実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

赤城神社〈三夜沢赤城神社〉(前橋市三夜沢町)

三夜沢赤城神社(みよさわ あかぎじんじゃは 関東平野を見渡す赤城山の面の中腹に鎮座します 古代の毛野国を支配し 東國経営にあたった上毛野君の創祀とされ 本来は上野國の一之宮であったとする伝承があり 古くから朝廷から祭祀を受けていました 延喜式内社 上野国 勢多郡 赤城神社(名神大)(あかきの かみのやしろ)の論社です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

赤城神社(Akagi shrine

通称名(Common name)

三夜沢赤城神社(みよさわ あかぎじんじゃ
赤城本宮あかぎほんぐう

【鎮座地 (Location) 

群馬県前橋市三夜沢町114

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

御神體は 赤城山

《主》大己貴命(おほなむちのみこと)
   豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

赤城神社由緒略記

 勢多郡宮城村大字三夜澤鎮座

一 祭神
 赤城神 〈大己貴命 豊城入彦命〉

一 由緒
 赤城神社は東國開拓の神々が祀られている古来の名社である

東國経営にあたった上毛野君の創祀以来 國司 武将が篤く崇敬し朝廷からも承和六年(西暦八三九年)に従五位下を贈られ 元慶四年 西暦八八〇年に従四位上にあげられ 延喜式には名神大社に列せられた 長元九年(西暦一〇二八年)頃には正一位に叙せられ 次いで 上野國の二宮とうやまわれていた

赤城山は高く 美しく うしろに山山をひかえて 雄然と聳えている
山頂の小沼から出る粕川を始め各河川は麓の村村をひろくうるほしている その尊厳と恩恵とは み山とよはれ親しまれ尊はれ上毛野君の昔から祀りつかれて来た

分社は群馬県下のみで七十八社その他を併せると三百余社に及ぶ昭和十九年(西暦一九四四年)には國幣中社に昇格の内定があつたが 終戦後は國土建設 開拓精神発揚のため神威 益々顕著である

一 例祭
 五月五日

一 特殊神事
 四方拝(元旦) 修請会(一月五日)
 御鎮祭(三月十一月 下旬) 御神幸(四月十二月 初辰日)

一 文化財
大勾玉 
本殿内宮殿 櫃石

一 社寶
伝嵯峨天皇勅願 神位記並関係品一式 戦国武将古文書等

昭和三十八年十一月生日足日
群馬大学教授文学博士 尾崎喜左 撰文 金子潤象謹書

社頭の案内板より

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【由  (History)】

由緒

 関東の大平野の北に並んでいる山々の最前列にそびえているのが赤城山であり、その面の中腹に群馬県勢多郡宮城村大字三夜沢の地がある。赤城神社の鎮座地である。赤城山中央、荒山の下方山麓の景勝の地にあたる。海抜570メートルである。
 赤城山は背後の諸山を従えて、長く裾を引き、雄然とあたかも王者のように大平野にのぞんでいる。頂には黒桧岳、駒ケ岳、地蔵岳、荒山、鍋割等の峰が東から西にかけて見えていて王冠のようである。
その間に大沼、小沼があり、小沼からは粕川が流れ出して、滝や渓谷をつくり、裾野をうるおし、また粕川、荒砥川とともに、平野の潅がいに利用されている。その流域には御分社が多い。平坦地では赤城山を「御山」(おやま)とよんでいる。神山と仰ぎ尊んでいたものである。
 神社のうしろの荒山から下だってくる尾根の端には神跡「ひつ石」がある。古代祭シの遺跡で、ここからは関東平野が一望のうちにおさめられ、その間を流れる利根川の末は雲煙の彼方太平洋をしのばせ、南方はるかに秩父山脈を越えて富士の霊峰を望むことができる。

 赤城神社の名が歴史書に見え始めたのは、今からおよそ1100年余り前の仁明天皇の承和6年(西紀839)のことである。その時に従五位下の神位を授けられているので、それ以前に既に朝廷から祭祀を受けられ、官社となっていたのである。
 延喜式の神名帳では、名神、大社に列せられ、神位は次第に昇叙されて、九条家本廷喜式裏文書には正一位と記してある。

 このように古くから著名な神であったのは、古代の上毛野国(群馬県全体)を支配していた上毛野君という一族がまつっていたからである。
上毛野君は豊城入彦命の子孫と伝えられていて、上毛野国の国造となり、東国を治め、蝦夷を同化させることを任務としていた。
日本書記に、「崇神天皇は豊城、活目の二皇子の夢を占って、後嗣を決めようとされた。二皇子は体を清め、神に祈って夢をみた。兄の豊城命の夢は御諸山に登って東に向かって八たび槍を振り、八たび刀を振ったというのであり、弟の活目尊の夢は御諸山に登って縄を四方に張り、粟を食う雀を追い払ったというのである。天皇は夢占いをして、兄は東国を治め、弟は天皇の位を継ぐことを決められた。豊城命は東国を治めることになり、上毛野君、下毛野国の始祖である。」という意味のことが記してあり、また同書に「景行天皇は豊城命の孫彦狭島王を東山道十五国の都督に任命された。ところが王は春日の穴昨邑というところで病死した。その時東国の人々は王が任地においでにならないことを悲しんで、王の屍をとって上野国に葬ったとあり」
次いで「景行天皇は彦狭島王の子御諸別王に父の業を継いで、東国を治めしめられた。蝦夷の首領が降参して、東国は永く平和になり御諸別王の子孫が後までも栄えている。」という意味のこともしるしている。
つまり上毛野君の氏族が東国を開拓して、東北地方へまで発展していたので、その基地である上毛野国に赤城神をまつったもので、そこで平野に臨んで、他の山々を後ろに従えたこの赤城山の神、小沼から流れでる粕川が潅がいに利用されたのでその農業の神とが、赤城神の起源と考えられる。
 鎌倉時代になると、三代将軍源実朝の歌に、「上野の勢多の赤城のからやしろ やまとにいかであとをたれけむ」とあるように、将軍をはじめ武将たちが崇敬したばかりでなく、赤城神社は上野国の二宮と呼ばれて、一般の人々の信仰のまとになった。

 神道集という吉野時代に伝説などから作りあげられた物語の本には「もと赤城神は一宮であったが、機を織っている時に、「くだ」が不足し、貫前神に借りて織りあげたので、織物が上手で、財持ちである貫前神に一宮をゆずり自分は二宮になった。」ということが見えている。
その頃は一宮の貫前神よりも二宮の赤城神の方が一般の信仰をあつめていたから、このような伝説が起こったのである。

