青玉神社(あおたまじんじゃ)は 伝承では 祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命で 初め三国岳の山頂に祀られていた ある時 鳥羽(とりま)の村人が三国山に狩りに行くと 急に背中が重くなり不思議に思いながら下山した 村はずれで急に背中が軽くなり「背中に乗った神様が降りられた」として社を建てたのが現在の社地と云う
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
青玉神社(Aotama shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県多可郡多可町加美区鳥羽735
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天戸間見命(あまのとまみのみこと)
〈別名 天目一箇命(あまのまひとつのみこと)〉
《合祀》大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
青玉神社 社史概要
弥生時代、但馬の豪族 天日鉾(アメノヒホコ)の尊が、古代国造りの要衝-政治と鉱物資源開発のため、但馬・丹波・播磨の国境三国山頂の『踊り場』に祖神の天目一箇神(アメノメヒトツノカミ)を祀り行政の証とした。千八百年以前(垂仁三年)二世紀頃と推定される。
踊り場は、神々の『まほろば』であり、後に播磨・丹波の民がこの広場に集まり、踊りによって祖先の霊と一体になった。護摩焚きも行われた。『御神霊』は奈良の都造営(七一〇年)ごろ、奥播磨賀眉の里の各集落の主神(氏神)としてオオタマ=青玉の森に祀られた。南の庄の大歳の神(オオトシタマ)も祀られた。
御神木の『夫婦杉』(昭和四五年天然記念物指定)が千年余りの大昔を偲ばせる。『青玉さまは、三国峠を越えてこられた出雲の神様である』という伝承がある。事実、弥生文化(稲・銅・製鉄・紙等の技術)は三国峠を越えて奥播磨に伝わった。
青玉神社は『鍛冶の神様』の全国的な元宮である。(室町時代、ご神体は他の各集落の神社に併神された。)
『瑞神門』は鎌倉様式で、一二五〇年代に建てられたと推定される(現礎石址)。加美区豊部集落の南旧道の地名『桜』に一の鳥居が建てられた。
社格は九二七年(延長五年)に定められた延喜式社である(正一位青玉大明神)。
神社は応仁の乱の初期、一四九四年(明応二年二月)、原因不明で焼失した。神社は再建され、戦国時代、江戸時代と繁栄し、たたら技術や紙の神・鍛冶の神様として多くの人々の信仰・参詣でにぎわった。一八五六(安政三年九月十七日)再び焼失した。尊王攘夷の騒がしい時代であった。多くの氏子の莫大な浄財で再建されたのが、現在のお社である。お社は再建毎に拡張され、立派になった。
天保年間の神社拡張時、神殿背後から出土した球壺二個(現当社の小宮に宝蔵)は、平安藤原期のものであり、神仏習合としては最古のものである。
八五九~八七七年(貞観年間)宮中で行われた『湯立神楽』が原型のまま残されているといわれる司祭の行事『湯立て祭り』は、中世以降現在に引き継がれ、毎年七月中旬、盛大に行われる。巫女が舞い、熊笹の葉で参拝者に湯をふり注ぐ。無病息災を願うこの信じは壮麗で、総てが神様と一体になれる時である。
霊樹『乳の木』に婦人が甘酒をお供えして祈ると、乳の出が良くなるとの言い伝えがある。二〇〇七年吉日 文責・奉納 青玉神社氏子 龍岳
拝殿に掲げられた額文より
【由 緒 (History)】
青玉神社
祭神 天戸間見命(あまのとまみのみこと)
(別名 天目一箇命あまのまひとつのみこと)大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)(合祀)
由緒
当社は播磨、丹波、但馬の境、三国岳に鍛冶業のご神徳をもって奉斎されていた。
やがて、南の山麓なるこの地に遷座せられ、土地を拓き、農を進め、加古川流域の農業の繁栄をもたらせた。
かつては加美町北部の総氏神と崇められた。
奇しく妙なるご加護は、家運隆昌、家内安全、農耕などの殖産興業の祖神と広く知れ亘り、近隣はもとより道行く遠近の人々は交通安全をはじめ、所願成就を祈る参詣者が多数あります。昔、狩人が身の安全を願う湯立の神事は、今も例年七月十五日前後に行い、多くの参拝者が忌湯を浴びて無病息災を祈願している。勧請年月日は不詳なるも、明応二年、安政三年の二度も火災に罹り、現今の社殿は万延元年の造営によるものです。末社 熊野神社 山神社
稲荷神社 愛宕神社伝説 境内の御神木は次の謂れがあります
「乳の木」(社殿右前のイチョウの樹)子どもの健やかな成長を願う
「夫婦杉」(本殿左上の大杉)夫婦の永き和合と長寿を願う現地案内板より
青玉神社
