青渭神社(あおいじんじゃ)は 社前にケヤキの老樹がそびえます 往古は社前の湧き水が大池となり青波を湛えていたので 青波天神社と呼ばれたことから 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをゐの かみのやしろ)の論社ともされています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
青渭神社(Aoi shrine)
【通称名(Common name)】
・青波様
【鎮座地 (Location) 】
東京都調布市深大寺元町5-17-10
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》青渭大神(あをゐのおほかみ)
水波能賣大神(みずはのめのおほかみ)
青沼押比賣命(あおぬまおしひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
神社名 青渭(あおい)神社
主祭神名 青渭大神(あおいのおおかみ)
由緒
創立年月日は不詳であるが、往古(三千年~四千年以前)先住民が水をもとめ居住した際、その生活に欠くことの出来ない水を尊び、祠(ほこら)を建て水神を祀ったものと伝えられている。御祭神は水波能賣大神・青渭押比賣命、又一説には社前大池に棲む蛇を祀ったとも云われている。神社明細帳等によれば、当社は延喜式神明帳 所載 武蔵国多摩郡八座の内にて、官祭の社で重き御社(おやしろ)であったと伝えられている。往古は社前におよそ五町歩余の境内地があり、大池に混々と湧水(わきみず)あり、青波をたたえていた所から、青波天神杜とも称された。旧深大寺町の総鎮守である。尚杜前に槻(けやき)の老樹がそびえ、市内随一の巨木で、調布市文化財天然記念物に指定されている。
北多摩神道青年会現地案内板より
【由 緒 (History)】
青渭(あおい)神社 御由緒
当社の創建年月は不詳であるが、往古(三千年~四千年以前)先住民が水を求めて居住した際、生活欠くことができない水を尊び祠(ほこら)を建て、水神を祀ったと伝えられている。
ご祭神は水波能賣大神(みずはのめのおおかみ)・青沼押比賣命(あおぬまおしひめのみこと)、
一説に社前大池に棲む大蛇を祀ったものともいわれる。神社明細帳等によれば、当社は第六十代 醍醐天皇の延長五年(九二七年)に編纂された『延喜式』(えんぎしき)所載、武蔵國多摩郡八座の内に官祭の重き御社であったと伝えられる。往古は社前に五町歩余の境内地があり、大池にこんこんと湧き水あり、青波をたたえていた所から青波天神社とも称せられた。地水は干ばつの折も枯れる事なく、田用水等に用いられたといわれる。
周辺は武蔵野文化発祥の地であり、清水の湧き出る所、人々の生活と密接な関連があったと考えられる。青渭・青波共に水の意であり、「渭」とは広遠に波立つ様をいい水面に波打ち寄せる意で、水神様を祀った古社である事は疑う事はできない。
明治六年十二月郷社(ごうしゃ)に列せられた。
氏子地域は深大寺町全域(元・南・東・北町)と調布ヶ丘の一部にまで及ぶ。例大祭は毎年十月十五日の近い土・日に行われる。。又御社殿も甚だしく荒廃したため、御大典(おたいてん)事業として再建に努めた結果、平成四年十月無事竣工となり 同月二十五日盛大に奉祝祭を斎行した。御社殿は権現造りで建坪三十坪、屋根は銅板葺きである。◇御神木・大欅(ケヤキ)
社殿の右前方、三鷹通り沿いにある。根元から高さ八メートルのところで三本に分かれ、主幹のみ大きく伸び、第二・第三幹は枯れて、その跡を残している。幹囲いは目通り凡そ六メートル、高さ三十四メートル、樹齢数百年(推定七百年から八百年)の老樹であるが、現在尚、樹勢旺盛である。ケヤキは古名では槻(ツキ)といい、『新編武蔵風土記稿』に「年代不詳僅ナル祠ニシテ東向ナリ 社ノ傍ニ囲一丈五尺余リノ槻ノ老樹アリ 古キ勧請ナル事疑ヲ入レズ 昔社地ニ池アリ青波ヲタテ社前に至ル様アリ青波ノ名ヲ生ズ 青渭ト青波相近シ延喜式記載ノ多摩郡八座ノ青渭神社ナリト云フ」と、また『江戸名所図会』にも「村の中天神谷戸にあり祭神不詳 青波神社とも云う 社前に槻の老樹あり 数百余霜を経たるものなり 古へ社前に湖水あり 青波の名ありと云う 式内の社名青渭と青波はよりどころあり」などと見えて、文化文政期(一八〇四~一八三〇)から既に目立つ巨木であった。
現存する市内最古の樹木である。昭和四十七年四月十日調布市の天然記念物に指定された。また社前は「池の谷戸(やと)」と呼ばれ、昔は青波をたたえていたという。この付近から主として縄文時代中期の土器が発見され、殊に打製石斧が大量に出土し、その製造所があったと推定されるなど、古代人の住居跡と考えられている。現地説明板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・ご神木〈大欅〉
