実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

天神社(府中市宮町)〈大國魂神社 境外末社〉

天神社あまつかみのやしろは 競馬場に面した小高い天神山に北向き〈本社 大國魂神社同様〉に鎮座する珍しい社 かつて競馬場が移転以前 東方まで延びていた天神山現在の倍以上の丘で〉 一説には国造の墳墓跡とも云われ〈別名 国造山丸山とも云う〉丸山とは 延喜式内社 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社おほまとのつのあまつかみのやしろ)の鎮座する山の意です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

天神社Amatsukami no yashiro〈大國魂神社 境外末社〉

通称名(Common name)

天神社(てんじんしゃ)

【鎮座地 (Location) 

東京都府中市宮町3-21-1

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》少名彦命(すくなひこのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・ 大國魂神社 境外末社

【創  (Beginning of history)】

天神社(てんじんじゃ)

祭神:少彦名命(すくなひこなのみこと)

例祭:2月25日

大國魂神社東方約500m、宮町3丁目京所の東端、競馬場に面して小高い所にあり、そこを天神山といい欅の巨木数本がある。また別名丸山ともいい、その西北隅、日吉神社の北側に鎮座し、一間半四方の覆屋をもつ小社が北面する。北面の末社としては本社と共に数少ない社である。天神山は競馬場が移転する以前、もっと東方に延び、現在の倍以上の岡であった。一説に国造の墳墓跡ともいわれている。新編武蔵風土記稿に「除地二段、小社、祭神少彦名命」とある。この神は大國主命と義兄弟となって国土経営に当たった神として、国府に多く祀られている。天神山の東方から南方にかけて天地(天神の転訛)または天神下などという広い範囲に亙る地名があり、もとは相当の信仰があった。ここで近藤勇の天然理心流4代目襲名の野試合が行われた。

(嘉慶二年の私案抄文中に「総社の摂社と並べ載たる中に天神の宮とある是れなり」と記されている。)府中市宮町3-21-1

大國魂神社 公式HP 境内の御案内より抜粋
https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/ten.php

【由  (History)】

『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)より

天神社

除地 二段 小社 本社より東一丁余にあり
祭神 少彦名命 例祭 毎年二月廿五日

天神坂 (てんじんざか)

 この坂の名は大国魂神社の末社「天神社」がまつられている天神山に由来します。この山は「国造山」とも呼ばれています。

 天神社は普通「てんじんしゃ」と呼ばれ,菅原道真を祭神とする天満宮と混同されていますが,本来は「あまつかみのやしろ」と呼ぶのが正しいようです。そのため,この神社の祭神は菅原道真ではなく,少彦名命(すくなひこなのみこと)です。

 天神社は,古くから人々の信仰をあつめ,道の名や地名として今に伝えられています。

昭和六十年三月 府中市
現地案内板より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・日吉神社府中市宮町

裏手〈天神山の南面〉に鎮座

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

天神社府中市宮町は〈大國魂神社 境外末社〉です

・大国魂神社(東京・府中市宮町)

一緒に読む
大國魂神社(府中市宮町)〈武藏總社六所宮〉

大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)は 景行天皇41年(111)大神の託宣によって創立と伝わり 武蔵国の守神として大國魂神が祀られます 平安時代には各諸神を合祀゛総社゛となり 平安時代末期頃 武蔵国の著名な六所の神社を合祀゛武藏總社六所宮゛と称されます 社伝には 延喜式内社 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつのあまつかみのやしろ)とも伝わります

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多磨郡 8座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 大麻止乃豆乃天神社
[ふ り が な ]おほまとのつのあまつかみのやしろ)
[Old Shrine name]Ohomatonotsuno Amatsu kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社おほまとのつのあまつかみのやしろ)の論社について

・大麻止乃豆乃天神社(稲城市大丸)

一緒に読む
大麻止乃豆乃天神社(稲城市大丸)〈延喜式内社の論社〉

大麻止乃豆乃天神社(おおまとのずのてんじんじゃ/おおまとのつのあまつかみのやしろ)は 『延喜式神名帳』に所載 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつの あまつかみのやしろ)の論社です 江戸時代には 丸宮明神(まるみやみょうじん)と称されたので 式内社の「麻止乃宮(まとのみや)」と訛り生じた説が有力です

