當島八幡神社(とうしまはちまんじんじゃ)〈相殿 多理比理神社〉は 大同二年(八O七年)豊後の国(大分県)宇佐八幡宮の御分霊を勧請して祀られた 延元元年(一三三六年)『延喜式神名帳927 AD.』所載の多理比理神社を相殿に合祀し 現在地に社殿を再建して以後 當島八幡神社として祭祀が執り行われています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
當島八幡神社(Toshima Hachuman shrine)〈相殿 多理比理神社〉
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
広島県福山市駅家町上山守1183
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》
誉田別神(ほんだわけのかみ)〈応神天皇〉
足仲彦神(たらしなかつひこのかみ)〈仲哀天皇〉
息長足姫神(おきながたらしひめのかみ)〈神功皇后〉
《相殿神》
多理比理神(たりひりのかみ)(多理比理神社 たりひりじんじゃ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
大同二年(八O七年)
豊後の固(大分県)宇佐八幡宮の御分霊を勧請して祀られた
延元元年(一三三六年)
『延喜式神名帳927 AD.』所載の多理比理神社を相殿に合祀
【由 緒 (History)】
當島八幡神社 由緒
鎮座地 広島県福山市駅家町上山守1183番地祭神
誉田別神(ほんだわけのかみ) (応神天皇 おうじんてんのう)
足仲彦神(たらしなかつひこのかみ) (仲哀天皇 ちゅうあいてんのう)
息長足姫神(おきながたらしひめのかみ)(神功皇后 じんぐうこうごう)
相殿神
多理比理神(たりひりのかみ)(多理比理神社 たりひりじんじゃ)
当神社は 大同二年(八O七年)豊後の国(大分県)宇佐八幡宮の御分霊を勧請して祀られたと伝えられております
その後 延元元年(一三三六年)延喜式の式内社に列記されております多理比理神社を合祀し現在地に社殿を再建して以後 當島八幡神社として祭祀執り行われております
創始は古く 品治郡東南部の十三力村の上山守村・下山守村・今岡村・大橋村・向永谷村・坊寺村・江良村・倉光村・万能倉村・中島村・近田村・戸手村・新山村
総氏神として崇拝されて持に昔は秋祭にこの十三力村より産生神として多くの人々がお参りされておりました
明治五年十一月(一八七二年)村社に定められる
明治二十一年十月(一八八八年)郷社に昇格される境内案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・三神神社
・石祠
・皇大神宮拝礼所&末社
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)備後国 17座(並小)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)品治郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 多理比理神社
[ふ り が な ](たりひりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tarihiri no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 備後国 品治郡 多理比理神社(たりひりの かみのやしろ)の論社は三ヶ所
・多理比理神社〈吉備津神社 境内〉(福山市新市町)
多理比理神社(たりひりじんじゃ)は 一説に もとは品治郡服部村大字服部本郷に鎭座していたが 何時の頃か社が荒廃し 吉備津神社の境内に移された また一説に 多理比理神社が 品治郡宮内村に当初より鎭座していて 後に分祠であった吉備津神社が備後一宮として移されたとする説もあります 『延喜式神名帳』には 多理比理神社は記載があり 備後吉備津神社は記載がありません
多理比理神社〈吉備津神社 境内〉(福山市新市町)
・當島八幡神社〈相殿 多理比理神社〉(福山市駅家町上山守)
