湯田神社(ゆたじんじゃ)は 雄略天皇朝の創立 造宮使造替六社中の一で格式も高かったが 中世に廃絶し 社地は明らかになりませんでした 産土社の境内社 湯田社に再興したもので 祭神についても大歳御祖命(おほとしみをやのみこと)御前神(みまへのかみ)とされますが 鳴宸電(なるいかつち)を祀る説があり 式内社・湯田神社 ・雷電神社の二つの論社となっています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
湯田神社(Yuta shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県伊勢市小俣町湯田字孤山983
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大歳御祖命(おほとしみをやのみこと)
御前神(みまへのかみ)
※祭神については 鳴宸電(なるいかつち)を祀るとする説があり
『皇大神宮儀式帳』には 鳴宸電(なるいかつち) 又 太歳御祖命
『神名秘書』には 鳴震雷(なるいかつち) 又 大歳御祖命
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・〈皇大神宮(内宮)摂社〉
【創 建 (Beginning of history)】
『神宮要綱』に記される内容
雄略天皇朝の創立 造宮使造替六社中の一であったが 中世に廃絶し 社地は明らかになっていない 産土社の社内に再興したものである
【抜粋意訳】
湯田神社
鎭座地 三重縣度會郡有田村大字湯田
殿舎
正 殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、板扉付・・・壹間
玉 垣 連子板打・・・壹重
鳥 居 神明造・・・壹其
右神宮司庁造替湯田(ユタ)神社は延喜大神宮式及び神名式に載す。儀式帳所謂 造宮使造替六社中の一にして、雄略天皇朝の創立にかゝり、大歳御祖(オホトシミオヤ)命を奉祀す。中世頽廃して社地明らかならす。寬文三年 本村 産土社内に之を再興す。然れども終に御前神に及ばす。本社に御同座のまま今日に至れり。産土神は明治四十三年有田神社に合祀せられたり。
【原文参照】
【由 緒 (History)】
『神宮摂末社巡拝』下 に記される内容
【抜粋意訳】
湯田神社
本社は皇大神宮の攝社で、御社名は延曆儀式帳及び延喜大神宮式には湯田社(ゆたのやしろ)と見えてゐる。湯田神社といふ名は延喜神名式に載せる所である。
御鎭座地は度會郡有田村大字湯田で、昔は全部此の邊りは湯田郷(ゆたのさと)と言ってをった。湯田(ゆた)といふ名前は齋田(ゆた)といふ意味である。
豊受大神宮をトヨウケともトユケともいはれるのと同じやうに、現在の村名有田(うた)といふことは湯田(ゆた)の轉訛した名前であって、何れも大神宮の御齋田或は御神田の土地を指したものである。
即ちこの地方は隣村の城田郷(きたのさと)と同じく、大神宮奉仕の荒木田氏によって開墾された土地である。荒木田氏が皇大神宮の神主であった開係上この地方の神社は何れも皇大神宮の管轄に属し、その攝末社になってゐるのである。御祭神は大歳御祖命(おほとしみをやのみこと)と申し、湯田野(ゆたの)の農耕守護の大神を奉祭したものである。儀式帳によると卸社地は二町五反の廣さを有し、御社殿は御正殿が二つあり、ー殿には大歳御祖命、ー殿には御前神(みまへのかみ)が祀られてゐたものであるが、現在はー殿のみである。
御造替は造神宮使御造替六社の一つで、特別の御待遇を受けてゐたことが分る。又この御創立は儀式帳による雄略天皇の御代に祝ひ定められたと言はれてゐる。この地方が城田郷に次いで、雄略天皇頃に新らしく開墾され、神宮の御神田となったについて、この天皇の御代に、この土地の守護神として、末社が御創立になったものである。
室町時代に社殿社地共に退轉したが ,江戸時代の初期寬文三年に御再興に相成り、以て今日に至ってゐる。然し昔の制度では二殿になってゐたものが、御再興は一殿のため、大歳御祖命と御前神とが御同座遊されてゐる譯である
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
湯田神社は 皇大神宮(内宮)の摂社です
・皇大神宮(内宮)
皇大神宮(こうたいじんぐう)は 私たち日本人の総氏神「伊勢へ行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」と全国の人々で賑わう伊勢詣が有名です 通称を゛伊勢の内宮(ないくう)゛鎮座は゛垂仁天皇26年〈今から2000年前〉 御祭神は゛皇祖神 天照大御神゛御神体は皇位のしるし三種の神器の一つ゛八咫鏡(やたのかがみ)゛です
皇大神宮〈内宮〉(伊勢市宇治館町)〈伊勢神宮〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻4「神祇四 伊勢太神宮」
「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定が含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています
゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭に並預゛と記されます
【抜粋意訳】
伊勢太神宮
