東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)は 第5代孝昭(こうしょう)天皇の御世に創建されたと伝わり その後 霧島山の噴火などにより神殿などは焼失・埋没し荒廃したが 延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社です 963年 天台宗の僧 性空上人が再興した ゛東霧島大権現宮゛と称される霧島六所権現の一つです
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
東霧島神社(Tsuma kirishima shrine)
【通称名(Common name)】
・東霧島権現(つまきりしまごんげん)
・権現様(ごんげんさま)
【鎮座地 (Location) 】
宮崎県都城市高崎町東霧島1560
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
〈合殿六座 皇祖神〉
《配》天照大神・瓊瓊杵尊・天忍穂耳尊・彦火火出見尊・鵜葺草葺不合尊・神日本磐余彦尊(神武天皇)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
国造りの神・国家の御守護はもちろん、広く農・工・商すべての開運・福寿・治病・航海・縁結び・安産など世の中の幸福を増進することを計られました人間生活の守護神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
神社由来
東霧島神社は霧島六所権現の一つで「延喜式」に登場する霧島神社が当社であるといわれる古社であります。
東霧島神社は霧島盆地・諸県地方を代表する奉斎山岳信仰の祈りの宮として祀られ、第五代孝昭天皇の御世に創建されたと伝えられる。
その後、第六二代村上天皇の御世、応和三年(西暦九六三年)京都の人、天台宗の僧、性空上人が巡錫参篭し、噴火出土で消失し、埋没した神殿を再興されました。江戸時代になって東霧島大権現宮と唱えるようになりました。
御祭神は建国の祖とたたえられる伊弉諾尊(イザナギのミコト)を主祭神として地神五代の天照大御神より神武天皇に至る皇祖を合祀し、ご神宝十握の剣を御奉斎申し上げております。
御祭神は日本国土を産み給うた父で、国造りの神・国家の御守護はもちろん、広く農・工・商すべての開運・福寿・治病・航海・縁結び・安産など世の中の幸福を増進することを計られました人間生活の守護神であらせられます。
特に、霊界の主宰人としてのご霊威は最も高く、古来より式内名社として尊崇されているほか、中世よりは厄除開運の霊験あらたかなる権現様と親しく呼ばれているほど、根強い庶民信仰の代表的な神社であります。
【由 緒 (History)】
由緒
◎伊弉諾尊とオノゴロ島
天地が開け万物が成長し初めた頃、高天の原に天御中主神を初め五神の別天神が現われ、つづいて神世七代と呼ばれる神々が生まれたのでありますが、そのとき男女一対の偶生神であり天地創造の神である伊弉諾尊、伊弉冊尊が誕生されました。この二神様に天の神が矛を授け二神様が天の浮橋(神社の背後に連なる長尾山脈)に立ちただよえる国に矛をおろし、かきまわし、そして引き上げ矛の先から滴り落ち固まったのがオノゴロ島(現在の日本国土・別名大八島国)の誕生であるといわれております。◎高千穂の峰と神の都
高千穂の峰は南九州の中央部にそびえ、伊弉諾・伊弉冊二神の御子天照大神が御孫の天津彦火瓊々杵尊に御神勅と三種の神器をあたえて天降りを命ぜられた、山容の秀麗な霊峰であります。現在山頂に奉祀してある天の逆鉾で伊弉諾・伊弉冊神がオノゴロ島をつくられたのであります。山麓一帯は霊地が多く霧島神宮(元は高千穂河原に鎮座してあった)以外の霧島六所権現宮は宮崎県側に鎮座してあり、なかでも伊弉諾尊を祀る神社は霧島東神社と当社だけで、当社は神世の皇都でありまた霧島山の四方門では東方発心門になると由来記にあります。◎創建
