実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

阿保神社(神川町元阿保)

阿保神社(あぼじんじゃは 村老の伝に大古、阿保人上(にんじょう)武蔵介の建立せし所なり、其後阿保次郎實光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲實(いまきあおさかいなみ)明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」とあり 阿保はあおみ 今城青三社の通じ 式内論社となっています

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 1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

 【神社名(Shrine name

阿保神社(Abo shrine

 通称名(Common name)

六所神社(ろくしょじんじゃ)

【鎮座地 (Location) 

埼玉県児玉郡神川町元阿保1

  (Google Map)

 【御祭神 (God's name to pray)】

 《主》大己貴命(おなむちのみこと)
   素盞嗚尊(すさののみこと)
   伊弉冉尊(いざなみのみこと)
   瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
   大宮女大神(おみやのめ)
   布留大神(ふるのおかみ)

 〈今木青坂稲實荒御魂神社の論社 稲荷神社(字稲荷宿)を明治43年(1910)阿保神社に合祀〉
・稲荷神社《合》倉稲魂命
・稲荷神社《合》倉稲魂命
・八坂神社《合》素盞嗚尊
・産塚八幡 他

 【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

地域の繁栄と人びとの守護
家内安全 五穀豊穣 開運厄除

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

 62回伊勢神宮式年遷宮記念

阿保(あぼ)神社

 神川町大字元阿保 字上六所1

□由 緒
 ここ元阿保の地は、中世の丹党 (あぼ)氏の本貫地とされる。丹党(たんとう)の秩父恒房の次子實光は元阿保に住みとなえ、以後在所名を姓とした。安保氏は鎌倉期から室町期さらに戦国期までつながっていく。字上宿(かみじゅく)には、安保氏館跡と伝える地があり、範囲は掘に囲まれた三〇〇メートル四方の部分と考えられている。館跡のすぐ北西には当社が鎮座、南西側には安保泰規が室町初期に建立したと伝える大恩寺跡が隣接する。

 当社はその立地から丹党安保氏により鎌倉期以降に祀られたことが推測されるが、『武乾記』(根岸伊兵衛 安永元年1772)に載る由緒は更に古い。「六所明神は延喜式内(えんぎしきない)の社(やしろ)なり、村老の伝に大古、阿保人上(にんじょう)武蔵介の建立せし所なり、其後阿保次郎實光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲実(いまきあおさかいなみ)明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」と記載されている。

 丹党と丹生社の関わりは、字関口の池上神社の『明細帳』に「往古元阿保村と一村たりしとき、六所社、丹生社同村にありしを天正年(1577)3月分村の時 丹生社を本村の鎮守に分ち定め今の地に遷し祀る」とある。保氏在住のころは丹党の人々の結束として元阿保で祀られていた。言い伝えでは、六所社の奥であったと言う。

 当社は享保十二年(1727)、神衹管領から「正一位六所大明神」の神宣を受けた。
風土記稿に六所明神社と載っているが、明治四十年から字の神社を境内に遷し、明治四十三年に阿保神社と改称した。

 □御祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
素議嗚尊(すさのおのみこと)
伊弉冉(いさなみのみこと)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
大宮女大神(おおみやのめのおおかみ)
布留大神(ふるのおおかみ)

 □御神徳
地域の繁栄と人びとの守護
家内安全 五穀豊穣 開運厄除

 □祭礼日
•歳旦祭 (一月一日) •蚕影神社例祭 (四月下旬)

•初午祭 (二月上旬) •八坂祭•大祓 (七月下旬)
•二の午祭 (二月中旬)•例祭 (十月十九日)
•祈年祭 (三月十九日) •新嘗祭 (十二月十五日)
•稲荷神社例祭 (四月上旬)

◎近年祭りは桓例の日、または近い日曜日になっています

現地案内板より

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【由  (History)】

 阿保神社

  神流川右岸に位置する元阿保の地は、中世の阿保郷に比定され、丹党安保氏の本貫地とされる。丹党の秩父綱房の次子実光は元阿保に住して安保氏を称し、以後在所名を姓とする安保氏は鎌倉期から室町期に散見され、戦国期までつながっていく。地内の字上宿には、安保氏館跡と伝える地があり、現在その遺構は掘と推測される用水跡以外は確認できないが、範囲は掘に囲まれた300m四方の部分と考えられている。館跡のすぐ北西には当社が鎮座しており、更に館跡南西側には安保泰規が室町初期に建立したと伝える大恩寺跡が隣接する。

