於神社(うえのじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 廣瀬郡 於神社(鍬)(うへの かみのやしろ)の論社とされますが 『大和志(江戸中期)』には「大塚村にあり、城宮と称す、已に廃す」とあり その頃には廃されていたと記されています 神社の沿革由緒は 元禄十年九月十日の失火のため日記 古文書等消失して不明であるが 口碑によると享保七年(1722)十月に再建と伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
於神社(Ueno shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
奈良県北葛城郡広陵町大塚667
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天兒屋根命(あめのこやねのみこと)
《配》天照皇大神(あまてらすすめおほかみ)
品陀和気命(ほむだわけのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
『奈良県史』第5巻 神社〈平成元年発行 奈良県史編集委員会編集〉 に記される伝承
【抜粋意訳】
於神社
(大塚字六道山六六七)
大塚集落の西方丘陵六道山に鎮座する社を、式内於神社にあてている。創祀年代等明らかでない。
今、天照皇大神・天児屋根命・品陀別命を祀る。
大和志・広瀬郡の項に、『於神社 元慶7年(883)12月従五位下を授く、大塚村にあり、城宮と称す、已に廃す』とあり、享保21年(享保19年-1734の誤記か)大和志成立の当時(江戸中期)、すでに廃されていたと記している。
「広瀬神社社記」には、河合町広瀬神社末社の水分神社を式内於神社とするとある。
讃岐国苅田郡には於神社、同鵜足郡には宇閇神社があり式内社であるが、大和国広瀬郡の当地に讃岐・於の二社があることは、両者の間に何らかの関連を推察することができるのではないか。吉井良隆氏は、讃岐人の移住に伴って同郡内の於神社も同時に勧請されたのでないかと疑っている(式内社調査報告)。
現在の三柱神を奉齊するに至った経緯は明かでない
【由 緒 (History)】
於神社(馬見町大字大塚字)
延喜式内社
御祭神
天津兒屋根命(春日明神)天照皇大神 (伊勢内宮)
品陀和気命 (応神天皇)由緒
この神社は、旧広瀬郡に延喜式内神社が五社ある内の一社であって、延喜式四時祭によると、毎年の祈年祭 (トシゴヒノマツリ)には鍬一口が奉られる神社である。
この神社の祭神については内務省編纂の特選神名牒によれば埴安姫命と記されている。
奈良県庁および馬見町役場備え付けの神社明細帳には以上三柱ノ神が登載されている。この神社の沿革由緒は元禄十年九月十日の失火のため日記、古文書等消失して不明であるが、口碑によると享保七年十月に再建され、延享三年九月には修繕が行われて、後天保八年に二度目の修繕があって,明治四十二年に神殿を改築、昭和三年十一月修繕改築等が行われて現在にいたっている。
当社は元祭神が一座であったが、何時の頃から三柱ノ神になつたかはっきりしない。なぜならば延喜式四時祭祈年祭神の内、旧広瀬郡には、大一座(広瀬川合坐和加宇加乃売神社)小四座(讃岐神社、櫛玉比女命神社、穂雷命神社、於神社)とある。思うに三柱ノ神を祭られた事は、室町時代の和歌三神・・・
・・・
・・・河合村鎮座 広瀬神社の摂社に水分神社があって、この神社は若子社といわれている神社がある。広瀬神社伝によると若宇加乃売命の分身水分神を祀るとあり、この神のまたの名は木俣命であるから、於神社は同神であるとの一説もある。
広瀬神社社記略抄、享保明細帳、広瀬神社略本縁等によれば この水分神社は於神社であると註されている。
一方 大神神社大神分身類社抄附尾によれば
於神社一座 大和国広瀬郡 木俣命
とあるなど、種々の異説があって明らかでない、この於神社は、陽成天皇元慶七年十二月に従五位下が奉られている。例祭日 十月十五日・十六日
社 殿 一間社春日造、檜皮葺、明治四十二年再建広陵郷史より 大塚区長 大塚敬神講
現地案内紙より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・境内の辰巳方向に お堂が一宇
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・厳島神社
・住吉神社
厳島(いつくしま)神社
大塚
祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
於神社の東側に接して、石段を登った高台に鎮座します。祭神は市杵島姫命です。天照大神と素戔嗚尊が「誓約(うけひ)」をした際に生まれた五男三女神の一神です。
三女神とは多岐津姫(たぎつひめ)・多紀理姫(たきりひめ)と市杵島姫のことであり、筑前国宗像大社(現福岡県宗像郡玄海町鎮座)に祀られ(奥津・中津・辺津宮)、海上交通の守護神として崇められています。後には宗像大社を移したとされる安芸国厳島神社(現広島県佐伯郡宮島町鎮座)に祀られ、その後各地に勧請されます。
明治二十四年(一八九一)の『神社明細帳』によれば、元禄三年(一六九〇)十月に安芸国厳島神社から勧請して建立し、元治元年(一八六四)十月に再建したとされます。住吉(すみよし)神社