当社は播磨 丹波 但馬の境 三国山頂に鍛冶業のご神徳をもって奉斎されていた
明応二年 安政三年の火災で宝物と記録を消失し 万延元年(1860)に三回目を奉建したのが 現代の神殿である 加美町随一の古社で 昔からこのあたりを神郷と称し「かみの里」の発祥の地でもある
湯立て祭り
狩人の身の安全を祈る湯立ての神事は 毎年七月十五日直近の日曜日に行われる 現代では湯立ての玉湯を浴びると 無病息災であると言われ 祈願する多くの参拝者でにぎわう
鳥羽区
現地案内板より
社寺巡礼 225 青玉神社 (多可町加美区鳥羽)
訪れたのは残暑が厳しい 8月の終わり。杉の木々が林立する参道に、夏を惜しむかのように鳴き交わすヒグラシの声が降り注ぐ。そのせみ時雨も今は、秋虫の虫時雨へと変わっているだろうか。
神社は、北播磨の最北端、旧播磨・丹波・但馬の国境にある三国岳( 8 5 5㍍)の麓に鎮座する。地名の鳥羽(とりま)は読みにくいが、この神社の斎場(まつりば)が 「とりば」に転じ、鳥羽の文字が当てられ「とりま」へ変化したという。
元は三国岳の山頂近くに祭られていたらしい。あるとき、山上で村人の背中に神が乗り、下山すると急に背が軽くなったので、そこで神様が降りたとして、場を清め、社を建てたとの伝承が残る。山上には実際、「播磨 踊場(おどりば)」と呼ばれる平坦地が今も残り、境内には、ここで神を背から降ろしたという石もある。
静かな境内で、まず目に付くのは、巨大な杉の数々。 1 9 6 8年、 7本が県天然記念物に指定された。巨樹を見上げれば、その力強さ、生命力に、ここが神聖な「霊域」であることを実感する。
「戦前はもっと大きな杉もあったのが、ご神木ではなかったので、村で切って売ってしまった」と地元の元区長、古家弥知夫さん ( 87 )が残念がる。戦後も、 59年の伊勢湾台風で大杉が倒れる被害があったという。今残る最大の杉は、樹齢千年ともされ、拝殿裏にある夫婦杉。根周の約 11㍍、高さ約 50㍍。地上 8㍍の幹の途中が二つ分かれ、夫婦円満、縁結びの御利益があると信じられている。この夫婦杉にあやかり、結婚式を挙げたカップルもあったとか。天を突く巨樹に思わず手を合わせた。
帰り際。杉木立の中で急に雷鳴がとどろいた。夕立。人けのない境内で、神さびた雰囲気が一層濃くなった。 (堀井正純)拝殿に張られていた新聞の切り抜きより
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・拝殿
・夫婦杉
夫婦杉
樹齢千有年を経る大杉は、高さ四十五メートル、根周り十ー メートルで地上八メ—トルから幹が分かれ、古くから夫婦杉と称されている。
深さ緣に結ばれた夫婦の睦まじき和合と行く末の長寿と繁栄を願う御神木として各地より広く信仰が寄せられている。
又、幹や根にそっと手をあて、その霊気を頂くと、腰痛が良く直る」とも言い伝えられている。
夫婦円満の秘訣
二十代は 愛で
三十代は 努力で
四十代は 我慢で
五十代は 諦めて
六十代は 信頼で
七十代は 感謝で
八十代は 一心同体でそしてそれからは
空気のようなふれ愛で・・・現地案内板より
・〈境内社〉熊野神社
・乳の木〈御神木 銀杏〉
乳の木
どこから運ばれたのかイチヨウの実は、この霊地に自生し幾百年の歳月を経て大樹に成長している。その昔、寄生根が出始めた頃から里人等は「乳の木さん」と弥し母乳不足に悩んだ婦人は乳房型の縫いぐるみを作り、この木に吊し乳の出るのを祈願した。
この習わしは今も子どもの健やかな成長と婦人の健康を願う信仰として続いている。
現地案内板より
・〈境内社〉愛宕神社・山神社・稲荷神社
・青玉さん
「青玉さん」
この神社の西北に聳える三国獄の山頂に、播磨踊場という広い平坦な所があり、今も御手洗(みたらい)池という小池が残っている。そこに青玉さんが鎮座まし、斎祠されていたという。
青玉神社がこの地に創建された年代は定かではない。境内の六本の大杉は樹齢七・八百年以上かといわれ、又御神木(夫婦杉)は千年杉ともいわれている。これらの巨木から見て、神社が建てられたのは相当昔のことである。
『休み石』の謂われ
その昔、井ノ岡(猪ノ岡)という狩人が(のちに稲岡大明神として祀られている)、三国山に狩りに行った帰り道、背中が急に重くなり、ここ迄やっと辿りつき、動けなくなった。この石に腰かけ、しばらく休んだ後、帰ろうと立ち上がれば背中が急に軽くなった。急いで村に帰り、この事を村の人に話した。村の長老がそれはきっと神様やと言った。それから村の人は口々に青玉さまを背負ってきたのだ。ここに神様を祀れということだといって、その後この地を拓き清め青玉神社として祀ったそうである。
現地案内板より
・境内の大杉7本
県指定文化財 青玉神社の大スギ
指定年月日 昭和43年3月29日
