実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

若狹姫神社 下社(小浜市)

若狹姫神社 下社は 若狭彦神社 上社と2社で一つの神社「若狭国一の宮」とされています 上社「若狭彦神社」は 和銅7714年)に今の遠敷郡下根来村白石に創られたと云われ 霊亀元年(715年)に現在の地に遷座しました 下社「若狭姫神社」は 上社から北1.5kmの遠敷(onifu)の里にあり 6年の後養老5(721年)の鎮座と伝わります

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name

若狹姫神社 下社Wakasahime Shrine shimosha
(わかさひめじんじゃ しもしゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (location) 

福井県小浜市遠敷65-41

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

上社
《主》若狭彦大神Wakasahiko no okami)
同一神 彦火火出見尊(Hikohohodemi no mikoto)

下社
《主》若狭大神Wakasahime no okami)
同一神 豊玉姫命(Toyotamahime no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

・海上安全 Maritime safety
・海幸大漁守護 The guardian deity of the big catch of seafood

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)所載社(名神大)
・ 若狭一之宮Wakasa no kuni ichinomiya)
・ 別表神社

【創  (Beginning of history)】

養老5年(721年)の鎮座

若狭姫神社(旧遠敷神社・下社)

奈良の「お水取り」で有名な遠敷明神がまつられていた神社であるといわれ、いまも遠敷神社の額が伝わります。現在、二宮若狭姫神社となり、彦火火出見尊の妻である海神の娘、豊玉姫が祭神となっています。
美しい小川を渡ると、荘厳な杜の中に福井県指定文化財となっている本殿と随神門が眼に飛び込んできます。また、本殿横にある千年杉は、鯖街道をめぐる大陸や奈良・京都との往来を見てきたような威容を示しています。
現在も若狭を代表するパワースポットとして知られ、子宝・子育てに御利益があるといわれます。
また、10月に行われる祭礼では、大太鼓や神楽が奉納され、街道が交差する遠敷の繁栄や華やかさを偲ぶことができます。

小浜市・若狭町日本遺産活用推進協議会HPより

【由  (history)】

若狭彦神社は 若狭彦神社(上社)と若狭姫神社(二社)に分かれていますが 当神社は下社にして 後奈良時代の養老5年(721年)の鎮座であります
海幸山幸の神話で名高い豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を若狭姫神とたたえておまつりしてありますので 若狭姫神社とも 又 遠敷(おにう)の地に鎮座ましますので遠敷神社とも申します

奈良東大寺二月堂のお水取りで名高い遠敷明神は即ち当神社のことであります

ここより南方1500mの龍前の里にある上社と共に上下宮(じょうげぐう)とも若狭一の宮とも総称しますが 平安時代の延喜式にも名神大社として記載され赫々たる御神威は遍く光被じて厚く崇敬された若狭の国第一の大社であります

なお両社では 従来一般の御祈祷(家内安全、厄除、生業繁栄、初宮詣、交通安全、その他諸々の祈願)や神符守札の授与その他社務一切を下社において教行しておりますので ご用のあります方はお申し出ください

境内掲示板より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

本殿向かって左側 御垣の外
中宮神社Chugu Shrine)
《主》玉依姫命(Tamayorihime no mikoto)

境内左手
日枝神社Hie Shrine)
《主》大山咋神(Oyamakui no kami)
《相殿》宗像神・稲荷神・愛宕神・金刀比羅神・夢彦神・夢姫神

本殿向かって右側奥
玉守神社Tamamori Shrine)
《主》玉守神(Tamamori no kami)

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)若狭国 42座(大3座・小39座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)遠敷郡 16座(大2座・小14座)
[名神大 大 小] 式内大社

[旧 神社 ] 若狭比古神社二座(名神大)
[ふ り が な  ](わかさひこの かみのやしろ にざ)(みょうじんだい)
[How to read ]Wakasahikono kamino yashiro niza)(Myojindai) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

神社創建の地「鵜の瀬」と「お水送り」の神事について

「鵜の瀬」は神社創建の地とされています

若狭彦神社 創建

小浜市下根来白石に鵜の瀬というところがある。

遠敷川の清流が巨巌に突き当たって淵をなしておる。この巨巌の上に、先づ若狭彦神、次いで若狭姫神が降臨されたと伝える。この南方150mのところに、創祀の社と伝える白石神社がある。

その後、永久鎮座の地をもとめて、若狭国を巡歴なされた末、
霊亀元年九月十日に、龍前に若狭彦神社、六年の後、即ち、養老五年二月十日に、遠敷に若狭姫神社が鎮座。

上下分かれての鎮座は、深き幽契の存するところと恐察しまつる。

 

神社配布パンフレットより

「お水送り」の神事について

若狭彦神社の神事として「お水送り」が名高い神事として知られますが
当地の伝承によれば
ある年 実忠和尚は奈良の東大寺二月堂の修二会で神名帳を読み全国の神を招いた この時 漁が多忙で参集に遅れた若狭国の「遠敷明神(おにゅうみょうじん)」が 遅参のお詫びに 二月堂のほとりに清水を湧き出させ 本尊の十一面観音にお供えの閼伽水を送ると神約したと伝わります