 当社はその立地から丹党安保氏により鎌倉期以降に祀られたことが推測されるが、『明細帳』に載る由緒は更に古く、平安期の創建と伝え、「当社ハ阿保朝臣人上ノ創立セシモノニシテ延喜式当国四十四座ノ一則今城青八坂稲実神社ナリト云伝フ。朝臣ハ伊賀国阿保村ノ人ナリ延暦3年(784)11月従五位下ニ叙セラル任地ニ来ルヤ地ヲ茲ニ相シ一城ヲ築キ今城ト称シ本国ノ地名ヲ移シテ阿保村ト云。社号ノ依テ興ル所以ナリ。阿保青国音相近シ故ニ式ニ青坂ト記セリ。ソノ後治承4年(1180)阿保二郎丹次実光崇敬シテ社殿ヲ造営ス(以下略)」とある。これに見える阿保朝臣人上は『続日本紀』延暦5年(786)8月8日条に武蔵国国司としてその名が見える。『風土記稿』に当社は「六所明神社」と見えるが、明治期に阿保神社と改称した。

『埼玉の神社』〈著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 〉より抜粋

 神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・拝殿・狛犬・石灯籠

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・社殿〈拝殿・幣殿・本殿覆屋〉

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・石祠〈本殿の奥〉式内社 今城青坂稲實池上神社の旧鎮座地

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〈天正5年(1577)3月 元阿保村と関口村が分立の際 関口村の鎮守として遷座した式内社 今城青坂稲實池上神社の論社゛丹生明神゛の旧鎮座地に石祠を祀奉り 境内に再建(慶應三年)〉

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社の旧鎮座地

 [旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀美郡 4座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 今城青坂稲実池上神社
[ふ り が な ](いまき あをさか いなみの いけかみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Imaki awosaka inamino ikekami no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

向かって祠右面に゛延喜式内 今城青坂稲實池上神社旧地之間及大破依再建゛と刻字

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向かって祠左面に゛慶應三年十一月十五日 賀美郡肥出村 髙橋周兵衛゛と刻字

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・石祠二宇&石神〈覆屋付き〉〈本殿覆屋の後ろ〉

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・阿夫利神社〈社殿向かって右の石祠〉

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社日社〈社殿向かって右奥〉

《主》天照大神(あまてらすおおかみ)
   倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
   埴山姫命(はにやまひめのみこと)
   大巳貴命(おおなむちのみこと)
   少彦名命(すくなひこなのみこと)

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 ・石祠1宇 天満宮

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・石祠10宇と天満宮〈向かって左の石祠一宇〉

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・御神木〈阿保神社の大ケヤキ

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・安保氏館跡〈阿保神社の南東100m程

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安保氏館跡

昭和三十八年十月十日 町指定史跡

  安保(あぼ)氏は、武蔵七党(むさししちとう)の一つ丹党(たんとう)に属する北武蔵の豪族で、鎌倉幕府の有力御家人(ごけにん)「安保次郎実光(あぼじろうさねみつ)」を祖(そ)とする。その所領については、「安保文書」に詳しく、賀美郡安保郷(大字元阿保周辺)本貫(ほんがんち)としていたようである。
 この館跡(やかたあと)は、安保氏総領家(そうりょうけ)の居住地として伝えられ、嘉永(かえい)元年(一八四八)には、「安保氏遺蹟之碑(あぼしいせきのひ)」が建てられている。
 館跡とされる範囲は、研究者により異なるが、十二天堀とそこから分流した深町堀、中堀、端堀に囲まれた部分と考えられる。また、館の南西部は大恩寺(だいおんじ)(阿保泰規(あぼやすのり)建立)跡と伝えている。館周辺にも関連した伝承が残り、馬場、馬出しとされる場所がある。
 尚、昭和六十三年と平成年の発掘調査では北面の外堀と内掘の一部、建物跡、井戸跡等が検出されている。
平成五年三月(平成二十八年七月改修)神川町教育委員会

