実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

天一神社(佐用郡佐用町東徳久)〈播磨國風土記・六国史・延喜式に所載の社〉

天一神社てんいちじんじゃは 社伝には゛今より約二千年前(彌生時代)に創立 日本でも最古の神社で寶剣(銅剣)が御神體なるは天智記に「安置御宅」゛と記され 『六国史』天安元年(857)天一神從五位下が奉授 その7日後に官社に列すと記され 『延喜式播磨國 佐用郡 天一神玉神社あめひとつかんだまの かみのやしろです

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

天一神社Tenichi shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

兵庫県佐用郡佐用町東徳久1644

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天御中主大神(あめのみなかぬしのおほかみ)

《配》天目一箇神(あのまひとつのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

鍛冶の神、職業神・無病息災

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【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

天一神社由緒

東徳久字西間村鎮座

祭神 天御中主大神

この神社は今より約二千年前(彌生時代)に創立された日本でも最古の神社で寶剣(銅剣)が御神體なるは天智記に「安置御宅」記され
延喜式神名帳をはじめ多くの古書に登載され有名である。
 奈良東大寺戒壇神名帳に「天一天白中頭天王」と天一神のことが登載されている。

・延喜式神名帳に曰く
「播磨国佐用郡二座佐用比賣神社、天一神玉神社」

・播磨鑑に曰く
「天一神社は柏原郷東徳久中馬村と云う所の上山 祭神天御中主大神」

・神祇全書に曰く
「天一神玉神社 今東新宿村有称阿布良権現社叱乎」

・文徳実録に曰く
「天安元年八月庚辰(紀元一五一七年)在播磨国正六位上天一神授従五位下、丁亥在播磨国従五位下天一神預官社」

・和名抄の百鬼経に曰く
「天一神和名奈加加美天女化身也」

その他の古書「姓氏録云」「神社覈録」「比保古云」「地名彙」「神祇志料」「播磨風土記」「播磨国細見記」「式社記」等に登載されている。

古例
 往古より毎年正月朔日より七日間祭典を行いこの間に参詣すれば「天一神玉」の霊験により疫病に罹る事なし」との伝により 参詣者は近郷のみならず他郷他郡の遠きより群参せり。

尚、近年は交通安全、入試合格、諸技術上達等の祈願により目的成就、喜びの人々急増せり

昭和五十四年八月吉日 石堂宗本 寄贈

現地案内板より

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【由  (History)】

天一神社 テンイチジンジャ

主祭神 天御中主大神 アメノミナカヌシノオオカミ

由 緒

 創立年代不詳なれど延喜式神名帳に佐用郡二社佐用比売神社・天一神社とあり延喜年代の宮席あり、正しくは天一神社と云う。

 鍛冶の神、職業神、銅剣(県指定重要文化財)は明治20年(1887)頃平松の「ゴロウ」と呼ばれる所から発掘され、弥生時代に大陸から渡って来たもので圃場整備の時に数々の土器が発見された。

2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6319056.html

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・社殿〈拝殿後方に幣殿及び本殿の覆屋〉

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・拝殿

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・狛犬

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・社殿前の参道石段

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・天神降臨之岩

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・境内社 書道の神

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書道の神

こゝに鎮座まします神は書道上達の神として往古より毛筆の使用済書初、掛軸、硬筆ノート等奉納、祈願され目的成就感謝の人々多し

昭和五十四年八月吉日 内山登一 寄贈

現地案内板より

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・鳥居

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・鳥居までの参道

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ

記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承

天一神社の鎮座地 東徳久(ひがしとくさ)では 平成4年平成8年にかけて 東徳久遺跡の発掘調査があり 古代製鉄遺跡(炭窯跡)が発見されました 製鉄操業が盛んな地であったことが裏付けられています

明治20年(1887)頃には 北に隣接する平松地区で弥生時代の銅剣が出土して 兵庫県指定文化財となっています 社説に当社の御神体とも云い 天一神社の宝剣とされています