鵜ノ瀬は 二月堂の若狭井に通じているとされていて 旧暦2月に鵜の瀬で二月堂に水を送る「お水送り神事」が行われ その水を受ける祭事が二月堂の「お水取り」の始まりとされています

この遠敷明神は 若狭姫神社の祭神「若狭姫神=豊玉姫命」で 東大寺の二月堂の右手裏に遠敷神社(Onyu Shrine)があります

境内の奥に御神水『遠敷大明神 霊水(桂の井)』があり 次のようにあります

名水とは風土なり
鎮守の森が、神霊の籠る場所に相応しい水源地に多く祭られているのは、生命の源の水を神々が司られ、人々がその水を農耕、飲用物として恵んでいただくという姿を示すものといわれている。

当神社の境内は、今でも絶え間なく大気を浄化し地中深く伏流水を蓄えて、地上を潤し続けている。
この井戸は夏のひと時を除いて、水量豊かなるが故、深さ3m余の浅井戸である。ポンプのバルブをひねると、一分間に18リットル、つまり一升瓶にして10本、一時間当たり600本、一日では14,400本の水を汲みだせますが、実際はその10数倍が可能であり、その折、井戸の下部の側壁の穴より清冽な水が激しく流入する様は、正に神井と呼ぶのに相応しいものである。
神社の祭典には、この水を神饌に用いて神前にたてまつっていることは勿論、神聖な力を備えた霊水として崇拝され、病気平癒、茶道、書道上達などの神徳を人々に授けている。

又、若水とは元旦の早朝に奉献せし御神水にして この井の水は古来若狭の若返りの水としてその名高く、これを拝載すれば邪気を払いて清朗快活延命長寿を保つと伝えられている。

境内案内板より

神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

東小浜駅から 県道146号経由 約750m 徒歩10分程度

若狹姫神社 下社Wakasahime Shrine shimoshaに到着

境内のすぐ脇を道路が通り 大きな石灯篭と 由緒記が道路に建ちます
おそらく 元の境内地が道路の拡張等で道路になってしまったのでしょう

玉垣が廻されている境内と道路の淵をせせらぎのように 綺麗な水が流れています もしかすると上社の辺りからご神水が流れてきているような気がします

玉垣の手前には社号標「國幣中社 若狭姫神社」とあり せせらぎには石の神橋が掛かります 玉垣に張られている「秀麗 千年杉」の看板を見ながら境内に入ります

参道には「下宮」の立札があり 一礼して木の鳥居をくぐります

右手には「社務所」があります 上社と下社の共通の社務所ですので 御朱印やお守りなどは下社の社務所で頂戴します 上社はお詣りをしていますので 御記帳をお願いして 下社のお詣りです
社務所の手前に手押しポンプの井戸があり「手水井」と書かれています

宮司様があちらでどうぞと声を掛けられて 見てみると左手に「手水舎」があり 清めます

左手には江戸時代に奉納された「弁才船模型」が飾られています

遥拝所があります 立札が2札あって

「創祀の社(そうきのやしろ)鵜の瀬 白石神社 遥拝所」南4.6km
「上宮(うえのみや)    若狭彦神 遥拝所」南1.5km

それぞれに書かれています お詣りは済ませていますが 賽銭をおさめ お詣りをします

正面には楼門が建ち 随身(吉祥八人)が 上社・下社の楼門に八柱づつ安置してあるとあります 若狭彦神・若狭姫神がこの地にご鎮座になったとき お供をした眷属(けんぞく)郎党の方々とあります 一礼して楼門をくぐります

楼門をくぐっるとご神域の境内地となります 上社もそうでしたが 下社も共に 境内に・本殿・神門・(何かの殿の跡地)・楼門の3つの建物が一直線に配置されて共通の特徴をもっていて 二つの神社はとても良く似ています

ただ 大きな相違としては 本殿を眺めると左側に「千年杉」と言われる大杉の大木があり ご神威を感じる正しく御神木です

案内の立札には 不老長寿の信仰とされている様子

御神木 千年杉
瑞垣内の巨樹は遠敷の千年杉と称えられた千古厳然と聳える霊木である
年々豊かに新緑の加わる様は実に神木の名にふさわしく 古来 不老不死長寿の象徴として篤く信仰される所以である

別の案内板には

御神木・千年杉
瑞垣内の大樹は、若狭の国に若い息吹をこめる神、若狭一宮の神と称えられ、千古厳然と聳える霊木である。
水配りの御神徳をいただき、年々豊かに新緑の加わる様は実に神木の名にふさわしく、古来、不老長寿の象徴として篤く信仰される所似である。

