天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
天手長男神社(Amanotanagao shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触730
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》
正哉吾勝勝速日 天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひ あまのおしほみみのみこと)
天鈿女命(あまのうずめのみこと)
天手力男命(あまのたぢからおのみこと)
《合祀》天手長比売神社 式内社(名神大)
栲幡千々姫命・稚日女命・木花開耶姫命・豊玉姫命・玉依姫命
《合祀》物部布都神社 式内社
経津主神
《合祀》若宮神社・宝漓神社
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・武運長久・安産守護・子育て
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 壱岐嶋一之宮
【創 建 (Beginning of history)】
壱岐国一の宮
天手長男(あめのたながお)神社 式内社(名神大)
祭神
正哉吾勝勝速日 天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひ あまのおしほみみのみこと)
天鈿女命(あまのうずめのみこと)
天手力男命(あまのたぢからおのみこと)※式内社(しきないしゃ)とは、延喜(えんぎ)五年(九〇五)の「延喜式(えんぎしき)」(当時の法律を記したもの)の神名帳に記載されている神社のことで、全国に三一三二座ある。
また、名神大社(みょうじんたいしゃ)、略して名神大とは「延喜式」に定められている社格のことである。なお、昭和四十年(一九六五)五月から、左記の五社が合祀(ごうし)されることになった。
天手長男神社 式内社(名神大)
天手長比売神社 式内社(名神大)
物部布都神社 式内社(名神大)
若宮神社
宝漓神社さらに安産の神として有名な粟島(あわしま)神社も奉祀(ほうし)されている。
平成十二年十月
*祭神について
天忍穂耳尊
日本神話で、天照大神(あまてらすおほみかみ)と素戔嗚尊(すさのをのみこと)の誓約(うけい)(神意をうかがう所作業)の際に生まれた神。
その子は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)。
天細女命
日本神話で、天岩屋戸(あまのいわやと)の前で踊って天照大神を慰め、天孫降臨(てんそんこうりん)に随従した女神。天手力男命
天岩屋戸を開いて天照大神を出したという大力の神。天孫降臨に従う。現地案内板より
【由 緒 (History)】
現在の天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)は それまで「若宮」と呼ばれていた小祠でした
江戸時代に 平戸藩の国学者 橘三喜が 名神大社の天手長男神社に比定したものです
現在では 壱岐国の一之宮とされています
【境内社 (Other deities within the precincts)】
〈拝殿向かって左側〉
・粟島神社《主》少名彦名命
・石祠が複数祀られます
〈祠の横には 石の扁額が置かれていて「天手長男神社」と刻字 元々の若宮とされていた当時の石祠なのだろうか〉
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
昭和四十年(一九六五)五月 合祀の物部布都神社跡
・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉
物部布都神社跡(もののべふつじんじゃ あと)は 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社と比定された物部村に鎮座していた布都ノ宮〈物部布都神社〉の跡地です 昭和40年(1965)5月 天手長男神社に合祀されました
物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
天手長男神 天手長比咩神の両神を 官社に列しています
【抜粋意訳】
巻二 嘉祥三年(八五〇)十月丁卯〈廿三日〉の条
○丁卯
屈七十僧於東宮。轉讀大般若經。別請七僧於清凉殿。修法印呪。並限三日。爲國祈也。詔以テ 壹岐嶋 天ノ手長男 天ノ手長比咩 兩神ヲ 列ス於官社ニ
〈詔を以て 壹岐嶋(いきのしま)天手長男(あまのたなかを)天手長比咩(あまのたなかひめ)の両神(もろかみ)を 官社に列す〉
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神ノ祭 二百八十五座
・・・・・・
天手長男 (あまのたなかをの) 神社 一座
天手長比賣(あまのたなかひめの)神社 一座 巳上 壱岐嶋・・・
・・・
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)は 三つの式内社の論社になっています