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・武藏御嶽神社(青梅市御岳山)

一緒に読む
武藏御嶽神社(青梅市御岳山)〈延喜式内社 大麻止乃豆乃天神社の論社〉

武藏御嶽神社(むさしみたけじんじゃ)は 崇神天皇7年(AD.91)創建 又 日本武尊が白狼の先導によって難を逃れたとも伝わる古社 天平8年(736)行基が 蔵王権現の像を安置以来 東国の修験の聖地゛御嶽蔵王権現゛と称され 明治時代に式内社゛大麻止乃豆乃天神社゛と改称し゛御嶽神社゛武藏御嶽神社゛と社号変更 現在に至ります

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・北野天満社(八王子市北野町)

一緒に読む
天満社(八王子市北野町)

天満社(てんまんしゃ)は 創建の年代は不祥ですが 『武蔵演路(むさしえんろ)』〈安永9(1780)年起稿〉には 延喜式内社(927年)武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつのあまつかみのやしろ)であるとも記載されています 鎮座地 北野の地名は 横山党の一族(平安時代後期~鎌倉時代)が京都北野天満宮をこの地に勧請したことによるとされています

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・大国魂神社(東京・府中市宮町)

一緒に読む
大國魂神社(府中市宮町)〈武藏總社六所宮〉

大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)は 景行天皇41年(111)大神の託宣によって創立と伝わり 武蔵国の守神として大國魂神が祀られます 平安時代には各諸神を合祀゛総社゛となり 平安時代末期頃 武蔵国の著名な六所の神社を合祀゛武藏總社六所宮゛と称されます 社伝には 延喜式内社 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつのあまつかみのやしろ)とも伝わります

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・天神社(府中市宮町)
〈大國魂神社 境外末社〉

一緒に読む
天神社(府中市宮町)〈大國魂神社 境外末社〉

天神社(あまつかみのやしろ)は 競馬場に面した小高い゛天神山゛に北向き〈本社 大國魂神社と同様〉に鎮座する珍しい社 かつて競馬場が移転以前は 東方まで延びていた天神山〈現在の倍以上の丘で〉は 一説には国造の墳墓跡とも云われ〈別名 国造山・丸山とも云う〉丸山とは 延喜式内社 武蔵國 多磨郡 大麻止乃豆乃天神社(おほまとのつのあまつかみのやしろ)の鎮座する山の意です

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

京王線 府中競馬場正門前駅から西へ約400m 徒歩5分程度

京所公会堂の駐車スペースに面して 北向きに鎮座しています

天神社府中市宮町〈大國魂神社 境外末社〉に参着

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境内地は僅かですが 石垣により一段高い境内地となっていて
竹の垣が廻されて 御神木もあり その横に小石祠が一宇祀られています

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 北へ向かう参道を戻ります

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裏手〈天神山の南面〉には 日吉神社が祀られていますので 合わせてお参りをします

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天神山の南面からは゛天神坂゛と呼ばれています

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

武蔵演路(むさしえんろ)』〈編著者 大橋方長他 安永9(1780)年起稿〉に記される伝承

『式内社調査報告』に゛武蔵演路゛が引用されているが 式内社の比定は難しいとの所載あり

式内社 大麻止乃豆乃天神社について 北野村の天神宮〈現 天満社(八王子市北野町)〉と記し 今 菅原道真公を祀る゛天満宮゛としているのは 誤りで 天神である とも記しています

抜粋意訳】

武蔵演路 第五 〇多摩 

八王子宿 天神宮 

北野村 八王子 六十宿
別当 大義寺 

或いは云う
式内 大麻止乃豆乃天神社之 祭神未考 

今 菅神とするは誤りなり 

【原文参照】

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 大麻止乃豆乃天神社について 大和国 櫛真知命神社との関連を示唆し 所在地としては 府中六所大明神三殿の中央 大己貴命〈現 大国魂神社(東京・府中)〉もしくは 御嶽山〈現 武藏御嶽神社〉と記しています