 神道集が作られた頃は、本地垂迹説によって、神と仏とが一つにして拝まれていたので、赤城神ははじめ小沼の神に虚空蔵、大沼の神に千手観音があてられ、吉野時代頃には地蔵が加わって三神とされた。小沼及び大沼の神は粕川の上流の勢多郡粕川村大字室沢字御殿(元三夜沢)にまつられ、後に粕川の上流の神社が現在の三夜沢の地に移り、西宮と呼ばれ、今までこの三夜沢にあった神社は東宮となり、江戸時代には東西両宮が並んでいた。
このように一地に神社が移されたのは、戦国の世と呼ばれる頃であろう。しかし、戦国の頃には各武将の信仰が特に篤く、上杉、北条、武田の三氏をはじめ、由良、長野、大胡などの国内の諸将士の願文や寄進状等が神社に蔵されている。
殊に由良成繁奉納の宮殿はその寄進銘が扉にあって珍しいものである。

 また大胡氏はまず大胡に、次いで江戸に移ると牛込に赤城神社を分祀した。大胡氏の後に大胡城主となった牧野氏も土地を寄進している。参道は大胡(中央)、市之関(西)、苗ケ島(東)の三方から一の鳥居に集まっている。
 年代記には慶長年間に各参道に松を植えたとあって、現在中央の松並木のみが残っている。稀な松並木であり、由緒の明らかなものであるから、特に保存されるべきものである。
 現在の社殿は明治初年に東宮の位置に建て替えられて、東西両宮を併せて1社とされた。昭和17年に国幣中社に昇格の内定があったので、社域整備に着手したが、終戦と共に官祭が消滅し、それ以後は専ら氏子及び信仰者によって維持されてきている。
 分社は赤城山南麓地は勿論関東平野の全般から、新潟、福島、宮城の諸県に及んでいる。現在のもののみで、群馬県に118社、埼玉県に23社、栃木県に九社、茨城県に10社、新潟県に13社、福島県に11社、その他を合せて計191社であり、合併または廃社を合せると334社に達している。四季を通じて、各分社からの参拝も多い。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・御本殿

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拝殿から本殿への透塀

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拝殿

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〈境内社〉住吉社他 石祠 計93社

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参道 松並木

約3.2キロメートルの参道松並木樹齢80~400年のアカマツクロマツが約1,000本近く〉その根元に約4,000株ヤマツツジがあり 4月下旬5月上旬 山ツツジの花並木が松林を彩ります

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一の鳥居

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惣門

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二の鳥居〈白木の鳥居〉社頭

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手水舎・湧水の

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神代文字の碑

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前橋市指定重要文化財
神代文字(じんだいもじ)の碑

昭和五十三年四月指定

 一般に日本民族は漢字が伝わる以前は、文字というものを知らなかったとされているが、伝説ではそれ以前に神代文字と呼ばれるものがあったといわれ、現在ははっきりしているものだけでも数種類にもなります。
 この碑文は復古神道を体系づけ実践化し、又「神代日文伝(かむなひふみ)」の著作者で神代文字肯定者の一人でもある江戸時代の国学者平田篤胤(ひらたあつたね)の養子 鐵胤(かねたね)が、上部の神文については、鐵胤の子 延胤(のぶたね)が撰文し、書は篤胤の門人 権田直助(ごんだなおすけ)によるものです。
 神文については、対馬国「阿比留家(あひるけ)」に伝わる神代文字(阿比留文字)で書かれ、復古神道の遺物として重要なもので明治三年三月に建てられました。
平成十一年三月 前橋市教育委員会
現地案内板より

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御神水

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神楽殿

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・太々神楽

 赤城神社所有「社家年代記」には 太々神楽について 岩戸神楽系統で貞享元年(1684)京都より伝承されたとあり 式舞でゆったりとした神楽で 古くは24座が奉納されていたが 現在では14座が正午ごろ午後3時ごろまで行われています

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・奉納武道大会

毎年 5月5日 太々神楽〈前橋市の重要無形民俗文化財に指定が奉納され 境内では奉納武道大会も開催され賑やかな一日となります

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

神跡 櫃石(ひついし)

〈三夜沢赤城神社から 北方向に約1km登った尾根上〉

櫃石は 6世紀中頃の祭祀遺産で 天津神地津神(あまつかみくにつかみ)をった磐座(いわくら)信仰〈天上の神が降臨するときの目印の岩〉の祭祀を執り行う場所と考えられています

Wikipediaより

・宇通遺跡

宇通遺跡は 大規模な伽藍配置を持つ寺院跡です 創建は平安時代 10~11世紀にかけて順次建物が建設され 12世紀に廃絶された山岳仏教寺院と考えられています
三夜沢赤城神祉の旧地とされる元三夜沢としても注目されています

・宇通遺跡(前橋市粕川町中之沢)〈三夜沢赤城神社の元宮地〉

一緒に読む
宇通遺跡(前橋市粕川町中之沢)〈三夜沢赤城神社の元宮地〉

宇通遺跡(うつういせき)は 昭和40年の山火事によって偶然発見され 群馬大学史学研究室が発掘調査を担当「この寺院遺跡は火災〈『吾妻鑑』建長3年(1251)「上野国赤木嶽焼」〉によって終焉した 三夜沢赤城神社に伝承として残る゛西宮の元宮地゛」と推定した しかし 200mほど下った湯之口地区にも礎石建物の存在があり そこは元三夜沢と通称されており こちらが西宮の故地であるとも云われます

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承

上野國の三社・拔鋒神〈現 一之宮貫前神社伊賀保神〈現 伊香保神社〉と並んで 赤城神として 神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

 承和六年(八三九)六月廿三〉の条

 奉授
上野國(かみつけのくに)无位(むい)
拔鋒神(ぬきほこのかみ)赤城神(あかきのかみ)伊賀保神(いかほのかみ)
に 從五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

十四 貞觀九年(八六七)六月廿日丁亥

○廿日丁亥〈6月25日〉


上野國

從四位下 勳八等貫前神に 從四位上
從五位上 赤城(アカギノ) 伊賀保神に に 正五位下
從五位下 甲波宿禰神に 從五位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

【抜粋意訳】

十六 貞觀十一年(八六九)十二月廿三日丙午〉の条

○廿三日丙午 地震

十六 貞觀十一年(八六九)十二月廿五日戊申

○廿五日戊申


陸奧國 五位上勳九等 苅田嶺神 從四位下
上野國 正五位下 赤城神(アカギノカミ) 伊賀保神 並正五位上 從五位上 甲波宿禰神 近江國 從五位上 新川神 並正五位下
美濃國 正六位上 金神從五位下

