実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

陽夫多神社(伊賀市馬場)

陽夫多神社(やぶたじんじゃ)は 28代 宣化天皇三年(538)国中に疫病が流行したので屏息祈願のため伊賀国造 多賀連が創建したと伝 以来病気平癒の御霊験あらたかなるをもって藩主の崇敬厚く屡々寄進あり 又一般崇敬者の参拝多しと社記にあり 延喜式内社 伊賀国 阿拝郡 陽夫多神社(やふたの かみのやしろ)とされます

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

陽夫多神社(Yabuta shrine

通称名(Common name)

河合の天王さん(かわえのてんのうさん)
・藪田神社
・高松祇園

【鎮座地 (Location) 

三重県伊賀市馬場951

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》健速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)

《配》五男三女神(ごなんさんじょしん)

《合》天之火明命(あまのほあかりのみこと)
   火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)
   香香背男神(かがせをのかみ)
   大物主神(おほものぬしのかみ)
   大山祇神(おほやまつみのかみ)
   大日孁貴命(おほひるめのむちのみこと)
   宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
   伊邪那伎命(いざなぎのみこと)
   伊邪那美命(いざなみのみこと)
   速玉之男命(はやたまのをのみこと)
   事解之男命(ことさかのをのみこと)
   屋根命(あめのこやねのみこと)
     (ひるこのみこと)
   菊理比(きくりひめのみこと)

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【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

・厄祓い、病気平癒、縁結び、産業

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

延喜式内 陽夫多神社 由緒記

鎮座地 三重県阿山郡阿山町大字馬場九五一番地

御祭神

 健速須佐之男命

 五男三女神 天之火明命 火之迦具土神 香々背男命 大物主命
 大山祇神 大日孁貴命 宇迦能御魂神 伊邪那伎命 伊邪那美命
 速玉之男神 事解之男命 天兒屋根命 蛭子命 菊理比賣命

由緒
 当社は延長風土記に「押盾天皇 戌午 国造多賀速祭之也」とあり和名抄、伊賀風土記によると、伊賀河合郷の総社にして 人皇第二十八代 宣化天皇三年(西暦五三八年)に国中に疫病が流行したので屏息祈願のため伊賀国造 多賀連が創建したとある。世に高松神、河合天王の称あり

御神徳
 当社の主祭神 健速須佐之男命は自から祓い清めることを実践された神様で 古来より「厄病難守護」の信仰が篤く、産業、文学(歌道)の神として崇敬されている

主な祭典と神事
 祈年祭 二月十八日 裸々おし
   四月二十日 羯鼓踊(文化財)餅まき 少年剣道大会
 祇園祭 八月一日
 精進祭 七月二十五日 宵宮祭 七月三十一日 花火奉納大会
 本祭 八月一日
  深湯神事 神輿神幸式 願之山踊(文化財)花傘取り
    宵宮祭早朝、長さ三十五米の大幟が各字氏子中から七基奉納される
    祇園祭前後約七日間湧く、この水何年経過するも腐敗することなし 神水としての信仰あり
 新嘗祭 十一月二十八日

社宝
 祇園丸(五百石船の縮尺)明和四年(西暦一七六七年)作
 神鏡 二面 銅円形 直経二尺 銘「正一位藪田神社平安城住天正九青盛重造之」
 宣旨 薮田神社 正一位 文化十四年
   青銅製径三尺高六尺銘「寛文七年乙未暦三月吉辰鋳造」
 懸佛 二面青銅製 鉄製
 刀剣 八振 鎧兜外武具一式

境内社
 八柱神社
 御祭神 大山祇神 火之迦具土神 五男三女神 金山比賣神

宮 司 神田徳夫 記
現在地 三重県伊賀市馬場九五一番地

境内石碑文より

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【由  (History)】

由緒

 当社は延長風土記に「押盾天皇戌午国造多賀連祭之也」とあり、
和名抄、伊賀風土記によると 伊賀河合郷の総社にして 人皇第28代 宣化天皇3年(西暦538)に国中に疫病が流行したので屏息祈願のため伊賀国造多賀連が同年創建したとある。
 以来病気平癒の御霊験あらたかなるをもって藩主の崇敬厚く屡々寄進あり、又一般崇敬者の参拝多しと、社記にあり。
 清和実録に高松神、延長風土記に薮田大明神の社号で記載されている。