宇宙の創世とともに八百神様が大八州島国の国造と政事を重ねられ「まつり」として数千年来祖達から受け継がれた遺産が祭祀の遺跡として、現在では生活の古典になっているのであります。このように当社は、はじめ北諸地方を代表する奉斎山岳信仰の祈りの宮として祀られ、のちに人皇第五代孝昭天皇の御代(昭和五十年から逆算して二四〇〇年の昔)に創立されたものと伝えられております。その後、村上天皇の御代応和三年(昭和五十年から逆算して一〇一二年の昔)に京都の性空上人が巡錫参篭し噴火噴出土で焼失し埋没した当神社を再興し霧島六所権現東御在所としました。江戸時代になって島津藩主家久のとき東霧島大権現宮ととなえるようになりました。宝物を拝観して感ずるように、特に当社は歴代島津藩主の崇敬が厚く祈願奉賽や寄進、造営が度々行なわれております。◎神石と安産の神産婆祖母様
神石の別名を裂盤又は魔石と呼び故有谷の小池のなかにあり、数多くの神々をつくられた伊弉諾・伊弉冊の二神は、伊弉冊命が火の神、軻遇空智(火皇産霊命)を難産し身が焦けて世を去ってしまわれたので、このことを怒り悲しまれた伊弉諾尊が十握の剣で石と化した火の神を三段に切られた。このときそのうちの一片は遠く宮崎の大島平原村に飛び去ったということであります。東諸県郡高岡町に去川という地名があるのはこの飛び去った神石の一片のことを示したもので、古文書の延喜式に去飛、神石云々とあります。亡くなった伊弉冊尊を祀る伊弉冊神社が神石の近くにあり俗に産婆祖母様といってお参りした婦人が故有谷の水を呑んで帰れば安産するとのことから「坂の下詣り」といって古来から婦人の参拝者が多いのであります。◎十握剣と橘の木
御神宝十握の剣は別に「十拳剣」「十掬剣」といって、この剣は伊弉諾尊が佩刀したもので、四指の握りで十握りの長さの剣ということであります。平安時代の頃の度重なる霧島山の噴火のため火災や噴出土の堆積がひどく神社の荒廃とともに社宝が行方不明になってしまったのであります。性空上人が参篭し苦行中に神児が現われて神剣のありかを告げたがどうしても発見することができなかったのであります。ある日、上人の修業中にどこからともなく飛んできた一羽の鳩が神社の庭の橘の木にとまり、そのあと数回木の上をまわり、同じようなことを三回くりかえしたので上人は神のお告げと橘の木の所を掘ってみると地中に石の梢に納まった剣が発見され曇りひとつないほどに輝いていたということであります。このようなことから神社地一帯を鳩園とよんでおります。◎梵鐘
島津宗藩第十九代の藩主、島津家久公が慶長20年の春、大阪夏の陣に出陣するときに、御家長久、子孫繁昌、武運自在、国家太平、万民快楽等の諸祈願のために、霧島山大権現に奉納したものである。家久公は大権現の大檀主であり祈願主には勅詔院の性隆法印がなっており、梵鐘の銘文には島津家につかえる戦国武将や助力衆、作者、銘書者など当時の有名人が名を連ねている。旧島津藩内の社寺にはこれより古い作りのものはなく、格式の高かった東霧島山大権現宮を証明する第一級の文化財である。◎扁額
古代祭祀遺跡が散在する東霧島神社に性空上人が別当寺を建立して壱千弐拾有余年のちに天皇の勅許、勅詞により院とともに権現宮の名が授けられたのである。応永16年島津久豊公が知行のなかから十町歩を寄進した願文書の中にも権現宮名がでている。この東霧島大権現宮の大扁額も横140糎、巾55糎でその木質の風化状態からみて、かなり古く400年以上は経過しているもので、またきわめて達筆な揮毫からみて島津藩主の書とも考えられる。これもいかに東霧島神社が祈りの宮として歴代藩主の信心が厚かったかが偲ばれる。◎東霧島神社のおみこし春の例大祭で行所までの浜下りの神事におみこしの行列があるがこのおみこしの天井に墨書で次の記録がある。
「寛永16年家久公御建立所及大破故嘉永2巳酉矢守斉興公御再興天下太平国家安全五穀成就萬民豊楽奉再興薩隅日三州大守御当家二十九代斉興邦君御息災延命御武運長久ニ御願令成就故也」