太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】
瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】諸社卌座。
太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社
度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社
山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社右諸社,並預祈年、神嘗祭
以下略
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
湯田神社は 二つの式内社〈①湯田神社 ②雷電神社〉の論社になっています
①湯田神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 湯田神社
[ふ り が な ](ゆたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Yuta no kaminoyashiro)
【原文参照】
②雷電神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 雷電神社
[ふ り が な ](いかつちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ikatsuchi no kaminoyashiro)
【原文参照】
延喜式内社 伊勢國 度會郡 雷電神社(いかつちの かみのやしろ)の論社について
式内社 雷電神社は 旧鎮座地が確定しておらず論社多数あります
(1)度会郡小俣町掛橋 雷電神社 『式社案内記』『神名帳傍註』
(2)度会郡小俣町湯田 湯田神社『伊勢式内神社宮地記』『神宮典略』
(3)度会郡御薗村高向 高向大社『二宮管社沿革考』御巫清直
(4)度会郡御薗村高向 神村社『高向神社祭神考』中東顯煕
(5)度会郡小俣町離宮院跡 官舎神社『伊勢式内神社宮地記』
(6)伊勢市柏町(雷社)『摂末社独案内』
神宮司庁 編『大神宮叢書』第2 後篇「伊加津知神社」に記される内容
次のようにあります
【抜粋意訳】
大神宮儀式解卷第二十四 年中行事井月記 四月例 十四日御衣御笠散奉
伊加津知神社一具(イカヅチノヤシロ ニ イチグ)
伊加津知(イカヅチ)は 雷(イカヅチ)なり。
神名帳、伊勢國 度會郡 雷電(イカヅチノ)神社あり。これ歟。
但下蓑笠奉る社々を見るに、上(菅度會郡神社行事)造宮使造奉る六社の中五社ありて、湯田ノ社無ければ、此處(ココ)に伊加津知ノ社といひしは、湯田ノ社に坐す 鳴震雷ノ神をさしていふにや。此ノ二つの外にはあらじ。惡風雨を停(トド)めん祭なれば、雷電ノ神を祭るはことわりかなへり。大神宮式、御蓑笠奉進の處、此社は見えず。
【原文参照】
神宮司庁 編『大神宮叢書』第3 中篇「離宮院考証」に記される内容
次のようにあります
【抜粋意訳】
離宮院考証
別當神社
類聚神祇本源に云く。長德ノ檢錄田社に卅三前ノ外。式外ノ社 別當ノ社。(坐に離宮坤方)
神名略記に云く。別雷ノ社 坐すに離宮の坤方に。別雷を作に別當者非也。
按るに別當、別雷未 知ら孰か是なるを、然して當社者 掛橋村の産土神社乎、在りに離宮 舊趾の坤位二町許に。
延喜式神名帳に載す雷電神社を、考証、同再考等以て為すに當社之別號と。
伊勢式社案内記に云く、小俣村の離宮院森の内に石積に祭る神三所有り、最初の石積を雷神社と云、據て考に而不ず辨せ地勢を、漫に為すは虛妄説を、不足を信るに焉。
【原文参照】
・雷電神社(伊勢市小俣町本町)
雷電神社(らいでんじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 雷電神社(いかつちの かみのやしろ)の論社の一つです 雷電神社の旧鎮座地は 確定しておらず その多数の論社があり 諸書に「離宮院の坤方(ひつじさる)〈南西方向〉」にありと記されている社で 此処に祀られていた〈裏の宮・八王子〉とも称していた゛雷電神社゛ことです
雷電神社(伊勢市小俣町本町)
・湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
湯田神社(ゆたじんじゃ)は 雄略天皇朝の創立 造宮使造替六社中の一で格式も高かったが 中世に廃絶し 社地は明らかになりませんでした 産土社の境内社 湯田社に再興したもので 祭神についても大歳御祖命(おほとしみをやのみこと)御前神(みまへのかみ)とされますが 鳴宸電(なるいかつち)を祀る説があり 式内社・湯田神社 ・雷電神社の二つの論社となっています
湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
・髙向大社(伊勢市御薗町高向)
高向大社(たかぶくたいしゃ)は 『高向村神社記』に 第45代 聖武天皇の御代 天平三年(731)の創建と云い 又 貞観三年(861)八月 大雨洪水があり大杉の根本に゛白羽の蓋根矢゛が流れ着いたと 山城 賀茂別雷神社の「丹塗矢伝承」と同類の伝承があり 延喜式内社 伊勢國 度會郡 雷電神社(いかつちの かみのやしろ)であるとの説があります
髙向大社(伊勢市御薗町高向)
・神村神社 旧跡(伊勢市御薗町高向)