勅令 五畿七道諸國 限以三日 轉讀金剛般若經 謝地震風水之 厭隣兵窺隙之寇焉

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

【抜粋意訳】

二十五 貞觀十六年(八七四)三月癸酉十四日〉の条

○癸酉十四日

因幡國 正四位上 宇倍神 從三位
阿波國 從四位上 天石門和氣八倉比神 正四位下

河内國 正五位上 建水分神
下総國 意富比神
上野國 赤城神
阿波國 葦稻葉神 並從四位下

但馬國 正五位下 出石神 養神 禾鹿神  正五位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

【抜粋意訳】

卅七 元慶四年(八八〇)五月廿五日戊寅〉の条

○廿五日戊寅

上野國

正四位上勳八等 貫前神 從三位勳七等
從四位下 赤城 伊賀保神  從四位上
正五位下 甲波宿禰神 從四位下
正五位下 小祝神 波己曾神  正五位上勳十二等
從五位上 賀茂神 美和神  正五位下勳十二等
正六位上 地神 從五位下勳十二等

内藏寮 寮掌二員を 衣粮以て 藏部料内を 給之

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Meijin sai)」の条 285座

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂

延喜式巻第3は『臨時祭〈・遷宮天皇の即位や行幸国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で名神祭Meijin sai)』の条に 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

【抜粋意訳】

名神祭 二百八十五座

・・・
・・・
赤城神社 一座 巳上 上野國
・・・

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩

嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合

加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)上野国 12座(大3座・小9座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)勢多郡 1座(大)

[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 名称 ] 赤城神社(名神大)
[ふ り が な ]あかきの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Akaki no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 上野国(かみつけのくに) 勢多郡(せたの こおり)赤城神社(名神大)(あかきの かみのやしろ)の論社について

延長五年(927)成立『延喜式神名帳』に 名神大社として「上野国勢多郡赤城神社」の記載があり・赤城大沼のほとりの「大洞赤城神社」・山腹にある三夜沢赤城神社」・山麓の「二宮赤城神社」等が論社(延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社)とされますが どの神社を指すのかは特定されていません

・赤城神社〈三夜沢赤城神社〉(前橋市三夜沢町)

一緒に読む
赤城神社〈三夜沢赤城神社〉(前橋市三夜沢町)

三夜沢赤城神社(みよさわ あかぎじんじゃ)は 関東平野を見渡す赤城山の南面の中腹に鎮座します 古代の毛野国を支配し 東國経営にあたった上毛野君の創祀とされ 本来は上野國の一之宮であったとする伝承があり 古くから朝廷から祭祀を受けていました 延喜式内社 上野国 勢多郡 赤城神社(名神大)(あかきの かみのやしろ)の論社です

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・宇通遺跡(前橋市粕川町中之沢)〈三夜沢赤城神社の元宮地〉

一緒に読む
宇通遺跡(前橋市粕川町中之沢)〈三夜沢赤城神社の元宮地〉

宇通遺跡(うつういせき)は 昭和40年の山火事によって偶然発見され 群馬大学史学研究室が発掘調査を担当「この寺院遺跡は火災〈『吾妻鑑』建長3年(1251)「上野国赤木嶽焼」〉によって終焉した 三夜沢赤城神社に伝承として残る゛西宮の元宮地゛」と推定した しかし 200mほど下った湯之口地区にも礎石建物の存在があり そこは元三夜沢と通称されており こちらが西宮の故地であるとも云われます

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・二宮赤城神社(前橋市二之宮町)

一緒に読む
二宮赤城神社(前橋市二之宮町)

二宮赤城神社(にのみやあかぎじんじゃ)は 第十一代垂仁天皇 第十二代景行天皇の御代に創建と伝へられる古社 貫前神社に一宮を譲った伝承を持つ 二宮の地名を冠する鎮座地は 赤城山の真南に位置し 古代 豊城入彦命を祖とする上毛野氏の本拠地゛古代上毛野゛と推定され 赤城本宮とされる三夜沢赤城神社の元宮であったとも 里宮でもあったともされ 今でも御神幸があります

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・赤城神社〈大洞赤城神社〉(前橋市富士見町赤城山)

一緒に読む
大洞 赤城神社(前橋市富士見町赤城山)

大洞 赤城神社(だいどう あかぎじんじゃ)は 昭和45年(1970)社殿荒廃につき 大洞から現在地に遷座しました 小沼端の豊受神社 小鳥ヶ島の厳島神社 黒檜山山頂の高於神神社をはじめ 赤城山内の各峰神社を合祀して 現在に至っています 延喜式内社 上野国 勢多郡 赤城神社(名神大)(あかきの かみのやしろ)の奥宮であろうとされています

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・赤城神社元宮跡地〈大洞赤城神社 旧鎮座地〉(前橋市富士見町赤城山)

一緒に読む
大洞赤城神社 元宮跡地(前橋市富士見町赤城山)

大洞赤城神社 元宮跡地(おおほらあかぎじんじゃ もとみやあとち)は 社伝には 当初は神庫山(ほくらやま)〈現 地蔵岳〉に鎮座 大同元年(806)〈大沼の南畔〉この地に遷座 約1200年間鎮座した〈神社周辺は 遷座の年号に合わせ「大洞」と呼ばれ 当社も大洞赤城神社と称されたと云う〉 昭和45年(1970)現在の小鳥ヶ島(ことりがしま)に遷座 跡地となりました

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・赤城神社(前橋市富士見町横室)

一緒に読む
赤城神社(前橋市富士見町横室)

赤城神社(あかぎじんじゃ)は 標高三百メートルの十二山(じゅうにやま)の頂上に鎮座します 南面には三百三十三段の石段を登る表参道があります 社伝によれば゛当社は延喜式内 名神大社なり゛とあり 延喜式内社 上野国 勢多郡 赤城神社(名神大)(あかきの かみのやしろ)の論社とされます

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゛赤城山の神゛と゛日光二荒山〈男体山〉の神゛の戦いの伝承

古墳時代「毛野国」が・上毛野国〈群馬県下毛野国栃木県2分割された時 国境争いから生まれた 壮大な神争いの神話伝説両毛の聖峰・日光二荒山の神・赤城山の神が 伝説とされます

