若狹彦神社は 上社「若狭彦神社」と下社「若狭姫神社」の総称で 2つの神社で若狭国の一宮とされています 上社「若狭彦神社」は 和銅7年(714年)今の遠敷郡下根来村白石に創られたと云われ 霊亀元年(715年)に現在の地に遷座しました 下社「若狭姫神社」は 上社から北1.5kmの遠敷(onifu)の里にあり 6年の後の養老5年(721年)の鎮座と伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
若狹彦神社 上社(Wakasahiko Shrine Kamisha)
(わかさひこじんじゃ かみしゃ)
[通称名(Common name)]
若狭一の宮・上下宮(Wakasaichinomiya・jogegu)
【鎮座地 (location) 】
福井県小浜市龍前28-7
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
上社
《主》若狭彦大神(Wakasahiko no okami)
同一神 彦火火出見尊(Hikohohodemi no mikoto)
下社
《主》若狭姫大神(Wakasahime no okami)
同一神 豊玉姫命(Toyotamahime no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・海上安全 Maritime safety
・海幸大漁守護 The guardian deity of the big catch of seafood
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載社(名神大)
・ 若狭国一之宮(Wakasa no kuni ichinomiya)
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
奈良時代 霊亀元年(715年)乙卯9月10日
若狭彦神社は若狭彦神社(上社)と若狭姫神社(二社)に分かれていますが 当神社は上社にして 奈良時代の霊亀元年(715年)の鎮座であります
海幸山幸の神話で名高い彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を若狭彦神とたたえておまつりしてありますここより北1500mの遠敷(おにう)の里に下社があります
当神社より6年の後 養老5年の鎮座にして豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を若狭姫神とたたえておまつりしてあります両社を併せて上下宮(じょうげぐう)とも若狭一の宮とも総称しますが 平安時代の延喜式にも名神大社として記載された若狭の国きっての格式の高い古社であります
なお当神社では 従来一般の御祈祷(家内安全、厄除、生業繁栄、初宮詣、交通安全、その他諸々の祈願)や神符守札の授与その他社務一切を下社において教行しておりますので ご用のあります方は 下社の若狭姫神社までお越しください
境内掲示板より
【由 緒 (history)】
若狭彦神社
由 緒
若狭彦神社の上社の祭神は「彦火火出見尊」で「若狭彦大神」と称え奉り、下社の祭神は「豊玉姫命」で「若狭姫大神」と称え奉る。
若狭国遠敷郡西郷ノ内、霊河の源、白石の上に、先ず彦神、次いで姫神が降臨されたので、その地に仮に社殿を営み、後、元正天皇の霊亀元年(715)9月10日に今の地に遷し奉ったと伝えている。
古来から若狭国の「一の宮」として信仰されているが、殊に、水産業者には、海上安全、海幸大漁の守護神として崇敬されている。
また、奈良東大寺二月堂の「若狭井」の水源と伝えられる鵜の瀬の霊域は、当社の飛地境内地で由緒が深い。
下社は、元正天皇の養老5年(721)2月10日に豊玉姫命を遠敷の里に奉祀した。
古来から若狭国「二の宮」として信仰されている。延喜式神名帳に「若狭比古神社 二座 名神大」と記載されているように上社と下社とを合せて「若狭彦神社」と尊称している。
天慶3年(940)正月6日に上社に「正一位」、永保元年(1081)に下社に「正一位」の高い神階を給い、明治4年5月に上社下社共に國幣中社に列せられた。御神徳は広大無辺で、称徳天皇が神護景雲4年(770)に鹿毛馬を献ぜられたのを始め、歴朝の御崇敬。
国司、守護、領主、藩主、武士、庶民一般の「守護神」として深く信仰されてきた。楼門に安置してある随身は、御祭神の降臨の時にお供をされた神々である。
境内は、千年杉をはじめ老樹亭亭と聳え、閑雅幽邃の地で、神威渺渺とした神域である。
若狭彦大明神が、宇多天皇の御子敦実親王に告げられた「四神の御歌」。
みな人の 直き心ぞ そのままに
神の神にて 神の神なり福井県神社庁HPより
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・若宮神社(Wakamiya shrine)
《主》鸕鶿草葺不合尊(Ugayafukiaezu no mikoto)
《合》大山祇神(Oyamatsumi no kami)
蟻通神(Aridoshi no kami)
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・小浴神社(Koami shrine)
《主》若狭彦神(Wakasahiko no kami)
若狭姫神(Wakasahime no kami)