このことは寛永年間に島津十九代家久公が建立したが破損したもので、諸々の祈願をこめて二十九代斉興公が修理したものということになる。庄内の乱で本陣となった勅詔院に家久も居住し、日夜参詣したものと考えられる。家久は東霧島神社にはいろいろの寄進をしていることから歴代藩主でも特に信仰が厚かったものであろう。おみこしの奉納は340年位前のことである。天井部分を修理したことは古さや材質の違いでわかり、床面には神社の別当寺である東霧島山金剛仏作寺勅詔院住職の墨書もある。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
境内図
〈本殿の左右に祀られる境内社〉
・白山神社《主》延命白髭の神
・愛宕神社《主》火之加具土神
〈参道石段〈鬼磐階段〉の上〉
・神門
〈参道石段〈鬼磐階段〉の中段 左右に祀られる境内社〉
・猿田彦神社《主》猿田彦尊
・大國主命神社《主》大己貴尊
・霧島の大神社《主》東霧島之大神
・猿田彦神社《主》猿田彦尊
・石段〈鬼磐階段〉
参道石階段
その昔鬼が霧島の神に願いをかけ、その契りの導きにより一夜にして、積みなしたといわれます。鬼磐階段(おにいわかいだん)と言い、振り向かずにこの階段を心を込めて願い事を唱えながら登ると願いが叶うと言い、「振り向かずの坂」とも言います。
この鬼磐階段は「振り向かずの坂」とも言い、遠い昔天台宗・真言宗の僧侶が、一心に呪文をとなえながら修行したと言われています。
参拝者の皆様も「一心に願い事」をとなえてのぼりましょう。現地立札より
〈石段〈鬼磐階段〉下の境内〉
・大クス
・伊弉冉神社《主》伊弉冉尊
伊弉册神社
(産婆祖母様 うばみおやさま)本殿参拝は、石段が急勾配のため身重の婦人には無理であるので伊弉册神社に参拝して帰ることから俗に「坂の下参り」といっている。
お参りした婦人が大楠を右に三回左に三回廻って祈り、ゆや谷の乳水を飲んで帰れば安産であるという。
安産・子育ての神である。現地案内板
・龍神〈手前〉・熱神神社〈奥〉
・龍王神水
龍王神水
龍王は絶大なる幸運・開運・厄除の力を発揮する守り神として敬われている。
この世で遭遇するさまざまな苦悩から衆生を救うために東霧島大権現宮のゆや谷に鎮座まして霊水を下されている。龍王神は洗心浄代の霊験あらたかで吉祥を授け人々を守護する神秘性をもっている。
特に商業の人は銭を洗い身に納め、病の人は霊水をいただくとよい。現地立札より
・神石
『神石』の由来
天地が開け、万物が成長し初めた神代の昔。
天地創造の神である、イザナギの尊、イザナミの尊が誕生されました。夫婦となられた二人の神様は国土・山川草木に至る私たちの生活に大切な「火の神」をお生みになられたことにより、妻イザナミの尊はこの世を去られたのであります。
夫の神、イザナギの尊はまだまだこの世に残さねばならないことがたくさんあります。
愛しい妻よ、今一度我がもとに帰ってくれよと嘆き、悲しめども亡き人は帰る術もありません。その愛しい妻イザナミの尊を恋い慕う悲しみの涙で凝り固まったのが、『神石』(神裂石・魔石・雷神石・割裂神石)であるといいます。
そして、夫イザナギの尊が腰に付けていた「十握の剣(とつかのつるぎ)」で悲しみの涙で凝り固まった石を今後再びこのような災難に世人が遭わないように‥‥と、深き祈りの心を込めて三段に切ったといいます。
『十握の剣』は当神社の神宝であり、厄除け・魔除けの神となり鎮め納めております。
現地立札より
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
日向國の神・都農神社・都萬神社・江田神社・霧島岑神社が 官社に預かる と記されています
【抜粋意訳】
承和四年(八三七)八月壬辰朔
○八月壬辰朔
日向國
子湯郡 子都濃神 妻神
宮埼郡 江田神
諸縣郡(ひろあかたの)霧嶋岑神(きりしまのみねのかみ)を 並に預官社に
