高御祖神社(たかみおやじんじゃ)は 社伝に 嵯峨天皇 弘仁2年(811)に建立とあります 紀州田邊の熊野権現を勧請したとされ 延寶の調(1676)〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉により 式内社 高御祖神社と改められました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
高御祖神社(Takamioya shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐市芦辺町諸吉仲触81-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》
高皇産霊大神(たかみむすひのおほかみ)
伊弉諾大神(いざなぎのおほかみ)
伊弉冉大神(いざなみのおほかみ)
《相 殿》
天日神命(天照皇大神)
天月神命(月讀大神)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
神社考ニ又當社ノ御神德ヲ記シテ日、
土俗ニ云、昔當社ノ御神御神詫アリテ若婦女タルモノ我前ニ安産ヲ祈ラバ必ズ加護スベシ、産兒ハ着衣ノ裾ニ包ミテ介抱セヨ、吾ハ女神ナレバ産穢ヲ忌マズ、マシテ懐胎セル婦女子ノ参拝ヲイカデカ咎メンヤ、必姙身ノ始ヨリ産月マデ参拝ヲ怠ラズンバ安産疑ヒナガルベシ、依テ産婦ノ参詣スル者古来絶エズ云々
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
社伝では 嵯峨天皇時代の弘仁2年(811年)に建立
紀州田邊の熊野権現を勧請したとされ 延寶の調(1676)〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉により 式内社 高御祖神社と改めらる
【由 緒 (History)】
高御祖(タカミオヤ)神社
一、御祭神
高皇産霊(タカミムスビ)大神(何事にも其の本と坐ます大神)
伊邪那岐(イザナギ)大神
伊邪那美(イザナミ)大神(夫婦和合。縁結。子孫繁栄の神。安産の神)御相殿
天日神命(天照皇大神)
天月神命(月讀大神)一、御由緒
當社は棚恵熊野三所大権現と奉称し社なり。延宝年中に高御祖神社と改めらる。(一千年以上の社なり)嵯峨天皇 弘仁二年 延喜式巻十神名帳に、壱岐國壱 岐郡 高御祖神社と所載あり。壱岐國 式内大社なり。一村一社で諸吉総氏神である。
最初は今の村甲の地熊本山に鎮座ありしを中葉今の社地に移し奉る。
寛永廿年十一月宝殿再建あり國主 鎮信朝臣(チンシンアソン)なり。
同寛文八年十一月拝殿再建 鎮信朝臣
天保八年八月拝殿再建 源熙朝臣なり。 再建毎度白銀五枚國主より 奉納し給う。旧例なり毎歳九月十四日宵大神楽十五日國司代参奉幣儀式ありて中原に神幸浮殿に浦相撲田楽流鏑馬等催し畢て還幸なし奉る。
大正十四年一月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
大祭日 諸吉郷中より亦芦辺浦より壱岐最大の御幟御神幸あり芦辺囃子奉納あり。一、例大祭日
旧九月 十四日宵大神神楽 十五日大祭神幸祭現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
〈本殿の西隣の上屋〉
・荒人祠・稲荷祠の両社が祀られている上屋
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 髙御祖神社
[ふ り が な ](たかみおやの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takamioya no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
壱岐島(いきのしま)に祀られる 式内社 髙御祖神社(たかみおやの かみのやしろ)