當島八幡神社(とうしまはちまんじんじゃ)〈相殿 多理比理神社〉は 大同二年(八O七年)豊後の国(大分県)宇佐八幡宮の御分霊を勧請して祀られた 延元元年(一三三六年)『延喜式神名帳927 AD.』所載の多理比理神社を相殿に合祀し 現在地に社殿を再建して以後 當島八幡神社として祭祀が執り行われています
當島八幡神社〈相殿 多理比理神社〉(福山市駅家町上山守)
・神子原荒神社(福山市駅家町服部本郷)
宇佐八幡宮(大分県)の御分霊を勧請して祀られた 當島八幡神社
當島八幡神社(とうしまはちまんじんじゃ)は 大同二年(八O七年)豊後の国(大分県)宇佐八幡宮の御分霊を勧請して祀られたのが始まり
・宇佐神宮(宇佐市南宇佐)
宇佐神宮(うさじんぐう)は 全国4万社余りの八幡社の総本宮です 豊前国一之宮でもあります 神亀2年(725)創建以来 皇室から「伊勢神宮」につぐ「第二の宗廟(sobyo)」としての崇敬を受けています 信仰の地となってから約1300年 境内に足を踏み入れれば 日本の息吹が伝わります
宇佐神宮(宇佐市南宇佐)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR福塩線 駅家駅から県道392を南下 芦田川を渡った先 約4km 車10分程度
芦田川の土手沿いに下る道を進むと社頭に出ます
當島八幡神社〈相殿 多理比理神社〉(福山市駅家町上山守)に参着
當島八幡神社の社号標と 式内 多理比理神社の社号があります
参道を進むと 石燈籠があり その先に石段があります
境内の右手は 芦田川の土手
石段の手前には 鳥居の代わりに 注連縄柱があります 一礼をしてくぐりま抜けます
直線の石段を上がると 大きなカーブを描くように踊り場の参道があり 再び石段となっています
ちょうど午後の陽射しが差し込む石段を上がります
石段途中に 鳥居が建ち 手水舎があります
龍頭から水が滴る 手水舎で清めます
一礼をして 鳥居をくぐると その上に隋神門が構えます
左右に座します隋神に祈り 隋神門をくぐり抜けます
正面には 石燈籠 狛犬の先に拝殿が建ちます
拝殿にすすみます 扁額には 當島 八幡神社 と記されています
神紋は 〇の中に吉の文字
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します
本殿の南後方には 神輿庫
境内の東角には 境内社が祀られています
その先には 福山に流れ込む芦田川が見えています
社殿に一礼をして 隋神門を抜けます
紅葉が始まる石段参道をくだります
社頭で振り返り一礼
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『福山志料(Fukuyamashirio)』〈1809年(文化6年成立)〉に記される伝承
式内社 多理比理神社は ・當島八幡神社(福山市駅家町上山守)を有力として・神子原荒神社(福山市駅家町服部本郷)・多理比理神社〈吉備津神社 境内〉の計三ヶ所を挙げて記しています
【抜粋意訳】
巻二十八
多理比理神社 〈葦高神社〉
この神社 今何れの地にありや詳ならず
又 祭神は何れの神にやここに両説あり其の一は 神名帳考証曰 息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
按理興美横音通 美興賣堅音通 比理姫(ヒリハヒメ)也
古事記云
息長宿祢王(おきながすくねのきみ)生(うまれし)は 息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉次(つぎ)に 息長日子王(おきながひこのきみ) 此王者(このおうは)吉備品遅君 之 祖(おや) 云々
タラシヒメを以てタリヒリにあてしは附会臆断のようなれども 息長日子王は品遅君の祖と云うをみれば ここに祭りし事 いわれなきにあらず 上山守村 當島(タウシマ)八幡宮は社伝に祭神は 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇にて 大同二年丙申再修と云 又 神宮寺などありて いかにも古き社と見え 近村十二村の生土神なり 多理比理 疑らくは此社ならん
