右内神社(うないじんじゃ)は 下田街道の左右に「左内神社」とともに 三嶋大社の御門守護神として 鎮座していたと伝わります 源頼朝公が伊豆に配流されていた頃 源氏再興を願い三嶋大社への参拝途上で 度々参詣したといわれています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
右内神社(unai shrine)
(うないじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (location) 】
静岡県三島市梅名1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》櫛石窓命(kushiiwamado no mikoto)
【御神格 (God's great power)】
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 三嶋大社の御門守護神
【創 建 (Beginning of history)】
右内神社 (うないじんじゃ)(梅名)
この社の祭神は櫛石窓命(くしいわきまどのみこと)で、梅名区に祀られた神社です。近くに梅名川に連なる「うなぎの池」と呼ばれる池があり、そこには三嶋大明神の使者と言われた鰻(うなぎ)が川を下って集まり、冬越えをしたと言われています。それでこの神社は「うなぎの宮」と呼ばれ、氏子(うじこ)は鰻を食べない習慣が明治の初めごろまであったと言われています。
左内神社とともに三嶋大社の御門の守護神で、下田街道を挟んで左右に祀られ、古くから武家に敬(うやま)われていました。種々の文書(もんじょ)や宝物がありましたが、火災に遭い、ことごとくなくなってしまいました。
→ うなぎ出典 『三島市誌 下巻』p.569、『田方神社誌』p.10三島市役所HPより抜粋
【由 緒 (history)】
三島市梅名壱番地鎮座
右内神社
祭 神 櫛石窓命(くしいわまどのみこと)
由 緒
富士をはじめ諸峰を遠望でき 清らかな水が流れるこの地に地主神を奉斎したのが当神社の始まりと考えられるが
社伝や古記録によると 永承5年(1050)三嶋大社の北遷と共に 賀茂の地より御門の守護神として 櫛石窓命が現在の地に奉斎され 翌年には従三位という高い神階が授けられ 国家の祭祀に預かったことが伺える
爾来 960余年に亘り三嶋大明神の伴神として 隣町の左内神社と共に下田街道の要衝左右に鎮座する
中世以降 源頼朝の尊崇を始め 地元の武将の崇敬殊に篤く 神領・神宝・文書多数所有していたが 現在は文禄 慶長の古文書三通 永承年間と伝わる棟札書 慶長・正徳・宝暦・慶応・明治各年間の棟札が大切に受け継がれている祭 日
祭典は10月18日の例祭を始め 1月1日に歳旦祭
9月1日に風祭を斉行している境内社
境内には 大山祇命・軻遇突智命・皇産霊神・管原大神・厳島姫神・中津小童命・金刀比羅神・金山彦神・素戔嗚命を祀る末社がある平成24年 壬辰年10月吉日
三嶋大社 右内神社 宮司 矢田部正巳 撰
三嶋大社 権宮司 近藤 亘 書社頭掲示板
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・境内社8社合殿
「淡島神社 秋葉神社 第六天社 天満宮 床浦神社 金比羅宮 山神社 社護神社」
・境内社4社合殿
「天王社2社 八幡宮 道祖神」
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
2つの論社(賀茂郡「伊波氐別命神社」・田方郡「阿米都瀬氣多知命神社」)とされています
①賀茂郡「伊波氐別命神社」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内 小社
[旧 神社名 ] 伊波氐別命神社
[ふ り が な ](いはてわけのみことの かみのやしろ)
[How to read ](ihatewake no mikoto no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
➁田方郡「阿米都瀬氣多知命神社」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田方郡 24座(大1座・小23座)
[名神大 大 小] 式内 小社
[旧 神社名 ] 阿米都瀬氣多知命神社
[ふ り が な ](あめつせのけたちのみことの かみのやしろ)
[How to read ](ametsuseno ketachino mikoto no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
源頼朝公が伊豆に配流されていた頃 源氏再興を願い三嶋大社への参拝途上で 度々参詣したといわれています 頼朝公にまつわる伝承が残されています
梅名の伝承と史跡
頼朝公の手洗水・駒止橋
右内神社頼朝公伝説源頼朝公は、伊豆韮山に配流されていた
若き頃、崇敬する三島大明神に源氏再興の大願をかけ、百日参籠をする道すがら、この右内神社にもたびたび立ち寄ったと言われている。
ある時、右内神社の参道に手洗水がなかったので、従者に持たせた長刀で地面を突くと、不思議にもそこから潭々ヒ清水が湧き出したと言う。
村人達はその奇蹟に驚き、語り伝えて
「頼朝公手洗水」と呼ぶようになった。
また、今も在庁道(現国道136号)から分かれて神社の北側を通る道があるが、当時そこに架かっていた小さな橋のたもとで、従者の安達藤九郎が、馬を止め、水を飲ませて休ませた事から、「駒止めの橋」の名が残っている。梅名自治会 梅名郷土史研究会
境内の案内板より
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
大場駅から 県道141号を北西へ 約1.3km 車で5分程度
梅名川西岸に鎮座します
右内神社(unai shrine)に到着