又古くより「河合の天王さん」「河合の祇園さん」と呼ばれ、氏子崇敬者から親しまれている。

羯鼓踊 例祭(4月20日)

午後2時から大江羯鼓踊り保存会により奉納される。寛永年間から「豊年踊り」「雨乞踊り」として豊年を祈る踊りとして伝承されている。

願之山踊 祇園祭(8月1日)

いつの時代から始まったかは不明であるが現在の形で始まったのは文禄年中(1592)と伝えられている。この踊りは病気平癒・家内安全の願いを懸けた者のためにその願いを解く神事である。踊りには大踊、小踊があって大踊は20歳から25歳までぐらいの青年、小踊は4歳から7歳ぐらいの児童が奉仕している。心身ともに健全で清純な者に願解を託したと思われる。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

願之山踊(がんのやまおど)

三重県指定無形民俗文化財

陽夫多神社の祇園祭り(八月一日)に行われ、病気平癒、家内安全の願掛けを解く神事として、文禄元年(十六世紀末)より現在の形で行われるようになったとされる。
踊りは青年の大踊りと男の子の小踊りに分かれ、太鼓を乗せた屋形が綱で引っ張られ、踊り子は『ゲーニモサーニ』のはやし歌にあわせ太鼓を打ちながら、境内を何度も往来する。
平成二十一年三月十一日指定  三重県教育委員会

鞨鼓踊(かっこおど)

伊賀市指定文化財

この踊りは、江戸時代の寛永年間に始まるとされ、大江にあった火明(ほあかり)神社の境内で夏祭り(旧暦六月十四日)に行われていたが、明治四十一年陽夫多神社に合祀されてからは、春祭り(四月二十日)に行われる。
農耕の予祝神事としてはじまる民俗行事の一つで、干ばつの時には雨乞い踊り、平穏な時には豊年踊りとして行われる。
踊り子は頭に山鳥の尾、背中にオチズイと呼ばれる飾りを付け、前には鞨鼓を下げ、踊り歌と太鼓、ホラ貝の音にあわせて鞨鼓を叩きながら踊る。

伊賀市教育委員会

境内案内板より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・八柱神社〈本殿向かって左隣〉

《主》五男三女神,《配》火之迦具土神,金山比売神《合》大山祇神

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・お旅所(おたびしょ)古墳〈境内から南へ約200mの御旅所〉

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お旅所(おたびしょ)古墳

伊賀市指定文化財

陽夫多神社のお旅所にあることから、このように呼ばれている。
石室を覆ってい土砂が流出し、墳形は明らかではない。南に開口する両袖式の広い横穴式石室は、現状で羨道部の長さ 4.8 m以上、玄室部の長さ5m、幅 2.6m高さ 2.2mある。 

古墳時代後期、六世紀後半の築造が考えられる。
また場夫多神社の裏山には、全長 40 mの前方後円墳、宮山一号墳他、二号、三号の横穴式石室を持つ円墳がある。

伊賀市教育委員会

現地案内板より

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

陽夫多神社(伊賀市馬場)が 高松祇園と呼ばれるのは゛高松神゛を配祀しているためとされます 高松神と薮田神が同神ともされます

【抜粋意訳】

 貞觀三年(八六一)四月十日甲寅

○十日甲寅

 伊賀國
正六位上 高藏神 阿波神 高松神 宇奈根神  從五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊賀国 25座(大1座・小24座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)阿拝郡 9座(大1座・小8座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 陽夫多神社
[ふ り が な ]やふたの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Yafuta no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 伊賀国 阿拝郡 陽夫多神社(やふたの かみのやしろ)の類似社

