実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

田乃家神社〈御同座 田乃家御前神社〉〈皇大神宮(内宮)摂社〉

田乃家神社(たのえじんじゃ)〈御同座 田乃家御前神社(たのえみまえじんじゃ)は 創建は 第21代 雄略天皇の御代(457~479年)と伝わる皇大神宮(内宮)摂社 かつて造宮使造替六社の一つで高い格式がありましたが ここも中世に頽廃し 寬文三年(1663)に再興されました その際 御前神は正殿に御同座し昔は二殿あり 現在に至ります

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

田乃家神社(Tanoe shrine)

〈御同座〉田乃家御前神社(Tanoe mimae shrine)

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県度会郡玉城町矢野字宮前387

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

田乃家神社
《主》大神御滄川神(おかみのみさむかのかみ)

〈御同座〉田乃家御前神社
》御前神(みまえのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・〈皇大神宮(内宮)摂社〉

【創  (Beginning of history)】

『大日本史』一百九〈明治39-40年に記される内容

【抜粋意訳】

田乃家神社、

〇又作田邊、蓋古在田邊郷田邊村、後徒城田郷矢野村、
稱 大神御滄川神、以鏡為神體、雄略帝時置祝、」

【原文参照】

源光圀 修 ほか『大日本史』一百九,徳川篤敬,[明治39-40]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1911762

【由  (History)】

『神宮摂末社巡拝』下〈昭和18年に記される内容

【抜粋意訳】

田乃家神社(たのじんじゃ)

津布良神社から、路を東北に採って ,約十町程下ると大字矢野(やの)の部落に入る。この部落の西南の端の森の申中あるのが ,皇大神宮の攝社の田乃家神社(たのじんじゃ)である。儀式帳に來田郷矢野村にありと見えてゐる通り、今でも東外城田村大字矢野の鎭座である。

 御社名は延喜式神名帳に田乃家神社、大神宮式斎宮式には、田乃家社、延暦儀式帳には田邊(たのへ)神社と見えてゐる。田乃家(たのへ)といふのは田の戸(たのへ)、即ち御田を耕作する民戸のことを云ふもので ,その田の人家の守り神の社である。

 御社殿は正殿ー區、前殿一宇とあれば、もとは二社建てられてゐれことが分る。御祭神は儀式帳に大神御滄川神(おかみのみさむかのかみ)とあり、もう一神はその御前神(みまへのかみ)といはれてゐる。
この神は天照大御神の御神徳が、この地方に及び、この地方一帶から崇敬されたためにその御祭神名の上に大神(おほみかみ)の二字を冠したものである。もとは、この矢野の田野を貫流灌漑する外城田川の支流の守護神をお祭りしたものである。この神社は、大長谷天皇(おほはせつのすめらみこと) (雄略天皇 )の御字に祝ひ定められたと見えてゐる。
傳説にしても他の攝末社が倭姫命御世に祝ひ定められたとあるのに比ぶれば、大分後に荒木田氏がこの地方を開墾したとき、その産土神として祀ったことが分るのである。天照大御神の御神德を頂いて祭った神社であるため、昔は造宮使造替六社の一つとして、高い格式が與へられてゐた。ここも中世社殿廃滅に帰したものを、寬文三年に再興したものである。

 然し元の御社地であるかどうかといふことは、尚ほ研究を要すべきことで、或は、昔は矢野の範囲内であった。今は大字田宮寺になってゐるが、こゝの産土神の八柱神社 (天神社ともいふ )がその舊阯ではなからうかといはれてゐる。

 御再興のとき、本社一宇のみ再興されたが、御前の社は再興されてゐない。境内入口に例の紀州藩の建てた禁殺生石 (享保甲辰建 )がある。又天保十三年銘の水盤もしつらへられてゐる。本社を辞して、次の部落田宮寺へ入ると、ここに田宮寺といふ寺がある。この寺は、昔神宮の神主と綠のあった寺で、奈良朝の頃行基の開基といはれてゐるが、眞言宗の古刹で、その本尊十一面観世音 (平安初期の作 )は國寶になってゐる。中古廃絶したものを、長徳年事に内宮一禰宜荒木田氏長(うじなが)が再興し、その氏寺とした由緒を持ってゐる。ために、神宮の御関係のものも藏してゐたといはれてゐるが、明治維新のとき廃寺になった。今あるのは観音堂一宇のみである。

【原文参照】

猿田彦神社講本部 [編]『神宮摂末社巡拝』下,猿田彦神社講本部,昭和18. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1033626