現地案内板より

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安保氏遺跡の碑文の中 神川の民話『碑の神様

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碑の神様

碑の神様 元阿保

 元阿保の西部、旧国道の南側に、嘉永元年(1848)に建てられた、安保氏遺跡の碑があります。この碑文の中に、次のような一節があります。
「建部人上は、伊賀阿保村の人也、阿保と賜姓さる驍勇武枝を善くす。延暦三年十一月、従五位下に叙せられ、武蔵之介に任ぜらる。すなわち、任に赴いて一城を築き、以って東方を鎮む。よりて、其の地を名付けて阿保と言う。其の郷を忘れざるを示す也。今城青三祠を創め、真光寺を建つ……以下略。」

  これは、西暦784年に、阿保人上なる人が命によりこの地に赴任したが、本国を忘れぬよう、この地を阿保とした、という意味です。

  現在、三重県名賀郡青山町には、阿保と書いて「アオ」と読む地名が残っています。

  また、この阿保人上なる人が建てた神社のひとつが、関口にある今城青坂稲実池上神社ではないかという説もありますが。

  このほか、碑文には、阿保人上の妄の墓が村の北にあり明和(1765年代)の頃、田を開こうとして墓を崩したところ、その人がたちまち死んでしまったので、村人達が八幡宮を祀ったというようなこともしるされています。

 神川町役場「生涯学習課 文化財担当」HPより
http://www.town.kamikawa.saitama.jp/soshiki/shogaigakushu/bunka_rekishi/minwa/588.html

 『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承

 阿保朝臣人上は 『続日本紀』延暦5年(786)8月8日条に武蔵国国司としてその名が見えます

※゛阿保朝臣゛が写本では゛阿部朝臣゛と誤記

 【抜粋意訳】

 延暦五年(七八六)八月甲子丁巳朔八〉の条

 ○八月甲子
以従四位下巨勢朝臣苗麻呂為左中弁河内守如故。従四位上和気朝臣清麻呂為民部大輔。摂津大夫如故。従五位下中臣朝臣必登為参河介。従五位上阿保朝臣人上為武蔵守。従五位下紀朝臣楫人為介。従五位下文室真人大原為下総介。中宮大進従五位下物部多芸宿禰国足為兼常陸大掾。正五位下粟田朝臣鷹守為上野守。
使従五位下佐伯宿禰葛城於東海道。従五位下紀朝臣楫長於東山道。道別判官一人。主典一人。簡閲軍士。兼検戎具。為征蝦夷也。
勅曰。正倉被焼。未必由神。何者譜第之徒。害傍人而相焼。監主之司。避虚納以放火。自今以後。不問神災人火。宜令当時国郡司填備之。仍勿解見任絶譜第矣。

 【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』延暦16年(797)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

・産塚古墳〈明治末 阿保神社に合祀〉

産八幡と号す 相傳ふ 古へ阿保親王の妾 懐胎にて死せして葬りたる處なれば 昔は産塚と唱へしに 明和の頃 彼塚を掘崩して祟ありしより小社を造りて八幡に祀ると云

※人が怨念を抱いて死ぬと その魂は怨霊と化し 災害や疫病を引き起こし祟ると恐れられていました そしてそれらの怨霊を 「御霊」として祀りましたが ごく稀に八幡として祀る場合もあるようです 

 ・元阿保稲荷神社古墳(式内社 論社の旧鎮座地

〈今木青坂稲實荒御魂神社の論社 稲荷神社(字稲荷宿)を明治43年(1910)阿保神社に合祀〉

 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

 この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

 『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

 延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

 阿保神社(神川町元阿保)は 本殿と合祀の稲荷社が論社となっています

 ①本社

 [旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀美郡 4座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 今城青八坂稲實神社
[ふ り が な ](いまき あを やさか いなみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Imaki awo yasaka inami no kamino yashiro)

 〈今木青坂稲實荒御魂神社の論社 稲荷神社(字稲荷宿)を明治43年(1910)阿保神社に合祀〉

 [旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀美郡 4座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 今木青坂稲實荒御魂神社
[ふ り が な ](いまき あをさか いなみあらみたまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Imaki awosaka inamiaramitama no kamino yashiro)

