不動寺(ふどうじ)は 第27代安閑天皇の朝〈531~536年〉郡家郷(ぐうけきょう)富田鹿(とみたろく)が 富田村字塚越(現在の大聖山真言院不動寺境内)に祠を建て゛小被神゛を祀った〈式内社 小被神社の旧鎮座地〉とされ 平安時代末期には この地を領有した 武蔵七党のひとつ猪俣党一族の武将 不動寺太郎の居館跡であったとも 男衾氏・横瀬氏の館跡とも云われています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
真言宗智山派 不動寺(Fudoji)〈小被神社 旧鎮座地〉
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県大里郡寄居町大字富田字前塚越2027番1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
御本尊 不動明王像
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の旧鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
小被神社 由緒
安閑天皇の代(531~535年)に、富田鹿が富田村字塚越(現在の大聖山真言院不動寺境内)に祠を建て、小被神を祀ったと伝えられる。
寛文9年(1669年)には、富田村民と、天正8年(1580年)の荒川の大洪水で移ってきた赤浜村民の間で発生した領境論争により、現在の鎮座地に移転した。
明治時代に入ると、神仏分離令により別当寺「不動寺」の僧が還俗し、同社の神職となった。
By Wikipedia
不動寺は 平安時代末期にこの地を領有した 武蔵七党のひとつ猪俣党一族の武将 不動寺太郎の居館跡とも〈館を構えた一族は 不動寺氏とも 同族の男衾氏・横瀬氏・などとも〉云われている
【由 緒 (History)】
町指定文化財
板碑
指定 昭和三十五年八月二十三日
所在 寄居町大字富田(不動寺)板石塔婆は、主として追善供養のため、鎌倉時代中ごろに出現し、江戸時代初期まで造立されたものであり、この青石塔婆は当町最古のものである。
板碑は緑泥片岩製で、規模は台上高一五六センチメートル、幅八五センチメートル、厚さ七センチメートルである。主尊(しゅそん)は阿弥陀一尊種子(あみだいっそんしゅじ)を刻み、その主尊の下には、線刻された蓮座、その下中央に挿花を持つ花瓶一個が美しく彫られている。
花瓶の右側には康元二年(一二五七)という紀年銘があり、左側には願主の名前と考えられる窪みがあるが、摩滅が激しくて読むことができない。また、この板碑の頂部上面は、前方に傾斜させて成型されており、町内でも四例しか見られない特異な技法である。
平成十一年三月 寄居町教育委員会現地掲示板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本堂
・境内 小祠二宇
〈一宇は稲荷社(小被神社に合祀された 塚越の稲荷社か ?)・一宇は不明(もし小被神なら良いのだが ?)〉
・山門〈鐘楼門・仁王門〉
二階の円形窓に鐘楼〈天明2年(1782)の鋳造〉を配し 一階の左右に仁王像が構える建築様式
・山門〈鐘楼門〉一階の左右に ゛仁王像゛
・山門〈鐘楼門〉前面に ゛六地蔵゛
゛六地蔵゛〈金剛願地蔵、金剛寶地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
現在の小被神社
・小被神社(寄居町富田)
小被神社(おぶすまじんじゃ)は 第27代安閑天皇の朝〈531~536年〉郡家郷(ぐうけきょう)富田鹿(とみたろく)が 郡内鎮護のため創祀と伝承されます 当初の鎮座地は 現在の不動寺(寄居町富田)の境内地辺りでしたが 天正年間(1573~1591年)この地に遷座しました 延喜式内社 武蔵國 男衾郡 小被神社(をふすまの かみのやしろ)とされます
小被神社(寄居町富田)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)男衾郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 小被神社
[ふ り が な ](をふすまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Wofusuma no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵國 男衾郡 小被神社(をふすまの かみのやしろ)の論社について
・小被神社(寄居町富田)
小被神社(おぶすまじんじゃ)は 第27代安閑天皇の朝〈531~536年〉郡家郷(ぐうけきょう)富田鹿(とみたろく)が 郡内鎮護のため創祀と伝承されます 当初の鎮座地は 現在の不動寺(寄居町富田)の境内地辺りでしたが 天正年間(1573~1591年)この地に遷座しました 延喜式内社 武蔵國 男衾郡 小被神社(をふすまの かみのやしろ)とされます
小被神社(寄居町富田)
・不動寺(寄居町富田)の境内
〈小被神社の旧鎮座地〉
不動寺(ふどうじ)は 第27代安閑天皇の朝〈531~536年〉郡家郷(ぐうけきょう)富田鹿(とみたろく)が 富田村字塚越(現在の大聖山真言院不動寺境内)に祠を建て゛小被神゛を祀った〈式内社 小被神社の旧鎮座地〉とされ 平安時代末期には この地を領有した 武蔵七党のひとつ猪俣党一族の武将 不動寺太郎の居館跡であったとも 男衾氏・横瀬氏の館跡とも云われています
不動寺(寄居町富田)〈小被神社 旧鎮座地〉
小被神社 遷座の理由