①天手長男神社(名神大)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐嶋 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 天手長男神社(名神大)
[ふ り が な ](あまのたなかをの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Amanotanakawo no kamino yashiro)
➁ 《合祀》天手長比売神社 式内社(名神大)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐嶋 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 天手長比賣神社(名神大)
[ふ り が な ](あまのたなかひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Amanotanakahime no kamino yashiro)
➂《合祀》物部布都神社 式内社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐嶋 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)[旧 神社 名称 ] 物部布都神社
[ふ り が な ](もののへのふつの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Mononohe no Futsu no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
壱岐国の一之宮〈天手長男神社〉の論社について諸説
壱岐国の一之宮は 天手長男神社です
しかし 壱岐国の一之宮〈天手長男神社〉については 論社がいくつかあります
現在の「天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)」が 壱岐国の一之宮〈天手長男神社〉である確証はありません
現在の場所を 天手長男神社に比定したのは 国学者の橘三喜でしたが 現在の研究では 多くの疑問が持たれています
現在は 芦辺町湯岳興触〈興(こう)は国府の意〉にある「興神社」が 壱岐国の一之宮〈天手長男神社〉に有力視されています
延寶〈江戸時代〉の式内社調査〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉について
延宝4年(1676)平戸藩主の松浦鎮信(まつうらしげのぶ)公は 平戸藩の国学者 橘三喜(たちばなみつよし)に 壱岐島の式内社24社の調査を命じました
その後 橘三喜は〈足掛け23年間に全国の一宮を参拝し その記録を『諸国一宮巡詣記』全13巻として著し〉当時 神道に関し影響力がありました
但し 壱岐島では 強引な付会が多く 橘三喜が実施した 同島の式内社の比定は むしろ混乱を招いた と後世の研究では指摘され 現在では異論や疑問が出されています
特に壱岐国の一之宮〈天手長男神社〉の論社については それが顕著に出ています
『式内社調査報告』に記される「平戸藩の國學者 橋三喜」の説
【原文参照】
天手長男神社 舊號若宮祠
延喜式神名帳に「壹伎島石田郡天手長男神社 名神大社」 と録す。
『壹岐神名記』は「天手長男神社櫻江村、改以前 は若宮と云ふ。式外」と記し、『壹岐神社誌』は「若宮と は神名品書に田中若宮四所の明神とあるを指したものにして、古来社地に鎮座せる小祠を云ふ。故に天手長男神社の 由緒を存するにあらざるなり」としてゐる。
これを天手長男神社としたのは平戸藩の國學者橋三喜であつた。彼は「一の宮巡詣記」に「天手長男神社は壹岐國 宗廟たりといへども、跡かたもなく、剰へいひ傅ふる事も たしかならず、しかれども考合する事ども、又は一人の老 婆かたり傅ふる事據有て、田中の城山竹薮の中に分入、そのしるしを求むるに、神鏡一面、又は二座の右體を堀出しぬ。其外上代の土器中に埋れる事、其數をしらず。壹岐國 廿四社の内、すたれたるをば右社をたて、各其神體神號を記し、後世に傅へ度よし、國主の仰に任せ、其所の古老の云傅へを聞、舊記を考へ記し置所左のごとし」として、若宮社なる式外小祠を天手長男神社として査定したのである。
その左記は次の通りである。「大日本國關西路壹岐州 石田郡物部庄紫原郷櫻江村天手長男神社者、延喜式神名帳 廿四座其一而、所レ載二豊葦原一宮記一也、物換事異而今在 レ名而己、因レ茲國守鎮信公命、遣二兩使瀧川彌一右衛門時 盛、村松伊織正供一、再建二立之一、可レ謂二繼レ絶擧レ廢之丹心一 矣。延寶四年丙辰六月朔目橋三喜謹記」『式内社調査報告』より
【意訳】すると
壱岐国の一之宮〈天手長男神社〉の論社について 現在の天手長男神社は 櫻江村 改以前 は 若宮と云って式外社である 故に天手長男神社の 由緒を存するものではない
この若宮を 天手長男神社だと推定したのは 国学者の橘三喜である
その著書に
当時 天手長男神社は 跡かたもなく 伝えている説も証拠がなかった
老婆から話しを聞いて ここにあった竹薮(たけやぶ)の中に分け入り 神社跡を探したが見つからなかった
この時 竹薮の中を掘ると 神鏡1面 石造の弥勒如来坐像を2体 その他多くの上古の土器を見つけたとして
若宮社である式外小祠を 天手長男神社として査定したのである