市天然記念物
青渭神社のケヤキ
所在 調布市深大寺元町5丁目17番10
指定 昭和47年4月10日神社の境内、拝殿の右前方、道路に近く鳥居の横にある。幹は目通りおよそ5.5メートル、高さ34メートル、樹齢数百年の老樹であるが、現在なお樹勢旺盛である。
ケヤキは古名では槻(ツキ)といい、「新編武蔵風土記稿」に「社ノ傍二囲一丈五尺アマリノ槻の老樹アリ」と、また「江戸名所図会」にも「社前槻の老樹あり、数百余霜を経たるものなり」などと見えて、文化文政のころからすでに目立つ巨木であった。
なおケヤキは武蔵野の防風林として特色を持っている。また社前を「池の谷戸」とよばれ昔は青波をたたえていたという。この附近から主として縄文時代中期の土器が発見され、特に打製石斧が多量に出土したのでその製造所があったと推定されるなど、古代人の住居の跡である。
平成6年3月30日 調布市教育委員会現地案内板より
・石鳥居〈扁額には 龍神の彫物〉
・神楽殿? 神輿殿?
・手水舎
・社務所〈社殿向かって右〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多磨郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 青渭神社
[ふ り が な ](あをゐの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Awoi no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをヰの かみのやしろ)の論社について
・青渭神社(調布市深大寺元町)
青渭神社(あおいじんじゃ)は 社前にケヤキの老樹がそびえます 往古は社前の湧き水が大池となり青波を湛えていたので 青波天神社と呼ばれたことから 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをゐの かみのやしろ)の論社ともされています
青渭神社(調布市深大寺元町)
・青渭神社(稲城市東長沼)
青渭神社(あおいじんじゃ)は 昔 この付近に大きな青い沼があり その神霊を祀ったことが起源とされ・大沼明神・青沼大明神と称していました 弘仁年中(810~824)創建との伝承があり 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをゐの かみのやしろ)の論社となっています
青渭神社(稲城市東長沼)
・青渭神社 奥宮(青梅市沢井)
・青渭神社 里宮(青梅市沢井)
青渭神社 里宮(あおいじんじゃ さとみや)は 社伝によれば創建は第10代 崇神天皇の御代とされ 又 天慶年間(938~947)平将門の乱の時 鎮守府将軍 源経基が青渭神社と社号を名付け社殿を建てたとします 『延喜式神名帳927 AD.』所載社 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをヰの かみのやしろ)の里宮とされます
青渭神社 里宮(青梅市沢井)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京王線 布田駅から三鷹通りを北上 約2.1km 車5分程度
三鷹通り沿いに大ケヤキがあり 青渭神社の社号標があります
青渭神社(調布市深大寺元町)に参着
石鳥居の扁額には 龍神の彫物の中に 少し読みづらいですが 青渭神社と刻まれています
一礼をして 鳥居をくぐり 石段を上がります
拝殿にすすみます
拝殿の扁額には 青渭神社 と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 青渭神社の所在について 三ヶ所〈現・青渭神社(調布市深大寺元町)・青渭神社(稲城市東長沼)・青渭神社 奥宮(青梅市沢井)〉を挙げています
【抜粋意訳】
青渭(アヲヌマ)神社
和鈔 比企郡 渭後 沼乃之利
古事記 敷山主神(しきやまぬしのかみ)の女(むすめ)、青沼馬沼押比賣(あおぬまうまぬまおしひめ)を娶りて
地考 当郡 柏ノ里 深大寺境内に青渭ノ堤と云ふ所あり 青波天神ノ社あり 七八十年前まで数十回の古木ありしと之 これ古の神社なるへし
式考 澤井村にあり 神主 宮崎氏
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
