実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

天神神社(羽咋郡志賀町穴口)

天神神社(てんじんじんじゃ)は 口碑によると 鎮座する穴口村は 穴持村といわれ 本神社は 大穴持像石神社であるとも伝えられています 故に『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社でもあります

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

天神神社Tenjin Shrine)
(てんじんじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

石川県羽咋郡志賀町穴口リ58

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大己貴命 (Onamuchi no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

・創建年代不詳

【由  (History)】

由緒

由緒不詳であるが、口碑によると鎮座する穴口村は穴持村といわれ、本神社は大穴持像石神社とも伝えられている。一見、古墳の形態をしている山頂に鎮座する。

石川県神社庁公式HPより
https://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/shrine/j1142/

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)能登国 43座(大1座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)羽咋郡 14座(大1座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 大穴持像石神社
[ふ り が な ]おほあなもちのかたいしの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Ohoanamochinokataishi no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

能登国を平定した 2柱の大神〈大国主神 少彦名命〉を像石(カタイシ」として祀る神社が 能登国にはあります 

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
能登國 羽咋郡 大穴持像石神社」の論社は 4神社あります

大穴持像石神社(羽咋市)

一緒に読む
大穴持像石神社(羽咋市)神が降臨し現われた霊石は神像に代わる「像石(カタイシ)」とされ境内に鎮まります

大穴持像石神社は 民俗学者・折口信夫(おりくちしのぶ)博士〈明治20年(1887)2月11日~昭和28年(1953)9月3日〉が 論文集『古代研究』で「漂着神(よりがみ)を祀ったタブの杜」と紹介した神社で タブノキの大樹に覆われた社叢も知られます 氣多大社の摂社で祭神も同じ 大己貴命(オホナムチノミコト)相殿神に少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祀ります 神社名の「像石(カタイシ)」は 神が降臨した際に現われた自然石とされ 一種の神像に代わる霊石「地震石」とされ 地元では産土神「オナッサマ」とよばれ信仰されています

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身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉

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身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉

身代神社(みしろじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載「能登国(ノトノクニ)羽咋郡(ハクイノコオリ)」の条にある2つの式内社「大穴持像石神社」と「久麻加夫都阿良加志比古神社」の論社でもあります 社伝よれば「出雲国より舟に乗りて 当村に着かれた大真石が 御神体として仰がれている」とされていて かつては神社名称を 大穴持身代社(オヲナモチミシロノヤシロ)を称していました

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八千鉾神社(羽咋郡志賀町)

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八千鉾神社(羽咋郡志賀町)

八千鉾神社(やちほこじんじゃ)は 「町八千鉾神社古墳」〈円墳 径6m、横穴式石室の天井石露出〉の上に鎮座しています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社でもあり 大穴持像石神社とも称せられたといいますが 明治の初期に至り 八千鉾神社と改称された伝わります

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天神神社(羽咋郡志賀町)

一緒に読む
天神神社(羽咋郡志賀町穴口)

天神神社(てんじんじんじゃ)は 口碑によると 鎮座する穴口村は 穴持村といわれ 本神社は 大穴持像石神社であるとも伝えられています 故に『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社でもあります

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『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
能登國 能登郡 宿那彦神像石神社(貞)」の論社は 4神社あります

・宿那彦神像石神社(中能登町)

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宿那彦神像石神社(中能登町金丸)少彦名神が神霊を石に留めたと云う

宿那彦神像石神社(すくなひこのかみかたいしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社です 社伝によれば 神代の昔 御祭神 少彦名命が 大名持命とともに能登国を巡行し 国土平定の後 大己貴命は氣多崎に 少彦名神は此地に 神霊を石に留めたと伝わります この神代の2柱神に因んで 氣多大社の例大祭 平国祭は 氣多大社の神輿が 3月20日夕刻 本社〈宿那彦神像石神社〉拝殿で一泊 翌朝 祭神〈少彦名命〉が 右神輿に遷座せられ 七尾の気多本宮に神幸し 23日午前に右神輿が 本社に還御あって祭典を奉仕します

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・宿那彦神像石神社(七尾市)

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宿那彦神像石神社(七尾市)神の上陸の地に祀られた御神体「神像石(カムカタイシ)」と伝わります

宿那彦神像石神社(すくなひこかむかたいしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 古老の云うところには 少彦名命(スクナヒコナノミコト)が 海から依り憑き 阿良加志比古神(アラカシヒコノカミ)と協力して 郷民を害す毒虫 及び 妖鳥を亡ぼし この地方の平定を成し遂げた その神の上陸の地に一種の神像に代わる霊石として祀られたのが御神体の「像石(カタイシ)」であると伝わります

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・宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(七尾市)

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宿那彦神像石神社〈旧鎮座地 神像石〉(七尾市)御神体の「神像石(カムカタイシ)」は縦七尺二寸 下幅三尺八寸 上幅二尺五寸の巨石と伝わります

宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(カムカタイシ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社の旧鎮座地です 古老の云うところには 少彦名命(スクナヒコナノミコト)が 海から依り憑き 阿良加志比古神(アラカシヒコノカミ)と協力して 郷民を害す 毒虫 及び妖鳥を亡ぼして この地方の平定を成し遂げたと伝わり その神「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」の上陸の地に一種の神像に代わる霊石として祀られたのが御神体の「神像石(カムカタイシ)」縦七尺二寸 下幅三尺八寸 上幅二尺五寸の巨石とされます

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・阿良加志比古神社(七尾市)

