麗々石・玉々石・霊々石〈タマタマ石〉(基山の山頂)は 伝承では基山南麓の荒穂神社が当地にあった頃〈荒穂神社 旧鎮座地〉の磐座(神様の宿る岩)とされています 荒穂神社の創建について 民俗学上の原初は 基肄山山頂の玉々石を盤座として 農業に恵みを与え 豊穣をもたらす 自然神・産霊神であるとされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
タマタマ石〈麗々石・玉々石・霊々石〉(Tamatama Stone)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
佐賀県三養基郡基山町宮浦 基山の山頂
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》荒穂天神(あらほてんじん)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・基山山頂のタマタマ石は 農耕に恵みを与え豊穣をもたらす自然神・産霊神であるとされています
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社〈荒穂神社 旧鎮座地〉
【創 建 (Beginning of history)】
基山頂上の高台その南端にある巨石は「タマタマ石」と呼ばれ 伝承では基山南麓にある荒穂神社(式内社)が当地にあった頃の磐座(神様の宿る岩)とされています
【由 緒 (History)】
太宰府防御ネットワーク その3 有明方面の要・基肄城2007年10月12日
3 霊山としての基山
坊住山の山頂に、大きな石がある。石の前には祭壇が築かれ、熱心に拝んでいる人の姿も見える。この石はタマタマ石(玉々石、霊々石とも書く)と呼ばれ、ふもとにある荒穂神社のご神体とされてきた。その後、同じく基山ふもとにある寺院の修行の場とされ、今日も祈願の対象として祀られている。基山は霊山でもあるのだ。
基山には数々の伝説がある。
荒穂神社のご祭神は五十猛神(いそたけるのかみ)という神様だが、この神様が高天原から木々の種を持って下界に下りてきた。初めて木々の種をまいたのが、この基山付近だというのである。基山は古文献には「木の山」と書かれることもあった。豊かな緑に囲まれた山だと古くから親しまれてきたのだろう。別の伝説では、木の山に悪神が住み着き、この山の付近の道を通る旅人を片っ端から取って食らっていたが、五十猛神がこの悪神をやっつけて安心な山になったという。この伝説は、古くから基山付近が交通の要衝であったことを物語っている。
タマタマ石は古神道でいう磐座(いわくら:自然石や山は神様が宿る場所と考えること)だとされている。古くから神様として信仰されていた山に、基肄城が間借りした格好になるのだろう。
唐も新羅も攻めて来ず、基肄城も結局は主目的としては使われないまま平安時代半ばに廃止された。中世から戦国時代の戦乱の時代には、交通の要衝だけに基山は豪族たちの争奪戦が繰り広げられた。荒穂神社は、もともとタマタマ石付近にあったというが、戦国時代に焼失し、現在地へ移ったという。
基肄城も建設から千年を経た。今や基山は、心の平安を願う人々が集い、家族連れなどが憩う場所になった。
こののどかな風景だけは、これからも変わらずにいてほしい。
(文責 高野龍也)
九州国立博物館HPより抜粋
https://www.kyukoku.or.jp/road/20071012.html
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・現在の祭祀の社
・荒穂神社(基山町宮浦)
荒穂神社(あらほじんじゃ)は 『日本三代実録(901 AD.)』に゛荒穂天神゛の名で神階昇叙の記事がみえ 『延喜式神名帳(927 AD.)』に゛肥前國 基肄郡 荒穂神社(あらほの かみのやしろ)゛と所載があり 基肄山山頂の玉々石を盤座とする由緒ある格式の高い古社です
荒穂神社(三養基郡基山町宮浦)〈延喜式内社 荒穂神社〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷四 貞觀二年(八六〇)二月八日己丑
○八日己丑
進て 肥前國 從四位下 田嶋神に 階(クライ)を加に從四位上を
授に 從五位上 荒穗(アラホ)天神に 正五位下
從五位下 豫等比咩(ヨドヒメ)大神 久治國神 天山神 志志岐神 温泉神に 並從五位上
正六位上 金立神に從五位下を
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)肥前國 4座(大1座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)基肄郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 荒穂神社
[ふ り が な ](あらほの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Araho no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(927 AD.)』所載の社 肥前國 基肄郡 荒穂神社(あらほの かみのやしろ)の論社