伊勢國 河曲郡 夜夫多神社(やふたの かみのやしろ)について

・夜夫多神社(鈴鹿市甲斐町)

一緒に読む
夜夫多神社(鈴鹿市甲斐町)

夜夫多神社(やぶたじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)』に所載の式内社 伊勢國(いせのくに)河曲郡(かわのこおり)夜夫多神社(やふたの かみのやしろ)とされます 祈年祭(御鍬)~田打ち(馬の砂かけ)は 境内に約2トンの砂を運び入れ そこを水田に見立てて 昔ながらの田起こしから田植えまでを再現されます

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR関西本線 佐那具駅から 県道673号を北上 約3.2km 車5分程度

河合川と野田川の合流する伊賀市馬場に鎮座しますので゛河合の天王さん゛と称され
鎮座地の宮山は゛宮山古墳群゛があり「やぶた古墳の杜」と呼ばれています

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参道の入り口には 社号標゛延喜式内 陽夫多神社゛があり 葉桜が残る参道を進みます

陽夫多神社(伊賀市馬場)に参着

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小川に架かる石橋を渡ると

室町時代の国文学者である一条兼良が詠んだ和歌
「ゆふかけて猶こそき
かめほととぎす手向けの声の高松の宮」の石碑

二つの石柱に゛縣社陽夫多神社゛゛郷社陽夫多神社刻字され 大きな二つの石灯籠があり その右手に手水舎があります

清めてから 一礼をして鳥居をくぐります

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広い境内に出ると 境内の右手に「神井」という井戸があって普段は枯れているが 祇園祭(8月1日)前後の7日間は神水が湧きだしてくるそうです

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少し先に 素戔嗚尊(すさのをのみこと)が詠んだ日本最古の和歌石碑
「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」

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社殿は ほぼ東向き 神楽殿は横に長い平屋で 拝殿の左手にはスギの大木が2本あります
上に上がる石段は ゛神楽殿の左右にある鳥居の先゛と゛神楽殿の中央゛の三ヶ所あります

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神楽殿の向かって右の石段を見てみると 上で中央に向かっています

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神楽殿の中央の石段を上がり
拝殿にすすみます

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神楽殿を抜け石段を上がると2本スギの大木の根元があり 中々に迫力があります

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石段を登ると割拝殿 樹齢600年の輪切りの古代スギが展示してあります

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割拝殿の先に 更に石段があり 拝所となっています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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奥には塀に囲まれて 本殿とその向かって左横に 境内社 八柱神社が祀られています

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社宝の゛祇園丸(五百石船の縮尺)明和四年(西暦一七六七年)作゛の復元したものが飾られています

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この位置から 割拝殿と拝所を繋ぐ 石段と屋根の様子が よく見えます

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眼下には 馬場地区が見渡せます

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境内に下りると
1667年に寄贈された高さ1m59cm、口径92.5cmの伊賀地方で3番目に古い梵鐘がありました

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芭蕉伊賀連衆の一人 山岸半残の句碑
「汗かきの氏子あまたや祇園の會」

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 陽夫多神社について 所在は 河合郷馬場村に在す〈現 陽夫多神社(伊賀市馬場)〉と記しています

【抜粋意訳】

陽夫多神社

陽夫多は假字也

○祭神 素戔鳴尊、社記
○河合郷馬場村に在す、今 高松祇園と称す、伊水温故 例祭(欠く)
○残編風土記云、河合山、中略 有神號 藪田大明神、武小廣國押盾天皇御宇戊午、國造多賀連祭之、

伊水温故云、高松祇園卜云フ、毎年十四 祇園會アリ、神輿二ツワダル、昔 社領 二百石アリ、殿ニシテ 毎年タダオシアリ、河合七郷大勢集リテ是ヲオシ、其勝負ニヨリテ 其年ノ村郷ノ吉凶ヲ知ル、