神村神社 社地跡(かぶらじんじゃ しゃちあと)は 明治41年(1908)に高向大社に合祀された゛神村社(かぶらのやしろ)〈加牟良社・鏑社神とも〉゛の社地跡です 高向区の御頭神事は現在でも゛大社(かみ)さん゛゛神村社(かぶら)さん゛の二社の御頭(おかしら)によって神事が催行されています 延喜式内社 伊勢國 度會郡 雷電神社(いかつちの かみのやしろ)の論社です
神村神社 社地跡(伊勢市御薗町高向)
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
内宮・外宮の摂社・末社・所管社について
お伊勢さん125社について
゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉
内宮・外宮の摂社・末社にある゛御前神(みまえのかみ)゛について
本社とする神社の御前(みまえ)にある神の意です
朝熊御前神社 (あさくまみまえじんじゃ)〈内宮域外の摂社(朝熊神社境内)〉
・朝熊神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》大歳神(おおとしのかみ)・苔虫神(こけむしのかみ)・朝熊水神(あさくまのみずのかみ)
・朝熊御前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》朝熊御前神(あさくまみまえのかみ)
朝熊神社(あさくまじんじゃ)&朝熊御前神社(あさくまみまえじんじゃ)は 五十鈴川と朝熊川の合流する東岸丘にあり 垂仁天皇27年(BC3)倭姫命が石と化した大歳神(おほとしのかみ)を祀ったのが創祀と伝える 皇大神宮(内宮)の27摂社の内 第1摂社です『延喜式神名帳』では 伊勢国 度會郡 朝熊神社(あさくまの かみのやしろ)と記されています
朝熊神社&朝熊御前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
園相神社(そないじんじゃ) 御同座 御前神(みまえのかみ)
・園相神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》曽奈比比古命(そなひひこのみこと)〈別称 園作神(そのつくりのかみ)〉
御前神(みまえのかみ)
園相神社(そないじんじゃ)は ゛園作神〈曽奈比比古命〉゛が皇大神に御園を奉り これを祝い 倭姫命が社を定めたと伝わる古社 皇大神宮(内宮)摂社の27社中 第3位と格式高い神社ですが 中世には頽廃して社地も不明となり 寛文3年(1663)河邊精長が度会郡積良村に再興 この再興地に疑義があり 元禄七年(1694)大中臣長春が津村を旧社地と定め 現在地へ遷座しました
園相神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
鴨神社(かもじんじゃ) 御同座 御前神(みまえのかみ)
・鴨神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》石己呂和居命(いしころわけのみこと)
御前神(みまえのかみ)
鴨神社(かもじんじゃ) は 皇大神宮(内宮)の摂社で『延暦儀式帳』〈延暦23年(804)〉によれば ゛倭姫命の祝ひ定め給ふ所゛と伝わり その後 中世に頽廃しましたが 寬文三年(1663)攝社として再興され この時は 本村字竈谷の地゛氷室洞くつ゛の所に本社が造立されています 明治九年(1876)更に神宮司廳に於て 現在の地に移造されています
鴨神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
田乃家神社 御同座 田乃家御前神社 (たのえみまえじんじゃ)
・田乃家神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》大神御滄川神(おおかみのみさむかわのかみ)
・〈御同座〉田乃家御前神社《主》御前神(みまえのかみ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉
田乃家神社(たのえじんじゃ)〈御同座 田乃家御前神社(たのえみまえじんじゃ)〉は 創建は 第21代 雄略天皇の御代(457~479年)と伝わる皇大神宮(内宮)の摂社 かつて造宮使造替六社の一つで高い格式がありましたが ここも中世に頽廃し 寬文三年(1663)に再興されました その際 御前神は正殿に御同座し〈昔は二殿あり〉 現在に至ります
田乃家神社〈御同座 田乃家御前神社〉〈皇大神宮(内宮)摂社〉
蚊野神社 御同座 蚊野御前神社(かのみまえじんじゃ)
・蚊野神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》大神御蔭川神(おおかみのみかげかわのかみ)
・〈御同座〉蚊野御前神社《主》御前神(みまえのかみ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉
蚊野神社(かのじんじゃ)御同座する 蚊野御前神社(かのみまえじんじゃ)は 第21代 雄略天皇(457~479年)が定めたと伝え 皇大神宮(内宮)の27摂社の第7位と格式があります 規定では 造替使がその任に当り 20年に1度正宮と並び正殿を造替える神社でしたが 中世には頽廃してしまいます 寬文三年(1663)大宮司 河邊精長により 現社地に再興され 現在に至ります
蚊野神社〈御同座 蚊野御前神社〉〈皇大神宮(内宮)摂社〉