抜粋意訳】

大麻止乃豆乃(オホマトノツノ)天神社

〇大和国 櫛真知命神社 元名 大麻呂井天和神

三実 作大麻等 野知神
惣風 大麻止乃智天神 圭田67束6毛田所祭 大己貴命也 安閑天皇乙卯年始尊官社 花時以花祭之 新稲之時以新稲祭之
〇当郡 布田村人 大八木範並云 当郡 府中六所大明神三殿の中央 大己貴命 景行天皇の世 祭り始むと云う 当社 春時 花を以って祭り 秋時 新稲を以って祭る式あり これこの大麻血乃知天神社ならんと云えり
式考 御岳山御岳大明神之 少彦名命

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承

大國魂神社府中市宮町〈武藏總社六所宮〉ついて 社伝には式内社 大麻止乃豆乃天神社である と記されています

抜粋意訳】

新編武蔵風土記稿 巻之九十二 多磨郡之四 府中領 六所社領

六所社

社地 三町八段二畝十歩 甲州街道の南にあり 石の大鳥居を建つ 往還に臨めり 総社六所観やといへる額を掲ぐ 筆者細井廣澤なり それより又 七八歩にして石鳥居あり 慶長年中宮の修造のよしを彫たる文字見えたり  断折したれど分明なり

当社祭る所 六神 素盞嗚命 大己貴尊 布留太神 共に一殿 是を中殿とす
瓊瓊杵尊 伊弉册尊 大宮女命共に一殿 是を西殿とす
外に 瀬織津比咩 天下春命 稲倉魂太神共に一殿 是を東殿とす
三殿合せて一社とす 是を本社と云 七間半に三間余
幣殿 三間余に三間
拝殿 八間余に三間半 其中に就て 左右を分ちて唱へをなす 左を般若席といひ 右を神楽席といふ 四方に瑞離を繽らせり

社傳に 景行帝の御宇 大己貴尊 小川郷小野里に降臨ありしを 里人 私に祠を立て祀れり
成務天皇の朝に及て 兄多毛比尊国造を賜て 此地に来り 国府を開かれし時 大己貴尊に素盞嗚尊等の五神を配して 始て宮社を建て祭れり これを六所宮と称せりと(一説 六神は 大己貴尊 少彦名尊 事代主命 健御名方尊 武甕槌命 経津主尊なり 又 近来 大己貴尊 去来册尊 眼狭雄尊 布留太神 大宮賈命 亜肖気命を以 六神に充るものあり いまだ孰れが是なるをしらず 今姑く 社傳に従ふ)

 社傳に 総命けて 大麻止乃豆天乃神といへりと云て 式内の神にあつるものあるは覚束なき説なり 今採用せず

東殿の三神は 樹扉に印記して 一乃宮小野 客来三所 瀬織津比咩 天下春命 稲倉魂神とあり 一乃宮は即ち 多西の一之宮村 祭神天下春命なりと云ふ 小野は 本宿村 小野神社 祭神 瀬織津比咩なり 今なを二社各村に其祠宇あり 何の故ありて 何れの世 神坐を当社に移して 合殿に祭しや其来由を詳にせず 社傳 粉々たりといへども 顛末造かならざれば 亦敢て据用しがたし

おもふに 当社は後世 鎌倉将軍家の崇敬盛なるに従て 神威も日月に愈栄へ 彼二社は 従て衰微に及びし故 総社の因を以て ここに併せ遷し 別に一殿を添て 合せて九神一社となせしものなるべし 故に樹扉に客来のよしを勅して 当社の舊主に別てるならん 客来の内 稲倉魂いづれより遷座なりしといふこと詳かならず 或は云 もと小野神社 配祀の神なりとも  自ら一社にして 遷座の舊祠を失ひしものと 未其定説をきかず

当社後に 本地佛を建て 釈迦 聖観音 毘沙門を中殿三神の本地とす 西殿は弥勒地蔵不動 東殿は薬師文殊十一面観音なり
抑当社の古へを訪ぬるに 康平五年 源将軍頼義 奥州安倍の貞任を追伐のため 東国へ下りし時 六月十九日 当社へ一宿して戦功を祈り 翌日 彼地をさして發向す 果して軍勝利ありし故 凱旋の後 社木干樹を植られしとぞ  鳥居内 両邊の大木是なりといへり