また この伝説には 周辺類話 派生話が数多く存在しますので いくつかをご紹介します

栃木県側と群馬県側でも内容が異なったり 大蛇と大ムカデが入替ったりします

伝説の大筋として

先ずは 

1.戦いの場所

 争いの場所の伝承は いくつかあって・日光の戦場ヶ原での戦い・勝負がついた所は中禅寺湖畔の菖蒲ヶ浜・血を流した所は赤沼・勝利を祝った場所が歌ヶ浜 等

2.戦いの勝敗

・赤城山の神が勝ちパターン

 二荒山の神が流した血で山が赤くなった(桐生市新里町)・逃げるときに目を傷めて細くなった(片品村)という〈群馬県びいきの伝説〉

・二荒山の神が勝ちパターン

 赤城山の神が流した血で山が赤くなったという〈ほとんどの伝説〉

3.戦いの原因

 争いの原因は 土地争い 水の奪い合いが多く語られています
古墳時代(仁徳天皇の御代)毛野国が 上毛野国と下毛野国に分割されたことに起因していると云われる由縁

・土地争いの伝説として

弓の名人 鹿島の猿麻呂〈常陸国の鹿嶋の神(現在の茨城県)〉が 二荒山の神〈下毛野国〉を加勢したとあり 常陸国と下毛野国との協力関係が描かれています
常陸国と下毛野国の両国は 毛野川〈鬼怒川〉(※江戸時代初期に現利根川本流へと流路切替え)で結ばれていましたので 通商面などからも深い関係にありました

二荒山神社では 毎年1月4日に 中禅寺湖畔の二荒山神社中宮境内で 赤城山に向かって矢を射る武射祭が行われます

4.神の化身〈大ムカデ と 大蛇〉

・一般には・赤城山の神 化身〈大ムカデ〉・二荒山の神 化身〈大蛇〉のパターンが多い

・百足鳥居(むかでとりい)

赤城山へ登る東南麓の参道入口には 百足鳥居(むかでとりい)(桐生市新里町板橋)があります
天明2年(1782)に建てられた安山岩製の赤城の百足(ムカデ)島居(高さ4.41、笠木長6.25m)鳥居に長さ1.3mの百足が陽刻されています

 藤原秀郷(俵藤太)があるとき 大猿の地(現 前橋市粕川町室沢)の大猿川で 橋だと思って渡ったところ それが大ムカデで 赤城様の化身だったそうです
そのムカデをかたどって 鳥居にきざみつけたのが板橋(桐生市新里町板橋)の百足鳥居と伝えられています 板橋ではムカデを見たとき 殺さずに「ムカデは赤城へ行け」といえば 赤城に向かって登っていくそうです

・老神(おいがみ)の伝承〈群馬県〉

老神温泉〈赤城山北麓の沼田市利根町〉では 赤城の神の化身〈大蛇〉となっています

老神温泉の名は 赤城の神が戦で負った傷を癒し 年老いるまで滞在したことに由来するとも云われ 近くには二荒山の神を追い返した゛追貝(おっかい)゛の地名があります
老神温泉では 伝説にちなんで 毎年5月に 老神温泉大蛇祭があり108mの大蛇みこしがギネス世界記録に認定されました

2014年の大蛇祭では 二荒山神社中宮の武射祭に対抗して 祭りの2日目に 日光に向けて鏑(かぶら)矢を射る 魔障退散の儀式「墓日(ひきめ)の儀」が行われました

老神温泉(おいがみおんせん)の由来

群馬県沼田市

老神のルーツは、追い神伝説

昔、奥日光の戦場が原で赤城の神(蛇)と日光男体山の神(ムカデ)の戦いがあり、弓矢に倒れた赤城の神は赤城山麓まで逃れた。ここに矢を立てると熱い湯が湧き出し、矢傷を浸すとたちどころに治り、追いかけてきた日光の神の軍勢を見事追い返したという。

以来この地を「追神」と呼ぶようになり、これが老神温泉の始まりと伝えられている。

沼田市役所HP「老神温泉」より
https://www.city.numata.gunma.jp/kanko/tone/1001830.html#:~:text=%E8%80%81%E7%A5%9E%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%81%AF%E3%80%81%E8%BF%BD%E3%81%84,%E3%82%92%E8%A6%8B%E4%BA%8B%E8%BF%BD%E3%81%84%E8%BF%94%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%80%82

・二荒山神社の伝承〈栃木県〉

武射祭~災難除・開運祈願~

日光二荒山神社中宮祠(中禅寺湖畔)

 新年早々の1月4日に、中宮祠上神橋-かみしんきょう-で行われる武射祭は、二荒山神-ふたらやまがみ-と上野-こうずけ-(群馬県)赤城山神-あかぎやまがみ-が争ったという神戦譚-しんせんたん-に由来する祭りで、神官とかみしも姿の氏子代表が赤城山に向かって矢を放つ。このとき、射手も参列者もいっせいに「ヤアー」という鬨の声-ときのこえ-を張り上げる。厳寒のなかでおこなわれる勇壮な神事である。
 その昔、毛の国-けのくに-(いまの群馬県と栃木県)の赤城と二荒の神は、お互いの間に横たわる湖沼や高原、温泉などのある土地をめぐって争った。赤城山神はムカデ、二荒山神はヘビに身を変えて戦い、戦場ガ原-せんじょうがはら-における大決戦のすえ、戦は二荒山神の勝利で終わった。その故事にならって、二荒山側は赤城山に向かって矢を射るのである。

日光二荒山神社HPより
http://www.futarasan.jp/event_sys.shtml?1378

戦場ヶ原(せんじょうがはら)の由来〈栃木県〉

戦場ヶ原(せんじょうがはら)の由来

栃木県日光市

昔、男体山の神と赤城山の神が、美しい中禅寺湖を自分の領土にしようと、大蛇と大ムカデに姿を変え、激しい争奪戦を繰りひろげた。

しかし、なかなか決着がつかない戦いに業を煮やした男体山の神は、弓の名人である自分の子孫・猿麻呂に大ムカデの目を射抜かせ、ついにこれを討ち負かした。この戦いが繰りひろげられた広野原が、現在の戦場ヶ原なのだと伝えられている。

栃木県庁HP「とちぎ豆知識「とちぎの伝説」戦場ヶ原の由来」より
https://www.pref.tochigi.lg.jp/c05/intro/tochigiken/hakken/mamechishiki3_02.html

赤城(あかき)の名の由来

管内の百名山「赤城山(あかぎやま)」

「赤城」の名の由来は、その昔、日光男体山の北西麓の戦場ヶ原で、男体山の神と赤城山の神が、それぞれ大蛇と大ムカデになって戦い、赤城の神が敗れ追われてやってきた場所が赤城山の北にある老神温泉で、ここで傷おいがみを癒した赤城山の神が男体山の神を追い返したとの伝説があり、そのとき神が流した血で山が赤く染まったことから「赤き」が転じて「赤城」になったという説があります。