所有者・管理者 青玉神社県指定文化財の大杉は、青玉神社の境内に7本あり、高さ50~60メートル、根回り8~11メートル、目通り範囲は4~8メートル、樹齢は役1000年といわれている。
なかでも社殿裏山にある高さ60メートル、根回り11メートルの大杉は、地上8メートルの所から2つにわかれていることから夫婦杉と呼ばれ、神木として住民から親しまれている。
社頭の案内板より
・社頭・鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
直ぐ近くに 別の青玉神社が鎮座しますので 参考までに
・青玉神社(多可郡多可町加美区山寄上183)
《主》天目一箇神
《配》五百筒磐石神
由緒
創立年不詳。
慶長年間(1596~1615)、池田輝政検知のさい、境内除地。
明治7年(1874)、村社に列せられる。
2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6312094.html
青玉神社(多可郡多可町加美区鳥羽)より 国道427号を1.8km程北上します
青玉神社(山寄上 やまよりかみ)に参着 参拝をします
多可町合併10周年記念誌『多可の里風土記~62集落を訪ねて~』〈2015年11月多可町〉に記される内容
【抜粋意訳】
加美区 山寄上(やまよりかみ)
・・・・
・・・・
氏神は、字「奥田」に鎮座する青玉神社。・・・・祭神は天目ー筒命と五百筒磐石命。
言い伝えによれば、天目ー筒命は柚(ゆず)の木のトゲで目を突き、片方の目が青くなつた:。そのため青玉神社になったという。山寄上と鳥羽・清水の3地区は、この故事によって袖を植えなかった。
創立年代は明らかでないが、三国岳の山頂に鎮座していた神社を現在地に分祠したと伝える。三国岳には、天目一命(天目ー筒命)が鍛冶の腕を振るったとされる「鉄禮(てっちん)」という場所があるという。また、三国峠に近い「播磨踊場」に祠を作って天目一命を祀ったともいい、老人婦女子などは山寄上から遙拝した。
その場所に建立したのが、氏神の青玉神社だとも伝えられる。
・・・・
【原文参照】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承
天一神社の鎮座地 東徳久(ひがしとくさ)では 平成4年~平成8年にかけて 東徳久遺跡の発掘調査があり 古代製鉄遺跡(炭窯跡)が発見されました 製鉄操業が盛んな地であったことが裏付けられています
明治20年(1887)頃には 北に隣接する平松地区で弥生時代の銅剣が出土して 兵庫県指定文化財となっています 一説に天一神社の御神体とも云い 天一神社の宝剣とされています
讃容郡(さよのこほり)〈中川里〉の条には 蛇行剣(蛇のようにうねった刃をもつ剣)の出土が 記されていますので 関係性はあると想います
【抜粋意訳】
讃容郡(さよのこほり)〈中川里〉
昔 近江天皇の御世〈天智天皇 在位668~672年〉
丸部(わにべの)具(そなう)という者が 仲川里にいた この人は 河内国の免寸(とのき)の村人が持っていた劔を買い取った
劔を得て以後 家はこぞって滅び亡くなってしまったそれから後 苫編部(とまみべ)の犬猪(いぬゐ)が かの地の墟〈滅んだ家の跡地〉に圃(はたつくり)〈畑を作り〉をすると 土の中に この劔を得た
土を取り去ると 劔は 廻り一尺(約30cm)ばかり その柄(え)は 朽ち失せていたが その刃は渋(さ)びず 光明は鏡の如くであった
ここに犬猪(いぬゐ)は 怪しんで劔を取り家に帰った すぐに鍛人(かぬち)〈鍛冶〉を招き その刃を焼かせた
その時 この劔は 蛇の如く 伸び縮みして 鍛人は 大いに驚き つくらずに止めてしまった
そこで 犬猪(いぬゐ)は 異劔(あやしきつるぎ)であると 朝廷に献上されたその後 浄御原朝廷(天武天皇の御世)
甲申の年〈天武12年(684)〉七月 曽禰連麿(そねのむらじまろ)を遣わせて 本處〈元の所〉に還し送られた 今は この里の御宅に安置されている
【原文参照】
託賀郡(たかのこほり)賀眉里(かみのさと)の条には 天目一命(あまのまひとつのみこと)〈(火を見て片目となる)一つ目の神で 鍛冶の神〉の記載があり やはり製鉄に関する神についての記述だと想われます
゛後に その田は荒れてしまったので 故に荒田村と名付けた゛とある文については
現実的な考証をすると 古代 砂鉄の採集としての鉄穴(かんな)流し タタラ製鉄の際の木材の伐採などによる 流域に大量の土砂が堆積して 田が荒れて 荒田(あらた)か?
【抜粋意訳】
託賀郡(たかのこほり)賀眉里(かみのさと)
大海山(おおうみやま)荒田村(あらたむら)
賀眉(かみ)は 川上〈加古川の川上〉にあったので名付けられた 大海と名付けられた所以は 昔 明石郡の大海里の人が到り来て この山の麓に居住した 故に大海山と云う 此処には松が生えている