類社
伊勢國 河曲郡 夜夫多神社

神位
文化十四年十二月二十一日被奉授正一位

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 陽夫多神社について 所在は 河合庄 馬場村に在り〈現 陽夫多神社(伊賀市馬場)〉と記しています

【抜粋意訳】

陽夫多(ヤブタノ)神社

今 河合庄 馬場村に在り、薮田社と云、伊水温故、式社考、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 陽夫多神社について 所在は 三重縣第九大區馬場村〈現 陽夫多神社(伊賀市馬場)〉と記しています

【抜粋意訳】

陽夫多(ヤブタノ)神社

祭神 素戔嗚尊

今按 總國風土記に所祭素戔嗚尊とあれど 伊賀名所記にも阿拜郡河合里河合の社は素戔嗚尊にましますとみえ 三國地志にも川合郷馬場村にます祇園社 是なり 祭神 素戔嗚尊 八王子の二座と云るものーに符合すれば今之に從ふ

祭日 正月六月並十四日
社格 村社(郷社)
所在 三重縣第九大區馬場村 (阿山郡河合村大字馬揚 )

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

陽夫多神社(伊賀市馬場)ついて 式内社 陽夫多神社であるとし 三代録に云う 式外社 高松神配祀する と記しています

【抜粋意訳】

〇三重縣 伊賀國 阿山郡河合村一大字馬場

郷社 陽夫多(ヤブタノ)神社

祭神
高松(タカマツノ)
健速須佐之男(タケハヤスサノヲノ)
五男三女神

入皇廿九代 宣化天皇年の勧請にして、
残編風土記に曰く、河合山に神あり藪田大明神と號す、武小廣國押盾天皇 御宇戊午、國造 多賀連之を祭る、
神名帳考証に、「陽夫多(ヤフタ)神社、馬場村河合庄に在り、伊勢河曲郡夜夫多神社、按 陽夫八百穂也」と見え、
神社覈録に云く、陽夫多は暇字也、祭神 素戔鳴尊、河合郷馬場に在す、今 高松祇園と称す、伊水温故に云く、高祇園と云ふ、毎年十四日祇園曾あり、神輿二つわたる、昔社領二百石あり、礼殿にして毎年ただおしあり、河合七郷大勢集りて是をおし、其勝負によりて其年の村郷の吉凶を知る云々、
神祇志料に云く、陽夫多(ヤブタノ)神社今河合庄馬場村に在り、藪田社と云ふ、
三代録に云く、貞観年夏四月十四日甲寅、伊賀國 正六位上 神に從五位下を授く、
総國風土記に云く、阿拝郡(明治二十九 阿拝山田二群を合せ阿山郡と改む)川合神社 圭田六十二束、持統天皇年己丑 奉圭田加神、所奉祭 素戔鳴尊也とあり、
大日本地名辞書河合の条下に、萬寿禅寺記に、伊賀國川合荘と云ふは此なり、
永閑名所記に河合里高松宮と云ふは、延喜式、陽夫多神社に同く、三代實録授位の高松神を之に配祀すと、後世高松祇園と称し、社僧を高松山吉蔵院と云ふ、今河合村大字馬場に在り、
頓阿十樂庵記に、此祇園天王を三田郷に勧請したる由見ゆ、美濃路記に一條兼良「ゆふかけて猶こそきかめほとゝぎすたむけの聾の高松の里」と是なり、
明治年村社に列し、同十六年郷社に昇格す、同四十一年村社 綾神社、同宇手比神社、同熊野神社、同津島神社、同大明神社、同天津神社、無格社二十八を合祀す、

杜殿は本殿、拝殿、絵馬殿、神輿舎、参籠殿等具備し、境内坪数1871坪(官有地第一種)を有す

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

陽夫多神社(伊賀市馬場) (hai)」(90度のお辞儀)

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伊賀国 式内社 25座(大1座・小24座)について に戻る     

一緒に読む
伊賀國 式内社 25座(大1座・小24座)について

伊賀国(いがのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊賀国には 25座(大1座・小24座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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