林野庁(群馬森林管理署広報広聴連絡官)より抜粋

林野庁(群馬森林管理署広報広聴連絡官)

歴史の道調査報告書『信仰の道‐上毛三山を中心に‐』群馬県教育委員会 に記される赤城神の伝承について

歴史の道調査報告書
『信仰の道‐上毛三山を中心に‐』群馬県教育委員会 より

【抜粋】

  赤城の神と、中禅寺湖の神が山づくりの競争をした。夜の明けるまでどちらが高く作れるかと言うことであった。

 赤城の神は黒桧山を、中禅寺の神は男体山を盛り上げた。赤城の神はもう一山分を残して夜が明けてしまい中禅寺の神に負けたのである。一山分は地蔵ヶ岳であった。掘った跡には赤城に大沼、男体に中禅寺湖ができたと言う。赤城の神は。負けた侮しさに中善寺の神をめがけて土の塊を投げた。それが中禅寺瑚の上野鳥であり、土をさらった跡に寛満渕ができた。

 高い山をつくることで勝った中禅寺の神は、約東通り赤械の神が大切にしていた宝物をもらいに来た。宝を石のカロウト(唐櫃)に入れて背負い下げようとしたが、あまりに重いので赤城の藤を根こそぎ伐って背負い綱にした。

二ノ鳥居付近まで来ると、中禅寺の神もさすがに疲れて一休みしているうちに眠りこけてしまった。いざ背負い立とうとしたときには、藤の背負い綱は赤城の神の手で切り刻まれてしまっていたのである。中禅寺の神は、宝物の入ったカロウトをそのまま置き去りにして帰ってしまったのである。そこには、今でもカロウト岩と呼ばれる矩形の粕形をした大岩がある。また、赤城に藤がないことは、中禅寺の神に根こそぎ刈り取られたためだと伝えられている。

 弘法大師が。百谷ある山に寺を開こうとして赤城山を歩いた。赤城山には九十九谷しかなかったので、一つ谷を作ろうとして仁王様に大石を背負いあげてもらうよう輯んだ。仁王様は、赤城山の藤蔓を全部伐って背負い網を作ろうと準備しているうちに夜が明けてしまった。弘法大師は、とうとう谷がつくれなかったため赤城に寺を開くことをあきらめた。また、このときに藤の蔓を伐ってしまったので、以後赤城山に藤が無くなったと言う。

 赤堀村{現在の佐波郡赤堀町}に赤堀道元という富豪がいた。道元には一人の娘がいたが、ようやく授かった子ゆえに蝶よ花よと大切に育てられ。十六歳の娘盛りを迎えた。ある日、娘は赤城山へ登りたいと言って供を連れて赤城参りをした。小沼の辺りまで来たとき「水を飲みたい」と言って、沼に近づくやそのまま消えてしまった。それに由縁して赤城山麓では、十六歳の女子の赤城登山を禁忌とした。また、入水した娘の遺品とされる「錦帯」が医光寺に所蔵されている。 (川池三男)

『群馬県歴史の道調査報告書第二〇集』群馬県教育委員会 平成13年3月31日発行より抜粋

藤原秀郷(俵藤太)ムカデと赤城神社が織りなす様々な伝承について

赤城神社のたわら杉

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群馬県指定天然記念物
三夜沢赤城神社のたわら杉

昭和四八年四月二五日指定
 赤城神社の境内には杉の大木が多数あり、ヒノキやアスナロ などもみられます。中でも目を引くのが中門南側とその西隣にある三本の杉の大木「たわら杉」です。東側のものから、目通り周五・一m、六・一m、四・七m、根元周六・〇m、九・六 m、五・六mとなっており、樹高は各々約六〇mです。これら 三本の杉は群馬県内でも最大級のものといえるでしょう。

 たわら杉には、「藤原秀郷(俵藤太)が平将門について上野国府(前橋市)に来る途中、赤城神社の前を通りかかった際に献木したものである」という伝説が伝えられています。藤原秀 郷は藤原鎌足八代の後裔と伝えられ、平将門の乱を平定し、武蔵守・下野守・鎮守府将軍をつとめたとされる平安時代の武将ですが、その実像はあまりわかっていません。

 一方、秀郷に関する伝説としては、大ムカデを退治して琵琶湖の龍神を助けた、弓矢の名手にして神仏への崇敬篤い英雄と して描く御伽草子「俵藤太物語」が有名です。鎌倉時代、上野国(群馬県)東部から下野国(栃木県)南部にかけての地域は、幕府の弓馬の家として一目を置かれた大武士団の拠点でした。 彼らはともに「秀郷流」を称していましたので、おそらく秀郷 がムカデ退治の弓矢の名手「俵藤太」として説話の世界で活躍を始めるのはこのころからです。秀郷流武士団のなかでも赤城神社への信仰が篤かったのは大胡氏でしたが、富岡市一之宮貫 前神社境内にある「藤太杉」にも同様な伝説が伝わっていることから、弓矢の名手秀郷へのあこがれは、中世の武将たちに共通する意識だったのかもしれません。

 ところで、日光の二荒山神社の縁起では、日光神と戦った赤城神がムカデの姿で表されており、起源を異にする秀郷とムカデと赤城神社が様々な伝承や説話を受け入れながら結びついてきた様子がうかがえます。このように、「たわら杉」とその伝説は、名も無き多くの人々の交流の歴史を伝える遺産であり、 赤城神社に対する時代と地域を越えた篤い信仰を象徴しています。

境内案内板より

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赤城神社が上野國の一之宮であったとする『神道集』に記される 伝承について

現地の案内板より

赤城神社(正一位 上野国神名帳)

 赤城神社は群馬県内は基より、宮城県、福島県、茨城県、栃木県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県の各地に三〇〇余ある分社の総本社です。

古代、崇高な赤城山と水源である沼の神霊を自然崇拝の対象に、農耕の神、東国開拓の神々の大己貴命、豊城入彦命を主祭神に祀り、創建は崇神(すじん)天の御世と伝えられています。

延喜式神名帳には上野国三大明神の一つに列せられる古社(延喜式内社)です。

 上野の勢多の赤城のからやしろ
        やまとにいかであとをたれけむ
と金槐和歌集の源実朝の歌(家集)にもあるように、将軍をはじめ武将たちが崇敬したばかりでなく、一般の人の信仰を集めました。

