青渭神社(あおいじんじゃ)は 昔 この付近に大きな青い沼があり その神霊を祀ったことが起源とされ・大沼明神・青沼大明神と称していました 弘仁年中(810~824)創建との伝承があり 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをゐの かみのやしろ)の論社となっています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
青渭神社(Aoi shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
東京都稲城市東長沼1054
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》青渭神(あおいのかみ)
猿田彦命(さるたひこのみこと)
天鈿女命(あめのうずめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
当社創建の年代は詳らかでないが 光仁年中の創立との伝承がある。
延喜式神名帳所載の多摩八座の一社で古社である。
祭神は 青渭神 猿田彦命 天鈿女命を祀る。
昔は 大沼明神 又は 青沼大明神と称した。
大祭には 青渭獅子舞奉納の神事がある。
現社殿は 昭和四十九年の造営であるが 本殿は往昔のままで数百年を経ている。
明治六年郷社に列せらる。青渭神社 社務所
現地案内板より
【由 緒 (History)】
稲城市指定技芸
青渭神社(あおいじんじゃ)獅子舞(ししまい)
毎年十月一日の青渭神社祭礼当日に行われる。
九月になると稽古をはじめ、九月三十日に当家(とうや)(獅子舞の代表者)の庭先で揃(そろ)い獅子を舞う、十月一日に青渭神社で奉納され、翌日は周辺の神社で舞い、最後に当家の庭先で舞い収めをする。
舞いは大獅子、女獅子(めじし)、求(きゅう)獅子、の三頭の獅子と天狗(てんぐ)によるもので、囃子(はやし)方は笛吹、貝吹、歌方によって構成される。
この獅子舞は大正四年より二十三年間中断していたが、昭和十二年に復活され、現在に至っている。
以前は市内の他地区でも見られた行事であるが、しだいに消滅し、現在では東長沼と矢野口に残るのみである。
昭和五十七年三月三十一日 稲城市教育委員会現地案内板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・覆屋内に2宇〈・稲荷神社《主》宇迦御魂命・1宇不明〉
・祠1宇〈疫神大権現宮〉・念佛講中の石碑
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多磨郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 青渭神社
[ふ り が な ](あをゐの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Awoi no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをヰの かみのやしろ)の論社について
・青渭神社(調布市深大寺元町)
青渭神社(あおいじんじゃ)は 社前にケヤキの老樹がそびえます 往古は社前の湧き水が大池となり青波を湛えていたので 青波天神社と呼ばれたことから 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをゐの かみのやしろ)の論社ともされています
青渭神社(調布市深大寺元町)
・青渭神社(稲城市東長沼)
青渭神社(あおいじんじゃ)は 昔 この付近に大きな青い沼があり その神霊を祀ったことが起源とされ・大沼明神・青沼大明神と称していました 弘仁年中(810~824)創建との伝承があり 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをゐの かみのやしろ)の論社となっています
青渭神社(稲城市東長沼)
・青渭神社 奥宮(青梅市沢井)
・青渭神社 里宮(青梅市沢井)
青渭神社 里宮(あおいじんじゃ さとみや)は 社伝によれば創建は第10代 崇神天皇の御代とされ 又 天慶年間(938~947)平将門の乱の時 鎮守府将軍 源経基が青渭神社と社号を名付け社殿を建てたとします 『延喜式神名帳927 AD.』所載社 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをヰの かみのやしろ)の里宮とされます
青渭神社 里宮(青梅市沢井)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR稲城長沼駅から徒歩5分の住宅地の中にあります
神社は南南西を向いていて 駅から進むと本殿の横から入ってしまいました
青渭神社(稲城市東長沼)に参着
100m程の南に社頭がありますので 側道を社頭へ向かうと 小さな神橋が架かる参道があり 石鳥居が建ちます
一礼をして 一の鳥居をくぐり参道を進みます 二の鳥居もくぐります
小さな狛犬が座し 手水舎が建ち その先に更に 小さな狛犬 その先に社殿が建ちます 社殿の奥には 古木の大樹があります
古老の伝えでは かつては古木が鬱蒼と生い茂り昼尚暗かった その名残りでしょう
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 昭和四十九年の造営のコンクリート製ですが その中に鎮座する本殿は往昔のままで数百年を経ているとの事です
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 青渭神社の所在について 三ヶ所〈現・青渭神社(調布市深大寺元町)・青渭神社(稲城市東長沼)・青渭神社 奥宮(青梅市沢井)〉を挙げています
【抜粋意訳】
青渭(アヲヌマ)神社
和鈔 比企郡 渭後 沼乃之利