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

田乃家神社旧鎮座地

・田宮寺神社〈田乃家外城田神社〉(玉城町田宮寺)
〈田乃家神社の遺構とされた゛田宮寺 境内 天神祠゛の合祀先〉

一緒に読む
田宮寺神社〈田乃家外城田神社〉(玉城町田宮寺)

田宮寺神社(たみやじじんじゃ)は 村社 田乃家外城田神社と云い 元 田宮寺鎮守神 天神社のことで 明治四十二年 合祀されたもので この天神社が 皇大神宮摂社の田乃家神社(たのへじんじゃ)であったとも云い 境内には゛御船殿奮趾゛往昔 神宮禰宜 荒木田氏により 式年遷宮毎に御船代を奉納した遣跡もあり 神宮との深い繋がりがあります

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田乃家神社〈御同座 田乃家御前神社〉は 皇大神宮(内宮)摂社です

・皇大神宮(内宮)

一緒に読む
皇大神宮〈内宮〉(伊勢市宇治館町)〈伊勢神宮〉

皇大神宮(こうたいじんぐう)は 私たち日本人の総氏神「伊勢へ行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」と全国の人々で賑わう伊勢詣が有名です 通称を゛伊勢の内宮(ないくう)゛鎮座は゛垂仁天皇26年〈今から2000年前〉 御祭神は゛皇祖神 天照大御神゛御神体は皇位のしるし三種の神器の一つ゛八咫鏡(やたのかがみ)゛です

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】
瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】 

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座。
太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社

度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社
山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社

右諸社,並預祈年、神嘗祭

以下略

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 田乃家神社
[ふ り が な ]たのいへの かみのやしろ
[Old Shrine name]Tanoihe no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

内宮・外宮の摂社・末社・所管社について

お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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内宮・外宮の摂社・末社にある゛御前神(みまえのかみ)゛について

本社とする神社の御前(みまえ)にある神の意です

朝熊御前神社 (あさくまみまえじんじゃ)〈内宮域外の摂社(朝熊神社境内)〉

・朝熊神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》大歳神(おおとしのかみ)・苔虫神(こけむしのかみ)・朝熊水神(あさくまのみずのかみ)

・朝熊御前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》朝熊御前神(あさくまみまえのかみ)

一緒に読む
朝熊神社&朝熊御前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

朝熊神社(あさくまじんじゃ)&朝熊御前神社(あさくまみまえじんじゃ)は 五十鈴川と朝熊川の合流する東岸丘にあり 垂仁天皇27年(BC3)倭姫命が石と化した大歳神(おほとしのかみ)を祀ったのが創祀と伝える 皇大神宮(内宮)の27摂社の内 第1摂社です『延喜式神名帳』では 伊勢国 度會郡 朝熊神社(あさくまの かみのやしろ)と記されています

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園相神社(そないじんじゃ) 御同座 御前神(みまえのかみ)

・園相神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》曽奈比比古命(そなひひこのみこと)〈別称 園作神(そのつくりのかみ)
   御前神(みまえのかみ)

一緒に読む
園相神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

園相神社(そないじんじゃ)は ゛園作神〈曽奈比比古命〉゛が皇大神に御園を奉り これを祝い 倭姫命が社を定めたと伝わる古社 皇大神宮(内宮)摂社の27社中 第3位と格式高い神社ですが 中世には頽廃して社地も不明となり 寛文3年(1663)河邊精長が度会郡積良村に再興 この再興地に疑義があり 元禄七年(1694)大中臣長春が津村を旧社地と定め 現在地へ遷座しました

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鴨神社(かもじんじゃ) 御同座 御前神(みまえのかみ)

・鴨神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》石己呂和居命(いしころわけのみこと)
   御前神(みまえのかみ)

一緒に読む
鴨神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

鴨神社(かもじんじゃ) は 皇大神宮(内宮)の摂社で『延暦儀式帳』〈延暦23年(804)〉によれば ゛倭姫命の祝ひ定め給ふ所゛と伝わり その後 中世に頽廃しましたが 寬文三年(1663)攝社として再興され この時は 本村字竈谷の地゛氷室洞くつ゛の所に本社が造立されています 明治九年(1876)更に神宮司廳に於て 現在の地に移造されています

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田乃家神社 御同座 田乃家御前神社 (たのえみまえじんじゃ)

・田乃家神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》大神御滄川神(おおかみのみさむかわのかみ)

〈御同座〉田乃家御前神社》御前神(みまえのかみ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉

一緒に読む
田乃家神社〈御同座 田乃家御前神社〉〈皇大神宮(内宮)摂社〉

田乃家神社(たのえじんじゃ)〈御同座 田乃家御前神社(たのえみまえじんじゃ)〉は 創建は 第21代 雄略天皇の御代(457~479年)と伝わる皇大神宮(内宮)の摂社 かつて造宮使造替六社の一つで高い格式がありましたが ここも中世に頽廃し 寬文三年(1663)に再興されました その際 御前神は正殿に御同座し〈昔は二殿あり〉 現在に至ります