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
日向國の・高千穂神社・都農神社・都萬神社・江田神社・霧島神に 神階の奉授 が記されています
【抜粋意訳】
巻一 天安二年(八五八)十月廿二日〈己酉〉
○廿二日己酉
授くに
日向國
從五位上 高智保神(たかちほのかみ)都農神(つののかみ)等從四位上
從五位上 都萬神(つまのかみ)江田神(えたのかみ)霧嶋神(きりしまのかみ)に 並に從四位下伊豫國 正六位上 布都神(ふとのかみ)從五位下を
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)日向國 4座(並小)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)諸縣郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 霧嶋神社(貞)
[ふ り が な ](きりしまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kirishima no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
霧島六社権現(きりしまろくしゃごんげん)について
天孫降臨の地とされる゛霧島の高千穂峰゛を取り囲むように その登山口に建立された六社の神社の事です
霧島山そのものを御神体とした「霧島御山信仰」で
第62代 村上天皇の御代〈在位: 天慶9年4月20日(946年5月23日)~ 康保4年5月25日(967年7月5日)〉天慶天暦(十世紀)の頃
性空上人が 霧島山を霊場として修業し 山中の様々な場所に分散していた信仰を 天台修験の体系としてまとめ 霧島山と山麓に霧島六社権現を整備したものとされます
元々は 霧島山そのものを信仰対象とする山岳信仰から始まり やがて 霧島山を修験道の霊場とする修験者の道場拠点となりました
霧島六社権現(きりしまろくしゃごんげん)の六社
①西御在所霧島権現社〈別當・華林寺〉=霧島神宮(霧島市霧島田口)
②霧島東御在所権現社〈別當・錫杖院〉=霧島東神社(高原町祓川)
③霧島中央権現宮〈別當・瀬多尾寺〉=
④雛守権現社〈別當・宝光院〉=現 霧島岑神社(小林市細野)の社地
⑤狭野大権現社〈別當・神徳院〉=狭野神社(高原町蒲牟田)
⑥東霧島権現社〈別當・勅詔院〉=東霧島神社(都城市高崎町)
其の他の説に
・白鳥権現社〈別當・満足寺〉=白鳥神社(えびの市末永)
・霞権現〈別當・神徳院〉=霞神社(高原町後川内)
『三国名勝圖會(Sangoku meisho zue)』〈天保14年(1843)〉に記される゛霧島六社権現゛の図
①〈三国名勝圖會 巻之三十四 大隅國囎唹郡 曾於郡之二 神社〉西御在所霧島権現社〈別當・華林寺〉
現=霧島神宮(霧島市霧島田口)
②〈三国名勝圖會 巻之五十六 日向國諸縣郡 高原 神社〉御池 霧島東御在所権現社〈別當・錫杖院〉
現=霧島東神社(高原町祓川)
③〈三国名勝圖會 巻之五十四 小林 神社〉霧島中央権現宮〈別當・瀬多尾寺〉
現 =霧島岑神社(小林市細野)の旧鎮座地
④〈三国名勝圖會 巻之五十四 小林 神社〉雛守権現社〈別當・宝光院〉
現 =霧島岑神社(小林市細野)の社地
⑤〈三国名勝圖會 巻之五十六 日向國諸縣郡 高原 神社〉狭野大権現社〈別當・神徳院〉
現=狭野神社(高原町蒲牟田)
⑥〈三国名勝圖會 巻之五十六 日向國諸縣郡 高原 神社〉東霧島権現社〈別當・勅詔院〉
現=東霧島神社(都城市高崎町)
その他
『三国名勝圖會』では 霧島六社権現として 他にも挙げています
・華舞六所権現=現 華舞神社〈山田神社〉(都城市山田町山田)
・安原霧島大権現(中霧島権現)=現 安原神社(都城市山田町中霧島)
・霧島山不動明観寺=現 荒武神社(都城市吉之元町)
現在の 霧島六社権現5社について