祭神 上筒男命・中筒男命・底筒男命
於神社の鳥居右前方に住吉神社が鎮座します。
祭神の上筒男命・中筒男命・底筒男命は合わせて住吉神とよばれ、伊弉諾尊が黄泉の国から帰還して禊祓いをした際に綿津見三神とともに生まれた神であり、軍神・海上交通の守護神です。拝殿はなく、神殿は小型の流造で玉垣をめぐらせています。石灯籠一基は住吉大明神と刻まれ、播州惣連中・袋屋仲三郎方住吉講中が寛政六年(一七九四)二月晦日に建立したものです。
「ふるさとの文化財をたずねて」広陵町古文化会H24発行
現地案内紙より
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
大和國 廣瀬郡 於神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)広瀬郡 5座(大1座・小4座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 於神社(鍬)
[ふ り が な ](うへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Uhe no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳927 AD.』に所載される゛於神社(うへの かみのやしろ)゛について
①大和國廣瀬郡 ②越前國足羽郡 ③讃岐國苅田郡
の三か所に所載されています
各々の論社について
①大和國 廣瀬郡 於神社(鍬)(うへの かみのやしろ)の論社
・於神社(広陵町大塚)
於神社(うえのじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 廣瀬郡 於神社(鍬)(うへの かみのやしろ)の論社とされますが 『大和志(江戸中期)』には「大塚村にあり、城宮と称す、已に廃す」とあり その頃には廃されていたと記されています 神社の沿革由緒は 元禄十年九月十日の失火のため日記 古文書等消失して不明であるが 口碑によると享保七年(1722)十月に再建と伝わります
於神社(広陵町大塚)
・水分神社(河合町川合)
〈広瀬大社境外摂社 〉
水分神社(みまくりじんじゃ)〈広瀬大社境外摂社 〉は 廣瀬神社 社傳には 水分神(みまくりのかみ)〈若宇加乃賣命の分身とも女子とも〉を祀り 水の分配を司るとあり 又 ゛延喜式神名帳ニ廣瀬郡 於(ウヘノ)神社ハ 卽チ 當社ナリト云ヘリ゛と 式内社である旨が記されています
水分神社〈広瀬大社境外摂社 〉(河合町川合)
②越前國 足羽郡 於神社(うへの かみのやしろ)の論社
・足羽神社(福井市足羽)に合祀
③讃岐國 苅田郡 於神社(うへの かみのやしろ)の論社
・於神社(観音寺市粟井町)
・應神社(観音寺市大野原町)
・井上神社(観音寺市大野原町萩原)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄大阪線 築山駅から高田川沿いに北上 約1.4km 徒歩20分程度 車7分程度
当社の南南東約300mに 前方後円墳゛新山古墳(しんやまこふん)゛墳丘長126m〈4世紀前半の古墳時代前期 築造とされる〉があり 第25代武烈天皇の陵墓であるとも推定され 宮内庁の「大塚陵墓参考地」に治定されます 葛城国造(かずらきのくにのみやつこ)の墓との説もあります
社頭は北東方向を向いています
於神社(広陵町大塚)に参着
社号標には゛於神社゛
一礼をして 石鳥居をくぐります
境内は傾斜地の為 二段となっています
石段を上がります
於神社の例大祭では゛だんじり゛が登場すると聞いていますので
おそらく だんじり庫です
桜の花が満開でした
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿内には 式内 於神社の由緒 が掲げられていましたが
中に入れず 写真を撮りましたがピンボケ 読めませんでした
境内の辰巳方向には お堂が祀られています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 於神社について 所在は大塚村〈現 於神社(広陵町大塚)〉と記しています
【抜粋意訳】
於神社 鍬
於は宇倍と訓べし、
〇祭神詳ならず
○大塚村に在す、城宮と称す、今巳に廃す、(大和志)類社
越前國足羽郡、讃岐國刈田郡於神社(各一座)因幡國法美郡宇倍神社、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 於神社について 所在は大塚村〈現 於神社(広陵町大塚)〉と記しています
【抜粋意訳】
於(うへの)神社
今 大塚村にあり、城官といふ、
醍醐天皇 延喜の制、祈年祭に鍬一口を加奉りき、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 於神社について 所在は大塚村〈現 於神社(広陵町大塚)〉と記しています
【抜粋意訳】
於(うへの)神社
祭神 埴安姫命(はにやすひめのみこと)
祭日 六月九月並二十一日
社格 村社
所在 大塚村 字古垣内(北葛城郡馬見村大字大塚)
【原文参照】
於神社(広陵町大塚)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)