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蚊野神社 御同座 蚊野御前神社(かのみまえじんじゃ)

蚊野神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》大神御蔭川神(おおかみのみかげかわのかみ)

〈御同座〉蚊野御前神社《主》御前神(みまえのかみ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉

一緒に読む
蚊野神社〈御同座 蚊野御前神社〉〈皇大神宮(内宮)摂社〉

蚊野神社(かのじんじゃ)御同座する 蚊野御前神社(かのみまえじんじゃ)は 第21代 雄略天皇(457~479年)が定めたと伝え 皇大神宮(内宮)の27摂社の第7位と格式があります 規定では 造替使がその任に当り 20年に1度正宮と並び正殿を造替える神社でしたが 中世には頽廃してしまいます 寬文三年(1663)大宮司 河邊精長により 現社地に再興され 現在に至ります

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湯田神社 御同座 御前神(みまえのかみ)

・湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》大歳御祖命(おおとしのみおやのみこと)・御前神(みまえのかみ)

一緒に読む
湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

湯田神社(ゆたじんじゃ)は 雄略天皇朝の創立 造宮使造替六社中の一で格式も高かったが 中世に廃絶し 社地は明らかになりませんでした 産土社の境内社 湯田社に再興したもので 祭神についても大歳御祖命(おほとしみをやのみこと)御前神(みまへのかみ)とされますが 鳴宸電(なるいかつち)を祀る説があり 式内社・湯田神社 ・雷電神社の二つの論社となっています

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久具都比賣神社 御同座 御前神(みまえのかみ)

・久具都比賣神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》久具都比女命(くぐつひめのみこと)・久具都比古命(くぐつひこのみこと)・御前神(みまえのかみ)

一緒に読む
久具都比賣神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

久具都比賣神社(くぐつひめじんじゃ)は 皇大神宮(内宮)摂社として『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛久具神社一處゛(クグノヤシロ ヒトトコロ)と記載される古社 かつては正殿が三區あったとされ゛一區は久々都比女命の御形(ミカタ)を齋(イハ)ひ ー區は久々都比古命を齋ひ 又一區は前社にて 右の神 の御蔭(ミカゲ)を祭奉る゛とあります

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棒原神社 御同座 御前神(みまえのかみ)

棒原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉《主》天須婆留女命御魂(あめのすばるめのみことのみたま)・御前神(みまえのかみ)

一緒に読む
棒原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

棒原神社(すぎはらじんじゃ) は 『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に所載される皇大神宮(内宮)の摂社で 奈良朝廷の時〈奈良時代(710~784年)〉に創建と伝わる古社です 「杉の森」と呼ばれる古墳丘の上に鎮座します 『延喜式神名帳927 AD.』には 棒原神社(をいはらの かみのやしろ)とも読むことがあります

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田上大水御前神社 (たのえおおみずみまえじんじゃ)〈外宮域外の摂社〉

・田上大水神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
田上大水神社〈御同座 田上大水御前神社〉〈豊受大神宮(外宮)摂社〉

田上大水神社(たのえおおみずじんじゃ)・御同座 田上大水御前(たのえおおみずみまえ)神社は 『止由気宮儀式帳〈延暦23年(804)〉』に記載ある古社ですが 中世に頽廃してしまい 権禰宜 出口延良が承応元年(1652)度会四門の氏人らとともに現地に再建したものです 寛文三年の再興では取り上げられず 明治四年の神宮御改正までは氏人により社殿の造替えが続けられました

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佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)〈伊雑宮 所管社〉

・佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)《主》佐美長御前神

一緒に読む
佐美長神社・佐美長御前神社(磯部町恵利原)〈伊雑宮所管社〉

佐美長神社(さみながじんじゃ) ・佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)は ともに『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に記される伊雑宮の所管社です 『延喜式神名帳(927)』志摩国 答志郡 同島坐神乎多乃御子神社(おなしきしまにます かむをたのみこの かみのやしろ)の論社でもあります

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朝熊神社の御前神 鏡宮神社(かがみのみやじんじゃ)〈内宮の末社〉