荒田と名付けられた所以は この處(ところ)に在す神 道主日女命(みちぬしひめのみこと)父(夫)なくして み児を生みましき
その時 盟酒(うけひざけ)を醸(かも)し 田を七町作ると 七日七夜の間に稲が成熟し その米で酒を醸(かも)し 諸神を集めて振る舞うと その御子に養う神〈父神〉に酒を注ぐように命ずると その子は 天目一命(あまのまひとつのみこと)に酒を奉りましたので その父だと知ることとなりました
後に その田は荒れてしまった 故に荒田村と名付けられました
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多可郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 天目一神社
[ふ り が な ](あまめのひとつの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Amame no hitotsu no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛について
天目一箇神は 鍛冶の神とされ
『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶であった゛天津麻羅(あまつまら)゛と同神ともされ 別名も多く 天目一命(あまのひとつめのみこと)とも呼ばれます
神名の゛目一箇(まひとつ)゛とは 鍛冶師は 製鉄の時 片目をつぶり 鉄の色を見て温度を見た事によるとも 鍛冶の職業病として 鉄を打つ火の粉によって片目を失明する゛一つ目(片目)゛の意味であろうとされます
式内社 天目一箇神社(あめのまひとつのかみやしろ)の論社が 多くある「多可町」には ゛鍛冶屋(かじや)と云う 地名があるのも頷けます゛
゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を祀る 播磨國の式内社について
播磨国は 古くから製鉄や鍛冶が行われていたと伝わり 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を信仰する製鉄・鍛冶の拠点に祀られたと考えられます
①播磨國 佐用郡 天一神玉神社(貞)(あめのひとつかんたま かみのやしろ)
・天一神社(佐用町東徳久)
天一神社(てんいちじんじゃ)は 社伝には゛今より約二千年前(彌生時代)に創立 日本でも最古の神社で寶剣(銅剣)が御神體なるは天智記に「安置御宅」゛と記され 『六国史』天安元年(857)天一神に從五位下が奉授 その7日後に官社に列すと記され 『延喜式』播磨國 佐用郡 天一神玉神社(あめひとつかんだまの かみのやしろ)です
天一神社(佐用郡佐用町東徳久)〈播磨國風土記・六国史・延喜式に所載の社〉
②播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社
式内社 天目一神社は 江戸時代には所在不明となっていました
所在地が不明であった天目一神社について 明治以降に多可郡内の数カ村の神社が名のりを上げました
・天目一神社(西脇市大木町)
天目一神社(あめのまひとつじんじゃ/てんもくいちじんじゃ)は 天正八年(1580)兵火にあい記録類を失い 江戸時代には社地も不明でした 明治維新の後 当時 惣堂天王社のあったこの地を式内社 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の跡地と定め 鎮守である平野神社も合祀され 大正12年(1923)復興されたものです
天目一神社・平野神社(西脇市大木町)〈天目一箇命を祀る古社〉
・青玉神社(多可町加美区鳥羽)
青玉神社(あおたまじんじゃ)は 伝承では 祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命で 初め三国岳の山頂に祀られていた ある時 鳥羽(とりま)の村人が三国山に狩りに行くと 急に背中が重くなり不思議に思いながら下山した 村はずれで急に背中が軽くなり「背中に乗った神様が降りられた」として社を建てたのが現在の社地と云う
青玉神社(多可郡多可町加美区鳥羽)〈祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命〉
・稲荷神社(多可町中区糀屋)
糀屋稲荷神社(こうじやいなりじんじゃ)は 創建は推古2年(594)に字「土井の後」に鎮座 天平時代 称徳天皇の崇敬厚く 慶雲3年(706)社殿の建立となり勅使を使わせられ 神託により天安元年(857)現在地に移ったと伝えられます 延喜式内社 播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社です