湯田神社 御同座 御前神(みまえのかみ)
・湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》大歳御祖命(おおとしのみおやのみこと)・御前神(みまえのかみ)
湯田神社(ゆたじんじゃ)は 雄略天皇朝の創立 造宮使造替六社中の一で格式も高かったが 中世に廃絶し 社地は明らかになりませんでした 産土社の境内社 湯田社に再興したもので 祭神についても大歳御祖命(おほとしみをやのみこと)御前神(みまへのかみ)とされますが 鳴宸電(なるいかつち)を祀る説があり 式内社・湯田神社 ・雷電神社の二つの論社となっています
湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
久具都比賣神社 御同座 御前神(みまえのかみ)
・久具都比賣神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》久具都比女命(くぐつひめのみこと)・久具都比古命(くぐつひこのみこと)・御前神(みまえのかみ)
久具都比賣神社(くぐつひめじんじゃ)は 皇大神宮(内宮)摂社として『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛久具神社一處゛(クグノヤシロ ヒトトコロ)と記載される古社 かつては正殿が三區あったとされ゛一區は久々都比女命の御形(ミカタ)を齋(イハ)ひ ー區は久々都比古命を齋ひ 又一區は前社にて 右の神 の御蔭(ミカゲ)を祭奉る゛とあります
久具都比賣神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
棒原神社 御同座 御前神(みまえのかみ)
・棒原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉《主》天須婆留女命御魂(あめのすばるめのみことのみたま)・御前神(みまえのかみ)
棒原神社(すぎはらじんじゃ) は 『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に所載される皇大神宮(内宮)の摂社で 奈良朝廷の時〈奈良時代(710~784年)〉に創建と伝わる古社です 「杉の森」と呼ばれる古墳丘の上に鎮座します 『延喜式神名帳927 AD.』には 棒原神社(をいはらの かみのやしろ)とも読むことがあります
棒原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
田上大水御前神社 (たのえおおみずみまえじんじゃ)〈外宮域外の摂社〉
・田上大水神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
田上大水神社(たのえおおみずじんじゃ)・御同座 田上大水御前(たのえおおみずみまえ)神社は 『止由気宮儀式帳〈延暦23年(804)〉』に記載ある古社ですが 中世に頽廃してしまい 権禰宜 出口延良が承応元年(1652)度会四門の氏人らとともに現地に再建したものです 寛文三年の再興では取り上げられず 明治四年の神宮御改正までは氏人により社殿の造替えが続けられました
田上大水神社〈御同座 田上大水御前神社〉〈豊受大神宮(外宮)摂社〉
佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)〈伊雑宮 所管社〉
・佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)《主》佐美長御前神
佐美長神社(さみながじんじゃ) ・佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)は ともに『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に記される伊雑宮の所管社です 『延喜式神名帳(927)』志摩国 答志郡 同島坐神乎多乃御子神社(おなしきしまにます かむをたのみこの かみのやしろ)の論社でもあります
佐美長神社・佐美長御前神社(磯部町恵利原)〈伊雑宮所管社〉
朝熊神社の御前神 鏡宮神社(かがみのみやじんじゃ)〈内宮の末社〉
鏡宮神社は 朝熊神社の御前神とされます 朝熊神社の境内に朝熊神社が建てられたため 現在地に遷座
・鏡宮神社〈皇大神宮(内宮)末社〉
《主》岩上二面神鏡霊(いわのうえのふたつのみかがみのみたま)
〈朝熊神社の御前神 岩上二面神鏡霊で御鏡を鎮祭する〉
鏡宮神社(かがみのみやじんじゃ)は 朝熊神社の御前神゛御神鏡゛〈岩上二面神鏡霊(いはのうえふたつのみがみのみたま)〉を鎮祭する皇大神宮(内宮)の末社です かつて二面の神鏡は 二つの川の合流点にある神聖な岩の上に祀られていた〈虎石(とらいし)〉(神域内〈朝熊川の岸〉木柵の中にある)とも〈潮干石(しほひいし)(五十鈴川の川中にある)とも伝わります
鏡宮神社〈皇大神宮(内宮)末社〉
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR参宮線 宮川駅から西へ約3km 車8分程度
田園の中に鎮守の杜が見えてきます こちらは東側から向かっている様子
鎮守の杜の中央をトンネルのように道が抜けています
トンネルの中には 入り口が無く これは違う森なのか? と想い 南側に見えている同じような森に向かいますが こちらにも入り口は無く こまった?