鏡宮神社は 朝熊神社の御前神とされます 朝熊神社の境内に朝熊神社が建てられたため 現在地に遷座

・鏡宮神社〈皇大神宮(内宮)末社〉
《主》岩上二面神鏡霊(いわのうえのふたつのみかがみのみたま)
〈朝熊神社の御前神 岩上二面神鏡霊で御鏡を鎮祭する〉

一緒に読む
鏡宮神社〈皇大神宮(内宮)末社〉

鏡宮神社(かがみのみやじんじゃ)は 朝熊神社の御前神゛御神鏡゛〈岩上二面神鏡霊(いはのうえふたつのみがみのみたま)〉を鎮祭する皇大神宮(内宮)の末社です かつて二面の神鏡は 二つの川の合流点にある神聖な岩の上に祀られていた〈虎石(とらいし)〉(神域内〈朝熊川の岸〉木柵の中にある)とも〈潮干石(しほひいし)(五十鈴川の川中にある)とも伝わります

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR参宮線 田丸駅から西へ約4.3km 車8分程度

鎮守の杜はすぐにわかりますが 入り口は少しわかりづらいが 境内の南面にあります
入り口には 神宮司庁の立札と紀州藩の建てた禁殺生石 (享保甲辰建 )がある

田乃家神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に参着

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木立の中の長い参道を進みます

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社殿に近づくと 別の方向からの参道があります

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其参道との交差点に立つ石柱には゛皇大神宮摂社 田乃家神社゛と刻字があります

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殿にすすみ お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます
古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待ちます〉

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御社殿は正殿ー区で 古代には 前殿に一宇があり もとは二社建てられていたと伝わり 御祭神は延暦儀式帳大神御滄川神(おかみのみさむかのかみ)とあり もう一神はその御前神(みまへのかみ)と云われている
寬文三年に再興のとき 本社一宇のみ再興されたが 御前の社は再興されて織らず 現在も一殿です

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社殿に一礼をして参道を戻ります

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田乃家神社旧鎮座地へ向かいます

・田宮寺神社〈田乃家外城田神社〉(玉城町田宮寺)
〈田乃家神社の遺構とされた゛田宮寺 境内 天神祠゛の合祀先〉

一緒に読む
田宮寺神社〈田乃家外城田神社〉(玉城町田宮寺)

田宮寺神社(たみやじじんじゃ)は 村社 田乃家外城田神社と云い 元 田宮寺鎮守神 天神社のことで 明治四十二年 合祀されたもので この天神社が 皇大神宮摂社の田乃家神社(たのへじんじゃ)であったとも云い 境内には゛御船殿奮趾゛往昔 神宮禰宜 荒木田氏により 式年遷宮毎に御船代を奉納した遣跡もあり 神宮との深い繋がりがあります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 田乃家神社について 所在は城田郷矢野村に在す〈現 田乃家神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉とし

創建年代は 大長谷天皇御宇〈第21代 雄略天皇の御代(457~479年)〉と記しています

【抜粋意訳】

田乃家神社

田乃家は多乃倍と訓べし、和名鈔、郷名部 田部、字上の如し

○祭神 大神御滄川神

○城田郷矢野村に在す、神名略記

○式四、伊勢大神宮 大神宮所摂廿四座の第四に載す、
○儀式帳云、田邊神社、稱に大神御滄川神、形鏡坐、大長谷天皇御宇定祝、

類社
近江國 高島郡 田部神社

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 田乃家神社について 所在は來田郷矢野村にあり〈現 田乃家神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉とし

創建年代は 大長谷天皇御宇〈第21代 雄略天皇の御代(457~479年)〉と記しています

【抜粋意訳】

田乃家(タノヘノ)神社

〇按 延暦儀式帳に、田乃家田邊に作る、

今 來田郷矢野村にあり、神祇本源、神名略記、神名帳考証、
〇按 此の地 古田邊郷也、今猶 上下田邊村あり

大神の御滄川(ミサキカハノ)と稱す、形鏡に坐せり
雄略天皇 御世、祝定奉る、延暦儀式帳、
醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式、

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 田乃家神社について 所在は東外域田村大字矢野〈現 田乃家神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉とし

旧鎮座地については 矢野村の東なる宮寺域内の社〈現 田乃家神社の遺構とされた゛田宮寺 境内 天神祠゛〉(玉城町田宮寺)〉と記しています

【抜粋意訳】

田乃家神社

祭神 大神御滄川神

今按 儀式帳田邊神社とん川邊氏社とも氏経日記に田邊氏神社なとあるは此神社をさして云るなり

祭日 同上
社格 内宮所攝 二十四所之一(内宮摂社)

所在 度會懸域郷矢野村 (度會郡東外域田村大字矢野 )
 式内神社檢錄に社は矢野村の東なる宮寺域内の社ならむ其寺を建し 德以は田邊郷邊村 寶の地に在しなるべしと云へり 今地は寬文三年の再興なり

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

田乃家神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について

伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています