実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)

三田八幡宮 古跡石碑(みたはちまんじんじゃ こせき)は 御田八幡神社旧鎮座地です 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年 窪三田に遷座〈三田八幡宮 古跡石碑〉 寛永五年(1628)現在地御田八幡神社(港区三田)に鎮座したあります

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

三田八幡宮 古跡石碑(Ancient site of Mita Hachimangu Shrine)

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

東京都港区三田1丁目11−9

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社の旧鎮座地

【創  (Beginning of history)】

御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年 窪三田に遷座〈三田八幡宮 古跡石碑〉 寛永五年(1628)現在地御田八幡神社(港区三田)に鎮座した

【由  (History)】

御田八幡宮旧跡

 和銅二年(七〇九)年、牟佐志国牧岡(現在地)に東国鎭護の神として鎭祀され、延喜式稗田神社として伝えられ、その後 寛弘八年(一〇一一)年、武蔵国御田郷久保三田の地に遷座され、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された俗に「綱八幡」と称する神社の旧跡です。

 江戸時代を通じて同宮の別当寺である無量院が存続しており、明治維新による寺の廃絶後は同宮の分社が祀られていましたが、それも廃された後、昭和四十三年当会館が建てられた所であります。

現地石碑より

東京都神社名鑑』より

御田八幡神社の由緒
和銅2年(709)、牟佐志国牧岡に東国鎮護の神として鎮祀され、延喜式内稗田神社と伝えられた。その後、寛弘8年(1011)武蔵国御田郷久保三田の地に遷座され、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。俗に「綱八幡」と称する。

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

現在の御田八幡神社

・御田八幡神社(港区三田)

一緒に読む
御田八幡神社(港区三田)

御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年〈三田八幡宮 古跡石碑〉に遷座し 寛永五年(1628)現在地に鎮座したとあり 古くは稗田神社とも云われたと伝わり 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社となっています

続きを見る

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

官社に列した 蒲田(カマタノ)が 薭田神社だとされています

【抜粋意訳】

 貞觀六年(八六四)八月十四日戊辰〉の条

○十四日戊辰
 

美作國 從四位下 仲山(チウサンノ)大神

武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)を 官社

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)荏原郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 薭田神社
[ふ り が な ]ひえたの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Hieta no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社について

・薭田神社(大田区蒲田)

一緒に読む
薭田神社(大田区蒲田)

薭田神社(ひえだじんじゃ)は 社伝によると和銅2年(709)僧行基が天照・八幡・春日の三体神を造り本社に安置し その後 弘安5年(1282)この三体は日蓮によって開眼されたと伝わっています 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とされています

続きを見る

・御田八幡神社(港区三田)

一緒に読む
御田八幡神社(港区三田)

御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年〈三田八幡宮 古跡石碑〉に遷座し 寛永五年(1628)現在地に鎮座したとあり 古くは稗田神社とも云われたと伝わり 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社となっています

続きを見る

・三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)

一緒に読む
三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)

三田八幡宮 古跡石碑(みたはちまんじんじゃ こせき)は 御田八幡神社の旧鎮座地です 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年 窪三田に遷座〈三田八幡宮 古跡石碑〉 寛永五年(1628)現在地〈御田八幡神社(港区三田)〉に鎮座したとあります

続きを見る

・六郷神社(大田区東六郷)

一緒に読む
六郷神社(大田区東六郷)

六郷神社(ろくごうじんじゃ)は 源頼朝公・徳川家康公も崇敬した神社で 古くから 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とする説があります しかし社伝には 天喜五年(1057)源頼義・義家が武運長久を祈願し勝利を収めて創建したとあり 当社も式内社を主張していません

続きを見る

・鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)

一緒に読む
鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)

鵜ノ木八幡神社(うのきはちまんじんじゃ)は 社伝に 延徳元年(1489)天明伊賀守光信の子 五郎右衛門光虎が 下野国〈栃木県〉より当地に移った際に 一族の守護神として八幡大神をおまつりした とあるが 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社ともなっています