今に 年々六月廿日 天下太平の神事あるも  其因みとかや 治承の昔 源頼朝兵を起し 分倍河原に於て 関東の軍勢をめし集めしきさみも 当社に参詣ありて 神馬上詣矢を捧げしよし傳へたり 寿永元年八月十一日 御臺所産に臨み 祈祷のため 伊豆箱根を初め 近国の宮社に幣使を立られし時も 葛西三郎清重 当社に至れり 社傳に文治二年 宮祠造営を加へられしよしをいへり 按に 東鑑 文治二年六月廿九日の條に 二品神社佛寺興行の事 日来の恩顧 且は 京都に申され 東海道に於ては守護人等に仰せ 其国の総社并に 国分寺破壊  尼寺顛倒の事を注せらる 是全く修造を加へられしがためなりと見えたれば 是年 当社も修造ありしこと社傳のごとくなるべし

 建久三年五月八日 法皇四十九日の佛事を修せられ 百僧供あり 其僧衆に六所宮二口と見ゆ さればこの祠の社僧預りしことなるべし 其後 寛喜四年二月 拝殿破壊に因て修理の議あり 武藤左衛門尉資頼奉行すと云々 此等に据れば 其頃 将軍家の崇敬自らしるべし 上杉家 関東に威を振ひし頃に至ても 代々武州の守護にてありし故にや 伊豆の国 国清寺に当社を勧請せりといふ

ただし 永禄四年 上杉景虎 当社へ参詣せしことものに出たり 是は 崇敬の故にはあらずときこゆ 此時 小田原を責んとの計策相違して 鎌倉を引拂ひ 上州へ帰る時 なをもいきをひをしめさんとて この社参ありしなり このきさみ北條家人 中條出羽守等景虎が 小荷駄奉行 柿崎某を追くづし 荷物を悉く奪ひければ 景虎 府中に逗留して民家を追捕し 兵糧をととのへて上州へと帰なん 御開国に及んでも 当社を尊信せさせたまふ事浅からず 先規に任せて神領を附せらる

慶長十五年 宮者  楼門 鳥居 諸末社 以下倉庫等に至るまで 造営を加へらる この時 大久保石見守長安奉行せり かの石見守奉納の銅燈籠今に存せり 元和三年 東照宮の尊骸 日光山へ遷御の時 この地に一日御逗留あり 因て 社地に神靈を崇祀したてまつる 翌四年 御宮并に三重塔鼓楼等新宮を命ぜられ 且四月十七日の祭奠を許容せらる 

しかるに 正保三年十一月 本町より出火して 社殿残らず燼となる(この時の焼なりとて 朱髪の殿扉六枚 楼門の格子戸四枚 今猶 蔵して神庫に在)因て 寛文七年 再営の命ありて 久世大和守廣之其事を奉行す 今の宮社是なり 楼門以下三重塔鼓楼等はみな略せらる 其後 享保中 社殿大破の由訴へ上ければ 白銀百錠を下され 并に助費の勧化を許さる 是より宮の修理を停られ 後是を例とすといふ

例祭は 年々五月五日なり この日 申の刻ばかりより神輿を仮殿に遷し 奉幣の礼を行ふ この時 里民等ことごとく燭をあくることを禁ぜり それより野口の仮殿に遷し 献酬の礼ありて  もとの仮殿にかへりて 流鏑馬の式あり ここに至りて 始て燭をあけ 神輿本社に遷れり このほか 年中の祭儀はたびたび有れど略せり

東照宮神殿
九尺四方瑞垣を続らせり 本社の西に建築あり

宮姫
本社九尺に一丈二尺 拝殿二間に三間 二の鳥居内東の方にあり 祭神 須勢理比咩 稲田比咩 木花開耶比咩 例祭 七月十二日 鎮座の来由詳ならず 或云 国造の始て祀る所なりと

本地堂
三間四方 釈迦 地蔵 十一面観音三体を安す 釈迦を中尊とす 長二尺 地蔵長一尺六寸 観音長九寸 中尊の左右に列す

護摩堂
本社の東にあり 不動を安す 木の坐像長二尺ばかり

炊屋
五間に三間 護摩堂の傍にあり

神輿舎
三間に五間 本地堂の前に在

随身門
三間に四間 内に番所あり

水屋
随身門にあり

膳殿
二間に三間 本社の西南にあり

鐵佛一体
弥陀の坐像なり 長七尺余覆屋あり 此鐵佛 国分寺の舊物なるべしと云 其故は 国分寺より一丁程西南の谷よりほり出したるを 後この社地に移せりといふ 其谷を鐵谷といへるも 此佛 出し故なるか 或云 戀ヶ久保村にありしもの移せりと
銘あり左の如し