 また、神楽集という吉野時代に伝説などから作られた物語の本には、 もと赤城神は一宮であったが、はたを織っているときに「くだ」が不足し、貫前神に借りて織りあげたので、織物が上手で、財持ちである貫前神に
 一宮をゆずっり、自分は二宮になった。

ということが見えています。その頃は、一宮の貫前神よりも二宮の赤城神の方が一般の信仰を集めていたから、このような伝説が起こったのでしょう。

現地案内板より

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『神道集』南北朝時代に編纂〉に記される「赤城大明神」の伝承

詳しくは 赤城神社公式HP゛赤城大明神と上野國の神々「神道集」゛参照
http://akagijinja.jp/densetu/sintousyu.html

赤城山に伝わる姫伝説淵名姫・赤城姫・伊香保姫の伝説〉

 昔 履中天皇(世紀前半)の御代 高野辺大将家成という公家が 無実の罪で 上野國勢多郡深栖現 前橋市粕川町深津〉の山里に流されていました
年月を過ごすうち 若君一人 姫君三人に恵まれ やがて成人した息子は 祖父を頼って 遠く離れた都へ上り仕官していました

 三人の姫たちは 深栖で両親と共に暮らしていましたが 母君が38歳の春に亡くなります 姫たちは それぞれ・淵名姫が十一歳・赤城姫が九歳・伊香保姫が七歳の時でした
父家成は その年の秋に世間の習慣に従い後妻を迎えます

罪を許された大将は 上野国司に任命され任地へ向い 三人の娘たちは それぞれの乳母の元で成長します
継母は 美しく成長した三人の娘を疎ましく思うようになり 弟の更科次郎兼光をそそのかして 娘たちの殺害を計画します

 兼光は まず姉姫である淵名姫を 利根川の倍屋ヶ淵に沈めて殺します
次女の赤城姫も追われ 赤城山に逃げ込み迷っていると 赤城の大沼の龍神が現れ「この世は 命はかなく夢・幻のようであります 竜宮城という 長生きの素晴らしい処へと姫君を案内します」と云い 姫を助けてくれました 姫はその後 龍神を継いで 赤城大明神となります

末の伊香保姫は 伊香保太夫の居城に護られなんとか生きながらえることができました

 事件を知った大将・家成は 慌てて戻りますが 時すでに遅く 淵名姫の亡くなった淵で 神となった淵名姫と再会し 悲しみのあまりこの淵に入水してしまいます

 都で出世した息子は この知らせを聞き軍勢を率いて戻り 兼光を殺し 継母らを捕らえるも 一時は母であったという理由で殺さず 継母の出身地・信濃へと追放しました 信濃へ戻った継母は 甥を頼りますが 甥に捨てられ死にます 甥が叔母を捨てた山が 姥捨山と云われます

事件の後 息子は 淵名姫の死んだ淵に淵名明神の社を建て

その後 大沼の畔で 神となって一羽の鴨の羽に乗った妹 淵名姫・赤城姫と再会します
この鴨が 大沼に留
って島となったのが小鳥ケ島(現在の赤城神社の鎮座地

して 大沼と小沼の畔に 神社を建て(赤城神社・小沼宮)神々を祀り 3日間滞在しました その地が三夜沢と言います

その後 息子は都に戻り 伊香保大夫が国司の後見を務めたが 伊香保は領地が狭いので 伊香保姫は 群馬郡自在丸という処所(現 上野総社神社辺り)に住んでいたと伝わります

※淵名姫・赤城姫・伊香保姫 伝説 早川の水争いに関係するとも 古代における毛野国の歴史的変遷を表しているとも云われます
かつてこの地の信仰の中心であった゛出雲の神 や 諏訪の神゛から大和朝廷の信仰する伊勢系の神への変遷の逸話する説もあります

赤堀道元の娘の伝説

 佐波郡赤堀村{現在の佐波郡赤堀町}に長者 赤堀道元という富豪がいました

道元夫妻には子どもがいなかったので 赤城明神に祈ったところ 1人の娘を授かりました
ようやく授かった子ゆえに 蝶よ花よと大切に育てられ 十六歳の娘盛りを迎えたある日 娘は赤城山へ登りたいと言って供を連れて赤城参りをしました 

娘は 小沼の辺りまで来たとき「水を飲みたい」と言って 沼に近づくやそのまま いきなりざぶんと底知れない沼に飛び込んで消えてしまいました
水面は荒れ 沼の真ん中から「私は召されてこの沼の主になります 今まで育ててくださったお父様 お母様によろしくお伝えください」という娘の声がしたそうです

あっけにとられたお供の腰元達は このままでは帰ることはできないと皆が入水してしまい  蟹カニになりました このカニは小沼に住み着いて 龍になった娘を探していると云われ゛腰元(こしもと)ガニと呼ばれています

また 娘の遺骸だけでも見つけようと 沼を取り込む山の一部を切り崩して水を流したのが 今の粕川になったと言われ
登山道中に
立ち寄った近戸神社(前橋市月田町)境内には この時に休息で乗っていた馬の鞍を掛けた石があり゛鞍掛石(くらかけいわ)゛と呼ばれています

医光寺桐生市黒保根町には 赤堀道元の娘が 沼に入水する前に置いていったとの伝えのある゛錦帯゛道元娘の帯が保管されています

こうしたに由縁で 赤城山麓では 十六歳の女子の赤城登山を禁忌としていました

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

上毛電鉄 大胡駅から 県道16号を北上して 赤城山の裾野を上がります
約8.7km 車15分程度

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松並木参道には 山ツツジの美しい花が咲いています

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三夜沢赤城神社(前橋市三夜沢町)に参着

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社頭の大きな白木鳥居があります

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一礼をして 鳥居をくぐり抜け 参道を進みます

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右手には 手水舎と湧水の池に鯉とニジマスが泳ぎます

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拝殿にすすみます

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祭日なので 境内には 大勢の人々が集っています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥は 赤城山の麓 山の傾斜に沿って透塀が 本殿迄 続いています

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数えきれないほどの境内社の石祠があり 一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』建暦3年(1213)に記される「赤城」の伝承

赤城(あかぎ)の名前が 書物の中に登場したのは 鎌倉幕府3代将軍 源実朝公の和歌集「金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』が始めとされます

※それ以前は 赤城山は゛久呂保乃禰呂゛(くろほのねろ:くろほの嶺)と呼ばれていました

【抜粋意訳】

旅 神祇 647番

゛上毛の 勢多の赤城のから社 やまとにいかで 跡をたれけむ゛

〈この和歌は 赤城山ではなく 赤城の社 つまり三夜沢赤城神社を詠んだものとされています〉

【原本参照】

『金槐和歌集』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/926639/1/4書誌情報:著者 源実朝 [著], 源実朝公七百年祭協賛会 編 出版者 源実朝公七百年祭協賛会 出版年月日 大正8