※『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』の論社です
小浴神社(Koami shrine)の記事をご覧ください
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小浴神社(小浜市金屋)
小浴神社(こあみじんじゃ)は 『延喜式神名帳』の論社とされる古社です 鎮座地の小浜市金屋は かつての若狭国府の故地とされていて 小浴神社には かつての「惣社」が合祀された その惣社には 国宝級の絵巻が伝わっている新八幡宮(もともとあった小浜八幡に対して「新」八幡)が含まれていたのであろうと言われています
・白石神社(Shiraishi shrine)
《主》若狭彦神(Wakasahiko no kami)
若狭姫神(Wakasahime no kami)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)若狭国 42座(大3座・小39座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)遠敷郡 16座(大2座・小14座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社名 ] 若狭比古神社二座(名神大)
[ふ り が な ](わかさひこの かみのやしろ にざ)(みょうじんだい)
[How to read ](Wakasahikono kamino yashiro niza)(Myojindai)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
神社創建の地「鵜の瀬」と「お水送り」の神事について
「鵜の瀬」は若狹彦神社 上社(Wakasahiko Shrine Kamisha)創建の地とされています
若狭彦神社 創建
小浜市下根来白石に鵜の瀬というところがある。
遠敷川の清流が巨巌に突き当たって淵をなしておる。この巨巌の上に、先づ若狭彦神、次いで若狭姫神が降臨されたと伝える。この南方150mのところに、創祀の社と伝える白石神社がある。
その後、永久鎮座の地をもとめて、若狭国を巡歴なされた末、
霊亀元年九月十日に、龍前に若狭彦神社、六年の後、即ち、養老五年二月十日に、遠敷に若狭姫神社が鎮座。上下分かれての鎮座は、深き幽契の存するところと恐察しまつる。
神社配布パンフレットより
「お水送り」の神事について
若狭彦神社の神事として「お水送り」が名高い神事として知られますが
当地の伝承によれば
ある年 実忠和尚は奈良の東大寺二月堂の修二会で神名帳を読み全国の神を招いた この時 漁が多忙で参集に遅れた若狭国の「遠敷明神(おにゅうみょうじん)」が 遅参のお詫びに 二月堂のほとりに清水を湧き出させ 本尊の十一面観音にお供えの閼伽水を送ると神約したと伝わります
鵜ノ瀬は 二月堂の若狭井に通じているとされていて 旧暦2月に鵜の瀬で二月堂に水を送る「お水送り神事」が行われ その水を受ける祭事が二月堂の「お水取り」の始まりとされています
この遠敷明神は 若狭姫神社の祭神「若狭姫神=豊玉姫命」で 東大寺の二月堂の右手裏に遠敷神社(Onyu Shrine)があります
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
小浜駅からR162号経由 約5.7km 車15分程度
東小浜駅から 南へ約2km 竜前にある長尾山の麓
若狹彦神社 上社(Wakasahiko Shrine Kamisha)に参着
社号標には「國幣中社 若狹彦神社」とあります その後ろに「由緒記」があります
大きな石灯篭の後ろは玉垣が廻されて境内地 すぐ狛犬が構え 鳥居が建ちます
狛犬は 逞しい前足の筋肉と胸の張りが独特です
一礼して鳥居をくぐり抜けます
参道を進むと 二本の大杉が参道の両側に並び立ち「二の鳥居」と考えられているようです
参道は右に曲り 角には石灯篭が灯されています 湧水のせせらぎに神橋が掛かり その先には 楼門が建っています
楼門には 御祭神の降臨の時にお供をされた神々を隋神としているとあります
一礼をして くぐり抜けます
敷地は広く 正面には 以前に何か殿があったであろう礎石が残り その先に神門と御垣に囲まれて 本殿が建ちます
立て看板があり「まず手水を使用され ①御本社に参拝➁若宮社に参拝の順でお進み下さい」とありますので 手水を探すと左手にありました
宮の森に湧いた水「伏水の幸」とあります 気持ちよく手水で清めます
実に綺麗な水です
ふと 水中に「オタマジャクシ」のようなものが泳いでいてと 良く覗いてみると「山椒魚(Sanshoo)」です 神社の手水にサンショウウオが生息しているのを始めてみました
秋の季節に何度か参拝していますが いつも居ますので生息しています それだけ水が綺麗だという事です
参拝順に従い
神門にすすみます
神門の柱には 若狭彦大明神が 宇多天皇の御子敦実親王に告げられたと伝わる「四神の御歌」が掲げられています
みな人の 直き心ぞ そのままに
神の神にて 神の神なり
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
鈴を鳴らします
この鈴は 明治38年(1905)に寄進されたと記されています
社殿の向かって 御垣の右側に鎮座する境内社にお詣りをします
