覩上神社(とかみじんじゃ)は 由緒には諸説あり創建年代不詳ですが 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉以前は 式内社とされていました 式内社 角上神社(つのへの かみのやしろ)の論社 又は式内社 見上神社(みのへの かみのやしろ)ともされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
覩上神社(Tokami shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐市芦辺町湯岳本村触271
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》素盞嗚尊(すさのをのみこと)
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
大己貴命(おほなむちのみこと)
相殿 神秘
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
諸説あり 創建年代不詳
【由 緒 (History)】
延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉以前は式内社であったと伝わります
祭神については
一説云 那珂郷農長の向帯田山にまします時 神木の落葉を取るに甚(いた)く咎(とがめ)め給ひに つぎは住吉村坪見といふ所ら移し奉る 故其の里人 社を建てこれを祭祀(まつる)されども とかく咎め給ひに つぎは上山信の白岩山に遷し奉る 又里人其の所に社を建祭る 今に其の旧地を里人 古妙見と云 亦其の後 故ありて今の覩上川上に宮柱太敷立て遷し鎮奉りき云々
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
嘉祥三年(八五〇)六月 壹岐嶋 角上神(ツノヘノカミ)が 官社に列す と記しています
【抜粋意訳】
巻一 嘉祥三年(八五〇)六月庚戌〈四日〉の条
○庚戌
伊豆國 阿米都和氣命(アメツチワケノミコト)伊太豆和氣命(イタツワケノミコト)阿豆佐和氣命(アヲリワケノミコト)佐岐多麻比咩命(サキタマヒメノミコト)
伊賀國 佐佐神(ササノカミ)津神(ツノカミ)等 並びに授くに 從五位下
壹岐嶋 角上神(ツノヘノカミ)を列すに於て官社
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 角上神社(貞)
[ふ り が な ](つのへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tsunohe no kamino yashiro)
【原文参照】
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 見上神社
[ふ り が な ](みのへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Minohe no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 角上神社(貞)(つのへの かみのやしろ)の論社について
・角上神社(壱岐市石田町湯岳射手吉触)
角上神社(とかみじんじゃ)は 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉の時 角上を「ツノカミ」と読み 式内社 角上神社に比定し 覩上岳(とかみだけ)の山頂に角上神社を新たに勧請しました それ以前は 式外社の塗神(とかみ)と号されていました
角上神社(壱岐市石田町湯岳射手吉触)
・覩上神社(壱岐市芦辺町湯岳本村触)
覩上神社(とかみじんじゃ)は 由緒には諸説あり創建年代不詳ですが 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉以前は 式内社とされていました 式内社 角上神社(つのへの かみのやし ...
覩上神社(壱岐市芦辺町湯岳本村触)
・津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)
津神社(つじんじゃ)は 社伝に「嵯峨天皇 弘仁二年(811)の草創 延喜式内 壱岐国 廿四座の一なり」とあり 『延喜式神名帳927 AD.』所載 石田郡 津神社(つの かみのやしろ)の論社です 郷ノ浦町牛方触(うしかたふれ)の津ノ上山(つのかみさん)〈角上山〉は 壱岐郡と石田郡の郡境にあり 式内社 壱岐郡 角上神社(つのへの かみのやしろ)ともされます
津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)
式内社 見上神社(みのへの かみのやしろ)の論社について
・見上神社(壱岐市郷ノ浦町若松触)
見上(みかみ・みのえ)神社は 壱岐の最高峰 岳ノ辻(たけのつじ)に鎮座します 対馬と九州本土を見渡せるこの地は 古代より峰火台や遠見番所などが設置され国を守る要所として重要な役割を果たし 峰火と海上の守り神として三上大明神と呼ばれていました 延宝4年(1676)式内社改めにより 見上神社と改称しました
見上神社(壱岐市郷ノ浦町若松触)
・覩上神社(壱岐市芦辺町湯岳本村触)
覩上神社(とかみじんじゃ)は 由緒には諸説あり創建年代不詳ですが 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉以前は 式内社とされていました 式内社 角上神社(つのへの かみのやし ...
覩上神社(壱岐市芦辺町湯岳本村触)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
印通寺フェリーターミナルから 県道23号を北上 約5km 車10分程度
社頭には石灯籠と鳥居が建ちます
覩上神社(壱岐市芦辺町湯岳本村触)に参着
鳥居の扁額には 覩上宮 と刻されています
一礼をして 鳥居をくぐります
すぐ右手には 祭祀場?