※元々は 名前〈六社権現〉の通りの六社でしたが 明治6年(1873)霧島岑神社と夷守(ひなもり)神社が合祀されたので 現在は5社となっています
・霧島(きりしま)神宮(霧島市霧島田口)
・霧島東(きりしまひがし)神社(高原町祓川)
・狭野(さの)神社(高原町蒲牟田)
・東霧島(つまきりしま)神社(都城市高崎町)
・霧島岑(きりしまみね)神社(小林市細野)
延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社について
・霧島岑神社(小林市細野)
霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)は 社伝に 往古 高千穂峰(矛峰)と火常峰(御鉢)の間 脊門尾(セタオ)に鎮座と伝わり 延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社です その後 韓国岳 大幡山 御鉢 新燃岳の噴火で相次いで神殿を焼失しては造営を繰り返し 明治6年(1872)夷守神社を霧島岑神社に合祀した上で 現在地〈夷守神社の社地〉に霧島岑神社が遷座されました
霧島岑神社(小林市細野)
・東霧島神社(都城市高崎町)
東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)は 第5代孝昭(こうしょう)天皇の御世に創建されたと伝わり その後 霧島山の噴火などにより神殿などは焼失・埋没し荒廃したが 延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社です 963年 天台宗の僧 性空上人が再興した ゛東霧島大権現宮゛と称される霧島六所権現の一つです
東霧島神社(都城市高崎町)
・霧島東神社(高原町祓川)
霧島東神社(きりしまひがしじんじゃ)は ゛天之逆鉾゛〈高千穂峰の山頂の天孫降臨伝説の地〉を社宝とし 第10代崇神天皇の御代 霧島山を信仰する社として創建と伝わり 山頂は飛地境内となっています 延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社で 天暦年間(947~957)には 性空上人が別当寺 錫杖院を建立し 霧島六社権現のひとつとなりました
霧島東神社(高原町祓川)
・霧島神宮(霧島市霧島田口)
霧島神宮(きりしまじんぐう)は 旧記に 欽明天皇の御宇(540)はじめ高千穂峰と御鉢「噴火口」との中間 脊門丘(セタヲ)に奉斎され 後 御山の噴火の為 悉く炎上し 天暦年間(950)性空上人が高千穂河原に再興奉遷した 後 文暦元年(1234)の大噴火で 社殿 僧坊寺が災禍に遭い 今から500年程前に現在地に鎮座しました 式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社です
霧島神宮(霧島市霧島田口)
・霧島神宮 古宮祭祀跡(霧島市霧島田口)
古宮址天孫降臨神籬斎場(ふるみやあと てんそんこうりんひもろぎさいじょう)は 昔の霧島神宮の跡で 神宮は 始め高千穂ノ峯と御鉢(噴火口)との中間゛脊門丘(セタオ)゛に奉斎後〈約1400年前〉噴火で悉く炎上の為 この地に再建されましたが ここも〈約1000年前〉噴火で燃えてしまい 霧島町の゛待世゛に遷され 凡そ480年前〈現在の霧島神宮〉に建て替えられています
古宮址天孫降臨神籬斎場(霧島市霧島田口)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JRえびの高原線 東高崎駅から 線路沿いに北上 約850m 徒歩12分程度
東霧島神社(都城市高崎町)に参着
境内には 霧島大権現の幟旗
こちらは下の境内で 神石などもあります
社殿へは鬼磐階段と呼ばれる石段を上がります
一礼をして 鳥居をくぐり 鬼磐階段を上がります
長い鬼磐階段を上がると 神門があり くぐるとすぐに社殿があり