讃容郡(さよのこほり)〈中川里〉の条には 蛇行剣(蛇のようにうねった刃をもつ剣)の出土が 記されていますので 関係性はあると想います

【抜粋意訳】

讃容郡(さよのこほり)〈中川里〉

 近江天皇の御世天智天皇 在位668~672年

丸部(わにべの)具(そなう)という者が 仲川里いた この 河内国の免寸(とのき)の村人が持ってを買い取った
得て以後 はこぞってび亡くなってしまった

れから 苫編部(とまみべ)の犬猪(いぬゐ)が かの地の墟〈滅んだ家の跡地に圃(はたつくり)畑を作り〉をすると 土の中に この劔を得た
土を取り去ると 劔 廻り一尺(約30cm)ばかり その(え) 朽ち失せていたが その渋(さ)びず 光明は鏡の如くであった
ここ犬猪(いぬゐ)は 怪しんでを取り家に帰った すぐに鍛人(かぬち)鍛冶を招き その刃を焼かせた
の時 この劔は 蛇の如く 伸び縮みして 鍛人は いにき つくらずに止めてしまった
そこで 犬猪(いぬゐ)は (あやしきつるぎ)であると 朝廷に献上された

その後 浄御原朝廷(天武天皇の御世)
甲申の年〈天武12年684)〉七 曽禰連麿(そねのむらじまろ)を遣わせて 本處〈元の所還しられた 今は この里の御宅に安置されている

【原文参照】

『播磨国風土記』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2538170

『播磨国風土記』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2538170

託賀郡(たかのこほり)賀眉里(かみのさと)の条には 天目一(あのまひとつのみこと(火を見て片目となる)一つ目の神で 鍛冶の神〉の記載があり やはり製鉄に関する記述だと想われます

゛後に その田は荒れてしまったので 故に荒田村と名付けた゛とある文については
現実的な考証をすると 古代 砂鉄の採集としての鉄穴(かんな)流し タタラ製鉄の際の木材の伐採などによる 流域に大量の土砂が堆積して 田が荒れて 荒田(あらた)か?

【抜粋意訳】

託賀郡(たかのこほり)賀眉里(かみのさと)

 

大海山(おおうみやま)荒田村(あらたむら)

賀眉(かみ) 川上〈加古川の川上〉にあったので名付けられた 大海と名付けられた所以は 昔 明石郡の大海里の人が到り来て この山の麓に居住した 故に大海山と云う 此処には松が生えている

荒田と名付けられた所以は この處(ところ)に在す神 道主日女命(みちぬしひめのみこと)父(夫)なくして み児を生みましき
その時 盟酒(うけひざけ)を醸(かも) 田を七町作ると 七日七夜の間に稲が成熟し その米で酒を醸(かも)し 諸神を集めて振る舞うと の御子に養〈父神〉に酒を注ぐように命ずる その子は 天目一命(あまのまひとつのみこと)に酒を奉りましたので その父だと知ることとなりました
後に その田は荒れてしまった 故に荒田村と名付けられました

【原文参照】

『播磨国風土記』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2538170

『播磨国風土記』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2538170

『日本文徳天皇實録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承

播磨國 天一神從五位下が奉授 その7日後に官社に列したと記されています

【抜粋意訳】

卷九 天安元年(八五七)八月庚辰十六

○庚辰

に 播磨國 正六位上 天一神 從五位下
に 大和國 從五位下 高屋安倍神 椋橋下居神 授從五位上

外從五位下 當野伊美吉平麻呂爲豐前介

卷九 天安元年(八五七)八月丁亥〈廿三〉

○丁亥

在に 播磨國 從五位下 天一神 預に官社

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)佐用郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 天一神玉神社
[ふ り が な ]あめひとつかんだまの かみのやしろ
[Old Shrine name]Amehititsu kandama no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛について

天目一箇神は 鍛冶の神とされ
『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶であった゛天津麻羅(あまつまら)゛と同神ともされ 別名も多く 天目一命(あまのひとつめのみこと)とも呼ばれます

神名の゛目一箇(まひとつ)゛とは 鍛冶師は 製鉄の時 片目をつぶり 鉄の色を見て温度を見た事によるとも 鍛冶の職業病として 鉄を打つ火の粉によって片目を失明する゛一つ目(片目)゛の意味であろうとされます

式内社 天目一箇神社(あめのまひとつのかみやしろ)の論社が 多くある「多可町」には ゛鍛冶屋(かじや)と云う 地名があるのも頷けます゛

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゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を祀る 播磨國の式内社について

播磨国は 古くから製鉄や鍛冶が行われていたと伝わり 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を信仰する製鉄・鍛冶の拠点に祀られたと考えられます