神社考に曰、顯宗天皇三年二月、天月神命ノ神託に依り壹岐縣主先祖押見宿禰の祭る所にして 月讀神社には高皇産靈尊の裔 天月神命を祀り 高御祖神社には天月神命の祖 高皇産靈尊を祀る云々
・高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触)
高御祖神社(たかみおやじんじゃ)は 社伝に 嵯峨天皇 弘仁2年(811)に建立とあります 紀州田邊の熊野権現を勧請したとされ 延寶の調(1676)〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉により 式内社 高御祖神社と改められました
高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触)
・箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります
箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
壱岐島(いきのしま)に祀られる 式内社 月讀神社(名神大)(つきよみの かみのやしろ)
神社考に曰、顯宗天皇三年二月、天月神命ノ神託に依り壹岐縣主先祖押見宿禰の祭る所にして 月讀神社には高皇産靈尊の裔 天月神命を祀り 高御祖神社には天月神命の祖 高皇産靈尊を祀る云々
・月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)
月讀神社(つきよみじんじゃ)は 延寶4年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉により 里人が鎮座地の「清月(きよつき)」を「ふかつき」〈深淵 ふかふち〉とも呼んでいたことに因り 式内社 月讀神社(名神大)(つきよみの かみのやしろ)と比定されましたが この比定は誤りとする説が有力視されます 延寶の調以前は「山の神」と称されていた云われます
月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)
・箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります
箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
・男嶽神社(壱岐市芦辺町箱崎本村触)
男嶽神社(おんだけじんじゃ)は 天比登都柱(あめのひとつばしら)・月讀命(つくよみのみこと)が 降臨された地との伝承があり 元の月讀宮とされます すなわち式内社 月讀神社(名神大)〈現 箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)〉の当初の鎮座地です 現在の境内には御祭神 猿田彦命にちなみ並ぶ石猿群が有名です
男嶽神社(壱岐市芦辺町箱崎本村触)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の内 高御魂と号した式内社は 合わせて五座〈厳密には 六座 大和の目原は二座〉
・大和の宇奈多奢(うなたり)・大和の目原(めはら)・山城の羽束師(はつかし)と対馬の豆酘(つつ)にあり それを宮中の高御産日神を合わせて五座〈厳密には 六座 大和の目原は二座〉となります
①「宮中神 御巫等祭神八座 並大 月次新嘗 中宮 東宮御巫亦同」
御祭神 (八座)
神産日神高御産日神玉積日神生産日神足産日神大宮賣神御食津神事代主神
②「大和國添上郡 宇奈太理坐高御魂神社 大月次新嘗」の論社は3つ
・宇奈多理坐高御魂神社(奈良市)
宇奈多理坐高御魂神社(うなたりにいますたかみむすびじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 奈良時代中期〈天平17年(745)〉法華寺(ほっけじ)が創建されるとその後 鎮守社になったと云われていて 江戸時代には楊梅神社とも云われていました 境内一帯は 第51代 平城天皇〈在位806~809年〉の楊梅宮址とか春日斎宮の斎院址とかの学説もあります
