都々地神社(つつちじんじゃ)は「社伝では 当初 矢立山の山頂に神籬あり その後 遷座す」とあり 遷座後は 対馬で一番高い山 矢立山(648m)の遥拝所であると伝わり 現在は 矢立山の西に位置する集落 久根田舎(クネイナカ)の銀山上神社の境内社となっています 対馬の異伝承では 矢立山は「第11代 垂仁天皇の皇后 狭穂姫(サホヒメ)が 隠れ たまわれた所で 元矢立 あるいは 矢干山の元山 と称する」と云われ謎を持ちます 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社でもあります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
都々地神社(Tsutsuchi Shrine)
(つつちじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
長崎県対馬市厳原町久根田舎507
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》建禰己己命(Takemikoko no mikoto)
※先代旧事本紀 巻第10 国造本紀 津島県直条に
「高魂命の5世孫 建弥己己命(タケミココノミコト)を 改めて 神武天皇の御代に 津島(対馬)縣主となす」
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
・社伝では 初代 神武天皇の御代〈在位 BC660~BC585年頃〉
【由 緒 (History)】
・社伝では 当初 矢立山の山頂に神籬あり その後 遷座す〈時期は不明〉
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・山形神社・十善神社
《合》狭穂姫命(Sahohime no mikoto)
対馬の異伝として 矢立山は 第11代 垂仁天皇の皇后「狭穂姫(サホヒメ)」が隠れたまわれた所なので 元矢立 あるいは矢干山の元山と称する伝承が残りますが その狭穂姫命(Sahohime no mikoto)をご祭神としています
県道24号を 久根田舎から小茂田へ向いすぐ道沿いに鎮座
鳥居をくぐり 境内に入ると 参道は左右に分かれていて 中央に境内社の祠が1座 右の参道の上には 神社が1座 このどちらかが・山形神社・十善神社だと思います
左の参道の先の建屋の内部には おそらく薬師如来を祀ると想われ
その奥には 矢立山を遥拝する 祭祀処〈対馬特有の平石を組んだ社〉があります
この建屋が拝殿の役割をしているのだとすると 祭祀処〈対馬特有の平石を組んだ社〉が ・山形神社・十善神社かもしれません
参道を戻ります
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)対馬島 29座(大6座・小23座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)下県郡 13座(大4座・小9座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 都々智神社
[ふ り が な ](つつちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tsutsuchi no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の「對馬嶋下縣郡 都々智神社」には 3つの論社があります
・都々地神社(対馬 久根田舎)〈銀山上神社 境内摂社〉
都々地神社(つつちじんじゃ)は「社伝では 当初 矢立山の山頂に神籬あり その後 遷座す」とあり 遷座後は 対馬で一番高い山 矢立山(648m)の遥拝所であると伝わり 現在は 矢立山の西に位置する集落 久根田舎(クネイナカ)の銀山上神社の境内社となっています 対馬の異伝承では 矢立山は「第11代 垂仁天皇の皇后 狭穂姫(サホヒメ)が 隠れ たまわれた所で 元矢立 あるいは 矢干山の元山 と称する」と云われ謎を持ちます 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社でもあります
都々地神社〈銀山上神社 境内摂社〉(対馬 久根田舎)
・都々智神社(対馬 今里)
都々智神社(つつちじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「對馬嶋下縣郡 都々智神社」の論社です 本来の 参拝路は 海路になっていて 通常は 尾崎漁港から船で詣でることになります あえて陸路の場合は 山道を越えて向かうところに鎮座します
都々地神社(対馬 今里)
・都々智神社(対馬 尾崎)
都々智神社〈遥拝所〉(つつちじんじゃ)〈ようはいじょ〉は 里人が ここから〈本殿・ご神体〉を遥拝する所〈遥拝所〉なので 里宮と呼ばれます 潮の満ち引きに合わせて 海中に参道が現れて 参拝が出来るようにつくられている この海の参道は 都々智神社の〈本殿・ご神体〉が鎮座する 今里海岸の北西方向へと向いています
都々智神社(対馬 尾崎)〈遥拝所〉海の中に鳥居のある神社
当神社「都々地神社(対馬 久根田舎)」は
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の論社 「對馬嶋下縣郡 銀山上神社」の境内に鎮座しています
・銀山上神社(対馬 久根田舎)