 【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)について

 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)について その所在は4社ともに確証がなく 尚且つ明治期の合祀によって それぞれが入り乱れて論社となっています それぞれの論社を参照

長幡部神社(なかはたへの かみのやしろ)

・長幡部神社(上里町長浜)

一緒に読む
長幡部神社(児玉郡上里町長浜)〈延喜式内社〉

長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 創建年代は不詳 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源とされ 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えます 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の4座(並小)すべての論社です

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今城青八坂稲實神社(いまき あを やさか いなみの かみのやしろ)

・天神社(上里町五明)

一緒に読む
天神社(上里町五明)

天神社(てんじんしゃ)は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 今城青八坂稲實神社(いまき あをやさか いなみの かみのやしろ)の論社です 創建年代は不詳ですが 社名の起源について゛今城(いまき)゛とは 此の地域に進出した渡来系氏族 長幡部氏〈高度な機織り技術を持った今来漢人(いまきかんじん)〉が 当初の居住地゛大和国 今来郡゛から移住したもので ゛稲實(いなみ)゛は 稲霊を祀ったことによるとされます

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・熊野神社(神川町八日市)

一緒に読む
熊野神社(神川町八日市)

熊野神社(くまのじんじゃ)は 延喜式内社 今城青八坂稲實神社(いまき あをやさか いなみの かみのやしろ)の論社の一つです 口碑によれば 当社は村内 字 今城(いまき)から今の森下の地に遷座されたと伝えられ かつては 今城の社名を号していたことを窺わせます 神社に奉納される゛八日市の獅子舞゛は 神川町指定民俗文化財となっています

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・阿保神社(神川町元阿保)

一緒に読む
阿保神社(神川町元阿保)

阿保神社(あぼじんじゃ)は 村老の伝に「大古、阿保人上(にんじょう)武蔵介の建立せし所なり、其後阿保次郎實光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲實(いまきあおさかいなみ)明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」とあり 阿保は゛あお゛とも読み 今城青三社の゛青゛と通じ 式内論社となっています

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・七本木神社(上里町七本木)
〈七本木神社に合祀 榛名大神社 

一緒に読む
七本木神社(児玉郡上里町七本木)〈延喜式内社論社〉

七本木神社(しきほんぎじんじゃ)は 七本木村の鎮守 八幡神社(金井家〈新田義重の後裔〉邸内社)に 明治42年(1909)村社(7社)と境内社を合祀して 社名改称がなされ 合祀中の一社゛榛名大神社゛は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の三座゛今城青八坂稲實神社゛゛今木青坂稲實荒御魂神社゛゛今城青坂稲實池上神社゛の論社とされます

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・長幡部神社(上里町長浜)
〈長幡部神社の相殿&合祀 稲荷社(上里町長浜字久保)〉

一緒に読む
長幡部神社(児玉郡上里町長浜)〈延喜式内社〉

長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 創建年代は不詳 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源とされ 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えます 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の4座(並小)すべての論社です

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・皇大神社(上里町長浜神田)
〈長幡部神社に合祀された 稲荷社(上里町長浜字久保)の旧鎮座地〉

一緒に読む
皇大神社(上里町長浜神田)

皇大神社(こうだいじんじゃ)は 口碑によれば この地に゛稲荷社゛があったが 長幡部神社に合祀され 跡地に゛神明社゛が祀られたと云う その後 明治5年 長浜村の村社となり 社号を「皇大神社」と改めたが 明治41年 長幡部神社に合祀され 昭和22年 氏子の希望により旧地のここに遷されたものです かつて合祀された゛稲荷社゛は 式内社 武蔵國 賀美郡の三座〈・今城青八坂稲實神社・今木青坂稲實荒御魂神社・今城青坂稲實池上神社〉の論社でした

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今木青坂稲實荒御魂神社(いまき あをさか いなみあらみたまの かみのやしろ)

・熊野神社(上里町堤)

一緒に読む
熊野神社(上里町堤)

熊野神社(くまのじんじゃ)は 式内社 武蔵國 賀美郡 今城青坂稲實荒御魂神社であると伝わっていますが 証はなく 町内にある他の熊野神社が中世の武士団の信仰と関わりがあり付会ともされますが 本殿のすぐ後ろが 熊野神社古墳(東堤古墳群8号墳)となっていて この古墳を祀る故に熊野神社が勧進される以前に式内社があった可能性を示唆し 式内論社とされています