橘三喜が 2体の如来像を掘り出した場所は 境内 石で囲まれており木が1本立つ「京塚」と呼ばれています
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)は 三つの式内社の論社の一つです
式内社 石田郡 天手長男神社(名神大)(あめのたなかをの かみのやしろ)
・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)
天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉
・興神社(壱岐市芦辺町)
興神社(ko shrine)は 壱岐国が王制の時代であった頃の 一支国(壱岐国)の王都の跡「原の辻遺跡」のすぐ傍に鎮座します 官庫の鑰(かぎ)や国府政所の印かんを納める所として「印鑰大明神」の社号で呼ばれ 格式高い由緒を伝えます 里人の通称名は「一の宮」です 現在では 本来の式内名神大社「天手長男神社」で「壱岐国一之宮」は当社「興神社」とする説が有力です
興神社(壱岐市芦辺町)〈壱岐国一之宮〉(元印鑰宮)
式内社 石田郡 天手長比賣神社(名神大)(あめのたなかひめの かみのやしろ)
・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)
天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉
・天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
天手長比賣神社跡(あまのたながひめじんじゃあと)は 延宝4年(1676)平戸藩命で式内社調査を国学者の橘三喜が行い 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶 所在不明だった天手長比賣神社を 物部邑の五所姫大明神幡宮・姫大明神と呼ばれていた当社に推定し比定したもので〈昭和40年(1965)天手長男神社に合祀〉され 現在は跡地です
天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
・國片主神社(壱岐市芦辺町)
國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました
國片主神社(壱岐市芦辺町)
式内社 石田郡 物部布都神社(貞)(もののへのふつの かみのやしろ)
・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉
物部布都神社跡(もののべふつじんじゃ あと)は 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社と比定された物部村に鎮座していた布都ノ宮〈物部布都神社〉の跡地です 昭和40年(1965)5月 天手長男神社に合祀されました
物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)
・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉
天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉
・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)
國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐嶋 石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)・物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神と成る」との伝説があります
國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)〈延喜式内社〉
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
郷ノ浦港から県道26号とR382号を北上 約7分 車8分程度
社頭には 鳥居〈昭和15年1月建立〉があり 扁額には「天手長男神社」と刻されています
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)に参着
ここから徒歩でも上がれますが 車参道で境内迄上がれます
車参道の入口には 案内板があります
車参道は 二の鳥居の横へと通じています
石段を上がり 三の鳥居をくぐります
正面には 拝殿があります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥 本殿は覆い屋に囲まれています
境内社にお詣りをして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社の三社〈・天手長男神社・天手長比賣神社・物部布都神社〉について 物部村〈現 郷ノ浦町田中触〉に鎮座している天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)と 現在合祀されている・天手長比賣神社・物部布都神社を論社として 記しています