①播磨國 佐用郡 天一神玉神社(貞)(あめのひとつかんたま かみのやしろ)

・天一神社(佐用町東徳久)

一緒に読む
天一神社(佐用郡佐用町東徳久)〈播磨國風土記・六国史・延喜式に所載の社〉

天一神社(てんいちじんじゃ)は 社伝には゛今より約二千年前(彌生時代)に創立 日本でも最古の神社で寶剣(銅剣)が御神體なるは天智記に「安置御宅」゛と記され 『六国史』天安元年(857)天一神に從五位下が奉授 その7日後に官社に列すと記され 『延喜式』播磨國 佐用郡 天一神玉神社(あめひとつかんだまの かみのやしろ)です

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②播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社

・天目一神社(西脇市大木町)

一緒に読む
天目一神社・平野神社(西脇市大木町)〈天目一箇命を祀る古社〉

天目一神社(あめのまひとつじんじゃ/てんもくいちじんじゃ)は 天正八年(1580)兵火にあい記録類を失い 江戸時代には社地も不明でした 明治維新の後 当時 惣堂天王社のあったこの地を式内社 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の跡地と定め 鎮守である平野神社も合祀され 大正12年(1923)復興されたものです

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・青玉神社(多可町加美区鳥羽)

一緒に読む
青玉神社(多可郡多可町加美区鳥羽)〈祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命〉

青玉神社(あおたまじんじゃ)は 伝承では 祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命で 初め三国岳の山頂に祀られていた ある時 鳥羽(とりま)の村人が三国山に狩りに行くと 急に背中が重くなり不思議に思いながら下山した 村はずれで急に背中が軽くなり「背中に乗った神様が降りられた」として社を建てたのが現在の社地と云う

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・稲荷神社(多可町中区糀屋)

一緒に読む
播州糀屋稲荷神社(多可郡多可町中区糀屋)〈創建は推古2年(594)〉

糀屋稲荷神社(こうじやいなりじんじゃ)は 創建は推古2年(594)に字「土井の後」に鎮座 天平時代 称徳天皇の崇敬厚く 慶雲3年(706)社殿の建立となり勅使を使わせられ 神託により天安元年(857)現在地に移ったと伝えられます 延喜式内社 播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社です

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・天目一神社(多可町中区間子)
〈加都良神社 境内社〉

一緒に読む
式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)〈加都良神社の境内摂社〉

式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)は 式内社 加都良神社の境内摂社として祀られています 天目一命は 多可町内では他に 青玉神社(山寄上やまよりかみ) ・青玉神社(鳥羽とりま)・西宮神社(清水きよみず)で主祭神として 大歳金比羅神社(鍛冶屋かじや)・加都良神社(間子まこ)では 摂社として祀られています

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・荒田神社(多可町加美区的場)天目一神社(的場 御田上

一緒に読む
荒田神社(多可町加美区的場)〈播磨國二之宮〉

荒田神社(あらたじんじゃ)は 社伝に゛孝謙天皇 天平勝寶元年(749)゛少彦名命゛が降臨し創建と云う 一方『播磨国風土記』〈霊亀元年(715)頃〉には゛天目一命゛と゛道主比賣命゛の伝承が語られ 延喜式内社 播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)とも 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)とも云います

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〈参考論社〉
・大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉

一緒に読む
大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉

大歳金刀比羅神社(おおとしこんぴらじんじゃ)は 往古は 鍛冶の神 天目一命(あまのまひとつのかみ)を奉祀したと推測され 現在も本殿相殿・境内摂社に天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が祀られています 明治44年(1911)在来の大歳神社に〈摂社〉金刀比羅神社〈寛政6年(1794)讃岐琴平宮より勧請〉を合祀し 現社号に改称

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③播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)

『新撰姓氏録』に〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔として「菅田首」があり 「菅田氏」が祖神を祀った神社とされています

・菅田神社(小野市菅田町)

一緒に読む
菅田神社(小野市菅田町)〈鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命を祀る〉

菅田神社(すがたじんじゃ)は 鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔とされる「菅田(すがたの)首(おびと)」が祀った神社と云われ 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり当社にも住吉神が祀られていきました

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・住吉神社(小野市中番町)