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が一体となり続きます
本殿の両脇には 境内社が祀られています
杉の木に龍の形をした枝があり 龍神としてありました
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 霧島神社は 所在について 霧島山は峯二つあり 山下には東霧島村 西霧島村が二つ 麓に霧島明神社という大きな神社がある との説を記しています
【抜粋意訳】
霧島(キリシマノ)神社
「續日本後紀」承和四年八月壬辰、日向國諸縣郡 霧島岑神 預官社、
〇天安二年十月廿二日己酉、授 從五位上 霧島神 授從四位下「応神紀」日向諸縣君 牛諸井
〇信友云 或書に 高原郷 今云に東霧島宮
(古事記傳)に霧島山は日向国の南の極にて 大隅国の堺にあり
(神代紀)に 二上とあるごとく 東西と分れて峯二つあり 山下に東霧島 西霧島と云ふ村もあり 西なる峯は 大隅国囎唹郡に属し 東なるは日向国諸縣郡に属けて 霧島明神社は麓にあり大きなる社之とぞ云々とあり 霧島山 霧山とも云ふ
(古事記)竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき
(神代紀)(日南風土記)可引 とある処の山 之この委き考は傳の十五の七十丁にあり
【原文参照】
『三国名勝圖會(Sangoku meisho zue)』〈天保14年(1843)〉に記される伝承
東霧島神社(都城市高崎町)について 東霧島権現社として詳細が記されています 絵図を見る限り 境内の様子は 別當・勅詔院はありませんが 神社の場所は ほとんど変わりません
【抜粋意訳】
三国名勝圖會 巻五十七 日向國諸縣郡 高城 神社 東霧島権現社
東霧島権現社
地頭館より酉方、二里廿丁餘、
東霧島村にあり、此處霧島山の支山、長尾山にして、實に霧島の東脚に當る、 因て東霧島権現と称ず、かくて、此東の字、俗呼んでつまと唱ふ、凡そ物の端を世につまといふ、則ち当社は霧島東脚の山端に建つ、故に東の字を訓て、つまと唱ふるなり、
奉祀伊弉諾尊、合殿六座、瓊々杵尊、彦火火出見尊、葺不合尊、木花開耶姫、豊玉姫、玉依姫、是なり、抑此地は、伊弉冊尊、火神軻遇突智の為に灼れて、終り玉ふをば、伊弉諾尊、甚だ恨みて、軻遇突智を斬玉ひし址なりといふ、即ち諾尊の帯び玉へる十握剣を、當社の神體に崇む、其詳は下文の如し、此を以て、高城は諾冊尊舊都なるを證とすべし、かく諾尊に由あるの地なる故、初しめ諾尊を奉祀あり、六座の合殿は、後の勧請なるべし、
或曰、高城は、瓊々杵尊も、皇居の所なれば、瓊々杵尊の御時、諾尊を崇奉し玉ふならんとぞ、瓊々杵尊皇居の事は、下條神世皇都に詳なり、三代実録に、天安二年冬十月二十二日己酉、授日向国従五位上高智保神従四位下、又た延喜神名式に、日向國諸縣郡一座、小霧島神社とあり、當社は霧島権現六社の一なり、
當社由来記曰、霧島山に四方門あり、當山は當方発心門なり、
上古の神社は、霧島山上火発して焼亡せしに、性空上人當山に登り、當社を再建し、別當寺を創立す、爾後文暦元年甲午十二月二十八日、又山上燃に、其火亦此社寺に及ぶ、往古は、餘多の神領寄附あり、後世戦争の時亡びしに、我代々の邦君、殊に崇仰ありて、若干の祭田を喜捨し玉ふ、例祭二月中酉日、九月二十九日、十一月中酉日、
當社より南、九町餘に八幡社あり、当社の行祠なり、二月の祭祀には、神輿を舁て神幸の儀をなし、其行祠に至る、濱下りといふ、往昔九月の祭には、笠懸四十二騎あり、其後滅して十二騎となり、又省て六騎となる、伊東氏干戈の後、断絶せしとぞ、社司吉松氏、別當を勅詔院といふ、○十握(トツカノ)劔
前文に見えたる、伊弉諾尊の御劔にして、本社深秘至寶の神体なり、長さ十把(ツカ)許、
社記云、寶永五年戊辰九月二十九日卯刻、東霧島廟火災あり、所傳の宝物、悉く烏有となれり、獨十握劔、屹然として煨燼の中より出て、少しも燬ふ所なし云々と、○末社
