足立神社(あだちじんじゃ)は 開化天皇の御代 創立 延喜式内 足立神社と口碑に伝称されています 高埇郷に鎮座したので 江戸期まで 高埇(たかはな)明神社と呼ばれていましたが 明治期になると 上木崎村の副戸長を努めた市川治右衛門は 当社を延喜式内社の足立神社であると主張し 社名変更を行ったとされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
足立神社(Adachi shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県さいたま市浦和区上木崎5-11-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》猿田彦命(さるたひこのみこと)
天鈿女命(あめのうずめのみこと)
天照皇大神(あまてらすすめおほかみ)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
別雷命(わけいかずちのみこと)
菅原道真公(すがはらのみちざねこう)
木花咲姫命(このはなのさくやひめのみこと)
應神天皇(おうじんてんのう)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
事代主尊(ことしろぬしのみこと)
清和天皇(せいわてんのう)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
足立神社
当社は 開化天皇御代 創立 延喜式内 足立神社と口碑に伝称されている
又 古来 高埇明神社とも云い 古く当地方を高埇郷と称したことに因るとも云われる
近世 上木崎・下木崎・北袋・瀬ヶ崎・針ヶ谷五村の鎮守の神として 崇拝される御祭神
猿田彦命 天鈿女命 天照皇大神 倉稲魂命 別雷命 菅原道真公
木花咲姫命 應神天皇 大山祇命 事代主尊 清和天皇例 祭
新 年 祭 二月二十日
夏 季 祭 七月六日
秋 季大 祭 十月六日
新穀感謝祭 十一月二十六日現地案内板より
【由 緒 (History)】
足立神社
当社の社名は、江戸期まで高埇明神社であった。この「高埇」というのは、中世、浦和市から大宮市にまたがる「高埇郷」であると考えられ、この郷の鎮守として祀られたのが当社であると思われる。
この時期、当社に関与した氏族は、当郷を開発した在郷地頭の高埇(高鼻)氏であろう。高塙氏の初見史料は、『吾妻鏡』文治五年(一一八九)七月十九日条の「高鼻和太郎」であり、ほかに浦和市本太鎮座の氷川神社に伝存する宮殿の宝徳三年(一四五一)九月二十四日の墨書銘「大檀那高埇左衛門盛影」「地頭たかはな殿」がある。
『風土記稿』上木崎の項には「高埇明神社 祭神猿田彦命、當村及び下木崎・北袋・瀬ヶ崎・針ヶ谷五村の鎮守なり、境内に観音堂あり」とある。これを見ると、祭祀圏は中世の高埇郷から縮小したものの、江戸期も当郷の有力社として存在していたことがうかがえる。
祀職は、大宮市高鼻鎮座の氷川神社社家『東角井家日記』文化七年(一八一〇)十月の記録によると、「木崎村高鼻村大明神禰宜村田近江殿」とある。村田近江は、吉田家配下の氷川神社社家触れ下であった。
明治期になると、上木崎村の副戸長を努めた市川治右衛門は、当社を延喜式内社の足立神社であると主張し、社名変更を行った。
『埼玉の神社』〈著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 〉より抜粋
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
社殿向かって右側 3社〈・八雲社・稲荷社・浅間社〉
社殿向かって左側 2社〈・神明社・風王社〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)足立郡 8座(大1座・小3座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 足立神社
[ふ り が な ](あたちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Atachi no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵国 足立郡 足立神社(あたちの かみのやしろ)の論社について
・〈植田谷本村 足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本)
植田谷本の楠(うえたやほんのくすのき)は 植田谷本村の足立神社は 植田谷本村 名主 勘太夫の屋舗の内あった足立神社の旧社地辺りだったとされます 明治39年(1906)政府の合祀政策により 飯田村の鎮守 氷川・八幡社に合祀されました
植田谷本の楠(さいたま市西区植田谷本)〈植田谷本村 足立神社 旧社地辺り〉
・〈植田谷本村 足立神社・水判土村 足立神社の合祀先〉足立神社(さいたま市西区飯田)
足立神社(あだちじんじゃ)は 元々は飯田村の鎮守 氷川・八幡合社でしたが 政府の合祀政策により 明治39年(1906)植水村内にあった30社を当社に合祀しました その中に式内社 足立神社の二つの論社〈・植田谷本村の足立神社・水判土村の足立神社〉が含まれており この合祀を機に氷川神社の社号を「足立神社」と改めたものです
足立神社(さいたま市西区飯田)
・加茂神社(さいたま市北区宮原町)
加茂神社(かもじんじゃ)は 江戸時代までは 加茂大明神と呼ばれていました 勧請の年代は不詳ですが その昔 京都の上賀茂神社を勧請したもの と伝えられます 一説に 延喜式内社 武蔵国 足立郡 足立神社(あたちの かみのやしろ)の論社ともされています
加茂神社(さいたま市北区宮原町)
・足立神社(さいたま市浦和区上木崎)
足立神社(あだちじんじゃ)は 開化天皇の御代 創立 延喜式内 足立神社と口碑に伝称されています 高埇郷に鎮座したので 江戸期まで 高埇(たかはな)明神社と呼ばれていましたが 明治期になると 上木崎村の副戸長を努めた市川治右衛門は 当社を延喜式内社の足立神社であると主張し 社名変更を行ったとされます
足立神社(さいたま市浦和区上木崎)
・久伊豆社(鴻巣市笠原)