石段を上がり
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には幣殿 本殿の覆い屋
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 角上神社の所在について 湯岳村〈現 角上神社(壱岐市石田町湯岳射手吉触)〉
式内社 見上神社の所在について 初山村〈現 見上神社(壱岐市郷ノ浦町若松触)〉と記しています
【抜粋意訳】
角上(ツノヘ)神社
文徳実録 嘉祥三年六月 壱岐島 角上神列ニ於官社
畧志 湯岳村にあり見上(ミノウヘノ)神社
畧志 初山村にあり
【原文参照】
『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承
巻之六 壱岐郡湯岳村之部 覩上神社〈現 覩上神社(壱岐市芦辺町湯岳本村触)〉は 妙見宮と呼ばれていたが 何度も咎めがあり遷座を繰り返している事
式内社 見上神社とも式内社 角上神社の両社であったと諸説がいわれいていると記されています
【抜粋意訳】
壱岐名勝図誌 巻之六 壱岐郡湯岳村之部
覩上神社 中葉称 妙見宮
(在 本村覩上川上 郷中宗社にして例祭日九月二十六日)
祭神 素盞嗚尊
左殿 奇稲田姫命
右殿 大名牟遅命
相殿 神秘正殿 (南向)
上屋 ・・・
祝詞屋・・・
拝殿 ・・・
神饌殿・・・当社鎮座起元 諸説ありにつきて 年歴不詳
一説云 那珂郷農長の向帯田山にまします時 神木の落葉を取るに甚(いた)く咎(とがめ)め給ひに つぎは住吉村坪見といふ所ら移し奉る 故其の里人 社を建てこれを祭祀(まつる)されども とかく咎め給ひに つぎは上山信の白岩山に遷し奉る 又里人其の所に社を建祭る 今に其の旧地を里人 古妙見と云 亦其の後 故ありて今の覩上川上に宮柱太敷立て遷し鎮奉りき云々一説には 当社はむかし覩城(トシロ)築建つ時 城域鎮護のため祭鎮(まつ)りし社なりとも
又一云 素神 大己貴命を悪魔除 伏疫予防御のため此地に祭鎮りしと伝えね是ならん
諸説はとあれかくなき古社なり〇神明記云 長川戸に住吉村の妙見三所云々 湯岳に妙見云々
〇神名記云 妙見宮 小神改め以前は式内なり 素戔嗚尊 奇稲田姫命 大己貴命云々
〇神社帳云 辻ノ米(トカミノツジ)妙見宮 本社古来 勧請年数不知
〇承應年中 松本河内掾所記旧帳には 見上神社とあり 然る時は 神名帳に改め以前 延宝年中を云へり は式内之と志るされたるは 実は然る事なりかし 今按に今 坂免にミノウヘといえる水田あり 是 見上神田ならんや 古今 国中十七社の其一なるへし 社の境内の井泉を覩上(トカミ)川といへるも見上の字に似つかはし 今又 覩上宮と称し奉らる彼 是 見上神社は故事能かるへり〇壱岐伝記云 角上(トカミ)川 所謂 此の川は妙見宮の辺りにあり 世俗 止甕(トカメ)川と云は訛り之 是即ち 所載 延喜式 角上神社 坐故也 今 妙見宮と云うは後世の謬なり 橘三喜雖尋之 未知因りて髙嶺造立宮殿曰 角上按本社は妙見 故号 其川は謂う角上 云々・・・・・
・・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 角上神社の所在について 湯岳村 塗神(トガミ)〈現 覩上神社(壱岐市芦辺町湯岳本村触)〉としています 又 角上山(津ノ山)に鎮座する 牛方村 津上明神〈現 津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)〉との説も載せています
式内社 見上神社の所在について 初山村〈現 見上神社(壱岐市郷ノ浦町若松触)〉と記しています
【抜粋意訳】
角上神社
角上は 都乃倍と訓べし
〇祭神 詳ならず
〇湯岳村に在す 元名湯村と云 今 塗神(トガミ)と称す 式社考重足云
今 石田郡牛方村 津上明神こそ角上神社ならめ、当村郡境にて角上山あり、両郡に跨り、山の北ノ方 壱岐郡 南ノ方 石田郡 也といへり、然もあらんか、されど当国は、延宝八年、国主 松浦家より命じて壱岐略誌を撰み、是を以て 国應の規定としたれば、今略誌に従ひ置ぬ、尚考ふべし見上神社
見上は 美乃倍と古あり
〇祭神詳ならず
〇初山村に在す 土俗 三神男明神と称す神位
三代実録 巻十一 貞觀七年(八六五)七月廿六日〈乙巳〉の条
○廿六日乙巳。進美作國從四位下仲山神階加從三位。授尾張國從四位上眞清田神正四位上。信濃國正六位上名立神。前國正六位上神根神。壹岐嶋正六位上見上神。眞賀山神等並從五位下
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 角上神社の所在について 武荘 牛形郷 角上岳 角上大明神〈現 津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)〉と記しています
式内社 見上神社の所在について 湯岳邑 覩上宮〈現 覩上神社(壱岐市芦辺町湯岳本村触)〉であると記しています
【抜粋意訳】
角上(ツノヘノ)神社
今 武荘 牛形郷 角上岳 角上大明神 是也