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・七本木神社(上里町七本木)
〈七本木神社に合祀 榛名大神社〉

一緒に読む
七本木神社(児玉郡上里町七本木)〈延喜式内社論社〉

七本木神社(しきほんぎじんじゃ)は 七本木村の鎮守 八幡神社(金井家〈新田義重の後裔〉邸内社)に 明治42年(1909)村社(7社)と境内社を合祀して 社名改称がなされ 合祀中の一社゛榛名大神社゛は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の三座゛今城青八坂稲實神社゛゛今木青坂稲實荒御魂神社゛゛今城青坂稲實池上神社゛の論社とされます

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・阿保神社(神川町元阿保)に合祀
〈今木青坂稲實荒御魂神社の論社 稲荷神社(
字稲荷宿)を明治43年(1910)阿保神社に合祀

一緒に読む
阿保神社(神川町元阿保)

阿保神社(あぼじんじゃ)は 村老の伝に「大古、阿保人上(にんじょう)武蔵介の建立せし所なり、其後阿保次郎實光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲實(いまきあおさかいなみ)明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」とあり 阿保は゛あお゛とも読み 今城青三社の゛青゛と通じ 式内論社となっています

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・長幡部神社(上里町長浜)
〈長幡部神社の相殿&合祀 稲荷社(上里町長浜字久保)〉

一緒に読む
長幡部神社(児玉郡上里町長浜)〈延喜式内社〉

長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 創建年代は不詳 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源とされ 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えます 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の4座(並小)すべての論社です

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・皇大神社(上里町長浜神田)
〈長幡部神社に合祀された 稲荷社(上里町長浜字久保)の旧鎮座地〉

一緒に読む
皇大神社(上里町長浜神田)

皇大神社(こうだいじんじゃ)は 口碑によれば この地に゛稲荷社゛があったが 長幡部神社に合祀され 跡地に゛神明社゛が祀られたと云う その後 明治5年 長浜村の村社となり 社号を「皇大神社」と改めたが 明治41年 長幡部神社に合祀され 昭和22年 氏子の希望により旧地のここに遷されたものです かつて合祀された゛稲荷社゛は 式内社 武蔵國 賀美郡の三座〈・今城青八坂稲實神社・今木青坂稲實荒御魂神社・今城青坂稲實池上神社〉の論社でした

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・稲荷神社(上里町八町河原)〈参考〉

一緒に読む
稲荷神社(上里町八町河原)

稲荷神社(いなりじんじゃ)は 中世後期の創建を伝え 宝徳年中(1449-1452)天文年中(1532-1555)天正年間(1573-1592)の勧請と諸説あります 延喜式内社ではないだろうか とも伝わっていますが これは式内社の゛稲実(いなみ)゛と゛稲荷(いなり)゛の音が通じているための誤りであろうとされています

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今城青坂稲實池上神社(いまき あをさか いなみの いけかみの かみのやしろ)

・今城青坂稲実池上神社(上里町忍保)

一緒に読む
今城青坂稲実池上神社(上里町忍保)

今城青坂稲実池上神社(いまき あおさか いなみいけがみ じんじゃ)は 社伝によれば 和銅四年(711)に勧請と伝わる 延喜式内社 今城青坂稲実池上神社(いまき あをさか いなみの いけかみの かみのやしろ)の論社です 社名の「いまき」は今城すなわち新来の意で 渡来系氏族が当地に高度な稲作技術を導入し゛稲魂゛を祀ったものとされ 江戸時代には゛稲荷社゛と呼ばれていました

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・今城青坂稲実池上神社(神川町関口)
〈天正5年(1577)3月 元阿保村と関口村が分立の際 六所社(現 阿保神社)の裏当たりに鎮座していた今城青坂稲實池上神社の論社゛丹生明神゛を関口村字池上に遷座し 関口村の鎮守としたもの〉

一緒に読む
今城青坂稲實池上神社(神川町関口)