銘曰
大勧進念阿弥陀佛 明達大工藤原助近右志物 過去二親行厳新發意 乃至法界衆生平等利益 奉鋳一丈二尺佛身也
建長五年癸丑二月十八日丙寅彼岸初日

今はこの銘文 磨滅してみがたし

末社
八幡社
除地 三丁三畝十歩 小社 本社より四丁程東にあり
此邊呼て 八幡村と云ふ 鳥居あり 街道に臨めり 鳥居より社前に至るまで左右松樹を列す 例祭 年々八月十五日

天神社
除地 二段 小社 本社より東一丁余にあり
祭神 少彦名命 例祭 毎年二月廿五日

滝神社
本社より八丁程東にあり 小社 稲倉魂太神を祀れりといふ
例祭 年々四月初巳日 社前に爆水あり 六所 五月の祭儀神職以下この瀧に於て御祓をなすといふ

石塚社
除地 四段五畝十五歩 小社 本社の東六丁程にあり
祭神 磐筒男命 磐筒女命 例祭 年々正月十五日

制札
二ヵ所にあり 一は鳥居の傍にたつ この所に昔し 馬市たちしかば その法制書をせし高札今も存せるなり
ここに馬市のたちしは その由て来ることいと久きことなり 今社地の内に古馬場と唱ふる所あり これは往古 此邊に御牧ありし時 その馬をここに集めて擇ひし所なるよし云傳ふ それより今に土人の言に 細馬謳馬の語あり 細馬は 善馬の古言なりと かかりし故を以て 夫より遥かの後までも 馬市たちて 甲斐 信濃 陸奥等の野馬をここにて擇びしと云
御打入の後 関ヶ原 及び 大坂の役に用いられし軍馬も ここにて擇ばれしとぞ 因て 大坂凱旋の後 一の鳥居の左右に於て 三百歩の馬場に埓を寄附せられ ここにて馬市を立たり その後 享保年間に この市を江戸麻布に移されしより 此地には廃せり されど古への例によりて 今も年々 十月江戸馬喰町の名主高木源兵衛  石町の名主山本傳右衛門官の御馬をひき来りて この馬場にて調し それより本社 及び 御宮に参拝す これを吉例の御馬と称せりと云 この制札は 馬場御寄附の時 定られし掟書なり
其文左に記す


一此所ニおゐて馬町立之事、
五月三日駒くらへより初め、九月晦日限るへし、彌堅此おもむきを相守へし、
若違背之輩於有之者、曲事たるへき者也、依而下知如件、
月 日
奉行

一は 社地の竹木を伐採 及び 牛馬の通行等のことを禁ぜられし掟書にて 寛文七年と記せり これも鳥居のほとりにたてり

馬市
この所に馬市のたちしは由て来ること甚だ久し 往古は総て 諸国に御牧ありて 国造国司等に諭して撰で奉らしむ
延喜式左馬寮に武蔵国牧四ヵ所を載たり 石川 由比 小川 立野と云々
武蔵風土記に 小野神社を小川郷にかけり 此書信用しがたしといへども 古書なることは論なければ 此等姑く取るべきに似たりといへども
和名抄に載て 当郡に小野郷小川郷并に其余十箇の郷名あれば 此所は全く小野郷にして 小野神社は古へより本宿村にありしものならん 小川郷をそらくは他所なるべし  近村に小川村などあれど 是は新墾の地にして 中古まで武蔵野の廣原を開かれ 其開墾せし民の氏を小川と称するに因て 村名とせし地なれば 舊跡にかかわらず 和名抄に載たる小川郷の遺名ともすべきは 小宮領に小川村あり 其邊の二ノ宮社頭へ応永十九年大般若経勧進せし文に 多西郡小川郷と書たるものあれば 此等 古く小川郷にて 秋川 多摩川の流れも固循し  村内に藍染など云小流 二ノ宮社頭の御手洗と号する沼地など有て 水早の便もあれば 小川牧と称するは 彼土なること疑ふべくもあらず  拾芥抄に 八月廿日壹武蔵小野御馬 廿五日壹武蔵立野馬云々 然るに 延喜式に小川ありて 拾芥抄には小野と載たり 按に小野は 古へ懸号にて 殊に上古 を置れし地なれば 御牧の別当 牧監より府へ牧馬を送りしを 国司郡司等 細馬を撰びたてまつりしを 拾芥抄にのする小野御馬とあるは このことならん されば小川牧 或は小野牧とも混じていへるならん