本社の左に、性空上人の両侍童、乙若の社あり、是を護法善神と崇む、右に白山の社あり、社殿より石階を下るに、左右善神社あり、又一万社、十万社あり、〇濱下儀衛の品 ・・・・・・・
○割裂神石
本社より辰巳方数十歩、故有谷(ユヤタニ)といへる小池中にあり、一名裂磐(サクイハ)、又魔石と呼ぶ、
土人傳へ称ず、此石古へ魔魅にして害をなす、是に因て霧島の神、十握の劔を把り、斬て三段となす、時に一段は雷となりて飛去ぬ、二段はこの所に留り、おのおの神となるといふ、
日本紀一書曰、伊弉冊尊次生火神軻遇突智(カグツチ)時、伊弉冊尊、為軻遇突智所焦而終矣、
又其一書云、伊弉諾尊恨之曰、唯以一児替我所愛之妹者乎、則而哭泣流涕焉、遂抜所帯十握剣、斬軻遇突智為三段、
此各化成神云々、
又一書云、其一段是為雷神、一段是為大山祇神、一段是為高龗(タカヲカミ)、
又曰、斬軻遇突智時、其血激越、染於天八十河中所在五百箇磐石、而因化成神、號曰磐裂(イハサク)神云々是也、
又土人の説に、此神石は、伊弉諾尊の斬玉へる遺跡にして、三段の内一段は、嘗て飛去て宮崎郡大島平原村にあり、土人崇敬して神と崇む、往時或人東霧島神意思を切し片段を、紙に写し、宮崎に斎し至りて合せ見るに、其屈曲せし處まで少しも違はずといふ、今東霧島に現在残れる一段は、地を出ること、竪九尺餘、横九尺五寸、厚一尺二寸、其一段は、地を出ること、竪横右に同じく、囲一丈八尺五寸あり、
眞幸院の文字、延喜式に、眞斫に作る、其斫字を用るは、霧島十握劔を持し、眞に魔石を斬りて三段となすといふに出る歟、其石、今尚厳然として此地に在り、然れども、三俣院に属し、今の眞幸とは、高崎高原を隔て、相距ること五里許り、蓋後世境を濫るのみ、今の眞幸の方域は、飯野の巻首に詳なり、又高岡等に所謂去川の文字、延喜式に去飛の方に當る、故に其名を得たるべし、
又此神石の一段の飛去し所在には、異説あり、別當勅詔院住僧龍意法印の筆記に、神石の事を記して曰、享保七年壬寅四月十六日、皇國遍歴の行者、常州の浄観といふ者にあへり、彼行者語て曰、出雲國神門郡上町畷里に一奇石あり、土人の傳へに、往古薩藩の霧島山より飛来れる石なり、大石を二に斬裂たる、一片の状ありと、斯亦一奇説なり、暫く是を記して異聞を廣む、
【原文参照】
東霧島山金剛仏作寺勅詔院
地頭館より戌方、二里十九町餘、
東霧島村、東霧島権現社の辰巳一町許にあり、本府大乗院の末にして真言宗なり、本尊千手観音、木座像、即東霧島権現の本地とす、當寺は村上帝応和三年癸亥の歳、性空上人開基して、東霧島権現社の別當とす、
其後文暦元年、霧島山上発火の時、當寺焼亡せしは、既に神社の條に併せ記せり、・・・・・・・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 霧島神社について 所在については 高原郷霧島山に在す、今 東御在所両所権現と稱す〈現 霧島東神社(高原町祓川)〉と記しています
【抜粋意訳】
霧島神社
霧島は 岐里志麻と訓べし
〇祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、相殿 地神五代、神武天皇、社傳 〇考証、多紀理比賣といふ、今従はず、
〇高原郷霧島山に在す、今 東御在所両所権現と稱す、神社考
神位 官社
續日本後紀、承和四年八月壬辰、日向國諸縣郡 霧島岑神 預官社、
三代實録、 天安二年十月己酉、從五位上 霧島神 授從四位下、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 霧島神社について 所在については 細野村夷守〈現 霧島岑神社(小林市細野)〉であるが 一説には本社 高原郷霧島山にます 今 東御在所両所権現と稱す〈現 霧島東神社(高原町祓川)〉との説も紹介しています
天孫降臨の高千穂峰について 現 宮崎県と大分県の県境にある高千穂の二上山と 宮崎県と鹿児島県の県境にある高千穂二上峯のどちらも 霧島山としての可能性があり 古から決めかねていることも記しています