今城青坂稲実池上神社(いまきあおさかいなみいけがみ じんじゃ)は 天正5年(1577)3月 元阿保村と関口村が分立の際 関口村の鎮守として 現在地(関口字池上)に遷座しました もとは阿保神社の裏に鎮座していたと伝わる式内社 今城青坂稲實池上神社(いまき あをさか いなみの いけかみの かみのやしろ)の論社゛丹生明神(にうみょうじん)゛でした

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・阿保神社(神川町元阿保)の境内
〈天正5年(1577)3月 元阿保村と関口村が分立の際 関口村の鎮守として遷座した
今城青坂稲實池上神社の論社゛丹生明神゛の旧鎮座地に石祠を祀奉り 境内に再建(慶應三年)〉

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阿保神社(神川町元阿保)

阿保神社(あぼじんじゃ)は 村老の伝に「大古、阿保人上(にんじょう)武蔵介の建立せし所なり、其後阿保次郎實光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲實(いまきあおさかいなみ)明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」とあり 阿保は゛あお゛とも読み 今城青三社の゛青゛と通じ 式内論社となっています

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・七本木神社(上里町七本木)
〈七本木神社に合祀 榛名大神社〉

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七本木神社(児玉郡上里町七本木)〈延喜式内社論社〉

七本木神社(しきほんぎじんじゃ)は 七本木村の鎮守 八幡神社(金井家〈新田義重の後裔〉邸内社)に 明治42年(1909)村社(7社)と境内社を合祀して 社名改称がなされ 合祀中の一社゛榛名大神社゛は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の三座゛今城青八坂稲實神社゛゛今木青坂稲實荒御魂神社゛゛今城青坂稲實池上神社゛の論社とされます

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・長幡部神社(上里町長浜)
〈長幡部神社の相殿&合祀 稲荷社(上里町長浜字久保)〉

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長幡部神社(児玉郡上里町長浜)〈延喜式内社〉

長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 創建年代は不詳 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源とされ 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えます 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の4座(並小)すべての論社です

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・皇大神社(上里町長浜神田)
〈長幡部神社に合祀された 稲荷社(上里町長浜字久保)の旧鎮座地〉

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皇大神社(上里町長浜神田)

皇大神社(こうだいじんじゃ)は 口碑によれば この地に゛稲荷社゛があったが 長幡部神社に合祀され 跡地に゛神明社゛が祀られたと云う その後 明治5年 長浜村の村社となり 社号を「皇大神社」と改めたが 明治41年 長幡部神社に合祀され 昭和22年 氏子の希望により旧地のここに遷されたものです かつて合祀された゛稲荷社゛は 式内社 武蔵國 賀美郡の三座〈・今城青八坂稲實神社・今木青坂稲實荒御魂神社・今城青坂稲實池上神社〉の論社でした

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 【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

 JR八高線 丹荘駅から県道22号を北上 児玉往還を左折 約1.5km 車3分徒歩20分程度

 神社の手前100m程に゛安保氏館跡゛

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道路沿いに 大ケヤキがあり 社号標が建ちます

阿保神社(神川町元阿保)に参着

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 社号標には゛神饌幣帛料供進 指定村社 阿保神社゛と刻字

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参道を進み 一礼をして 扁額には゛阿保神社゛と記される朱色の両部鳥居をくぐります 隣にも白い鳥居があります

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境内の内側から 大ケヤキを振り返ると鳥居は 紅白に二つあり 白い鳥居は何の鳥居なのでしょうか

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拝殿にすすみます

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拝殿内の扁額は 栄一翁謹書です゛阿保神社゛とあり 揮毫は゛正三位勲一等子爵 栄一 謹書゛と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿の覆屋 その中に本殿が鎮座します
風通し隙間があり 見事な彫刻の本殿を拝します
境内の右手は広々とした空間で 石祠が多数祀られています

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社頭方向を振り返ると 社殿の前に 神楽殿があり その先に大ケヤキと鳥居が見えます

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本殿覆屋の後ろに 石祠が祀られていて 更に奥に一宇の石祠があります

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この一宇の石祠が゛今城青坂稲實池上神社゛の旧鎮座地

〈天正5年(1577)3月 元阿保村と関口村が分立の際 関口村の鎮守として遷座した式内社 今城青坂稲實池上神社の論社゛丹生明神゛の旧鎮座地に石祠を祀奉り 境内に再建(慶應三年)〉