播州糀屋稲荷神社(多可郡多可町中区糀屋)〈創建は推古2年(594)〉
・天目一神社(多可町中区間子)
〈加都良神社 境内社〉
式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)は 式内社 加都良神社の境内摂社として祀られています 天目一命は 多可町内では他に 青玉神社(山寄上やまよりかみ) ・青玉神社(鳥羽とりま)・西宮神社(清水きよみず)で主祭神として 大歳金比羅神社(鍛冶屋かじや)・加都良神社(間子まこ)では 摂社として祀られています
式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)〈加都良神社の境内摂社〉
・荒田神社(多可町加美区的場)・天目一神社(的場 御田上)
荒田神社(あらたじんじゃ)は 社伝に゛孝謙天皇 天平勝寶元年(749)゛少彦名命゛が降臨し創建と云う 一方『播磨国風土記』〈霊亀元年(715)頃〉には゛天目一命゛と゛道主比賣命゛の伝承が語られ 延喜式内社 播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)とも 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)とも云います
荒田神社(多可町加美区的場)〈播磨國二之宮〉
〈参考論社〉
・大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉
大歳金刀比羅神社(おおとしこんぴらじんじゃ)は 往古は 鍛冶の神 天目一命(あまのまひとつのかみ)を奉祀したと推測され 現在も本殿相殿・境内摂社に天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が祀られています 明治44年(1911)在来の大歳神社に〈摂社〉金刀比羅神社〈寛政6年(1794)讃岐琴平宮より勧請〉を合祀し 現社号に改称
大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉
③播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)
『新撰姓氏録』に〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔として「菅田首」があり 「菅田氏」が祖神を祀った神社とされています
・菅田神社(小野市菅田町)
菅田神社(すがたじんじゃ)は 鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔とされる「菅田(すがたの)首(おびと)」が祀った神社と云われ 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり当社にも住吉神が祀られていきました
菅田神社(小野市菅田町)〈鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命を祀る〉
・住吉神社(小野市中番町)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 「菅田首(すがたのおびと)」が祀ったとされる 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)が分祀し 保安年間(1120~1123)今の地へ遷座したものとされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり 住吉大社の神領として 住吉三神を配祀し 住吉神社と改称されています
住吉神社(小野市中番町)〈延喜式内社 菅田神社(すかたの かみのやしろ)〉
・山王神社(加東市厚利)
山王神社(さんのうじんじゃ)は 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社である・菅田神社(小野市菅田町)・住吉神社(小野市中番町)は 東條川を挟んで その南北の岸に祀られています 同じく論社とされる当社は そこから東條川を上流に向かって4km程遡った辺りの北岸に鎮座しています
山王神社(加東市厚利)〈延喜式内社 菅田神社の論社〉
・八坂神社(小野市中番町)
八坂神社(小野市中番町)は 当地方に゛天目一箇神゛を祖神とする菅田族〈砂鉄を採集して武器 農具を作成〉が祀った延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされ やがて農業に転換した里人は 農地に適した現在地〈その後 住吉大社神領となる〉に移住 神社も保安年間(1120~1123年)住吉三神を合祀し移転したと云う