神職猿渡近江盛章
姓は藤原 世々社務の長なり 其 舊家なることは辨をまたずしかるに 天正中 三河守盛政 北条氏 照に属して瀧山落城の時 戦死す 邸舎も兵火に罹りて神寶 家記等も皆鳥有せる 故に今に至りては その家系の詳なることを しることあたはず 或いは傳ふ 國造の後裔なりと 又 東鑑に猿渡藤三郎なといふもの見えたり もしくはこれか 今詳なる傳へなし かの戦死によりて 一旦・・・・・・・・・
・・・・・
・・・・・

禰宜一人織田出雲 社家四人
佐野数馬 鹿嶋田隼人 中善寺某 田村右善等なり

社人三十五人 社僧七人
惣行寺 明王院 円福寺 花光院 妙法寺 安楽院 泉蔵寺以上七院  天台宗にて 宿内安養寺末なれども 祀事においては 神主の配隷に属す その寺 及び 宅地は皆 神領の内 社邊に居れり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『江戸名所圖會(Edo meisho zue)』〈1834~1836〉に記される伝承

大國魂神社府中市宮町ついて 式内社 大麻止乃豆乃天神社であると記しています

【抜粋意訳】

江戸名所圖會 三之巻

武蔵國(むさしのくに)総社(そうしゃ)六所明神(ろくしょみょうしん)社

 府中驛路(ふちゅうのえきろ)の左側にあり 延喜式内(えんぎしきない)大麻止之豆之天神社(おおまとのつのてんしんのやしろ)是(これ)なり
後世(こうせい)に至(いた)りて 同じく式内(しきない)小野神社(おののじんじゃ)を合(あわ)せ祭(まつ)る 故(ゆえ)に今(いま)両社一社(りょうしゃいっしゃ)の称(しょう)あり
神主は 猿渡氏(さるわたりうじ)其餘(そのよ)社司社僧等 奉祀す

本社祭神 大己貴命
相  殿 素戔嗚尊 伊弉諾尊 瓊瓊杵尊 大宮女大神 布留太神
以上 六神これを 俗に六所明神(ろくしょみょうじん)と称せり

天下春命 瀬織津比賣命 稲倉魂大神
以上 三神これを客来(きゃくらい)といへり

九神合わせて共 六所宮(ろくしょのみや)と称す
此の三神のいちは 一宮に小野神社との条下に詳(つまびらか)なり

延喜式神名帳曰 武蔵國 多磨郡八座 大麻止之豆之天神社 云云
・・・・・
・・・・・

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

〈挿絵の注〉

府中六所宮(ふちゅうろくしょのみや)

小野宮(おののみや)と分倍(ふんばい)の境(さかい)府中(ふちゅう)より関土(せきど)へ行道(ゆくみち)は、往昔(むかし)奥州(おうしゅう)より鎌倉(かまくら)への通路(つうろ)にして、これを陣海道(じんかいどう)と称はえるは、元弘(げんこう)より永享(えいきょう)の間(あいだ)屡(しばしば)戦争(せんそう)の地(ち)にてありしかばかくは字(あざな)せるとなり

当社(とうしゃ)随神門(ずいしんもん)より外(そと)の列樹(れつじゅ)には、鵜(う)或(あるい)は鷺(さぎ)其余さまざまの水禽(みずとり)巣(す)を作(つく)り栖(すみか)す
日毎(ひごと)に品川(しながわ)等(とう)の海濱(かいひん)より其(その)巣(す)へ運び其雛(ひな)を育(いく)せり
然(しか)れども随神門(ずいしんもん)より内(うち)へは一羽(いちわ)といえども入(いる)事(こと)なきを当社(とうしゃ)七奇事(きじ)の一とす。又、寒中(かんちゅう)に至(いた)れば一羽も宿(やど)る事なく 翌(あく)る年(とし)の寒明(かんなけ)に至(いた)り又来(きた)ってねくらせり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