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

 式内社 長幡部神社の所在について 下郷長濱村〈現 長幡部神社(上里町長浜)

 式内社 今城青八坂稲實神社・式内社 今木青坂稻荒御魂神社・式内社 今城青坂稻池上神社について 三社を合祭て榛名大明神〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社〉と記しています
・式内社 今木青坂稻實荒御魂神社・式内社 今城青坂稻實池上神社について 青坂は゛青八坂゛が正しく 八の字が抜けている と記しています

 【抜粋意訳】

長幡部(ナガタヘ)神社

 古事記 日子坐王子神大根王者ーーー連之祖
式社考 下郷長濱村にあり

 今城青八坂稲實(イマギアヲヤサカイナミ)神社

大嘗會式 稜穂田稲実 卜部

 旧  事 奉献 天瑞立今木 又云 五十櫛 亦曰 今木刺饒於布都主劔
万葉 集 五十串立神酒座奉
式社 考 本長濱村今城云々の三社を合祭て榛名大明神と称す 太田氏式社細見録に見えたり

 今木青坂稻荒御魂(イマキアヲサカイナミアラミタマ)神社

 〇信友云 青下脱八字

 今城青坂稻池上(イマキアヲサカイナミイケガミ)神社

 〇信友云 青下脱八字

 【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承

 阿保神社(神川町元阿保)ついて 元安保村にあり゛六所明神社゛と記しています

阿保人上の妄の墓が村の北にあり 明和(1765年代)の頃 田を開こうとして墓を崩したところ その人がたちまち死んでしまったので 村人達が八幡宮を祀ったという伝承も記されます

 【抜粋意訳】

新編武蔵風土記稿 巻之二百四十四 加美郡之二 安保領 元安保村

 六所明神社

 村の鎮守とす 祭神 大己貴命

 末社 天神

 〇稲荷二宇
〇諏訪社 末社 金毘羅
〇熊野社 十二天社
〇牛頭天王社

〇八幡社 産八幡と号す 相傳ふ 古へ阿保親王の妾 懐胎にて死せして葬りたる處なれば 昔は産塚と唱へしに 明和の頃 彼塚を掘崩して祟ありしより小社を造りて八幡に祀ると云 按に阿保親王の妾と云は謬なり 親王は平城の皇子にして 東国下向せられしことは聞へず 若しくは前に記せる阿保王の中何れの人の妾なりしにかあらん
以上 村民持

 【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]265巻80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

 式内社 長幡部神社の所在について 長濱下郷村〈現 長幡部神社(上里町長浜)

 式内社 今城青八坂稲實神社の所在について 七本木村〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社

 式内社 今木青坂稻荒御魂神社の所在について 七本木村〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社 

 式内社 今城青坂稻池上神社の所在について 七本木村〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社

と記しています

【抜粋意訳】

長幡部神社

 長幡部は 奈賀波多倍と訓べし
○祭神 長幡部連祖歟、(地名紀、祭神比咩大神と云、)
〇長濱下郷村に在す、(地名記)今長幡五社宮と称す、証考

例祭  日、
〇古事記、(開化段)日子坐王之子大根王者、長幡部連之祖、

 類社
常陸國 久慈郡 長幡部神社

 今城青八坂稲實神社

 今城青八坂稲實は 伊麻岐阿袁夜佐加伊奈美と訓べし

祭神 稚産靈尊地名記
七本木村に在す、地名記、証考

 今木青坂稻荒御魂神社

 今木は 前に同し、青坂は 佐加と訓べし、疑ふらくは、前に同じく、青八坂なる八の字を脱せるか、
は前に同じ、荒卿魂は阿良美多麻と訓べし、

○祭神 天児屋命、此咩大神、地名記

七本木村に在す、同上

例祭  日、

 今城青坂稻池上神社

 今城青坂稲 前に同、池上は 伊介賀美と訓ベ

○祭神 伊吹戸主命、地名記

 〇七本木村に在す、同上
例祭  日、

 前件三社、
太田氏式社細見録には、本長瀬村に合祭して榛名大明神と称すと云り、
地名記も、村名はかはれども、同所鎮坐の由は同じ、さて祭神の説は、記のまゝに載すといへども疑はし、猶考ふべし、

 【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

 『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

 式内社 長幡部神社の所在について 下郷長濱村〈現 長幡部神社(上里町長浜)