八坂神社(小野市中番町)〈゛天目一箇神゛を祖神とする菅田族の祭祀した神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR福知山線 石生駅から西へ約20km 車30分程度
道の駅 杉原紙の里・多可 を目指します
道の駅 杉原紙の里・多可の目の前が青玉神社です
社頭には 天戸間見の森 と刻字された標石があります
御祭神は 天戸間見命(あまのとまみのみこと)
〈別名 天目一箇命(あまのまひとつのみこと)〉です
青玉神社(多可郡多可町加美区鳥羽)に参着
社頭には 木製の両部鳥居があり 扁額には゛青玉神社゛と記されています
一礼をしてから鳥居をくぐり抜けると そこは神聖な氣が漂っています
よく手入れをされている杉木立の中を進みます
まむし やまひる もいるようです
途中 御神橋を渡ると 右手には゛青玉゛゛腰掛石゛と手水舎があり 清めます
すると 県指定文化財の大杉7本があり 社殿の近くの境内には 威厳を感じます
拝殿にすすみます
高砂「四海波静かにて」(しかいなみ しずかにて)〈波風がおさまり天下国家の平和を祝う祝賀〉の歌が記される奉納板があります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の両脇には 境内社が祀られています
境内社にお参りをします
境内社の後ろには 御神木の夫婦杉があります
社殿に一礼をして 杉木立の参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 天目一神社について 所在は゛在所分明ならず゛〈所在は不明〉と記しています
ただし諸説があり 次の様に記しています
゛式社記に、糀屋村、〔今 稲荷と稱す〕゛〈現 稲荷神社(多可町中区糀屋)〉
゛一説 大木村にあり゛〈現 天目一神社(西脇市大木町)〉
゛古跡便覽に、一説荒田神社是也、社地不知とあり゛〈現 天目一神社(的場 御田上)・加都良神社 境内社 天目一神社〉
゛播磨鑑に、的場村にありといへり゛〈現 荒田神社(的場)・天目一神社(的場 御田上)〉
【抜粋意訳】
天目一神社
天目一は 阿米乃麻比登都と訓べし
〇祭神明らか也
〇在所分明ならず
〇日本紀、〔神代下〕一書曰、天目一箇神爲に作金者、」
倭姫世記云、崇神天皇六年九月、就に於倭笠縫邑、〔中略〕令 齋部氏、率に石凝姥神裔 天目ー筒□裔二氏、更鋳造 鏡劔、以爲 護身御璽、式社記に、糀屋村、〔今 稲荷と稱す〕一説 大木村にあり、」
古跡便覽に、一説荒田神社是也、社地不知とあり、〔今按、荒田神社 父神なれば、相殿も祭り難し〕
播磨鑑に、的場村にありといへり、猶國人に尋ねて一決すべし、
〇神代巻 口决に、天目一箇神社、在に播磨國多可郡と云るは、唯此帳にあるを云るにて、何の證にも成がたし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 天目一神社について 所在は゛今 大木村にあり、゛〈現 天目一神社(西脇市大木町)〉と記しています
【抜粋意訳】
天目一(アメノマヒトツノ)神社
今 大木村にあり、〔飾磨縣神社調〕
天津彦根命の子 天久斯麻比止者命を祭る〔新撰姓氏録、延喜式、神代巻口譯、〕此神亦 天麻比止都禰命と云ひ、又 天目一箇神と云ふ、〔新撰姓氏録、古語拾遺〕
上古天照大御神、天窟に隠り坐し時、雜刀斧及鐵鐸を作り仕奉りし神也、〔古語拾遺〕
凡 十一月八日 祭を行ふ〔飾磨縣神社調〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 天目一神社について 所在は゛大木村 (多可郡日野村大字大木)゛〈現 天目一神社(西脇市大木町)〉と記しています
【抜粋意訳】
天目一神社
祭神 天目一箇命
祭日 十一月八日
社格 村社所在 大木村 (多可郡日野村大字大木)
【原文参照】
青玉神社(多可郡多可町加美区鳥羽)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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播磨国(はりまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 播磨国 50座(大7座・小43座)の神社です 播磨国は 和銅6年(713) の詔によって『播磨国風土記』が編纂されていますので 7世紀には成立したとされています
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について