土佐神社(しなねさま)は 土佐国一之宮として高い格式を持ちます 古代より 神が宿る自然石「磐座(iwakura)」をお祀りしていて「礫石(tsubute ishi)」と呼ばれるこの石が この地に落ちて止まった処に社を建てて祀られたのが始まりとしていて 創祀は古代に遡ると云われます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
土佐神社(Tosa shrine)
(とさじんじゃ)
[通称名(Common name)]
志奈祢様(shinane sama)
【鎮座地 (location) 】
高知県高知市一宮しなね2-16-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》味鋤高彦根神(ajisuki takahikone no kami)
《主》一言主神(hitokotonushi no kami)
【御神格 (God's great power)】
・必勝祈願 Victory prayer
・節分祭 Setsubun festival
・七五三 7 year old 5 year old 3 year old celebration
・初宮詣 Baby prays at shrine for the first time
・家内安全 Safe and comfortable home life
・商売繁盛 Wishing business prosperity
・交通安全 Pray for Traffic safety
・学業成就 Want to acquire knowledge and skills
・厄除け Prayer at an age considered a milestone in life
・方除け Avoid bad directions
・身上安全 Body and life safety
・病気平癒 God cures the disease
・安産 Healthy childbirth
味鋤高彦根神は、大国主神の御子であらせられ、国土の開拓、農工商あらゆる産業の繁栄の神様であることが伝えられ、一言主神は、和合協調の神として一言で物事が解決されるという特殊な信仰のある神様です。
これにより当社は、古くより南海の総鎮守として家内安全、農産繁栄、建設、政治などの神様とされ、さらに御功績により航海安全、交通安全、病気平癒の神様と称えられるなど、広く開運招福の御神徳があるとして、崇敬されています。
公式HPより
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 土佐国一之宮
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
御由緒
土佐神社の創祀については、明らかでありませんが、境内東北方の礫石と呼ばれる自然石を磐座として祭祀したものと考えられ、古代に遡ると言われています。
延喜の制が布告された平安時代、醍醐天皇の御代には式内大社に列せられ都佐坐神社と称され、特に皇室の崇敬あつく勅使の参向もしばしばあり、朱雀天皇の御代天慶三(940)年には、神階を正一位に進ませられています。
鎌倉時代初頭には神仏習合時代に入り、土佐国総鎮守一宮とされました。当社・神宮寺・善楽寺にて一宮を形成、土佐高賀茂大明神と称えられました。
室町時代には、武門の崇敬あつく、正親天皇の御代元亀元(1570)年には、長宗我部元親が、本殿、幣殿、拝殿を再興、安土桃山時代後陽成天皇の御代慶長六(1601)年には、山内一豊封をこの地に享けると共に以前の社領を免許し、二代忠義に至って摂社、末社を始め、鳥居、楼門、鼓楼を増築して、土佐の国最上の祈願所としました。
明治元年、神仏分離令により、永年続いた神仏習合時代が終わり、明治四年には土佐神社と改称、社格を国幣中社に列しました。
戦後、昭和二十一(1946)年官国幣社の制度が廃止され、現在では神社本庁の別表神社とされています。
【由 緒 (history)】
土佐神社参拝の栞
大国主命の御子であらせらせ、御称名も数多く土佐にます神、土佐高加茂大社・高加茂大明神などとも称えまつり
日本書記によれば、創建年代は遠く上古時代とも言われます。とくに皇室の御崇敬あつく 勅使の参向もしばしば有り、平安時代、朱雀天皇の御代・天慶3年(世紀940)には 神階を正一位に進ませられ、
土佐の国総鎮守一の宮として 当時は武門の崇敬厚く
室町時代、正親町天皇の御代・元亀元年(世紀1570)には 長宗我部元親が本殿・幣殿・拝殿を再興し
安土桃山時代、後陽成天皇の御代・慶長六年(世紀1601)には山内一豊、封をこの地に享けるとともに以前の社領を免許し、二代忠義に至って摂社・末社を始め、鳥居・桜門・鼓桜を増築して 土佐の国、最上の祈願所としました。延喜の制が布告された平安時代、後醍醐天皇の御代(世紀901~923)には大社に列せられ、