【抜粋意訳】
霧島(キリシマノ)神社
今 細野村夷守にあり、昔高千穂二上南峯の間 瀬戸尾にあり、仍て瀬戸尾神社入霧島中央権現と云、後 今の地に遷す、宮崎縣神社調 〇按 鳥羽天皇天永三年山上大に火あり、六條天皇の仁安二年 社殿災に罹り、四条天皇文暦元年又災ありしを以て、瀬戸尾越に鎮座し、其後數遷座ありて終に今地に遷し奉ると云り、
又 往古より霧島神社は六社ありて 其五社は共に同國同郡に鎮座す 唯一社のみ大隅國 囎唹(ソヲノ)郡にあり されば何れ式社ならん詳ならずといひ 又 一説には本社 高原郷霧島山にます 今 東御在所両所権現と稱すともあり附て後考を俟つ、
蓋 天孫 天津彦々火瓊々杵尊を祀る、参酌日本書紀、古事記、
霧島山は日向大隅二國に蟠り東西二峯あり 東峯殊に高く峻しく 西峯稍卑く常に火燃揚り、時によりては、黒烟天を蔽ひ、石砂飛散を以て、世人畏て神火と云ふ、二峯を合せて霧島山と名く、此の山遽に霧起り大風吹出、地とどろき闇の夜の如く暗がりて霧にれぼぼれ 風に吹放たれて、身を失ふ者あり、故山に登る者、神代の故事の随に、稲穂を持て拂ひつつゆけば、天明りて、事故なし、其の神威霊應、今に至りて甚だ厳速しと云、高子観遊記、日本紀通證、古事記傳、
〇按 日向國圖、霧島山は諸縣郡にて大隅に界ひし 高千穂嶽は臼杵郡にて、豊後の界にあり、かかれは南北と甚く隔りてはあれど、いづれも二峯ありて二上と云へき状なるに、高千穂嶽は今も二上山と云ひ、風土記にも稲穂の故事をは臼杵郡なる方に記せれば、是ぞ神代の高千穂二上峯ならむと思ふに、書記に襲之高千穂峯とある襲は、大隅の地名なるが上に稲穂を拂ふ事は、今の現に霧島山にのこり、穂々出見尊の御陵 高千穂山西にありと云るも、霧島山と聞ゆれば古へは此二山を推通して、共に高千穂二上峯と云しなるべし、姑附て考に備ふ、
桓武天皇 延暦七年三月壬辰 霧島峯神、官社に預り、續日本後紀
清和天皇 天安二年十月巳酉、従五位上 霧島神に従四位下を授く、三大實録
凡其祭三月十一月十八日を用ふ、宮崎縣神社調
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 霧島神社について 所在については 細野村夷守〈現 霧島岑神社(小林市細野)〉とし 元々は゛山上にありしを度々の火災によりて屡 社殿を遷せしものとみえたり゛と噴火による火災で度々 遷座してい現在地となっていると記しています
【抜粋意訳】
霧島神社
祭神 瓊々杵尊
神位 仁明天皇 承和四年八月壬辰 日向國諸縣郡霧島神預官社
文徳天皇 天安二年十月廿二日 巳酉授日向國従五位上霧島神従四位下祭日 三月十一月十八日
社格 (明細帳に霧島神宮摂社 兼 縣社霧島岑神社とあり)(縣社)所在 細野村 夷守(西諸縣郡小林村大字細野)
今按〈今考えるに〉
宮崎縣神社調帳に當社は 往古 高千穂二上山 今の霧島なり 両峯の間 瀬戸尾と云地に鎮座ありしに依て 俗に瀬戸尾神社また霧島中央権現とも稱せり
傳云 鳥羽天皇 天永三年二月三日山上大に炎し 六條天皇 仁安二年亦炎す再度共に神社火災に罹るといへども故の如く造営ありしが 四條天皇 文暦元年十二月震火大に発し社殿併當寺焼亡す故に山内を出て岡原に假殿を建て 十四年 二上山の東なる筑地に社殿を造営して遷座ありしを 明治七年四月一日夷守の舊社へ遷座ありと云るが如く もと山上にありしを度々の火災によりて屡 社殿を遷せしものとみえたり
【原文参照】
東霧島神社(都城市高崎町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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日向国(ひむかのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 日向国 4座(並小)の神社です
日向国 式内社 4座(並小)について