一緒に読む
住吉神社(小野市中番町)〈延喜式内社 菅田神社(すかたの かみのやしろ)〉

住吉神社(すみよしじんじゃ)は 「菅田首(すがたのおびと)」が祀ったとされる 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)が分祀し 保安年間(1120~1123)今の地へ遷座したものとされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり 住吉大社の神領として 住吉三神を配祀し 住吉神社と改称されています

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・山王神社(加東市厚利)

一緒に読む
山王神社(加東市厚利)〈延喜式内社 菅田神社の論社〉

山王神社(さんのうじんじゃ)は 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社である・菅田神社(小野市菅田町)・住吉神社(小野市中番町)は 東條川を挟んで その南北の岸に祀られています 同じく論社とされる当社は そこから東條川を上流に向かって4km程遡った辺りの北岸に鎮座しています

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・八坂神社(小野市中番町)

一緒に読む
八坂神社(小野市中番町)〈゛天目一箇神゛を祖神とする菅田族の祭祀した神社〉

八坂神社(小野市中番町)は 当地方に゛天目一箇神゛を祖神とする菅田族〈砂鉄を採集して武器 農具を作成〉が祀った延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされ やがて農業に転換した里人は 農地に適した現在地〈その後 住吉大社神領となる〉に移住 神社も保安年間(1120~1123年)住吉三神を合祀し移転したと云う

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

姫新線 播磨徳久駅から県道53号を北東へ約3.6km 車で8分程度

途中 車道に小鹿が現れました

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鎮座地の東徳久(ひがしとくさ)に来ると天一神社の標識がありました

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東徳久奥まったところ山の中腹に鳥居が見えます

天一神社佐用郡佐用町東徳久に参着

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鳥居の前には参道沿いに 防獣除けの柵が設けられていて 金網の扉を開閉して 参道へと進むようになっています

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参道へ進むと木製の鳥居が南南東を向いて建てられています

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一礼をしてから 鳥居をくぐり抜けて さらに参道を上ります

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途中 参道の斜面に・天神降臨之岩・境内社 書道の神が祀られていますので お祈りをします

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この位置の真下に 社頭の鳥居があります

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右手には 山へ上がる道があり おそらく参道なのでしょう 進みます

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道を折れると 上の方に社殿らしきの建物があり やはり参道でした

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比較的 新しい手造りの石段があり その先に 狛犬が見えていますので拝殿だと想われます

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拝殿にすすみます

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拝殿は 割拝殿になっていて 絵馬や御寄進名簿が掲げられています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の柱には 西行法師〈仏教の僧侶〉が 伊勢神宮(神道)に参拝して感動したとする歌を詠んでいます

 なにごとの おはしますかは 知らねども
  かたじけなさに 涙こぼるる

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不思議な彫り物が置かれています 馬だろうか?
ここが 東徳久村の馬村の山上なので 馬なのか?

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゛天一神゛と記された 古い扁額も置かれています

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社殿は 拝殿 幣殿 本殿の覆屋が一体となっています

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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下に見えている屋根は 境内社 書道の神の祠です

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鳥居まで戻ってきました

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鳥居の先に広がるのは 千種川沿いに広がる東徳久(ひがしとくさ)の水田です

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千種川とは 血種に由来する名前なのでしょうか?

『播磨國風土記〈和銅6年(713年)〉』讃容郡(さよのこおり)の条には

女神 賛用都比売命(さよつひめのみこと)が ゛生きた鹿の腹をさいてその血に稲をまいたところ 一夜で苗がはえたのでそれを植え付けた゛との伝承があります 詳しくは 佐用都比賣神社佐用郡佐用町本位田甲の記事に書きましたので 興味のある方は見てください

・佐用都比売神社(佐用郡佐用町)

一緒に読む
佐用都比賣神社(佐用郡佐用町本位田甲)〈播磨國風土記・六国史・延喜式に所載の社〉

佐用都比賣神社(さよつひめじんじゃ)は 『播磨國風土記(713年)』讃容郡(さよのこおり)の条に 神代の神話として 神の名を贊用都比賣命(さよつひめのみこと)と名付けたとあり 『六国史』に嘉祥2年(849)官社に列し 『延喜式』に播磨國 佐用郡 佐用都比賣神社(さよつひめの かみのやしろ)とある 格式高い由緒を持ちます