道路側には 南を向く社頭があり 社号標には「延喜式内 村社右内神社」とあります 常夜燈があり 白い明神鳥居の扁額には「右内神社」と掲げられています
一礼して鳥居をくぐり抜けると 境内の右手は子供の遊具等が置かれています
参道を進むと境内には3個の力石が置かれています
旧中郷役場(中郷公民館)付近から移された3つの力石で
左側【ちから石】立石一俵(34貫)米1俵を持ち上げたと立証
中央【 女石 】(23貫)力自慢の女性が担ぎ上げたとされる石
右側【 乞食石】(32貫)働き口を求め村に来た若者がいて 村人立ち合いで力試しをするも 担げずに村を逃げ出したので この石名が付いた
参道の真正面 5段程石段を上がった高さに社殿が建ちます
拝殿にすすみます
扁額には「延喜式内 右内神社 三嶋神社宮司・矢田部盛次拜書」とあります
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿左の境内社にお詣りします
源頼朝が百日祈願の折に、手洗水を湧出させたという「頼朝公手洗水址碑」横に石を刳り抜いた「手水鉢」がありますが この地は もともと「宇米津の池」などのある湿地帯ですので 本当の話であるかと想われます
「頼朝公手洗水址碑」のすぐ後ろには柵に囲まれて「宇米都之池碑」がある小さな池があります
参道を戻り 境内を後にします
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『三島の昔話』に記される 現地名「梅名」伝承について
著者 三島市郷土館 出版社 三島市教育委員会 刊行年 H4より
梅名の地名は 梅津を意味して 右内神社の西側にあった「宇米津の池」について記されています 氏子は鰻を食べない習慣が 明治の初めごろまであったと言われています
原文
「 宇米津の池は、埋めずに埋められて、今はその痕跡も残っていません。その場所は梅名の右内神社の西側で、約二反歩(約二〇アール)ほどの広さであった、といわれています。豆州志稿に依りますと、
「宇米津(うめず)」は右内神社の祭神「阿米津気瀬多知(あめずきせたち)命」の「阿米津(あめず)」が転訛したものであろう、と述べています。昔は梅名川が大きな川で、この付近で二つに分かれ、右内神社はちょうどその中島に祀られていたのです。つまり、宇米津の池は、梅名川に連なっていたことになります。
ところで里人は、この池を「うなぎの池」と呼んでいました。
それは、三嶋大明神の使者といわれた「うなぎ」が、梅名川(上流は三島の御殿川や、桜川となっています)を下ってこの池に集り、冬越えをするといわれていたからです。こんなわけで、右内神社の森を「うなぎの森」と呼ぶようになりました。昔は、今よりももっと大きく、りっぱな森だったそうです。
里人は、この池のうなぎをたいそう大切にして、誰れ一人捕える者がなかった、といわれています。若し捕える者があれば、たちまち神罰を受けて、「毛の無い児が生まれる」といわれたそうです。 」
『豆州志稿(zushu shiko)』に記される伝承
『豆州志稿(zushu shiko)』は江戸時代に編集された伊豆地方の代表的な地誌
意訳
「 伊波氐別命神社(ihatewakeno kamino yashiro)
慶長9年(1604)の上梁文(上棟式の祝文)にいわく「天石戸別(あめのいはとわけ)」又の名は「櫛石窓(くしいわまど)」また「石窓神」これ御門の神なり 本号「右内明神」と延喜式の賀茂郡に載ります
又 上梁文(上棟式の祝文)にも賀茂郡田方荘の梅名村としていますなんで 大社の内列遷座するを以って 祠地のみ賀茂郡とするを大社の例の如きか 禰宜 朝立氏 」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 選者:秋山章/校訂者:秋山善政[数量]15冊[書誌事項]写本 弘化04年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002883&ID=M2018051109165431627&TYPE=&NO=
左内神社とともに三嶋大社の御門守護神として 下田街道の左右に鎮座しいてたと伝わります 源頼朝公が伊豆に配流されていた頃 源氏再興を願い三嶋大社への参拝途上で 度々参詣したといわれています
右内神社(unai shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
三嶋大社の御門守護神として 下田街道の左右に鎮座しいてたと伝わる「左内神社」の記事もご覧ください
左内神社(さないじんじゃ)は 三嶋大社の御門の守護神として 右内神社とともに下田街道の左右に祀られていました その旧鎮座地は手無という地名です 『延喜式神名帳』の論社とされいて 手無にある「手無地蔵」は「式内社・文梨神社」の旧社地とも云われます 更に通称名として「天地(ame tsuchi)宮」とも呼ばれていて「式内社・阿米都知(ame tsuchi)命神社」の論社とも云われています
左内神社(三島市中島)
三嶋大社の記事もご覧ください
三嶋大社(みしまたいしゃ)は 古くから伊豆諸島の噴火・造島活動を司る神として 朝廷の尊崇を受ける 伊豆国一之宮です 平安中期以降に伊豆国賀茂郡から現在地に移ったとされ 平安末期には源頼朝が 源氏の再興を願い参詣祈願の後 治承4年(1180)旗挙げを果たし 鎌倉武家政権を樹立し 鎌倉幕府崇敬の神社となり 現在に至ります
三嶋大社(三島市大宮町)〈延喜式内社 名神大社・伊豆國一之宮〉
伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る
伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豆国には 92座(大5座・小87座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
伊豆國 式内社 92座(大5座・小87座)について