明治4年(世紀1871)土佐神社と称して格を国幣社に列し、
戦後 昭和21年(世紀1946)には永年つづいた神社制度は終わりを告げて宗教法人になりました。「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・三社殿
向かって左より
左側 事代主神社《主》事代主神
中央 西御前社 《主》祭神不詳
右側 大国主神社《主》大国主神
・礫石(tsubute ishi)
往古 大神の鎮座地を定め給うと投げた石は この地にとどまり 厚く祀られています
・神明宮 《主》伊勢両宮
・厳島神社《主》市杵島姫命
・瀧宮神社《主》祭神不詳
・東天神社《主》祭神不詳
・西天神社《主》祭神不詳
・春宮神社《主》祭神不詳
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29
(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)土佐国 21座(大1座・小20座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)土佐郡 5座(大1座・小4座)[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社名 ] 都佐坐神社(大)
[ふ り が な ] (とさにます かみのやしろ)
[How to read ](tosani masu kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
御祭神の「味鋤高彦根神(ajisuki takahikone no kami)」と
「一言主神(hitokoto nushi no kami)」について
『日本書紀(nihon shoki)』朱鳥元(686)年の八月十三日の条には 天武天皇の病気平癒を祈願するなど 朝廷からの厚い崇敬があります
『土佐国風土記』逸文には
「 その神の名を「一言主尊」となし その御祖はよくは判らないが ある伝えでは大国主命の御子「味鋤高彦根尊」なり」 とあります
御祭神を「一言主尊」と「味鋤高彦根尊」としています
この二柱の祭神は 古来より賀茂氏により大和葛城の氏神として 厚く仰ぎ祀られる神です
大和の賀茂氏か その同族が 土佐の国造に任ぜられたことなどより 当地に祀られたものと伝えられています
礫石(tsubute ishi)
往古 土佐の「賀茂之地」にお着きになられた大神は 鎮座地を「定め給うと投げた石」が 現在の土佐神社の地にとどまり「礫石(tsubute ishi)」として 厚く祀られています
礫石(つぶていし)の謂れ
古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。
或時 神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はずとて 石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが 十四里を距てたる此の地に落止れりと 是即ちその石で 所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。
浦の内と当神社との閏係 斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である。
この地は蛇紋岩の地層なるに このつぶて石は珪石で全然その性質を異にしており、学界では此の石を転石と称し学問上特殊の資料とされている。
昭和49年8月 宮司境内案内板より
ここに記され「高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る」と元宮とされているのは 現在の「鳴無神社(高知県須崎市浦ノ内鳴無)」の琴です
土佐神社の 元宮(旧鎮座地)と云われる 鳴無神社の記事もご覧ください
鳴無神社(おとなし じんじゃ)は 土佐神社(土佐国一之宮)の元宮とされています 伝説によれば 土佐に流されて浦ノ内湾に漂着した「一言主命」を奉斎したのが鳴無神社の始りです ここから祀り変える地を選ぶために「一言主命」が投げた大石が 落ちた所が 土佐神社境内の礫石と伝わります
鳴無神社(須崎市浦ノ内)
神幸祭り(神輿渡御)8月25日 しなね祭 (8月24日・25日)
神幸祭り(神輿渡御)8月25日は 土佐神社と鳴無神社との故事の祭りです
鳴無神社では25日の午後は浦の内に大漁旗をなびかせた船を浮かべて勇壮な御神幸(お船遊び)を行います
午後三時から御神幸が始まります。