・若宮神社(Wakamiya shrine)
《主》鸕鶿草葺不合尊(Ugayafukiaezu no mikoto)
《合》大山祇神(Oyamatsumi no kami)
蟻通神(Aridoshi no kami)
御垣越に斜めから本殿の屋根が見えます
境内を後にして楼門に向かいます
行きには気が付きませんでしたが 楼門をくぐり抜けて参道に出ると 正面には「若狭一の宮 夫婦杉」とあります
上を見上げると見事に2本の幹が 真っ直ぐに天に向かって伸びています
賽銭箱もあり お詣りです
二の鳥居と考えられている杉の大木の間を抜けて参道を戻ります
鳥居をくぐり 振り返り一礼をします
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『続日本紀(shoku nihongi)』宝亀元年(770)8月1日条に記される伝承
伊勢神宮に「赤毛馬」2匹と記された後に 宇佐八幡宮と伴にそれぞれ「麻毛馬」を一匹と記されていて 皇室から尊ばれた日本を代表する2つの神社と併記されている点から 相当な格式の高さを誇っていたことが推測できます
意訳
「若狭国の目(sakan)[国司の第四等官]・従七位下の伊勢朝臣諸人と内舎人・大初位下の佐伯宿禰老を遣わし「麻毛馬」を若狭彦神(若狭彦神社)と八幡神宮(宇佐八幡宮)に 各一匹を奉納す」
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【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』』延暦16年(797年)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用
『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』貞観元年(859)正月27日甲申条に記される伝承
・上社・下社がともに 神階を上げています
意訳
「 若狭国 従二位勲八等の若狭比古神(上社)は正二位へ 正三位の若狭比咩神(下社)は従二位へ 」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=
『和漢三才図会略(Wakansansai zue)』巻71若狭国 に記される伝承
『若狭国風土記』逸文(『和漢三才図絵』所収)には
一宮(若狹彦神社)の神について 若狭には長生きした容貌の若い夫婦がのちに神となり祀られている としていて それにちなんで若狭の国と称したと記されています
その後に「遠敷大明神」(若狹彦神社2座)が記されています
意訳
「 風土記に云う
昔 此国に男女有りて夫婦と為る 共に長寿にして 人その年齢を知らず 容貌は若くして 少年の如し 後 神と為る 今の一宮の神是也
因りて 若狭国の名有り」
「遠敷大明神(おにふだいみょうじん)
祭神 上宮 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
下宮 豊玉姫(とよたまひめ)彦火火出見尊が 海神の宮で 海神(わたつみのかみ)の娘「豊玉姫」を娶り・・・・・・・・・・
按拠 風土記により その後 還り来て 夫婦共に当国に於いて住まうか 」
【原文参照】『和漢三才図会略』刊本(跋刊)正徳05年(江戸時代中期)編者:寺島良安 [旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000037210&ID=M1000000000000047412&LANG=default&GID=&NO=1&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1画像利用
若狹彦神社 上社(Wakasahiko Shrine Kamisha)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
若狭姫大神(Wakasahime no okami)を祀る
若狹姫神社 下社(Wakasahime Shrine)の記事をご覧ください
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若狹姫神社 下社(小浜市)
若狹姫神社 下社は 若狭彦神社 上社と2社で一つの神社「若狭国一の宮」とされています 上社「若狭彦神社」は 和銅7年(714年)に今の遠敷郡下根来村白石に創られたと云われ 霊亀元年(715年)に現在の地に遷座しました 下社「若狭姫神社」は 上社から北1.5kmの遠敷(onifu)の里にあり 6年の後の養老5年(721年)の鎮座と伝わります
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
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若狭国 式内社 42座(大3座・小39座)について に戻る
若狭国(わかさのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 若狭国には 42座(大3座・小39座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
若狭國 式内社 42座(大3座・小39座)について