串を必ず 地方庁へ献納する等の古式を存せしが 明治5年より 此例廃止せり 明治14年郷社に列す

建物は 本殿 拝殿 幣殿にして 境内3140坪の広きを有し
境内は 一小丘にて 東は有磯海を望み 西は石動山脈に連なり 2丈内外の古杉蒼々として枝を交え 四季の眺望に富めり 宝物には神鏡あり 延喜時代のものと伝ふ

境内神社 金刀比羅(コトヒラノ)神社 東枝神社

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2

阿良加志比古神社Arakashikohiko Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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能登国 式内社 43座(大1座・小42座)について に戻る        

一緒に読む
能登國(のとのくに)の 式内社 43座(大1座・小42座)について

能登国(のとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 能登国には 43座(大1座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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