古代には神の船遊びと呼ばれ、須崎市浦ノ内湾の鳴無神社(須崎市浦ノ内東分)へ海路渡御しましたが、しばしば海難に遭ったためとり止められ、江戸時代には、高知市五台山北岸に小一宮という御旅所が設けられて船渡御しました。
さらに明治13年当社南方一本松にお旅所を建立それ以来徒歩にて御神幸が行われています
公式HPより
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
土佐一宮駅から 県道251号を北上 約1.5km 車8分程度
参道入口には 楼門(神光門)が建ちます
寛永八(1631)年 二代藩主山内忠義公の建立(国重要文化財)と伝わります
神光門から 真北方向に 境内へと真っ直ぐな参道が 300m程伸びています
土佐神社(Tosa shrine)に参着
境内入り口手前 左側に手水舎があり 水口は龍神から出ています 清めます
神社入口には木製鳥居が建ちます
額には「土佐一宮」とあり 社号標「土佐一ノ宮土佐神社」が並んで建っています
代々の領主は 土佐神社に対して崇敬が篤く 現在の社殿は 長宗我部元親公によって再建造営との 案内板があります
境内右に配されているのは 鼓楼 その左隣に絵馬殿がふります
鼓楼は 慶安二(1649)年 二代藩主山内忠義の建立(国重要文化財)とされています
社殿の前には「拝所」があります
社殿は 左右翼拝殿を設け 前面に拝の出が迫り出しています
入蜻蛉という珍しい建築様式の社殿です
ちょうど「トンボ形(十字のような)」珍しい造りの社殿(国重要文化財)です
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
向かって右翼拝殿
向かって左翼拝殿
本殿(国重文)
「志那祢の森めぐり」案内板があり その通りに参拝します
三社殿 向かって左より
左側 事代主神社《主》事代主神
中央 西御前社 《主》祭神不詳
右側 大国主神社《主》大国主神
志那祢の森の中に流れる湧水が小川となっています ここに架かる小さな神橋を渡ります
ご神木の大杉があります その後ろに石祠が坐ます
礫石(tsubute ishi)に着きます 御垣でかこまれ神籬石として祀られています お詣りです
礫石(tsubute ishi)の先から細い参道が延びていて その先には
神明宮《主》伊勢両宮にお詣りです
輪抜祓所があり 大祓の輪くぐりの要領で かつての御神木だった杉の大木の切り株をくぐります
放生池に浮かぶ
厳島神社《主》市杵島姫命にお詣りします
境内の入口西側にある授与所で お守り・御朱印を頂戴します
境内を後にします
鳥居をくぐり 振り返り一礼
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(nihon shoki)』に記される伝承について
・天武天皇 4年(675年)3月2日の条
・朱鳥元年(686年)8月13日の条
いづれの伝承も「土左大神(tosa no ohokami)」として「大神(ohokami)」の称号を付して記載されていて 地方神ですが 天皇の病気平癒を祈願するなど 朝廷からの厚い崇敬が見えます
意訳
「 天武天皇 4年(675年)3月2日の条
3月2日 土左大神(tosa no ohokami)が 神刀一口を天皇に献上しました 」
「 朱鳥元年(686年)8月13日の条
8月9日 天皇の体不予(miyamai=病気)のために 神々に祈りました
8月13日 秦忌寸石勝(hata no imiki iwakatsu)を派遣して 幣(mite gura)を土佐大神に奉じました
この日に皇太子=草壁皇子・大津皇子・高市皇子にそれぞれ封(hehito)を400戸 加え増しました
川嶋皇子・忍壁皇子にそれぞれ100戸を加え増しました 」
【原文参照】『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用
『続日本紀(shoku nihongi)』天平宝字8年(764年)条に記される伝承
意訳
「 大和葛城山で 大伯瀬天皇「第21代 雄略天皇(yuryaku tenno)」と出会った「老天」が 天皇と猟を争いました天皇が怒り そのために土佐に流された
しかし 賀茂氏の先祖神であったので 天平宝字8年に大和国葛上郡の本処にある一言主神社に戻し祀られた 」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』』延暦16年(797年)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用
『釈日本紀(shaku nihongi)』巻15『土佐国風土記』逸文に記される「御祭神」の伝承
意訳
「 土左大神(tosa no ohokami)が 神刀一口を天皇に献上しました神名帳いわく 土佐國土佐郡 都佐坐神社(大)
土佐国風土記いわく