天正年間(1573~1591)荒川の大洪水によって 赤浜村が流失して 赤浜村民が川沿いの低地から 標高の高いこの辺りの北側に耕作地を与えられて移り住み始めました すると 土地の領有権争いが起こったとのこと 寛文9年(1669)赤浜村との村境を明らかにさせる為 小被神社を旧鎮座地〈不動寺(寄居町富田)〉から遷座させて ここに鎮座したという事で 境内の入口は富田 社殿は赤浜側に建っています
一方 赤濱の゛出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)゛も 荒川沿いの赤濱村から この台地に遷座しているので 式内社の論社が 非常に近い位置に鎮座しています
最初の参拝時には 別々の式内社がこんな近くにあるのだろうかと疑問を持ちましたが どちらも 別の場所から遷座したものと分かり 納得したことを思い出しました
赤濱の゛出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)゛については
・出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)
出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)は 天喜年中(1053~58)源頼義が 奥州征伐の途 当社に白旗を献じて戦勝を祈願し「白旗八幡社」と称し 荒川沿いの赤濱村に鎮座しましたが 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 住民と共に現在地に遷座します 江戸時代までは「八幡さま」と呼称されますが 明治になって『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社として 現在の社号に変更しました
出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)
・八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)井椋神社に合祀された白旗八幡社の旧鎮座地
八幡塚旧跡は 井椋神社に合祀された 字栗坪にあった祠「白旗八幡社」の旧鎮座地の跡になります 従って『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社の跡地ですが 延喜式の時代(927年)には 当地に鎮座していたことになります
八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
東武東上線 男衾駅から南下 約1km 徒歩15分程度
不動寺(寄居町富田)〈小被神社 旧鎮座地〉に参着
一礼をして 山門〈鐘楼門〉をくぐります 一階に ゛仁王像゛ 二階の丸窓には鐘楼〈天明2年(1782)の鋳造〉
山門〈鐘楼門〉をくぐり抜けて参道を
本堂にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
両手を合わせ祈ります
境内の西側に ニ宇の祠が祀られています 一宇は稲荷社
お参りをします
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承
小被神社(寄居町富田)について 式内社 小被神社であると記しています
所管は 旧鎮座地であった「不動寺の持」となっています
現在 小被神社の境内社として祀られている 各字の鎮守も記されています
〈式内社 小被神社の旧鎮座地とされる〉不動寺については 特に式内社との関連は述べていませんが゛當住まで二十六世に及゛と記し 古寺であることを記しています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之二百二十三 男衾郡 巻之二 鉢形領之一 富田村
小被神社
延喜式神名帳に載る 武蔵國 男衾郡 小被神社是なりと云
祭神 瓊瓊杵尊にて 郡内の惣鎮守なり されど古文書棟札等の證とすべきものなし 社もさせる大社にあらで 免田纔に壹段五畝なり
不動寺の持〇稲荷社 塚越の鎮守なり 村持
〇内 宮 祭神等詳ならず 字小菅の鎮守なり 村持
〇大神宮
〇天神社
〇浅間社 以上三社 不動寺持東全院・・・・
〇不動寺
新義眞言宗 京都知積院の末 大聖山明王坊眞言院と號す 本尊不動は大山不動と同木同作と云傳ふ 開山元成法印遷化の年代詳ならず 當住まで二十六世に及と云
鐘樓門 天明二年鑄造の鐘をかく
清龍権現社
稲荷社
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 小被神社について 所在は富田邑〈現 小被神社(寄居町富田)〉と記しています
【抜粋意訳】
小被神社
小被は郡名に同じ
○祭神 瓊々杵尊、地名記
○富田邑に在す、同上
例祭 月 日、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 小被神社について 社名 小被(ヲブスマノ)神社とだけ 記されています
【抜粋意訳】
小被(ヲブスマノ)神社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 小被神社について 所在は富田村〈現 小被神社(寄居町富田)〉と記しています
祭神については 瓊瓊杵尊 木花咲耶姫命 彦火火出見命とあるが 何故この三柱の神が祀られているのか 理由はわからない とも記しています
【抜粋意訳】
小被神社
祭神
今按〈今考えるに〉明細帳 祭神 瓊瓊杵尊 相殿 木花咲耶姫命 彦火火出見命とあるは何の據ありて云るか考べき由なし
祭神 三月十五日
社格 村社所在 富田村(大里郡男衾村大字富田)
【原文参照】
不動寺(寄居町富田)〈小被神社 旧鎮座地〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る
武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について