銀山上神社(ぎんざんじょうじんじゃ)は 『日本書紀(にほんしょき)』第40代 天武天皇 即位3年(674)の条に「対馬の国守から 銀が産出しました」と記され 佐須(さす)銀山は 日本で最初に銀が発掘された地と伝わります 又 源平の壇ノ浦の戦いで崩御された第81代 安徳天皇〈在位1180~1185年〉は 実は難を逃れ この久根田舎で暮らされて そして亡くなられたと言う伝承があり なんと御祭神として祀られています
銀山上神社(対馬 久根田舎)第81代 安徳天皇〈在位1180~1185年〉は難を逃れ 皇居をこの地に定められ崩御されたと伝わります
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
厳原フェリー港から 県道192号と24号経由 西へ約23km 車35分程度
銀山上神社の境内に向かいます
銀山上神社の本殿 向かって右手の祠に鎮座
都々地神社(Tsutsuchi Shrine)に参着
祠にすすみます 祠の土台には 小さな狛犬が置かれています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
矢立山古墳(ヤタテヤマコフン)と狭穂姫(サホヒメ)の伝承について
矢立山古墳(ヤタテヤマコフン)の特徴として 九州では類を見ない 中央官人(カンジン)の最新墓制だった方形段築墳の採用や・・副葬品(フクソウヒン)から 中央政権との深い歴史的関係が窺(ウカガ)える終末古墳群である と記されていて 第11代 垂仁天皇の皇后「狭穂姫(サホヒメ)」が隠れたまわれた所と云う 対馬の伝承と一致していることに非常に興味が湧きます
史跡 矢立山古墳群(やたてやまこふんぐん)
国指定 昭和51年12月27日
平成17年7月14日(一部解除及び追加並びに名称の変更)ここから約38m(比高)登った大隈山(おおぐまやま)中腹の地蔵壇(じぞうだん)と呼ばれる広い平坦地にある。
東西に山の支脈が延び、眼下の佐須川(さすがわ)を挟んだ南に金田山(かんだやま)が聳(そび)える立地選定には、いわゆる「蔵風得水(ぞうふうとくすい)の地」と呼ばれる風水思想が深く関わっていると考えられる。
昭和23(1948)年の東亜考古学会による学術調査以降、一、二号墳は円墳とされてきたが、平成12(2000)年に始まった厳原町と福岡大学による調査で、九州では類のない積石方形段築墳(つみいしほうけいだんちくふん)であることが明らかになった。
また北に見つかった三号墳が横穴式石室(よこあなしきせきしつ)を内部主体とする積石塚(つみいしづか)長方形墳であることも分かった。二号墳の石室は平面がT字形をなす全国的にも珍しい古墳である。
中央官人(かんじん)の最新墓制だった方形段築墳の採用や、金銅装太刀(こんどうそうたち)、銅鋺(どうわん)といった政権(せいけん)からの下賜品(かしひん)とみられる副葬品(ふくそうひん)の存在から、7世紀代の東アジア情勢を背景とした大和(やまと)政権との深い歴史的関係が窺(うかが)える終末期古墳群である。 対馬市教育委員会現地案内板より
対馬の異伝として
矢立山は 第11代 垂仁天皇の皇后「狭穂姫(サホヒメ)」が隠れたまわれた所なので 元矢立 あるいは矢干山の元山と称すると伝承が残ります
矢立山古墳群保存整備事業報告書 2015 対馬市教育委員会 より抜粋
(史跡等・登録記念物・歴史の道保存整備事業)序文
・・・・
それまで「狭穂姫」か眠る墓として言い伝えられていた神妙な塚が 初めて「古墳」として考古学な評価を得たのです・・・・第1節 地理的環境
矢立山古墳群は対馬の南部西岸にある。行政上は対馬市厳原町下原字矢立5番ほかに所在する。・・・・・・・・・・・・・・・
第2説 歴史的環境
・・・・・・・・・
小茂田(佐須浦)は元寇上陸の地として有名である。また佐須は『日本書紀』天武天皇3年(674)3月条にみえる銀山の比定地で、樫根には式内社の銀山神社ずある。銀山については『三代実録』貞観7年(855)、『續日本紀』大宝元年(701) 3月21日条、『対馬国貢銀記』に関係の記述がある。・・・・・・第3節 矢立山古墳群
第1項 研究史・・・・・
これを参照したものでであろうか.昭和3(1928)年7月刊行の『對馬島誌』にも第1編及び第2編で「矢干山の岩屋」と称して.触れらている。
佐須村に伝えられるところによると.「矢干山の岩屋」は「佐須村下原の小茂田境の路の上に」あって、「元矢立」と言い.狭穂姫という人物が隠棲していたところだという。一方で考古学者によれぱ古墳か発掘された跡だとされている、とも記している。
すると東亜考古学会が調査する20年ほど前には既に古墳という知見が共有されていたことになる。同時に「東方十数間を隔て殆ど同形の小丘あり未だ発掘せられざるが是亦古墳ならん」とあることから.2号墳の存在も知られていたことが分かる。第2編には1号墳について、「入口の広さ四尺高さ四五尺入口より奥まで丸尺石を積て壁となし大なる平石二枚を以って屋根となす」と、規模や形状についても詳しく言及されでいる。なお、記述から当時.矢立山は「干」の時を使っていたことも読み取れる。参考までに『増訂 對馬島誌』「第二編」から該当箇所を引用する。
矢立山の岩屋{やたてやまと読む}下原の小茂出境近く道路の直ぐ上に在り。元矢干と云ふ。山腹の畑中に小丘二あり 西方の丘の側面に南向きにて 入口の廣さ四尺 高さ四五尺 入口より奥まで九尺石を積みて壁となし 大なる平石二枚を以て屋恨となす。