宇奈多理坐高御魂神社(奈良市法華寺町)
・井栗神社(春日大社 境内)
井栗神社(いぐりじんじゃ)・穴栗神社(あなぐりじんじゃ)は もとは奈良市横井町付近〈横井村〉に鎮座していた 井栗神社は 雨多利(ウタリ)と云う田畝にあり 式内社の宇奈太理坐高御魂(うなたりにますたかみむすひ)神社とされていました 保延元年(1135)八月三日 穴栗(穴吹)・井栗の二社を現在地の春日大社境内へ遷座したと伝わります
井栗神社・穴栗神社〈春日大社境内社〉(奈良市春日野町)
・穴栗神社(奈良市)
穴栗神社(あなぐりじんじゃ)は 元々は 横井村の北西に鎮座していたが 江戸時代初期の寛文年間〈1661~1673年〉に現在地〈古市村〉に遷座したと伝わります 二つの式内社「宇奈太理坐高御魂神社(うなたりにますたかみむすひの かみのやしろ)」「穴次神社(あなつきの かみのやしろ)」の論社とされています
穴栗神社(奈良市横井)
➂「大和国十市郡 目原坐高御魂神社二座並大月次新嘗」の論社は3つ
・天満神社(橿原市)
・耳成山口神社(橿原市)
・山之坊山口神社(橿原市)
④「山城国乙訓郡 羽束師坐高御産日神社大月次新嘗」の論社は1つ
・羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区)
羽束師坐高御産日神社(はづかしにます たかみむすひじんじゃ)は 社伝によれば 創建〈雄略天皇21年丁己(477)〉と伝わり 京都でも古社となります 高皇産霊神(たかみむすひのかみ)を祀る 延喜式内社 山城國 乙訓郡 羽束師坐高御産日神社(大月次新嘗)(はつかしにますたかみむすひの かみのやしろ)です
羽束師坐高御産日神社(京都市伏見区羽束師志水町)
➄「対馬島下県郡高御魂神社 名神大」の論社は1つ
・高御魂神社(対馬 豆酘)
高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)は『日本書記』顕宗天皇3年条に「対馬の日神の託宣(タクセン)により 高皇産霊神に磐余(イワレ)の田14町を献上し その祠官として対馬下縣直がつかえた」という記載があり 『延喜式』の名神大社として大変立派な由緒を持つ古社です 元々は 豆殿浦の東側の海岸に鎮座しましたが 昭和32年(1957)豆酘中学校の建設により 現在の多久頭魂神杜の境内に遷座しました
高御魂神社(対馬 豆酘)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
芦辺港から石田町へ向かう県道23号線沿い 約3km 車5分
県道23号線沿いに境内があり 鳥居が建ちます
高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触)に参着
社号標には 高御祖神社
一礼をして 鳥居をくぐり 境内へと進みます
拝殿にすすみます 向かって左手には 境内社の上屋
拝殿の手前には 頭の平らな狛犬が座しています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥は 一段高い檀に幣殿 本殿が祀られています
その檀に境内社も祀られます
社殿に一礼をして戻ります
境内の正面〈東南面〉には 水田が神田のように広がります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 高御祖神社の所在について 諸吉村(現 高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触))と記しています
【抜粋意訳】
高御祖(タカミオヤ)神社
和抄 田河ナリ
〇信友云 住吉神社の下に云う
畧志 諸吉村にあり
【原文参照】
国立公文書館蔵書『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承
高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触)は 元熊野権現と奉称し社なり 然るを延宝年中に 高御祖神社と改らる と記されています