【抜粋意訳】
天手長男神社
天手長男は 阿米乃多奈賀乎と訓べし
〇祭神明らかなり 一宮記 頭注等云、思兼命一男〇考証 式社考 天忍穂耳命 手力男命 鈿女命といふ 今従わず
〇物部村 元名 深江村と云う に在す 土俗 若宮と称す 式社考
〇式三、臨時祭 名神祭二百八十五座、中略 壱岐島 天手長男神社一座
〇当国一宮なり官社
文徳実録 嘉祥三年十月丁卯 詔以 壱岐島 天手長男神社 列於官社天手長比賣神社
天手長は前に同じ、比賣は假字なり
〇祭神明らかなり 頭注云 思兼命子なり〇考證 式社考 前に同じ 今従わず
〇物部村 元名 深江村と云う に在す、今 八幡宮と称す 式社考
〇式三、臨時祭 名神祭二百八十五座、中略 壱岐島 天手長比賣神社一座官社
文徳実録 嘉祥三年十月丁卯 詔以 壱岐島 天手長比賣神 列於官社物部布都神社
物部は毛乃々倍と訓べし 和名鈔 物部、布都は假字
〇祭神 師霊歟
〇物部村 元名 深江村と云う に在す、今 布都神社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社の三社〈・天手長男神社・天手長比賣神社・物部布都神社〉について
三社の所在を物部邑であるとした 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉には 疑問がありと記し
三社の論社として 有力な別説として 次の通り
・天手長男神社は 国府村〈現 興神社(壱岐市芦辺町)〉
・天手長比賣神社は 国分村〈現 國片主神社(壱岐市芦辺町)〉
・物部布都神社は 渡良村〈現 國津神社(壱岐市郷ノ浦町)〉
【抜粋意訳】
天手長男神社(名神大)
祭神 天手長男神
今按〈今考えるに〉
本社祭神 舊説に仲哀天皇 相殿 住吉大神 気長足姫尊とあるを
延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひ あまのおしほみみのみこと)天手力男命(あまのたぢからおのみこと)天鈿女命(あまのうずめのみこと)を祭ると云るは 神名帳頭注 一宮記に手力男 思兼命一男也とみえ 神社考に引る神書抄に手力男神の事を 此神者 思兼神之子也とあるなどによりて云るなるべけれど信じがたし 一宮記頭注に云るは思兼命一男にて手力男神と申す神なりと云意なるべし官社
文徳実録 嘉祥三年十月丁卯 詔以 壱岐島 天手長男神社 列於官社祭日 九月十六日
所在
今按〈今考えるに〉
明細帳 長崎縣式内社記には 本社を物部邑にありと云れど疑わし 其は神社考にもと物部邑鉢形峰には若宮四所の神とてありしを
延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に同所に石社木鏡を安置して 新に天手長男神社を勧請せしなり
石田郡湯岳村の内 こうの印鑰大明神は 昔より當国の一宮と傳ふとみえ 式社名徴にも天手長男神社 壱岐二十四座記承社記 吉野公光記神社考 式社略考等の書に国府村と記し 式社沿革考に古今一宮とも国府宮とも印鑰宮とも称し 延寶以前も式内社と云えば興神社は一宮 天手長男神社歟とあればなり されど国府宮は興神社らなんともおもはるれば 今決め難し天手長比賣神社(名神大)
祭神
今按〈今考えるに〉
本社祭神 旧説に神功皇后とあるを延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に 栲幡千千姫命 稚日女尊 木花開耶姫 豊玉姫命 玉依姫命を祭れりとるは 神社考に物部邑 五所姫大明神幡宮を当社なりとし 姫大明神と称するを以て 栲幡千千姫命なと云るならんと云るが如くなるべし 又 同書に毎年 住吉神社 軍越の神事に当社に幣帛を納め神酒を献じ社邊にて 異国降伏の開肇を挙れば 神功皇后に拠ある歟とあれど 其祭式によりて皇后を祭ると云るも信じがたし故 今 式文によりて記せり
官社
文徳実録 嘉祥三年十月丁卯 詔以 壱岐島 天手長比賣神 列於官社祭日 九月十三日
社格 村社所在
今按〈今考えるに〉
式社沿革考に 承應記に当社を国分村と記せしや正しからむ
然らば 村の宋社 国片主神社の近き所に古 国分明神と云るあり 是 当社の旧社地にして 今の国片主神社に遷座し奉れるかと云れど 証拠明らかならねば従がたし物部布都神社
祭神 布都主命
祭日 九月十六日
所在
今按〈今考えるに〉
明細帳式内社記に物部邑とあれど 神社考に此村 大屋の野中の辻に社もなかりしを 延寶の時〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉石社木鏡を安置しし 新たに勧請し 布都神社と定めたるは 古に所謂 物部郷は物部武水水渡浦三邑にて 渡浦村 蓮宮則式内の物部布都神社なる事を考へず偏るに 当社は物部邑にあるべき社と見たる故也と見え 式社沿革考に壱岐24座記 承應社記 吉野公光記 神社考 式社略考の五書にも 物部布都神社は 渡良村と待しは 此渡良村を国津神社と云は 社号の混乱なりと云るに従いて この所在を定むべきなり
【原文参照】
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について に戻る
壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について