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 赤城神社 名神大について 所在は 三夜沢村〈現 三夜沢赤城神社(前橋市三夜沢町)〉と記しています

又 建長三年(1251)四月十九日に赤城山が焼〈噴火or山火事〉と記しています

【抜粋意訳】

赤城(アカキ)神社 名神大

續日本後紀
承和六年(八三九)六月廿三 奉授に 上野國(かみつけのくに)无位(むい)赤城神(あかきのかみ)に 從五位下

日本三代實録
十四 貞觀九年(八六七)六月廿日丁亥 に 上野國 從五位上 赤城(アカギノ)に 正五位下
十六 貞觀十一年(八六九)十二月廿五日戊申 上野國 正五位下 赤城神(アカギノカミ)正五位上
二十五 貞觀十六年(八七四)三月癸酉十四日 上野國 赤城神 並從四位下
卅七 元慶四年(八八〇)五月廿五日戊寅 上野國 從四位下 赤城 從四位上

新撰姓氏録
上毛朝臣祖 豊城入彦命三世孫清麻呂云・・

夫木集
鎌倉右大臣 上野のせいの赤城の御社

諸神本懐
赤城山三所明神 大沼小沼山頂覚満

西根
允恭天皇御宇建立 号 覚満大菩薩 社領 五十石

東鑑
四十 建長三年四月十九日 上野国 赤城嶽焼云

国帳
正一位赤城大明神

〇清奥云 三夜沢村にあり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 赤城神社 名神大について 所在は 三夜澤村〈現 三夜沢赤城神社(前橋市三夜沢町)〉と記しています
又 建長三年(1251)四月十九日に赤城山が焼〈噴火or山火事〉と記しています

【抜粋意訳】

赤城神社 名神大

赤城は 阿加岐と訓べし
〇祭神
〇赤城山麓に在す、今 東宮西宮 両所あり、東宮は三夜澤村、西宮は(缺く)
〇式三、臨時祭 名神祭 二百八十五座 赤城神社 一座
〇諸神本懐、赤城山三所明神、大沼小沼山頂覚満、

神位
續日本後紀
承和六年(八三九)六月廿三 奉授に 上野國(かみつけのくに)无位(むい)赤城神(あかきのかみ)に 從五位下

日本三代實録
十四 貞觀九年(八六七)六月廿日丁亥 に 上野國 從五位上 赤城(アカギノ)に 正五位下
十六 貞觀十一年(八六九)十二月廿五日戊申 上野國 正五位下 赤城神(アカギノカミ)正五位上
二十五 貞觀十六年(八七四)三月癸酉十四日 上野國 赤城神 並從四位下
卅七 元慶四年(八八〇)五月廿五日戊寅 上野國 從四位下 赤城 從四位上

国内神名帳云 正一位赤城大明神

社領
当代御朱印高 五十石

雑事
朝野群載云、康和五年六月十日、奏亀卜、御神體卜、中略坐ニ、赤城神、云々・・・・

〇東鑑四十一、
建長三年四月廿六日、去十九日 上野国 赤城嶽焼、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 赤城神社 名神大について 所在は 三夜澤村〈現 三夜沢赤城神社(前橋市三夜沢町)〉と 赤城山の頂 大沼の東涯〈現 赤城神社〈大洞赤城神社〉(前橋市富士見町赤城山)〉と記しています

舊址は本社の東一里半 元宮澤と記しています

【抜粋意訳】

赤城(アカキノ)神社

今 三夜澤村 赤城山の頂 大沼の東涯にあり、仍て之を沼神とも云ふ、
舊址は本社の東一里半 元宮澤にあり、大己貴命を祀る、本社伝説、上野國志、巡拝舊祠記、熊谷縣式社取調書、
〇按 夫木集、源寶朝か歌に「上野の、勢田の赤城のから社、やまとにいかて、跡を垂けむ」と見えたるから社とはいかなる故にか詳ならず、若しくは蕃神などを祭れるにや、未だ明微を得ず、姑附て考に備ふ、
即 上野二宮也、神道集

續日本後紀
承和六年(八三九)六月廿三 奉授に 上野國(かみつけのくに)无位(むい)赤城神(あかきのかみ)に 從五位下

日本三代實録
十四 貞觀九年(八六七)六月廿日丁亥 に 上野國 從五位上 赤城(アカギノ)に 正五位下
十六 貞觀十一年(八六九)十二月廿五日戊申 上野國 正五位下 赤城神(アカギノカミ)正五位上
二十五 貞觀十六年(八七四)三月癸酉十四日 上野國 赤城神 並從四位下
卅七 元慶四年(八八〇)五月廿五日戊寅 上野國 從四位下 赤城 從四位上

醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列る、延喜式

堀河天皇 康和五年、六月 御卜に、赤城神の祭を穢せる崇あるを以て、社司に中祓いを科す、朝野群載

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 赤城神社 名神大について 所在は 三夜澤村〈現 三夜沢赤城神社(前橋市三夜沢町)〉と記しています

【抜粋意訳】

赤城神社 名神大

祭神 大己貴命

神位
續日本後紀
承和六年(八三九)六月廿三 奉授に 上野國(かみつけのくに)无位(むい)赤城神(あかきのかみ)に 從五位下

日本三代實録
十四 貞觀九年(八六七)六月廿日丁亥 に 上野國 從五位上 赤城(アカギノ)に 正五位下
十六 貞觀十一年(八六九)十二月廿五日戊申 上野國 正五位下 赤城神(アカギノカミ)正五位上
二十五 貞觀十六年(八七四)三月癸酉十四日 上野國 赤城神 並從四位下
卅七 元慶四年(八八〇)五月廿五日戊寅 上野國 從四位下 赤城 從四位上

祭日
四月八日 六月十五日
社格 郷社(縣社 兼 郷社明細帳)(縣社)