創建については 貞享元年(1684)に書き上げの『荒穂神社縁起』は 人皇第37代孝徳天皇の御代(645~654)松津(基肄)国造物部金連の末裔金村臣によるとしている
社殿は最初 基山山頂にあったが 戦国の兵火にかかって転々とし 現在地に造営されたのは貞享2年である
祭神については古来諸説があるが 民俗学上は原初は基肄山山頂のタマタマ石を磐座として農耕に恵みを与え豊穰をもたらす自然神・産霊神であると考えられている
・荒穂神社(基山町宮浦)
荒穂神社(あらほじんじゃ)は 『日本三代実録(901 AD.)』に゛荒穂天神゛の名で神階昇叙の記事がみえ 『延喜式神名帳(927 AD.)』に゛肥前國 基肄郡 荒穂神社(あらほの かみのやしろ)゛と所載があり 基肄山山頂の玉々石を盤座とする由緒ある格式の高い古社です
荒穂神社(三養基郡基山町宮浦)〈延喜式内社 荒穂神社〉
・タマタマ石(麗々石・玉々石・霊々石)基山の山頂
〈荒穂神社 旧鎮座地〉
麗々石・玉々石・霊々石〈タマタマ石〉(基山の山頂)は 伝承では基山南麓の荒穂神社が当地にあった頃〈荒穂神社 旧鎮座地〉の磐座(神様の宿る岩)とされています 荒穂神社の創建について 民俗学上の原初は 基肄山山頂の玉々石を盤座として 農業に恵みを与え 豊穣をもたらす 自然神・産霊神であるとされます
タマタマ石(麗々石・玉々石・霊々石)基山の山頂〈荒穂神社 旧鎮座地〉
゛第38代 天智天皇゛と゛基肄城(きいじょう)゛について
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
大和朝廷は 白村江の戦い〈天智2年8月(663年10月)〉で唐・新羅連合軍に大敗しました
大和朝廷は 天智天皇3年 対馬・壱岐島・福岡・太宰府に水城を築き 倭(日本)の防衛線としていきした
基肄城は 有明海からの大宰府防衛のため築かれた古代山城で 『日本書紀』には 天智天皇4年(665)大野城とともに築いたと記されています
【抜粋意訳】
天智天皇(即位三年)十二月十二日
・・・
・・・この年 対馬嶋(ツシマ)・壱岐嶋(イキノシマ)・筑紫国(ツクシノクニ)などに防(サキモリ)と烽(ススミ)〈狼煙ノロシ〉を置いた
また 筑紫に大堤(オオツツミ)を築いて 水を蓄えた これを水城(ミズキ)と名付けた(即位四年)秋八月
達率(ダチソチ)の答㶱春初(トウホンシュンソ)を派遣して 長門国に城を築かせた
達率(ダチソチ)の憶礼福留(オクライフクル)・達率の四比福夫(シヒフクブ)を 筑紫国へ派遣して 大野(オオノ)と椽(キ)〈基肄城(きいじょう)〉の二つの城を築かせた
耽羅(タムラ=済州島)は使者を派遣して来朝しました。・・・
・・・
【原文参照】
特別史跡 基肄城跡
天智天皇4年(665)唐・新羅の侵攻に備え、大宰府防衛のため築かれた朝鮮式山城である。西峰の坊住山と東峰の稜線を巡る土塁は延長4㎞、筒川の谷を袋状に囲み、その4か所に城門を開いている。南流する筒川の出口は石塁で塞ぎ水門を設けて排水した。
城内の尾根上などには40棟以上の倉庫が建てられ、武器や食糧を蓄えた。
「史跡巡り」の道標に沿って歩くと、今に残る水門、東北門、北門や烽台、石塁、土塁の跡、
大きな礎石の並ぶ倉庫の跡などに、築城当時を偲ぶことができる。
現地案内板より
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR鹿児島本線 基山駅から県道300号を西北へ約6.1km
当日私は 久留米市内に宿泊していました 筑後川の支流 宝満川の土手を進み 県道17号で 佐賀県鳥栖市へと入ります
道路からの見えている山々の正面辺りが基山になります
今日は 小雨なので深い霧がかかっています
宮浦インターを左折〈西へ〉して県道300号へ
県道300号を進むと右手に゛荒穂神社゛の鳥居が立ちます
この日は霧が出ているので よくわかりませんが
天気の良い日には゛基山の頂上のタマタマ石(麗々石・玉々石・霊々石)゛から南方向へ一直線上に゛荒穂神社の本殿゛参道゛一の鳥居゛かあります
・荒穂神社(基山町宮浦)
荒穂神社(あらほじんじゃ)は 『日本三代実録(901 AD.)』に゛荒穂天神゛の名で神階昇叙の記事がみえ 『延喜式神名帳(927 AD.)』に゛肥前國 基肄郡 荒穂神社(あらほの かみのやしろ)゛と所載があり 基肄山山頂の玉々石を盤座とする由緒ある格式の高い古社です
荒穂神社(三養基郡基山町宮浦)〈延喜式内社 荒穂神社〉
基山は霧に包まれています
荒穂神社を過ぎて 基山を登ります 途中゛基山の頂上のタマタマ石(麗々石・玉々石・霊々石)゛を祀る 新興宗教の瀧光徳寺があります
基山の頂上付近に駐車場があります
車を降りて 徒歩で向かうのですが どこへ行けばよいのか 霧で全くわかりません 駐車場から山に入る所に 幾つか案内看板があるので そちらに向かいます
看板には
大伴旅人の万葉集巻第八
橘の 花散る里の ほととぎす
片恋しつつ 鳴く日しぞ多き
散策コースの案内板があり 右上の方に゛タマタマ石゛と書かれているのを見つけたので 一安心
ですが 具体的な道は判らないので この道を上がります