【抜粋意訳】
第二巻 諸吉村 併 蘆邊 八幡 二浦 之部
高御祖神社 在 本村官尾村中の産神之
祭神 高皇産霊神 左 伊弉諾尊 右 伊弉冉尊
相殿 左 天日神命 右 天月神命正殿 辰向 桁二間二寸五分 梁二間二寸一寸 柿葺
廊下 壱間方 瓦葺
拝殿 桁四間 梁二間半 瓦葺
御饌殿 兼 御輿舎荒人祠 在御殿西
稲荷祠 在御殿西
両社上屋 桁九尺 梁七尺 瓦葺原文年中 所祭一村一社の所なり
石鳥居 高さ 丈三尺五寸五分 横丈五寸 寛文十三年九月建立
社地 風土記に所載 竪三十間 横五十間とあれども
馬場 竪六十間 横三間
御旅所 中原崎にあり 石鳥居を去ること三百八十五間余なり里老云
当社 元熊本 今の庄屋の辺りをいふ・・・・神物・・・・
当社は 元熊野権現と奉称し社なり 然るを延宝年中に 高御祖神社と改らる
〇延喜式巻十神名帳 壱岐国 壱岐郡 高御祖神社と所載あり
〇神社考云 或説云 高御祖神社は 月讀神社を祭ると然る時は同社に坐ともいえたり云々
〇古事記曰
天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、次高御產巢日神、次神產巢日神 云々 上件五柱神者、別天神
〇日本書紀 顯宗天皇御巻曰
三年春二月丁巳朔、阿閉臣事代、銜命、出使于任那。於是、月神、著人謂之曰「我祖高皇産靈、有預鎔造天地之功、宜以民地、奉我月神。若依請獻我、當福慶。」事代、由是、還京具奏。奉以歌荒樔田歌荒樔田者、在山背國葛野郡也、壹伎縣主先祖押見宿禰、侍祠。三月上巳、幸後苑、曲水宴。夏四月丙辰朔庚申、日神、著人謂阿閉臣事代曰「以磐余田、獻我祖高皇産靈。」事代、便奏。依神乞獻田十四町、對馬下縣直、侍祠・・・・・
・・・・・当社 鎮座のはじめ年歴不知 最初は今 此村甲の地に鎮座ありしと云 故 村甲の地を熊本といふ
中葉 今の社地に移し奉るとそ 寛永廿年甲申土月 宝殿再建の棟札あり
・・・
・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
高御祖神社
高御祖は 多加美淤夜と訓べし
〇祭神 高皇産霊尊 考証
〇諸吉村に在す 今 権現宮と称す類社 山代国 乙訓郡 束師坐高御産日神社の條見合うべし
怪異
扶桑略記、延喜十八年十月十五日.太宰府解、壹岐鳥言上、手長比賣明神社、住吉明神社如ニ太鼓 鳴動、御體美石出 宝殿 在ニ地上、高御祖神社内乱肇、炎光照耀、指レ東飛去、卜部等申云、彼島内疾兵革、寮云兵賊驚者
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
【抜粋意訳】
高御祖(タカミオヤノ)神社
今 諸吉村に在り 蓋 高皇産霊尊を祀る
顕宗天皇の御世 月神の神教に依て 高皇産霊尊を祭らしむ 本社 此国に在るは 蓋 此地なり醍醐天皇 延喜十八年十月乙卯 大宰府奏さく 高御祖名神の社内 鳴響き 火光照耀きて 東に飛び去る事あり 此は兵革の兆ありと卜部等卜申す由を奏しき 即ち此神なり
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 高御祖神社の所在について 諸吉村(現 高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触))と云われているが 紀州田邊の熊野権現を勧請したもので 疑わしいと記しています
【抜粋意訳】
高御祖神社
祭神 高皇産霊神 伊弉諾尊 伊弉冉尊
祭日 九月十五日
社格 村社所在 諸吉村(壱岐郡田河村大字諸吉)
今按〈今考えるに〉
神社考に諸吉邑の熊野権現は紀州田邊の熊野権現を勧請す 故に田部権現と称す 然れば伊弉冉尊にして 高皇産霊神に非ず
式社にはあるべからずとあるによる時は疑わしきに似たれど 承應社記にも明細帳 長崎縣式内社記にも諸吉村あれば之に従えり
【原文参照】
『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承
「棟札ノ古キハ寛永7年ノモノニシテ始メテ高御祖神社神主後藤越中ト記セリ。