青渭神社(調布市深大寺元町)について 「往古社地に池ありしが 青波たちて社前に至りしゆへ」と神社が青波天神社と号されたので 式内社 青渭神社の論社となっているが 澤井村〈現 青渭神社 奥宮(青梅市沢井)〉であろうと記しています
【抜粋意訳】
巻之八十九 多磨郡之六 府中領 深大寺村
青波天神祠
深大寺より東の方三町ばかりにあり こゝの字を池の谷戸と云
鎮座の年代を詳にせず 土人云 往古社地に池ありしが 青波たちて社前に至りしゆへ かく號すと 此説は浮たることなり又云 これ式内にのする青渭の神社なりと されど青渭神社は郡内澤井村にある社是なりと云ときは 當社は恐くは式内にてはあらざるべし 青波の字青渭と相近きにより かゝる附會の説おこりしにや
社は僅なる祠にして 東向なり 傍に圍一丈五尺あまりの槻(ケヤキ)の老樹あり 古き勧請なることは疑ふべからず
【原文参照】
『江戸名所圖會(Edo meisho zue)』〈1834~1836〉に記される伝承
青渭神社(調布市深大寺元町)の社前には 古には湖水が水を湛えていた事が 記されています
【抜粋意訳】
『江戸名所図会 九』 巻之三 天璣之部
青渭社 虎柏社(あおいのやしろ とらかしわのやしろ) の図
〈青渭社と槻(ケヤキ)の老樹が絵図に描かれています〉
青渭神社(あをいのじんじゃ)
虎柏神社(とらかしわのじんじゃ)より北の方 深大寺村(じんだいじむら)の中にあり 土人(どじん)此地(このち)を字(あざな)して天神ヶ谷戸(てんじんがやと)といえり 祭神(さいじん)詳(つまびらか)なりに 代に青波天神(あをとてんじん)と称せり 相傳ふ 古は社前に湖水ありし故 青波の称ありと 社前 槻(つき)の老樹あり 数百餘霜を経るものなり
延喜式神名帳曰 武蔵國多摩郡 青渭神社云々
按(あんず)る神名帳に青渭とあるを 今本 阿遠伊(あをい)と訓す 土人云う 古当社の前は 湖水満満たりと 故に青波の称ありといへり 今 青波を作る阿遠葉と訓るは據ある似たり
青渭堤(あをゐつつみ)
青渭神社(あをいのじんじゃ)の辺あり 古は 青渭の湖水 湛たりしを 後世 堤を切開きて水を乾し耕田をなすといへり・・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 青渭神社の所在について 杣保内 澤井村〈現 青渭神社(青梅市沢井)〉としていますが
他の説として「深大寺境内に青渭の堤と云所あり、青波天神の社あり」〈現 青渭神社(調布市深大寺元町)〉も論社と記しています
【抜粋意訳】
青渭神社
青渭は阿哀奴と訓べし
○祭神大己貴命、(地名記)杣保(そまほ)内 澤井村に在す、(同上)
例祭 月、日、
武藏野地名考に、当郡 柏の里 深大寺境内に青渭の堤と云所あり、青波天神の社あり、七八十年前まで数十囲の古木ありしと也、此古の青渭神社なるべしと云り、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 青渭神社の所在について 深大寺村〈現 青渭神社(調布市深大寺元町)〉と記しています
【抜粋意訳】
青渭(アヲヌマノ)神社
今 深大寺村にあり 青波天神と云ふ
〇按 今 深大寺境内に青渭堤と云所あり
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 青渭神社の所在について 長沼村 字青沼〈現 青渭神社(稲城市東長沼)〉と記しています 他の2社〈・深大寺村・澤井〉が池や井戸の伝承だけが根拠とするのに対し 長沼村には青ヌマ前 青ヌマ出口 青渭後といった字が実際にあり 式内・青渭神社と比定しています
【抜粋意訳】
青渭神社
祭神 青沼馬神比賣命
祭日 二月十八日
社格 郷社所在 長沼村 字青沼
今按〈今考えるに〉
本社所在
一は 深大寺村にあり 此の説に 往古は社前に五町餘の池あり 池の谷と云しが 今埋り残りの池あり旱魃に涸ることなしと云るのみにて證なし
一は 澤井にあり 其の説に 本社山岳険岨にして樹木森々 社前に霊泉あり 水清冷にして 四時涸ることなし 之を真名井とも青渭井とも云ひ 寛文享和の書物に青渭社と記し 寛政度の村鑑に式内 青渭神社と記せりと云を以て證としつれど
長沼村の田畑図に青渭神社の南の田の字 青ヌマ前上田二畝と中田三畝と 又 石鳥居の東の田字 青ヌマ前上田七畝二十五と又 青ヌマ脇又 東に青ヌマ出口とみえ 又社後に字と字青渭後中田九畝十八と 字青渭ウシロ中田一反十二となど記し 青渭字分上中下田畑〆て 二町九反二畝とあるもの確証と云べし故今之に従ふ
【原文参照】
青渭神社(調布市深大寺元町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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