あっそうだ 先程の杜の南面にあるかも 知れないと想い
向かうと 南面に生け垣があり 入り口のような箇所が見えています
湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に参着
それにしても 現在でも これだけ似たような景観〈おそらく以前は神社であったと想う〉が沢山あるので 寛文3年(1663)に大宮司・河邊精長氏が 再興場所を特定していくのは 大変な苦労をされたのであろうな と勝手な想像をしながら進みます
南面の入り口
入り口の石柱には゛湯田神社゛と刻字あり
正殿にすすみ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます
古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待ちます〉
御祭神は二座〈大歳御祖命(おほとしみをやのみこと)御前神(みまへのかみ)〉
御前神については 雷電神を祀るとする説があります
元来は 正殿は二殿が鎮座ていたが 寬文三年(1663)再興の時に 一殿のみが建てられたままで 現在まで一殿に御同座であると伝わります
社殿に一礼をして 参道を戻ると 木々に囲まれた境内の外は 明るい水田が広がっています
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 湯田神社について 所在は 湯田郷湯田村に在す〈現 湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉とし
祭神については 鳴震電(なるいかづち) 又云、大歳御祖命 と記しています
【抜粋意訳】
湯田神社
湯田は由多と訓べし、和名鈔、郷名部 湯田、假字上の如し
○祭神 鳴震電 又云、大歳御祖命、
○湯田郷湯田村に在す、神名略記〇式四、伊勢大神宮 大神宮所摂廿四座の第六に載す、
○儀式帳云、稱に鳴震電、又大歳御祖命、形無、大長谷天皇御宇定祝、
【原文参照】
式内社 雷電神社について 祭神は別雷神 所在は 離宮院坤方〈度会郡小俣町離宮院跡 官舎神社〉に在す 今存亡詳ならず〈現在は あるかないかもわからない〉と記しています
【抜粋意訳】
雷電神社
雷電は伊加津知と訓べし
〇祭神 別雷神、神祇本源
〇離宮院坤方に在す、同上 今存亡詳ならず、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 湯田神社について 所在は 湯田郷湯田村にあり〈現 湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉とし
祭神については 大歳御祖命を祀る 鳴震雷(なるいかつち)といふ と記しています
【抜粋意訳】
湯田(ユタノ)神社
今 湯田郷湯田村にあり、神祇本源、神名秘書、神名帳考証、神境紀談、
大歳御祖命を祀る、鳴震雷(なるいかつち)といふ、
雄略天皇 御世 定祝奉る、延暦儀式帳、
醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式
【原文参照】
式内社 雷電神社について 祭神 所在については何も記されていません
【抜粋意訳】
雷電神社
〇按 延暦儀式帳、雷電を伊加津知に作る
凡 毎年 神衣祭日、笠縫内人蓑笠各一具を奉て、風雨を祈る、延暦儀式帳
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 湯田神社について 所在は 湯川郷湯田村〈現 湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉とし
祭神については 鳴震雷神 大歳御祖神 と記しています
【抜粋意訳】
湯田神社
祭神 鳴震雷神
大歳御祖神祭日 二月十一月十二日
社格 内宮所攝 廿四所之一 (内宮摂社)所在 三重縣湯川郷湯田村 (度會郡有田村大字湯田 )
【原文参照】
式内社 雷電神社について 祭神 所在については何も記されていません
【抜粋意訳】
雷電神社
祭神
祭日
社格 外宮所攝 天喜十八社之一
所在
【原文参照】
湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
お伊勢さん125社について
゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉
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伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について