〈挿絵の注〉

其二

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

〈挿絵の注〉

其三

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

〈挿絵の注〉

六所宮田植(ろくしょのみやたうえ)

五月六日は御田植(みたうえ)の神事(しんじ)にて武蔵国(むさしのくに)の人民(じんみん)早苗(さなえ)を携(たずさ)え来(きた)りて 神田(しいでん)に是(これ)を挿(はさ)めり
郷童(きょうどう)白鷺(しらさぎ)の形(かた)の造(つく)り物(もの)ある葢鉾(かさほこ)をささげて せんはいこうしの傘(からかさ)と唄(うた)ひ詳は 又ありてものは これものく唄(うた)いて 今(いま)植並(うえなら)し田(た)の中に下(くだ)り立(たち)て 早苗(さなえ)を踏(ふみ)しだき こひぢ田〉にまみれて 踊舞(おどりまう) 故(ゆえ)に有(あり)しにも似(に)ず ひぢ田〉の中にしずみはえるが 一夜(いちや)のうちにいとめて度(たた)起立(おきたち)て葉末(はすえ)に露(つゆ)むすびなんとしてうるわしき事かぎりなし

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

六所宮御旅所・・・・・
御田・・・・

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『江戸名所図会』選者:斎藤長秋/画家:長谷川雪旦 20冊 刊本(後修)天保05年~刊本(後修),天保07年 旧蔵者 太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002802&ID=M2017051812072139297&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

式内社 大麻止乃豆乃天神社について 所在は 御嶽山〈現 武藏御嶽神社〉と記しています
祭神については 大和国 十市郡 天香具山坐 櫛真知命神社 元名 大麻止乃知神とあ同名なので 本来は 櫛真知命が正しいのではないだろうか とも記しています

【抜粋意訳】

大麻止乃豆乃天神社

大は 於保と訓べし麻止乃豆乃は字なり
〇祭神 日本武尊 大己貴命 少彦名命地名記
〇御嶽山に在す地名記
〇惣國風土記七十七残存云大麻止乃智天神 圭田六十七毛田 所祭 大己貴命也 安閑天皇乙卯年始尊官社 花時以花祭之 新稲之時以新稲祭之

連胤 按るに〈考えるに〉大和国 十市郡 天香具山坐 櫛真知命神社 元名 大麻止乃知神とあ同名なれば 櫛真知命を祀れるにはあらざるか 尚考ふべし

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 大麻止乃豆乃天神社について 所在は 大丸村に在り丸宮大明神〈現 大麻止乃豆乃天神社(稲城市大丸)〉で 祭神は天櫛眞知命 と記しています

【抜粋意訳】

大麻止乃豆乃天神社(オホマトノツノアマツカミノヤシロ)

今、大丸村に在り、丸宮大明神し云 蓋是也、

蓋 天櫛眞知命を祀る
凡 其祭 八月十五日之を行ふ

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

式内社 大麻止乃豆乃天神社について 所在は 御嶽山〈現 武藏御嶽神社〉という説があるが 疑わしい 大丸村〈現 大麻止乃豆乃天神社(稲城市大丸)が正しいとして 大丸村の村名は もと大麻止を大円など書いてオホマルと訛り 終いに大丸とも書くこととなったと記しています

【抜粋意訳】

大麻止乃豆乃天神社

祭神 櫛真知命
祭日 十五
社格 郷社
所在 大丸村 字大山(南多摩郡稲城村大字大丸)
今按〈今考えるに〉
御嶽山御嶽神社を大麻止乃豆乃天神社と云えれど明証なければ信じがたし

擁書漫筆に 大丸村の丸宮大明神は 本社にその名かよいて聞ゆと云に就て 黒河春村が この説よろしく聞ゆ
大丸村は 玉川の岸にあり 大麻止乃豆は大眞門の津にて 玉川の渡津に由あるが
大和国 櫛真知命神社 元名 大麻呂井天和神とあるを 古本には大麻等乃知神社とあるも同義にて 埴安池邉にます神かとおほし
とあるを合せ考ふるに
村名の大丸は もと大麻止を大など書よりオホマルと訛り 終に大丸とも書くこととなりし なるべく社地の字を大山と云は 古名の遺れるものと思しく かたがたありて聞ゆれば之に従う

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

天神社府中市宮町〈大國魂神社 境外末社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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