続きを見る

・久が原東部八幡神社(大田区久が原)

一緒に読む
久が原東部 八幡神社(大田区久が原)

久が原東部八幡神社(くがはらとうぶ はちまんじんじゃ)は 社記に天平神護元年(765)豊前 宇佐八幡宮より御分霊を勧請し 武蔵野の南端 久が原台地一番の高所に奉斎と伝えられ 江戸時代に 久が原が二分される時 馬込領 久が原村の鎮守とされ崇敬を受けてきました 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社でもあります

続きを見る

・久が原西部八幡神社(大田区久が原) 

一緒に読む
久が原西部八幡神社(大田区久が原)

久が原西部八幡神社(くがはらにしのはちまんじんじゃ)は  社記には 天平神護元年(765)豊前の宇佐八幡宮より御分霊を勧請 武蔵野の南端 久が原台地一番の高所に奉斎されたと伝えられ 久が原が二分される時 六郷領 久が原村の鎮守とされた 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社でもあります

続きを見る

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

地下鉄 麻布十番駅から 小山橋でお堀を渡り 東へ約300m 徒歩5分程度

この地は 芝公園側〈東側 海側〉からの高台になっています
2020迄は「東京さぬき倶楽部」という宿泊施設の敷地にありましたので 宿泊の時に夕方参拝

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

チックインを済ませて 建物の裏手〈南側〉に 木々や竹林があり 其の中にあるとの事

Please do not reproduce without prior permission.

石の檀が設けられて 天保(1831~1845)(1751~1764)文字のある狛犬が座します

三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

かつては小さな石祠あったようですが 現在は ・手水鉢に「心洗水」・石碑の表面「渡邊綱尊敬 三田八幡宮古跡」裏面に〈明治廿四辛卯八月建立と刻字されています

ここは 渡辺綱出生地とも住居とも伝承あり

Please do not reproduce without prior permission.

石碑の奥には 石燈籠あり

お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『江戸名所圖會(Edo meisho zue)』〈1834~1836〉に記される伝承

御田八幡神社(港区三田)について 土地の言い伝えでは 式内社の薭田神社されている と記しています

【抜粋意訳】

三田八幡宮(みたはちまんくう)

芝田町七丁目にあり 三田の惣鎮守にして祭る所 山城男山八幡宮と同くして 後一条帝寛仁年間草創といひ傳ふ
旧地は窪三田にあり(土人云 当社ハ延喜式の神名記及ひ武蔵風土記等の書に載所の薭田神社是なり 今も其旧地に一社あり 窪三田八幡宮と称す)
正保年間 今の地へ移し奉るといへり
 此地後は山林ありて 前ハ東海を臨む風光秀美なり 別当は天台宗にして 眺海山無量院と号す 祭礼は隔年八月十五日で修行を放生会なり

延喜式神名帳云 武蔵国荏原郡御田郷 薭田八幡
武蔵風土記残篇云 荏原郡御田郷 薭田八幡
圭田五十八束三字田
所祭 應神天皇也 宿祢 荒木田襲津彦等也 和銅二年己酉八月十五日始行 神体有 神戸巫戸等

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 薭田神社の所在について 蒲田村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉として 他に江戸三田小山 薭田八幡宮〈現 御田八幡神社(港区三田)〉との説も挙げています

【抜粋意訳】

薭田神社

薭田は 比恵多と訓べし、

祭神詳ならず
蒲田村に在す

又云、江戸三田小山 薭田八幡宮

〇惣國風土記七十七残岟云、蒲田郷云々、薭田神社、圭田六十二束、所祭園韓神、少彦名命也、依 雄略天皇十一年之勅、而始行 神體有 神家巫戸 祈病災莫不験、祈田毛莫不寶」
又同一本云、御田郷云々 稗田八幡、圭田五十八束三字田、所祭応神天皇也、武内宿禰、葛木襲津彦等也、和銅2年己酉8月15日、始行神礼、有神戸巫戸等」