 式内社 今城青八坂稲實神社は「八坂」となっていて
・式内社 今木青坂稻荒御魂神社・式内社 今城青坂稻池上神社について 「八」の文字が抜けている 本来は「八坂」であると記しています

 【抜粋意訳】

長幡部(ナガタベノ)神社

  下郷長濱村にあり、長幡部五社といふ、巡拝舊祠記、神名帳土代、
蓋 長幡部連の祖神 大根王を祀る、斟酌古事記、延喜式、

 今城青八坂稲實(イマキアヲヤサカイナミノ)神社

 今木青坂稻荒御魂(イマキアヲサカイナミノアラミタマノ)神社

今城青坂稻池上(イマキアヲサカイナミノイケガミノ)神社

〇按 已上二座、坂の上疑くは八字を脱せり

 【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

 式内社 長幡部神社について 長濱村〈現 長幡部神社(上里町長浜)

 式内社 今城青八坂稲實神社について 社名のみ記載

式内社 今木青坂稻荒御魂神社について 社名のみ記載

式内社 今城青坂稻池上神社について 忍保村〈現 今城青坂稲実池上神社(上里町忍保)

と記していますが 参考として論社を挙げています

實神は 八日市村の熊野権現〈現 熊野神社(神川町八日市)
實神は 七本木村〈現 七本木神社(上里町七本木)
荒御魂神社は 七本木村の榛名明神〈現 七本木神社(上里町七本木)
池上神社は  伊吹戸主命にて同所〈現 七本木神社(上里町七本木)

 この三社を本長濱村に合わせ祭りて榛名大明神と称す〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社
三座とも長幡部神社の相殿〈現 長幡部神社(上里町長浜)の相殿

関口村の丹生〈現 今城青坂稲実池上神社(神川町関口)〉 七本木村の榛名〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社〉 忍保村の稲荷〈現 今城青坂稲実池上神社(上里町忍保)

 【抜粋意訳】

長幡部神社

 祭神
今按
武藏式社道程命附に祭神 姫大神とあり
神社覈録に地名記を引るにも同じ
されど 長幡部は 古事記に 日子坐王之下大根王者 長幡部連之祖とあるに據らば神 大根王を祭れる歟
又 常陸久慈郡に長幡部神社あり 常陸風土記 古老曰 珠賣美萬命 自天降時為織御衣從而降之神名綺日安命 本自筑紫國 日向二神之峰至 三野國引津根之丘後 及 美麻貴天皇之世 長幡部造祖 多弖命 避 自三野遷于久慈造立機殿 初織之其所 織服自成衣装更無裁縫い謂之内幡とあるによる時は綺日安命 或は多弖命を祭れるか こは皇別の長幡部とは出自異にして神別の氏人 なるべし

 祭日
社格 村社
所在 長濱村(児玉郡長幡村大字長幡)

 今城青八坂稲實神社

 祭神
祭日
社格
所在

 今木青坂稻荒御魂神社

 祭神
祭日
社格
所在

 今城青坂稻池上神社

 祭神
祭日
社格 村社(郷社)
所在 忍保村(児玉郡神保原村大字忍保)

 
岩鼻縣神社考に 武蔵國四十座命附に實神八日市村の熊野権現 素戔嗚命 今本書を考るに實神社 祭神 稚産霊命  七本木村とあリ然るを八日市村と云るは誤りなるべし
荒御魂神社は 七本木村の榛名明神 天兒屋根命
池上神社は  伊吹戸主命にて同所にありとみえ
細見録に この三社を本長濱村に合わせ祭りて榛名大明神と称す
又 三座とも長幡部神社に相殿にますとも
又 関口村の丹生 七本木村の榛名 忍保村の稲荷とも云ひて
其所詳かならず
而 関口村なるは思ひ捨がたく 忍保村なるは池上神社ならんと云り
故 今姑く之に從へり 武蔵演露 に求凉雑記を引いて本門寺境内の七面社 是 往古の池上神社なるべしとあれと 忍保村なるは今も池上明神とも云へば七面社と云よりは勝りてきこゆ

 【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

阿保神社(神川町元阿保) (hai)」(90度のお辞儀)

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武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について

武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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