朝廷より 神馬献上の社
 絵馬の歴史を振り返るとき、古代において馬は、神の乗りものとして神聖視され、よって神霊を和らげまつり、祈願のために神馬の献上が行われていた。
「続日本記」によれば、宝亀元年(今より1200余年前)8月庚寅朔日、蝕ありし時、勅使を使わされて、伊勢大神宮(伊勢神宮)に赤毛馬を、若狭彦神(若狭一ノ宮)に鹿毛馬を奉るとある。
日蝕に対する呪術的儀礼として、太陽の衰弱を回復させるための献上であり、鹿毛の馬は赤毛(赤毛が火の色と関連する)に準じたものといわれ、世に名高い記事である。

千年杉の他にも下社の境内には多くの巨木が茂っています
乳神様と呼ばれる大きな銀杏があります

乳神さま(ちちがみさま)
この大銀杏(公孫樹(いちょう))は枝の下から豊満な乳房の如き乳根が垂れ下がっているので、古来、妊婦や母乳の少ない人々が祈願をこめると豊かな乳を授かると伝えて、豊玉姫命(若狭姫大神)の安産の御霊験と共に広く婦人の信仰を集めている。
古語に母親のことを垂乳根(たらちね)というのは、このような姿に由来する。

案内立札より

神門にすすみます 

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

境内社にお詣りをします
能舞台のような立派な舞殿がありますが老朽化しています

本殿と神門の正面に立ち 深く一礼をします

楼門をくぐり戻ります

鳥居まで戻ると立て看板があり 次のようにあります

見返り鳥居

この鳥居の下で、後方の楼門の屋根高く聳えています
千年杉を
今一度、仰ぎ見られますとと共に、
若狭の国鎮守下社(しものみや)
若狭姫の神とたたえます
竜宮の乙姫さま
豊玉姫命に、お別れいただきます。

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『続日本紀(shoku nihongi)』宝亀元年(770)81日条に記される伝承

宝亀元年(770)8月1日に日蝕があった時に 勅使を遣わして 伊勢神宮に「赤毛馬」2匹を奉ると記された後に 宇佐八幡宮と伴に当社にそれぞれ「麻毛馬」を一匹と記されていて 皇室から尊ばれた日本を代表する2つの神社と併記されている点から 相当な格式の高さを誇っていたことが推測できます

日蝕に対する呪術的儀礼として 太陽の衰弱を回復させるための献上で 鹿毛の馬は赤毛(赤毛が火の色と関連する)に準じたものといわれます

意訳

「若狭国の目(sakan)[国司の第四等官]・従七位下の伊勢朝臣諸人と内舎人・大初位下の佐伯宿禰老を遣わし「麻毛馬」を若狭彦神(若狭彦神社)と八幡神宮(宇佐八幡宮)に 各一匹を奉納す」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』』延暦16年(797年)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』貞観元年(859)正月27日甲申条に記される伝承

・上社・下社がともに 神階を上げています

意訳

「 若狭国 従二位勲八等の若狭比古神(上社)は正二位へ 正三位の若狭比咩神(下社)は従二位へ 」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=

『和漢三才図会略(Wakansansai zue)』巻71若狭国 に記される伝承

『若狭国風土記』逸文(『和漢三才図絵』所収)には
一宮(若狹彦神社)の神について 若狭には長生きした容貌の若い夫婦がのちに神となり祀られている としていて それにちなんで若狭の国と称したと記されています
その後に「遠敷大明神」(若狹彦神社2座)が記されています

意訳

風土記に云う

昔 此国に男女有りて夫婦と為る 共に長寿にして 人その年齢を知らず 容貌は若くして 少年の如し 後 神と為る 今の一宮の神是也
因りて 若狭国の名有り」

 

遠敷大明神(おにだいみょうじん)

祭神 上宮 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
下宮 豊玉姫(とよたまひめ)

彦火火出見尊が 海神の宮で 海神(わたつみのかみ)の娘「豊玉姫」を娶り・・・・・・・・・・
按拠 風土記により  その後 還り来て 夫婦共に当国に於いて住まうか

【原文参照】『和漢三才図会略』刊本(跋刊)正徳05年(江戸時代中期)編者:寺島良安 [旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000037210&ID=M1000000000000047412&LANG=default&GID=&NO=1&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1画像利用

若狹姫神社 下社Wakasahime Shrine shimosha (hai)」(90度のお辞儀)

若狭彦大神Wakasahiko no okami)を祀る
若狹彦神社 上社Wakasahiko Shrine Kamisha)の記事をご覧ください

一緒に読む
若狹彦神社 上社(小浜市)

若狹彦神社は 上社「若狭彦神社」と下社「若狭姫神社」の総称で 2つの神社で若狭国の一宮とされています 上社「若狭彦神社」は 和銅7年(714年)今の遠敷郡下根来村白石に創られたと云われ 霊亀元年(715年)に現在の地に遷座しました 下社「若狭姫神社」は 上社から北1.5kmの遠敷(onifu)の里にあり 6年の後の養老5年(721年)の鎮座と伝わります 

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