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阿良加志比古神社(七尾市)

阿良加志比古神社(あらかしこひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社で その鎮座の由来について 阿良加志古神(アラカシコノカミ)が年老いた時 郷民を害す 毒虫及び妖鳥が棲んでいた この時に 少彦名神(スクナヒコナノカミ)が 海から漂い憑き 力を合わせて これを亡ぼし国土を平定し 土民を安堵させ それにより 神として祭られたと 古老の伝えがあります

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

羽咋駅から 県道46号経由 約16km 車20分程度
穴口の集落着くが 神社への参道入り口が良くわかりませんでした
民家の間に細く山に向かう道があり進みます

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小山の上あたりに 参道の石段のような階段がありますが 古く苔生しています 左側から迂回して上がる整備された道がありましたので そちらから上がると 朝霧の中 社殿が見えてきました

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境内の下草は綺麗に刈られていいます 雪の深い北陸で見る社殿の覆屋が建ちます
天神神社Tenjin Shrine)に参着

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境内から 先程上らなかった参道階段上から見て お詣りを始めます

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社殿の覆屋にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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そういえば 一度も社号を見ていません 参道からお詣りを済ませても「天神神社」である確認をしていないことに気付きました
境内の老木の根元には 石仏置かれていました お堂の造りではないので天神神社であると思います

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しかし 国津神である大己貴命(オホナムチノミコト)を祀り 天神神社と云う呼称は 何故なのだろう もしかすると かつては少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祀っていたのではないだろうか? などと想い耽りながら 参道を戻り 振り返り一礼をします

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承

官社に列したと記されています

【意訳】

貞観2年(860)6月9日 戊子の条

能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)

宿那彦神石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)
二前 並び於いて 官社に列す

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

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『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承

三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条について 考察されています

【意訳】

大穴持像石(オホアナモチノカタイシノ)神社

三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す

〇信友 按〈考えるに〉
能登郡に 宿那彦神石神社(スクナヒコカタイシノカミノヤシロ)とある例えにて
大穴持神像石---神の字がない

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承

所在について 不明だと記されています

【意訳】

大穴持像石神社

大穴持像石は 於保奈牟知加多伊志(オホナムチカタイシ)と訓ずべし

〇祭神 明らかなり
〇在所詳らかならず

官社
三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

寺家の「大穴持像石神社」を延喜式内社として 比定しています
他の論社は 10年程の間に改称などをしていて疑わしいと記しています

【意訳】

大穴持像石神社

祭神 巳貴命
相殿 少彦名

官社
清和天皇 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す

祭日 4月1日 9月30日
社格 村社 明細帳 縣社とあり(縣社)

所在 一宮寺家村 (羽咋郡一ノ宮村大字 一宮寺家)

今 按〈考えるに〉
氣多神社 明応8年(1499)神社目録に30荷 在一宮 大穴持前犬か田と号
寄進と載ているのは この社地の辺なる田畑なりと云い

往古以来 氣多神社の摂社にて 氣多の旧神官より 宮司に補せらるる例えなり云い
今尚 神像石は 社前の道辺に存在し 方5尺許にて 偶不潔のことあれば 禍(マガ)を得る者が往々ありて 威霊を現したまい
又 この社を俗に オナヂの宮と称するも その由あれば この地なること疑いなし 

旧来 同郡 町村と梨谷小山の両社を像石神社として 互いに争論ありしかど
寛延2年(1749)社号帳に町村は 住吉大明神 小山村は三代大明神と記していたのを 
寶暦10年(1760)の帳には 町村を大穴持社 天明後は 同所を八千鉾社とし 小山村を大穴持身代社と記せるなど 甚だ疑わしければとらず 

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』1 『特選神名牒』2

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

寺家の「大穴持像石神社」を延喜式内社として 比定しています

【意訳】

石川県能登国羽咋郡一ノ宮村 大字一宮 寺家(ジカ)

縣社 大穴持像石(オホアナモチカタイシノ)神社

祭神 大穴牟遅(オホナムチノ)命
相殿 少彦名(スクナヒコナノ)命

本社は 神名帳に大穴持像石神社とある神社にして 同考証に「清和天皇 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す」と見え

又 三代実録にも 右の由を記せり
同神は即ち 巳貴神のことにして 何故に当所に創立せられしか その所以を明らかにせず

能登国名勝志に 当社は一ノ宮の山頂にありと 即ち 一ノ宮は国幣中社 氣多神社の事にして 今も尚 当社は その摂社として その地に鎮座し 土民の崇敬極めて隆なり

始め当国の領主 畠山義元 明応8年12月24日 田地2910刈 畑4か所等を寄進し 且つ 本殿及び大門通路に至る営繕あり
その後 又 領主 前田家に於いて代々 氣多神社と同様 社殿 鳥居等の営繕ありし事 当社記録 及び明細帳に記せり

而して 当社は 往古より 氣多神社 摂社にして大穴持像石神社と称し来たりが 明治6年 石川県に於いて 頂社と改称し 明治10年3月21日内務省より更に氣多神社摂社と確定せられ 社号も又 旧に復せり
建物は 社殿 拝殿 幣殿 神饌所あり
境内393坪を有し 参詣人 常に絶える事なし  

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』

天神神社Tenjin Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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能登国 式内社 43座(大1座・小42座)について に戻る        

一緒に読む
能登國(のとのくに)の 式内社 43座(大1座・小42座)について

能登国(のとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 能登国には 43座(大1座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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