古事記 敷山主神(しきやまぬしのかみ)の女(むすめ)、青沼馬沼押比賣(あおぬまうまぬまおしひめ)を娶りて
地考 当郡 柏ノ里 深大寺境内に青渭ノ堤と云ふ所あり 青波天神ノ社あり 七八十年前まで数十回の古木ありしと之 これ古の神社なるへし
式考 澤井村にあり 神主 宮崎氏
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
青渭神社(稲城市東長沼)について 式内社 青渭神社の論社であるが沼があったとの伝えで確証がない 澤井村〈現 青渭神社(青梅市沢井)〉にも論社があるので 載せておく と記しています
【抜粋意訳】
巻之八十九 多磨郡之七 府中領 長沼村
長沼村は 昔 村内 青沼明神社の邊に その形の長き沼ありしより起れり村名なりと云う・・・・・
青沼社
村の西に在 猿田彦命を祀れり 青沼大明神と号す
相傳ふ此邊に大なる沼ありて その沼より神體出現せり故に 昔は大沼明神とかきしと されどこの説もかたりつたへのみなれば いかがはあらん
神名帳にのせたる青渭神社は もしくは当社ならんかとおもはるれど 郡内上澤井村にも青渭神社と称する社あり かの社傳もたしかならざれば いささかここにも記しおくのみ
今はおしなべて水田となれり 小社にて三間半に四間半の覆屋あり 前に鳥居をたつ 村内の鎮守なり 神主福嶋左内
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 青渭神社の所在について 杣保内 澤井村〈現 青渭神社(青梅市沢井)〉としていますが
他の説として「深大寺境内に青渭の堤と云所あり、青波天神の社あり」〈現 青渭神社(調布市深大寺元町)〉も論社と記しています
【抜粋意訳】
青渭神社
青渭は阿哀奴と訓べし
○祭神大己貴命、(地名記)杣保(そまほ)内 澤井村に在す、(同上)
例祭 月、日、
武藏野地名考に、当郡 柏の里 深大寺境内に青渭の堤と云所あり、青波天神の社あり、七八十年前まで数十囲の古木ありしと也、此古の青渭神社なるべしと云り、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 青渭神社の所在について 深大寺村〈現 青渭神社(調布市深大寺元町)〉と記しています
【抜粋意訳】
青渭(アヲヌマノ)神社
今 深大寺村にあり 青波天神と云ふ
〇按 今 深大寺境内に青渭堤と云所あり
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 青渭神社の所在について 長沼村 字青沼〈現 青渭神社(稲城市東長沼)〉と記しています 他の2社〈・深大寺村・澤井〉が池や井戸の伝承だけが根拠とするのに対し 長沼村には青ヌマ前 青ヌマ出口 青渭後といった字が実際にあり 式内・青渭神社と比定しています
【抜粋意訳】
青渭神社
祭神 青沼馬神比賣命
祭日 二月十八日
社格 郷社所在 長沼村 字青沼
今按〈今考えるに〉
本社所在
一は 深大寺村にあり 此の説に 往古は社前に五町餘の池あり 池の谷と云しが 今埋り残りの池あり旱魃に涸ることなしと云るのみにて證なし
一は 澤井にあり 其の説に 本社山岳険岨にして樹木森々 社前に霊泉あり 水清冷にして 四時涸ることなし 之を真名井とも青渭井とも云ひ 寛文享和の書物に青渭社と記し 寛政度の村鑑に式内 青渭神社と記せりと云を以て證としつれど
長沼村の田畑図に青渭神社の南の田の字 青ヌマ前上田二畝と中田三畝と 又 石鳥居の東の田字 青ヌマ前上田七畝二十五と又 青ヌマ脇又 東に青ヌマ出口とみえ 又社後に字と字青渭後中田九畝十八と 字青渭ウシロ中田一反十二となど記し 青渭字分上中下田畑〆て 二町九反二畝とあるもの確証と云べし故今之に従ふ
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
青渭神社(稲城市東長沼)について 式内社とする説があるが 三ヶ所〈現・青渭神社(調布市深大寺元町)・青渭神社(稲城市東長沼)・青渭神社 奥宮(青梅市沢井)〉とも確証がない と記しています
【抜粋意訳】
〇東京府 武蔵國 南多摩郡稲城村 大字東長沼 字青渭
郷社 青渭(アヲイノ)神社
祭神 青渭(アヲイノ)神
社傳に據れば 勧請年代は弘仁年中なりと傳ふとあり、
今 新編武蔵風土記稿に云「青沼社、村ノ西に在り、猿田彦命を祀れり、青沼大明神と號す、相伝ふ此邊に大なる沼ありて、その沼より神躰出現せり、故に昔は大沼明神とかきしと」云々、
式の神名帳に載せたる青渭神社は当社なるべしとの説あれど、郡内にて他に二三個所も同様の説をなすものあれば決し難し(澤井村 及 深大寺村 青渭神社の條参酌すべし)
特選神名牒に云く「青渭神社、祭神 青沼馬押比賣命、所在長沼村(字青沼)今按、本社所在一ハ深大寺村ニアリ、此説ニ往古ハ社前ニ五町余ノ池アリ、池ノ谷ト云シガ今埋リ残リノ池アリ、旱魃ニ涸ルコトナシト云ルノミニテ証ナシ、一ハ澤井村ニアリ、其説ニ本社山岳険阻ニシテ樹木森々社前ニ霊泉アリ、水清冷ニシテ四時涸ルコトナシ、之ヲ真名井卜モ青渭トモ云ヒ、寛文、享和ノ書物二青渭社ト記シ、寛政度ノ村鑑ニ式内青渭神社ト記セリ卜云ヲ以テ証トシツレド、長沼村ノ田畑図ニ、青渭神社ノ南ノ田ノ字青ヌマ前、上田二畝卜、中田三畝ト、又石鳥居ノ東ノ田字青ヌマ前、上田七畝二十五ト、又青ヌマ脇、又東ニ青ヌマ出口トミエ、又社後ニ字青渭後、中田九畝十八卜、字青渭クシ口、中田一反十二ト、ナド記シ、青渭字分、上中下田畑〆二町九反二畝トアルモノ確証ト云ヘシ、故今之ニ従フ」と、
明治六年十一月郷社に定まる、社殿は本殿、拝殿を具へ、境内386坪(官有地第一種)を有す。境内神社 稲荷神社
【原文参照】
青渭神社(稲城市東長沼)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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