土左の郡 郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里にあり
土左の高賀茂の大社(おほやしろ) その神の名を「一言主尊(hitokotonushi no mikoto)」とせり
その祖(mioya)は詳かにあらず
一説(aru tsutahe)にいわく 大穴六道尊(ohoanamuchi no mikoto)の子 味鉏高彦根尊(ajisuki takahikone no mikoto)なりといふ 」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『釈日本紀』文永元年(1264年)~正安3年(1301年) 写本(模写本)明治 著者:卜部懐賢
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用
『釈日本紀(shaku nihongi)』巻12 一言主神条 の伝承について
鎌倉時代末期に成立した『釈日本紀(shaku nihongi)』に「一言主神」について記されています
要約
「 一事主神
神名帳いわく
大和国葛上郡葛木坐 一事主神社 名神大 月次新嘗
古事記いわく・・・・・・・・・・・・・・
土佐国風土記いわく
土左の郡 郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里にあり
土左の高賀茂の大社(おほやしろ) その神の名を「一言主尊(hitokotonushi no mikoto)」とせり
その祖(mioya)は 詳かにあらず
一説(aru tsutahe)にいわく 大穴六道尊(ohoanamuchi no mikoto)の子 味鉏高彦根尊(ajisuki takahikone no mikoto)なりといふ雄略天皇(第21代)4年2月
天皇が大和葛城山にて狩りをしていると 天皇は一言主神と出逢います その不遜な言動により一言主神を土佐に流しました流された一言主神は 土佐において初めは「賀茂之地」に祀られます のちに「土佐高賀茂大社」(現在の土佐神社)に遷祀されます
そして 天平宝字8年(764年)に賀茂氏の奏言によって 一言主神は大和国の「葛城山東下高宮岡上」に遷されます
しかし その和魂は 今もなお土佐国に留まり祀られています 」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『釈日本紀』文永元年(1264年)~正安3年(1301年) 写本(模写本)明治 著者:卜部懐賢
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用
※一言主神が 大和国の「葛城山東下高宮岡上」に遷されます(現在の葛城一言主神社)の伝えもご覧ください
葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)は 「葛城之一言主大神」を祀ります 境内には 推定樹齢1,200年の大イチョウがあり 古社であることが見事にわかります 里人は どの様な願い事でも 一言の願いならば叶う「一言さん(いちごんさん)」と信仰し続けています 『記紀神話』の伝承によれぱ 一言主神は 第21代雄略天皇の条に 雄略天皇と葛城山で狩りを競われた神として記され 大和朝廷の中心で大王家と対等ともされた最大の古代豪族「葛城氏」が 一極集中に向かう大王家(雄略天皇)との対立構図のように描かれているとも窺えます 『続日本紀』天平宝字8年( 764年)条では 雄略天皇と狩りを競った「高鴨神」が土佐国に流されていたが 天平宝字8年に元の地に祀ったとあります
葛城一言主神社(御所市大字森脇)
古代より 神が宿る自然石「磐座(いわくら)」をお祀りしていて「礫石(tsubute ishi)」と呼ばれるこの石がこの地に落ちて止まったのが始まりとしていて 創祀は古代に遡ると云われます
土佐神社(Tosa shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
土佐神社の神が 初めに鎮座した「賀茂之地」の比定地には
西方の賀茂神社(幡多郡黒潮町入野・式内社)
賀茂神社(須崎市多ノ郷)
鳴無神社(須崎市浦ノ内・式内社)など諸説があります
「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
土佐国 式内社 21座(大1座・小20座)について に戻る
土佐国(とさのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 土佐国(とさのくに)には 21座(大1座・小20座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
土佐國 式内社 21座(大1座・小20座)について