所在 三夜澤村(勢多郡宮城村大字三夜澤)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

三夜沢赤城神社(前橋市三夜沢町)ついて 式内社 赤城神社 名神大 と記しています

【抜粋意訳】

〇群馬縣 上野國勢多郡宮城村大字三夜澤

縣社 赤城(アカキノ)神社

祭神 大穴牟遅(オホナムチノ)神 豊木入日子(トヨキイリヒコノ)命

創立年代詳ならずと雖も、

社説に據れば 崇神天皇の御宇ならんと云ひ、西野撮土には允恭天皇の御宇と称す、

續日本後紀に
仁明天皇 承和六年(八三九)六月廿三奉授に 上野國(かみつけのくに)无位(むい)赤城神(あかきのかみ)に 從五位下

日本三代實録に
十四 貞觀九年(八六七)六月廿日丁亥 に 上野國 從五位上 赤城(アカギノ)に 正五位下
十六 貞觀十一年(八六九)十二月廿五日戊申 上野國 正五位下 赤城神(アカギノカミ)正五位上
二十五 貞觀十六年(八七四)三月癸酉十四日 上野國 赤城神 並從四位下
卅七 元慶四年(八八〇)五月廿五日戊寅 上野國 從四位下 赤城 從四位上

延喜の制 式内の小社に列せられ給ひ、國帳に正一位赤城大明神と見え、当國二ノ宮たり、
舊址は東一里半 元宮澤にあり、

古来 著名の神社にして、朝野群載等にも 其の名見え、朱印五十石を有せり、一に沼神とも称す、山上に沼あるを以てなり、

明治の初 縣社兼郷社に列せらる、
社殿は本殿其の他 神楽殿、神號、中門、遠門、水屋等あり、
境内は壱萬二千九十二坪 赤城山にあり、老松古杉蒼然として神寂びたり、寶物として嵯峨天皇の御筆の勅額、及 後柏原天皇御筆御短冊を始め 其の他甚だ多し。

境内神社 ・・・〈93社が記されています 詳細は原文参照の事〉

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

『上野國志(Kozukekokushi)』に記される伝承

式内社 赤城神社 名神大について 所在は 三夜澤村〈現 三夜沢赤城神社(前橋市三夜沢町)
又 「山上の宮は 三夜澤と同社にして、世に云う奥の院」〈現 赤城神社〈大洞赤城神社〉(前橋市富士見町赤城山)〉とも記しています

二宮神社は 所在は二宮〈現 二宮赤城神社(前橋市二之宮町)頼朝建立で 祭神は 赤城神の同体記しています

【抜粋意訳】

〇神社 式内神社一座、

赤城神社 赤城山南麓三夜澤にあり、

續日本後紀
承和六年(八三九)六月廿三 奉授に 上野國(かみつけのくに)无位(むい)赤城神(あかきのかみ)に 從五位下

日本三代實録
十四 貞觀九年(八六七)六月廿日丁亥 に 上野國 從五位上 赤城(アカギノ)に 正五位下
十六 貞觀十一年(八六九)十二月廿五日戊申 上野國 正五位下 赤城神(アカギノカミ)正五位上
二十五 貞觀十六年(八七四)三月癸酉十四日 上野國 赤城神  並從四位下
卅七 元慶四年(八八〇)五月廿五日戊寅 上野國 從四位下 赤城 從四位上

山に沼あり、故に或いは ただ赤城神と称し、或いは沼の神と称す、別に山上大塔をなすに非ず、山上の宮は、三夜澤と同社にして、世に云う奥の院と云うものならん。

先代舊事本紀曰、赤城神社。金橋宮天皇(用明天皇)時、盤筒大神出現鎮座、

祭神異説あり、或云、大己貴大神と、今 吉田家に用此説、
又 諸社根源記に云、赤城大明神、上野國覚満大菩薩事、人皇第廿代允恭天皇御宇、比叡山 西坂本二人僧、兄云 近江堅者、覚圖、弟云 美濃法印覚満、今は覚満大菩薩號 赤城禅定給、
総じて赤城山三所明神事、大沼は赤城御前、今 赤城明神、御本地 千手観音也、小沼は御父 高野邊大将殿、今 小沼明神、御本地 虚空菩薩也、山頂 美濃法印覚満也、今 赤城山山頂 覚満大菩薩とて、御本地 地蔵菩薩也、此歌を誦めは、我必其所を影向万事所願満足あらん「ちはやふる神風たゑん山なればみのりの露は玉となりけり」已上 後人此説を誇張して、赤城縁起を妄作して、祭高野邊大将家成と云、根源記の説 甚無稽孟浪なり、允恭帝の時 仏法未渡、叡山未開、僧者あらんや、僅に具眼の者 其杜撰を知る、然れども、神徳を称し奉りて、覚満大菩薩と申す事は榛名の神徳を萬行大権現と云か如し、根源記なを然り、縁起の説不辨して知るべし、

圭田伍十石 神主 奈良原氏 祠官十六人、三夜澤の社 貳社あり、東の宮これ本宮なり、奈良原氏が祝る所なり、西の宮これ別殿なり、増田兵神主たり、祠官五人あり、按ずるに、これ昔 祝氏争ふ事ありて、分れて別に社を立て事るものなり、

寶品 龍角 大般若経 長刀

夫木集
上野やすたの赤城の韓社やまとにいかて跡を垂れけん 鎌倉右大臣

按にすた者せた也、音通、又按、韓社は赤城の社號歟、韓国の神を祭るに非じ、此歌の外所見なし、

赤城神社

 山上の社なり。 大沼の東崖にあり。 社を大堂と云。
別当は代田山法門院寿延寺、 前橋代田村(前代田村と云、群馬郡に帰す。前橋城の南なり。寿延寺今は柿沼村にあり)にあり(天台宗長楽寺の末寺なり)。

摂社 日神 月神 飛鳥五社(山神、稲荷、雷神、蚣神、水神) 大塔寮社 鴫島弁才天社 同蟹宮

本地堂(千手観音)
開山堂(これ長楽の法照禅師に師とし事る了儒なるべし)
沼の東に、大塔寮の山あり。 山下に社あり其山の後を駒が嶽と云。其後は大黒檜なり

沼尻薬師

 小沼虚空蔵 地蔵嶽地蔵堂 牛王堂 並に壽延寺の香火を掌る所なり

二宮神社

 二宮村にあり、源頼朝建立其後北條氏直が為に毀却せらる牧野右馬極再造
赤城神の同体なり祝家説に常立尊大国魂命神主六谷田(ろくやた)
本地堂(十一面観音)別当大胡玉蔵院(新義真言)
社地乾隅五輪塔あり蔵王権現を祀ると云

【原文参照】

『上野国志』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/763813/1/1著者 毛呂権蔵 (義郷) 著 出版者 環水堂 出版年月日 明43.9

『上野国志』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/763813/1/1著者 毛呂権蔵 (義郷) 著 出版者 環水堂 出版年月日 明43.9

三夜沢赤城神社(前橋市三夜沢町) (hai)」(90度のお辞儀)

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