一、延寳4年査定ノ時其45年前ナル寛永7年ノ棟札ニ據リ古来ノ社號熊野權現ヲ改メテ高御祖神社ト認メラル」とあり 延宝の式内社調査以前に 式内社として認められていたと記しています
【抜粋意訳】
田河村ノ部
高御祖神社 (旧号 棚恵権現 熊野権現 熊野三所大権現)
鎮座地 田河村諸吉本村触
祭 神 高皇産霊神、伊弉諾尊、伊弉冉尊
例祭日 四月十五日 神幸式 大神楽奏々
境内地 二百二十四坪
一、當社者嵯峨天皇 弘仁二年草創ニシテ延喜式内ノ社也。
一、文德天皇 仁壽元年正月正六位上ヲ奉ラル。
一、朱雀天皇 天慶3月正月一階。
一、白河天皇 永保元年3月一階。
一、高倉天皇 治承4年12月一階。
一、後鳥羽天皇 元暦2年3月一階ヲ夫々增シ奉ラル。
一、續風土記所載祭神。高皇産靈尊、左伊弉諸尊、右伊弉册尊、脇殿、左天日神命、右天月神命トアリ。神名記ニ日、改以前ハ權現ト云ヒ式内、世俗ニ熊野権現ト白ス。
一、神社帳ニ日、諸吉村高御祖神社小神廿四座ノ内有寳拝殿、定祭9月15日神主後藤内藏。
一、神社考ニ日、諸吉邑宗廟熊野權現云々紀州田邉ノ熊野權現ヲ勤請ス云々昔ノ石ノ鳥居石額ハ熊野山ト古文字ニ書タリ云々
一、棟札ノ古キハ寛永7年ノモノニシテ始メテ高御祖神社神主後藤越中ト記セリ。
一、延寳4年査定ノ時其45年前ナル寛永7年ノ棟札ニ據リ古来ノ社號熊野權現ヲ改メテ高御祖神社ト認メラル(神社考ノ説二據ル)
一、神社考ニ日、顯宗天皇3年2月、天月神命ノ神託二依リ壹岐縣主先祖押見宿禰ノ祭ル所ニシテ月讀神社ニハ高皇産靈尊ノ裔天月神命ヲ祀リ高御祖神社ニハ天月神命ノ祖高皇産靈尊ヲ祀ル云々。
一、壹岐圓ニ、高御祖神社諸吉村宮尾ニ在リ昔ハ熊野三所大權現ト稍ス、所祭天日神命、伊弉諸尊、高皇産靈尊、伊弉册尊、天月神命以上五神也、内殿御殿廊下拝殿御輿殿阿良殿有リ、社領、二石、祠官後藤權頭藤原清水、下社人ニ家有リ。
一、社記ニ日、押見宿禰率八十人等刈撥草木造平盤石築立宮柱云々仁壽元年叙正六位上天慶元年有大甞會勅使文明6年甲午肥前國五島疫癘流行之時、神主隈本宮内承丞藤原清造鎮疫癘神文明17年3月幸朝云者寄進鰐口其〔銘日〕大日本國西海一岐洲棚惠荘諸吉郷熊野三所大權現宮奉掛御寳前鰐口、右志趣者天下大平國土安隠別者當浦繁昌願主延命增長福貴萬盈故也、寔文明17年3月吉願主先達幸朝字吾、敬白ト記セリ郢右熊本宮内丞清造ノ功ヲ嶋主之ヲ嘉稱シテ苗字ヲ五嶋ト贈ル次デ後藤ト改ムト見ユ。
一、神社考ニ又當社ノ御神德ヲ記シテ日、土俗ニ云、昔當社ノ御神御神詫アリテ若婦女タルモノ我前ニ安産ヲ祈ラバ必ズ加護スベシ、産兒ハ着衣ノ裾ニ包ミテ介抱セヨ、吾ハ女神ナレバ産穢ヲ忌マズ、マシテ懐胎セル婦女子ノ参拝ヲイカデカ咎メンヤ、必姙身ノ始ヨリ産月マデ参拝ヲ怠ラズンバ安産疑ヒナガルベシ、依テ産婦ノ参詣スル者古来絶エズ云々
一、吉野文書ニ日、文禄、慶長ノ役壹洲屯在ノ兵士軍夫輩ガ亂暴ヲナス事甚シキヲ恐レ、神主後藤善兵衛清忠窃ニ御神體ヲ籠藏寺院内ニ遷シ奉リ神職、佳僧力ヲ戮セテ保護シ奉リシガ、事局終結ノ後ニモ此次ノ縁故ヲ以テ寺僧社参ノ上讀徑ナド行ヒ且社務ニモ容喙ノ度ヲ越エ神事マデ干渉スルニ到レリトゾ。叉日、貞享元元年造營棟札ニ籠藏寺佳僧恣ニ宮司ト録セシニ依リ祠官大ニ驚キ且憤慨シテ當局ニ訴へ其ノ救解ニ依リ神職ノ記載ニ改メラレシガ之ヨリ佳僧ノ怨ム所トナリ翌貞領2年正月大般若經ノ轉讀ヲ謝絶スル抔悪戲ヲ演ジ延テ神職封氏子間ノ紛擾ヲ釀シタル事アリ。
一、當社ノ社務ハ吉野朝ノ始ヨリ隈氏宇都宮氏ノ兩家ニテ奉仕セシガ宇都宮氏ハ中葉武家ニ轉ジ獨隈氏ノ子孫タル後藤氏ノミ専奉仕セリ。
一、舊藩時代ハ祭日ニ藩主ノ代参トシテ馬廻衆参向アリ叉御造營毎ニ白銀五枚ヲ献ゼラレタリ。
一、大正14年1月神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル。
【原文参照】
高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です
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