文徳天皇 嘉祥三年六月 壱岐島 角上神列ニ於 官社に預からしむ
見上(ミノヘ)神社
今 湯岳村 美の宇部 の地にあり、覩上宮と云
清和天皇 貞觀七年(八六五)七月廿六日〈乙巳〉壹岐嶋 正六位上 見上神 從五位下
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 角上神社の所在について 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 湯岳村出石都上岳に新たに角上神社〈現 角上神社(壱岐市石田町湯岳射手吉触)〉を祀った 本来は大武庄牛形の郷 角上岳 角上大明神〈現 津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)〉の説を記しています
式内社 見上神社の所在について 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 初山村〈現 見上神社(壱岐市郷ノ浦町若松触)〉とされた しかし正しいのは 湯岳邑 覩上宮〈現 覩上神社(壱岐市芦辺町湯岳本村触)〉であると記しています
【抜粋意訳】
角上神社
祭神 須佐之男尊
祭日 九月十八日
所在
今按〈今考えるに〉
神社考 湯岳村出石都上岳には祭神なかりしを 角上神社を延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に新たに勧請し石社 木鏡を奉納したり 角上を覩上とは如何して思誤れるにや 且此地は昔 石田郡にして壱岐郡にあらず 今 城邑 角上大明神は大武庄牛形の郷 角上岳 角上大明神と称して角上神社なる事明白なりとみえ
式社所名徴に壱岐廿四座記 承應社記 吉野公光記 神社考 式社略考等にもみな牛形村にあるときは湯岳村にはあるべからず尚よく考べし見上神社
神位
清和天皇 貞觀七年(八六五)七月廿六日〈乙巳〉壹岐嶋 正六位上 見上神 從五位下祭日 九月朔日
所在
今按〈今考えるに〉
明細帳 式内社記共に初山村とあり
神社考に初山村岳の辻にみのへと称せし神あり 因りて延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に式内 見上神社としたり 其の虚實是非をしらずとみえ
式社沿革考に承慶記に湯岳邑と記せしぞ正しからむ村の宋社 覩上宮は延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉以前 式内と称し國幣十七社の一にして 又 社地近き みのうへ と云る地名あり 然れば覩上宮 即ち見上神社歟と云るは據ありて聞ゆ故之に従て可ならむ
【原文参照】
『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承
見上神社(壱岐市郷ノ浦町若松触)は 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉によって 式内社 見上神社とされた
しかし それ以前は 三上大明神と云い式外社であった と記しています
【抜粋意訳】
那賀村ノ部 村社 覩上神社(旧号 妙見宮)
鎭座地 那賀村宇湯岳辻ノ米
祭 神 素盞鳴尊、奇稲田姫命、大己貴命
例祭日 十月二十六日
境内地 1008坪〔由緒沿革〕
一、社記ニ曰、古來妙見宮ト称シ、式内社タリシガ延宝四年ノ調査ニ依リ式外ト定メラル。
一、神明記ニ曰、妙見宮小神改正以前ハ式内ナリ。
一、神社帳ニ湯岳村 トカメ川 妙見宮本社有 宝殿拝殿 定祭九月二十六日神主後藤儀部同左内。
一、定祭ニ 國主名代 郷待社参ス 流鏑馬アリ 享保八年神幸ノ願叶ヒテ翌年ヨリ始マル 社殿造営毎ニ國主ヨリ白銀五枚寄進セラル。
一、社領二石他社ニ同ジ。
一、当社始メハ 中野郷ノ農長ノ南帯田山ニ座セリ 神木ノ落葉ヲ採ルト難咎メ給フ 故ニ 住吉村ノ坪見ト云フ所ニ遷座シ奉り 後又 同村山信ノ白岩山ニ移シ奉ル 其所ヲ 古妙見ト云フ 後二 今ノ地ニ遷座シ奉ルト云へリ。一、寛永十四年丁丑四月 御殿造営アリ、棟札一宇妙見宮再建本願主深見助左衡門實吉判神主後藤彌一郎
一、慶安二年乙丑九月 御殿造営アリ、妙見宮宝殿一宇ノ事源朝臣鎭信押字。
一、延宝三年乙卯十二月 御殿内殿造替アリ妙見宮御宝殿一字ノ事松浦朝臣鎭信押字。祠官後藤主水社記ニ曰、当社ハ以前 諸吉社務ノ兼摂ニシテ 慶長七年 諸吉熊野権現社務後藤民部清光三男木工左衛門正 廣始メテ当社ノ神主トナリ 妙見宮椎木大明神 六社神社 志原村大石峰神社 貴布禰神社 ノ五社ノ兼務トナリシヨリ起リ 明治維新マデハ諸吉村後藤氏ト 湯岳村後藤氏ト 両人社務ニ從事セリ。
一、明治九年十二月四日 村社ニ列セラル。
一、大正二年十一月 神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル。
【原文参照】
覩上神社(壱岐市芦辺町湯岳本村触)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について