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 天一神玉神社について 所在は゛柏原庄東德久村之内、馬村ノ山上に在す、゛〈現 天一神社佐用郡佐用町東徳久〉と記しています

祭神については 天御中主尊は確証がなく 天目一箇神の神霊であろうと推測しています

【抜粋意訳】

天一神玉神社

天一神玉は印本字なし、古本アメトツカンダマとみ讀りた一本玉王、今按 す、

〇祭神 天一神歟

〇柏原庄東德久村之内、馬村ノ山上に在す、〔式社記、古跡便覧、播磨鑑、〕

式社記、古跡便覽、播磨鑑、共に天御中主尊と云るは信じがたし、」

比保古云、伊豫國溫泉郡 湯山亦有に天一神社、於に雨師 度々有に霊験也、」
伴信友が帳考に、家榮抄云、永久四年十二月二日、縫殿頭依に法性寺殿命 天一神王ある方角と注進せる事あり、按にもしくは天一神王にて、ナカガミと稱せるにやあらんと云り、〔連胤〕接るに、和名鈔に、天一神、百鬼經云、天一神、〔和名奈加加美〕天女化身也と見え、東大寺戒壇神明帳に、天一天白牛頭天王云々ともあれば、彼百鬼經なる天一神なるべく、さては一本神王とあるぞ棄がたき、』
式社記に、毎年正月元日より七日の間 参詣すれば、疫を癒すとて 近郷より群恭すといへるも親しく聞えたり、」また同記に、俗の曆に出せる天一天上とある神といふは取べからずといへど、天一神王たりとて、霊験によりては何ぞ祭らであらむや、

神位 官社
 文德實錄、天安元年八月庚辰、在に播磨國 正六位上 天一神授に從五位下、同月丁亥、在に播磨國 從五位下 天一神預に官社、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 天一神玉神社について 所在は゛柏原庄東德久村之内、馬村ノ山上に在す、゛〈現 天一神社佐用郡佐用町東徳久〉と記しています

祭神については 天御中主尊は確証がなく 天目一箇神の神霊であろうと推測しています

【抜粋意訳】

天一神玉神社

〔〇按本書一本、神玉を神王に作り、文徳実録 天一神に作る、未だ孰れ是とも決め難し、和名鈔に、百鬼經に天一神、和名 奈加加美、天女化身也とあるに因て、彼外国の天一神を祭る如く云説も聞ゆれど、古本の訓に阿女比止都加牟太未とあり、播磨風土記、天目一箇神の此國に坐し事あるを以て 考えふるに、天目一箇神の神霊を祭れる義なる事著し、

今 柏原庄東徳久村の馬村の山上にあり、〔神社覈録、葛飾縣神社調

文徳天皇 天安元年八月庚辰、在に播磨國 正六位上 天一神授に從五位下、同月丁亥、在に播磨國 從五位下 天一神預に官社、〔文徳実録〕

凡 毎年正月一日より七日を以て祭を行ふ、〔葛飾縣神社調

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 天一神玉神社について 所在は゛東德久村 (佐用郡徳久村東徳久)゛〈現 天一神社佐用郡佐用町東徳久〉と記しています

祭神については 天御中主尊は確証がなく 天目一箇神の神霊であろうと推測しています

【抜粋意訳】

天一神玉神社

祭神

今接 天一神玉 印本假字なし ー寫本あめひとつかんだま と訓り 一本玉を王とあり 作信友か説に天一神王にてなかがみ と稱せるにやあらんとみえたるは 和名抄に天一神 百鬼經云天一神〔和名 奈加加美天女化身也とあるに據れるにて 東大寺戒壇神明帳に天一太白牛頭天王なと並へ云る同神とみたるなれど如何あらん 播磨古跡便覧等の書に 祭神 天御中主尊と云るは證あるにあらねば信かたし ー寫本の別によりて考ふるに天目一箇神の此國にましし事 播磨風土記にもみえたれは 天目一箇神の神霊の義にやあらん姑附て考を俟つ

神位 文徳天皇 天安元年八月庚辰 播磨國正六位上 天一神授從五位下 同月丁亥 在播磨國 從五位下天一神 預官社

祭日 一月一日至七日
社格 (無社格)

所在 東德久村 (佐用郡徳久村東徳久)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

天一神社佐用郡佐用町東徳久 (hai)」(90度のお辞儀)

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