欺 旧事紀に品遅国造大舩足尼は 多遅麻(タヂマ)君同祖 若角城命三世孫と云 鼈頭に息長宿祢子 興但麻国造同祖なとあれば 當島(タウシマ)但馬(タシマ)響きあひて これまた息長帯姫命に縁あり其の一は 笠岡小寺氏の蔵本 古事記に備後國 品治郡 多理比理(タリヒリ)神社は 多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミノ)神と云う 加筆の註あり 多比理岐志麻流美神は 神別紀と古事記を併せみるに 大国主神娶る八島牟遲能神生む子 島鳴海神 此神娶る日名照額田毘道男伊許和邇神 生む子 国忍富神 此神娶る葦那陀迦神 生む子 速甕之多氣佐波夜遲奴美神 此神娶る天之甕主神之女 前玉比賣 生む子 甕主日子神 此神娶る淤加美神之女 比那良志毘賣 生む子 多比理岐志麻流美神と云う この語音タリヒリに似たれば此神なるも知へからず
備中國 窪屋郡 足高神社 神名帳に見ゆ これ葦那陀迦(アシナタカ)神なり 今 蘆田郡 葦高神社あり これも疑らくは葦那陀迦(アシナタカ)神なるへし
又 恵蘇甲奴ノ二郡 意加美神社あり 彼これ その一族の神も此国に散在すれば多理比理は多比理なる縁なきにあらず
八島嶋鳴海多比理岐志麻(ヤシマシマナルミタヒリキシマ)また當島に響きあいたり右二説を記して しばらく後考をまつ一説に云う
服部本郷村に神子原と云う所あり まつる神を神子神と云う
大坂生玉に神子町あり 長帯姫を祭て神子神と云う これによれば神子原の祭神あるいは多理比理ならんか 此みこ神もと 姫谷と云う所にあり その地 池となりて 今の所にうつす 姫と云う名 あるいは本つく所ありや一宮宝物の中に金幣あり 銘に多理比大明神と称る 然るに吉備津彦に この號あるを見聞なければ 或いは太理比宮廃その器を ここに納めたるにや
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
古事記を引用して 多理比理神は 吉備品遅君 之 祖(おや)としています
【抜粋意訳】
多理比理神社
古事記
息長宿祢王(おきながすくねのきみ)生(うまれし)は 息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉次(つぎ)に 息長日子王(おきながひこのきみ) 此王者(このおうは)吉備品遅君 之 祖(おや)
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
祭神は 不明と記しています
【抜粋意訳】
多理比理神社
多理比理は假字なり
〇祭神詳ならず
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 多理比理神社の所在は 二説あり
一は 宮内村 一宮吉備津神社の相殿
一は 上山守村當島八幡宮相殿
と記しています
【抜粋意訳】
多理比理神社
所在
今按〈今考えるに〉小杉椙村検注に云 当社も二説あり
一は 宮内村 一宮吉備津神社の相殿と云ひ
一は 上山守村當島八幡宮相殿と云ふ宮内村なるは一宮の相殿に男體の木像 及び 鋼板の神號 外に大永二年十月十七日 藤原朝臣盛次と彫れる金幣の頭などあるをも以て合祀と云ふ
金幣はいかにも大永の眞物にて 鋼板は近世のもの 神像も古き物なり
さて吉備津宮は 本国一宮とも称奉れは総社なきの例にて国中のおもたる神社へ奉幣せし事のありしか適金幣のみ現今に遺存せるを以て合殿にますと思ひ誤りしなるへし上山守村なるは式内社の明徴とすべきもの更になし されど近傍に神宮寺もあり本社を去る四五町にカウテンと云あり 元禄の検地帳にもカウテンと肩書せる地所いと多し カウは神なり テンは田(デン)なり
今は當島八幡宮に多理比理神社合祀となれども 多理比理神社社地に八幡宮を合祭せしなるへし
多理比理の比理は比咩にて 神功皇后の御名なれば吉備品遅君に由緒あり八幡を祭れるも由ある事 云に及ばす かたがた この神社 式社と定むへしと云るやや徴ありて聞ゆれども 多理比理の足姫なる事 他に確據なければ従いがたし 姑附て考に備ふ
【原文参照】
當島八幡神社〈相殿 多理比理神社〉(福山市駅家町上山守)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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備後国(びんごのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている官社のことです 備後国には 17座(並小)の神々が坐します ここには 現在の論社を掲載しています
備後国(びんごのくに) 式内社 17座(並小)について