傳へ云昔 垂仁天皇の皇后、狭穂姫、兄狭穂彦の反に輿かり遁れて 此地に来り 隠れ玉ひし處なり、後 久根なる矢干山に入り給ひしを以て 此處を元矢立 又は 矢干の元山と云ふと。
附言 按に古墳なるべし。地形より考ふるに 南方下の土を掘取り石鄙のー方露はれたるを以て 其の一方を除きて槨内の物を取去りしに非ずや考古學者の説概ね然り。
然れども 此處を 矢干の元山と称へ 古来霊山と称する矢干山に関係ある傅説は、必らず由て来る所非ざる可からず後考を待つ。又云 十数間を隔てたる束方の小丘にも石室あり前者より やや挾し之を是を発掘せば研究資料を得んか。
・・・・・矢立山古墳群保存整備事業報告書 2015 対馬市教育委員会 より抜粋
(史跡等・登録記念物・歴史の道保存整備事業)
file:///C:/Users/USER/Downloads/65044_1_%E7%9F%A2%E7%AB%8B%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4%E4%BF%9D%E5%AD%98%E6%95%B4%E5%82%99%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%20(4).pdf
65044_1_矢立山古墳群保存整備事業報告書
『先代旧事本紀(Sendai KujiHongi)』〈平安初期(806)~(906)頃の成立〉に記される伝承
御祭神の「建禰己己命(Takemikoko no mikoto)」について 記されています
意訳
巻第10 国造本紀 津島縣直(ツシマノアガタノアタヒ) の条
橿原朝(カシハラノアサ)〈神武天皇の御代〉に 高魂尊(タカミムスヒノミコト)5世孫 建弥己己命(タケミココノミコト)を 改めて 縣(アガタ)と為(ナ)す
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『先代旧事本紀』刊本(跋刊) ,延宝06年 校訂者:出口延佳 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038380&ID=M2017051017170432508&TYPE=&NO=画像利用
『続日本後紀(shoku nihon koki)』貞観11年(869)に記される伝承
対馬嶋の神々が 官社となったことを伝え
都都知神(ツツチノカミ)と記されています
意訳
承和7年(840)11月 庚辰(8日)の条
對馬嶋(ツシマノシマ)の
和多都美御子神(ワタツミノミコノカミ)
波良波神(ハラハノカミ)
都都知神(ツツチノカミ)
銀山神(カナヤマノカミ)を並びに 官社(カンシャ)に 預(アズ)く
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承
式内社の所在は ・都々智神社(対馬 今里)としています
但し 玉勝間には 矢立山としているので 問いただして調べるべし と記しています
意訳
都都智神社
都々智は 仮字なり
〇祭神 天狭手依比賣 古蹟集
〇与良郷 尾崎村の西に在す 今 郷崎明神 又は 津句智神と称す 古蹟集
玉勝間には 佐須郷 久禮村〈下縣にあった佐須村〉に在す 矢立神山と称すと云う
今は 古蹟集に従う尚 糾すべし〈問いただして調べるべし〉
官社 続日本後紀 承和7年(840)11月 庚辰(8日)の条・・官社(カンシャ)に 預(アズ)く
古蹟集に 津々は 津句の誤りならんと云えり 當否をしらず
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』明治9年(1876)に記される内容
式内社の所在を 久根田舎村の矢立山とし 祭神も建禰己己命(タケミココノミコト)であると記しています
意訳
都々智神社
祭神
今 按〈考えるに〉
長崎県式内社記に祭神もとは 建禰己己命(タケミココノミコト)とあれども 国史に 徴(チョウ)する〈照らし合わせる〉に誤りなり 仍(ヨッ)て 建己侶命(タケコロミコ)に改正すとあるのは社撰なりとは 古事記に天菩比命 建比良鳥命 云々 等の祖なりとありて 次 天津日子根命者 云々 茨木国造云々 等の祖なり 又 国造本紀に 茨城国造の祖 建己侶命(タケコロミコ)云々とみえたる如く 建己侶命(タケコロミコ)は 天津日子根命の御末なるを 天菩比命の後と思い誤りしよりの説なれば 従いがたし又
国造本紀に 津島縣直(ツシマノアガタノアタヒ)を高魂尊(タカミムスヒノミコト)5世孫 建弥己己命(タケミココノミコト)とある 高魂尊は もしくは天菩比命ならんとも知るべからず
旧説に 建禰己己命(タケミココノミコト)とあるぞ正しかるべき故 今これに従う官社 仁明天皇 承和7年(840)11月 庚辰(8日)の条・・官社(カンシャ)に 預(アズ)く
祭日 11月15日
社格 村社
所在 久根田舎村 字 都々智山〈下縣郡 久根田舎村 大社 矢立山〉
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
都々地神社(Tsutsuchi Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
『對馬嶋 式内社 29座(大6座・小23座)について』に戻る
對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています
對馬嶋 式内社 29座(大6座・小23座)について