久伊豆社(ひさいずのやしろ)は 延喜式内社 武蔵国 足立郡 足立神社(あたちの かみのやしろ)の論社とも云われ 鎮座地の゛笠原゛は 古墳時代後期 豪族〈笠原氏〉の本拠地で 『日本書紀』安閑天皇元年(534年頃)の条に「武蔵国造の乱」〈武蔵国造の笠原使主と同族との内乱〉として 大和朝廷も重要視する お家騒動として記されており これは当時 東国の蝦夷(えみし)への前線 武蔵國が朝廷の重要な拠点であったことを示すものとされます
久伊豆社(鴻巣市笠原)
・氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)〈・式社考・神名帳考証土代・神社覈録 等に足立神社 論社として掲載〉
氷川女体神社(ひかわにょたいじんじゃ)は 武蔵国有数の古社で 見沼に突き出た小舌状台地の上に鎮座しています 一説では 当社(女體社)と 大宮区高鼻町の大宮氷川神社(御祭神:須佐之男命・男体社)と 見沼区中川の中山神社(御祭神:大己貴命・王子社)の三社を合わせて 武蔵国一之宮と称されていたとも伝えられています
氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR京浜東北線 与野駅から東へ約1km 徒歩15分程度
社頭には 社号標があり 延喜式内 足立神社 と刻されて
鳥居の先には 長い参道があり 二の鳥居が見えています
足立神社(さいたま市浦和区上木崎)に参着
二の鳥居の前には 柵に擁護されている石灯篭 新しい狛犬が座します
一礼をして 鳥居をくぐり 境内へ
細い石畳みの参道が伸びる境内は 鳥居をくぐると鬱蒼とした木々があり その先には開けています
参道の右手には手水舎があり その先には やはり柵に擁護されている石灯篭があります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の両脇には 境内社が祀られています
社殿向かって左側 3社〈・八雲社・稲荷社・浅間社〉
社殿向かって左側 2社〈・神明社・風王社〉
各々の境内社には 見事な彫刻が施されています
又 案内立札があり 由来やご利益等が記されています
本社 拝殿の奥には 瓦屋根の施された透塀に囲まれて 本殿が鎮座しています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 足立神社について 所在は 鴻巣 久伊豆社〈現 久伊豆社(鴻巣市笠原)〉と記し
別説として 式社考に 三室郷 宮本村 宮本大明神〈現 氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)〉
或いは 殖田谷村〈現・〈足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本) 〉と記しています
【抜粋意訳】
足立(アタチ)神社
〇在 鴻巣曰 久伊豆社乎
古事記 大山津見神 之女 名 神阿多都比賣(カムアタツヒメ)
神代記 天杵瀬命 娶 吾田津姫 生児 火明命
惣風 --神社 神田六十束 四囲田 大日本根子彦太目天皇 御宇二年戊子 所祭 猿田彦命也 有神戸巫家等
式考 三室郷宮本村にあり 宮本大明神 サルタ彦 御朱印十五石 或いは云う 殖田谷村にあり
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
足立神社(さいたま市浦和区上木崎)は 江戸時代には 高埇明神社(たかはなみょうじんしゃ)と呼称されていて 宮司は吉田家の配下と記しています
【抜粋意訳】
巻之一四三 足立郡 巻之九 木崎領 上木崎(カミキサキ)村
高埇(タカハナ)明神社
祭神 猿田彦命 當村及び下木崎 北袋 瀬ヶ崎 針ヶ谷五村の鎮守なり
境内に観音堂あり これは村民持末社 稲荷社 神明社
神主 村田近江 吉田家配下なり
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 足立神社について 所在は 殖田本村〈現・〈足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本) 〉と記しています
式社考に 三室郷 宮本村 宮本大明神〈現 氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)〉と記している
(古代より氷川女体神社の祭祀者は 武笠氏一族〈武蔵國の祭祀権を司ると同時に 在地豪族として また武士団としての力も持っていた〉その祖先は由緒書きでは足立郡国造だった「佐伯朝臣」にさかのぼるとされ 故に足立神社か?)
【抜粋意訳】
足立神社
足立は郡名〈阿太知〉に同じ
○祭神 猿田彦大神、(風土記)
○殖田本村に在す、(地名記)
○惚國風土記七十七残欠云、武藏國 足立郡 足立神社、神田 六十束四囲田、大日本根子彦太日天皇 御字二年戊子、所祭 猿田彦命也、有神戸巫家等、
式社考に、三室郷 宮本村 宮本大明神と云り、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 足立神社の所在について 明治2年に合祀された飯田村 足立神社〈現 足立神社(さいたま市西区飯田)〉としていて 合祀前の旧鎮座地は 水判土村 慈眼寺の境内にあったと記しています
又 植田谷本村 足立神社〈現〈足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本)〉も式内社と云われるが 証拠がないので 信じられない と記しています
【抜粋意訳】
足立神社
祭神 猿田彦命
祭日 一月五月 並 十五日 九月十九日
社格 村社
所在 水判土村(北足立郡飯田村 足立神社に合併)
今按〈今考えるに〉
本社この村中の慈眼寺の境内にありしを 明治二年 今の地に移せりと云ひ
又 神社に天正年中の文書三通を蔵するもの證とすべし 故 今之に従ふ
一説に植田谷本村にも足立神社ありと云へど證とすべきものあらねば従がたし
【原文参照】
足立神社(さいたま市浦和区上木崎)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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