道しるべがあり゛きのくに古(歩)道゛とあり そのまま進むと 広い牧草地のような場所を上がって行きます
何となく 向かっている気がしますが 静まり返った山の中を進みます
つがいの雉(きじ)が 私に驚いて飛び立ちました
この辺りから 再び急こう配になり 階段状の歩道を上がります
どうやら山頂近くに来たようです
山頂には 高い樹木はありません が霧が風に乗って山頂を駆け抜けています
すぐ傍には゛タマタマ石゛が ありましたが 眼下は霧に包まれて何も見えていません
本来は 有明海も見える 絶景のはずです
タマタマ石(麗々石・玉々石・霊々石)基山の山頂〈荒穂神社 旧鎮座地〉に参着
タマタマ石の前に祠が祀られています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
タマタマ石の裏側に回ってみます
これは゛天智天皇欽仰之碑゛です
一礼をして 戻ります
心なしか 霧が晴れてきて 眼下が見え始めました
先程の牧草地のように見えた所は゛草スキー場゛だったようです
再び歩き始めます
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 荒穂神社について 所在は゛宮浦村に在す゛〈現 荒穂神社(基山町宮浦)〉とし
六国史『三代實錄』に神位の奉授が記される式内社と記しています
祭神については 記されていません
【抜粋意訳】
荒穂神社
荒穂は 阿良保と訓べし
〇祭神
〇宮浦村に在す
例祭神位
三代實錄、貞観二年二月八日己丑、授ニ肥前國從五位上 荒穗大神正五位下、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 荒穂神社について 所在は゛今 宮浦村にあり゛〈現 荒穂神社(基山町宮浦)〉とし
旧跡について゛本社の舊址 基山゛と記しています
【抜粋意訳】
荒穂(アラホノ)神社
今 宮浦村にあり、〔神社覈録、國官社録〕
清和天皇貞観二年二月已丑、從五位上荒穂天神に正五位下を授く、〔三代実録〕
凡五月七日、風鎭祭を本社の舊址 基山に修め、旗を建て吉凶を卜ふの式あり、〔佐賀縣神社調〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 荒穂神社について 所在は゛宮浦村゛〈現 荒穂神社(基山町宮浦)〉とし
六国史『三代實錄』に神位の奉授が記される式内社と記しています
祭神については 瓊瓊杵尊とされいるが 別の神ではないだろうか と記しています
【抜粋意訳】
荒穂神社
祭神
今按 社傳 祭神瓊々杵尊とあれど貞観中に神位を授られたるを思ふに別神なるべくや神位
清和天皇 貞観二年二月八日己丑 授肥前國從五位上荒穂神正五位下祭日 五月七日
社格 郷社所在 宮浦村 (三養基郡基山村大字宮浦 )
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇佐賀縣 肥前國 三養基(ミヨキ)郡基山(キヤマ)村大字宮浦
荒穂(アラホノ)神社
祭神 瓊々杵(ニニギノ)尊
創建年代詳ならずと雖も、
神名帳考証に、「荒穂神社。阿多都比賣、大和國櫻実神社、實與倍音通、基肄郡、倭名鈔、基肄(木伊)、物部荒甲連乎、古事記云、阿多都比賣、亦名 木花佐久夜毘賣、按荒與阿多音通、穂姫也」とあり、
神社覈録には「荒穂は阿良保と訓むべし」と云ひて、祭神の御名を挙げず、宮浦村に在すと云へり、
神祇志料に「荒穂神社、今宮浦村にあり、清和天皇貞観二年二月己丑、從五位上荒穂天神に正五位を授く、凡五月七日風鎮祭を本社の舊地基山に修め、旗を建て、吉凶をトふの式あり」と見ゆ、社傳によれば、往昔本社は基山の峯に在りて、結構甚壮麗を極めしが、後奈良天皇天文年間、大友氏の害にあひて、社殿悉く焼失し、神官某なるもの、僅に神体を護りて、今の地に来り、以て鎮祀したるものなり、
太宰管内志に「延喜式に、肥前國基肄郡荒穂神社あり、三代実録に貞観二年二月二十八日、授從五位上荒保神正正位下」とあり、
又或書に、肥前國基肄郡荒穂神社、祭五十猛神也ともありて、基肄郡宮浦村に在り、近郷の惣社にして大社なり、此社昔は北方山上に有しと云ふ、麓に移したるはいつの比にやありけん」と云へり、又地名辞書に「荒穂神杜、今基山村大字宮浦に在り、三代実録、肥前国荒穂神授位の事見え、延喜式、基肄郡に列す」とあるもの是なり、後此地宗氏の所領となりて、領内の宗廟として崇敬厚かりきといふ、
明治六年十月郷社に列る、境内千余坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿、其他神輿殿等の建物を有す。
【原文参照】
タマタマ石(麗々石・玉々石・霊々石)基山の山頂〈荒穂神社 旧鎮座地〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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肥前国(ひぜんのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 肥前国 4座(大1座・小3座)の神社です
肥前国 式内社 4座(大1座・小3座)について