按るに、当社は蒲田神社にして、三田なる薭田八幡宮は、別社なるべきか、考ふべし、

官社
貞觀六年(八六四)八月十四日戊辰〉、詔以武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)を 官社

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 薭田神社の名称について 薭は蒲の誤りと記して 蒲田(カマタノ)神社としています
所在については 蒲田村の東大森村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉と記しています

【抜粋意訳】

蒲田(カマタノ)神社

〇按本書、蒲を薭に作る「恐らくは、誤れり、今 三代実録、倭名鈔に據て之を訂す、」

今 蒲田村の東大森村にあり、
清和天皇 貞觀六年(八六四)八月十四日戊辰〉、詔以武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)を 官社に 三代実録

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 薭田神社の所在について 北蒲田村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉として 薭田は蒲田の訛であろうと推論しています

【抜粋意訳】

薭田神社

祭神
今按〈今考えるに〉
社伝 祭神 経津主命 武内宿禰 應神天皇 荒木田襲津彦とあるは 惣國風土記 荏原郡 薭田八幡云々 所祭 應神天皇也 武内宿禰 荒木田襲津彦等也とみえたるに據れるものなれば信じがたし 此祭神も八幡と云よりの説なるべく 荒木田は葛木の誤なるべし 又按 薭田 諸本にヒエタとありされど 惣國風土記に蒲田郡 蒲田神社とみえ 和名鈔に蒲田郷あり 三代実録に蒲田神と記し 今所在の地名も蒲田村なるを思ふに 薭田は蒲田の訛なること著し 姑附て後考に備ふ

官社
貞觀六年(八六四)八月十四日戊辰〉、詔以武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)を 官社

祭日 一月八月 十五日
社格 郷社
所在 北蒲田村(荏原郡蒲田村大字北蒲田)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

御田八幡神社(港区三田)について 昔は窪三田に在り、今も其処に小祠をのこす」〈現 三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)〉と旧鎮座地についても記されています

【抜粋意訳】

〇東京府 武蔵國 東京市 芝區田町七丁目

郷社 三田八幡(ミタハチマン)神社

祭神 (オウジン)天皇 武内宿禰(タケシウチスクネ)
   襲津彦(ソツヒコノ)命 倉稻魂(ウカノミタマノ)

 和銅年間の鎮座なりといへと確かならず、
近世の偽書国風土記残篇に「荏原郡御田郷、稗田八幡、所祭 応神天皇、武内宿禰、荒木田襲津彦等也、和銅月始行神禮、云々と見えたれど、稗は蒲の古体なる稗を誤れるものにて、延喜式の稗田神社を当社に充てたるものなるべし、
江戸砂子云、「三田八幡は田町九丁、其外十三丁の鎮守なり、別当を眺海山無量院と云ひ、昔は窪三田に在り、今も其処に小祠をのこす云々」と見えたり、
蓋し社記に云く 寛永年芝田町七丁目へ遷座せりと、土人 其山に祠を建て、旧八幡 又は 網八幡と称す とあるに符合す
田町は初め 上高輪町といひしが、いつの頃よりか芝の田町と改めしなり、
江戸名所圖曾に、「三田の総鎮守にして、祭る所山城男山八幡宮と同じく、後一條帝寛仁年間草創すと云傅ふ、旧地は窪三田に在り、正保年間今の地へ移し奉る、此地後ば山林にして、前は海湾に臨む、故に風光秀美なり云々」
と見ゆる是れなり、
明治十八日郷社に列す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿等を具備し、境内は30143勺(官有地第一種)にして、山に寄り海に面し、風景殊に宜し、古来祭礼には、放生会を行へりと云ふ。

境内神社 春日(カスガノ)神社 八耳(ヤツミミノ)神社

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)に (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る       

一緒に読む
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について

武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

続きを見る

 

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています