玉祖神社(たまのおやじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に「玉祖神社二座」と所載されています 三種の神器の一つ 八坂瓊曲玉(yasakanino magatama)を造られた「玉祖命(tamanoya no mikoto)」が御祭神 他一座は不詳です また 社伝では『日本神話』でも有名な「天照大神の天の岩戸隠」の時に 集めて鳴かせた「常世 長鳴鶏」を 玉祖命が この地に この鶏をつれて留まられたとして「黒柏 発祥の地」としています 黒柏は 天然記念物に指定されて境内で飼育されています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
玉祖神社(tamanoya shrine)(防府市)
(たまのおやじんじゃ)
[通称名(Common name)]
一ノ宮(ichinomiya) たまっさま
【鎮座地 (location) 】
山口県防府市大字大崎1690番地
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》玉祖命(tamanoya no mikoto)
外一座祭神不詳 [定説はなく 石凝姥命とする説もあり]
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・宝石・眼鏡守護 The god of protection of jewelry and glasses
・豊漁海上安全 Large fish catch and maritime safety
・陶芸業守護 God protecting the pottery industry
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 周防国一之宮(suonokuni ichinomiya)
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
旧国幣社 玉祖神社由緒
周防国一ノ宮として由緒深く、御祭神は三種の神器の一つである八坂瓊曲玉(やさかにのまかせたま)を造られた玉祖命(たまのおやのみこと)であります。
玉祖命 は五伴緒神(いつとものおのかみ)の一柱として中国地方を治められ、ここ大崎の地で 歿せられたと伝えられ社殿の北、約五百米にある玉岩窟(たまのいわや)はその墓所と云われています。
神社の創建はあまりにも古く定かではありませんが、景行天皇十二年西征にあたって戦勝祈願のため宝剣を奉納されたものが今も御神宝として伝わっております。仲哀天皇・神功皇后も西征の折ご参拝になり、今の佐野焼の始祖と云われる沢田の長(さわたのおさ)に三足の土鼎(どてい)と盎(ひらか)を作らせ米を炊き捧げられ、また軍の吉凶を占われたことに起因すると云う占手神事(うらてのしんじ)も昔ながらに伝えられ厳かに執行さされております。
玉は洋の東西を問わず美しく尊いもので平和のシンボルとされていますが 四月十日の玉の祭には全国各地から宝石・眼鏡・時計・カメラ業者が参拝しており、玉の祖神として、また平和の神として崇敬されております。
例 祭 九月二十五日に近い日曜日
玉の祭 四月十日特殊神事 占手神事(山口県無形文化財)
釣垂神事主な宝物 重要文化財 俊乗坊重源造替目録
大内弘幸重建目録
毛利輝元宗広再建目録
重要美術品 銅製巴文双雀鏡
防府市文化財 源義経奉納吉包の太刀天然記念物 日本鶏 黒柏
付近には玉岩窟・宮城の森・浜宮御祖神社・若宮社があります防府市 防府市観光協会 境内案内板より
【由 緒 (history)】
式内社、周防国一宮、旧国幣中社
玉祖神社略記
社名 古書には玉祖をタマオヤノとかタマノオヤノと訓じているが、古来周防一ノ宮であったところから、中世には「一の宮」の呼称が行なわれ、江戸時代では「一宮玉祖社」(いちのみやたまのおやしゃ)という名称が一般的であった。明治4年(1871)国幣社に列格以来玉祖神社(たまのおやじんじゃ)の呼称に統一され今日に至っている。
祭神 延喜式神名帳には玉祖神社二座とあって神名は明示されていないが、主神は玉祖命で今一座は不詳である。
玉祖命は玉造連(たますりのむらじ)の祖神で三種の神器の一つ、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を造られた神で別名櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)、羽明玉命(はあかるたまのみこと)、豊玉命(とよたまのみこと)、玉屋命(たまのやのみこと)とも称す。
不詳の一座は神主土屋家文書や防長風土注進案では、天鏡尊(あめのかがみのみこと)、天日神尊(あまのかかみのみこと)とし、鏡を御霊代として日神と仰奉る天照大神ではないかとしているが、その天照大神を御祖神として、浜宮御祖神社(はまみやみおやじんじゃ)を当てた時代もあり、氏子中には女子の初宮詣には必ず浜宮御祖神社へも参る古習があるので、祭神を女神とするものや、玉祖命の母神とする説などがあるが未だ定説はない。
しかし、祭典に当っては常に二座分の御供物を献奉る仕来になっている。由緒・沿革 天照大神の天岩戸隠の神事で玉祖命は八坂瓊曲玉を造られ、その後天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)が日向国に降臨の時供奉した五伴緒神(いつとものおのかみ)の一柱として国土統治の御創業を補佐されたことは記紀に載るところであるが、
社伝には、後にこの大前(おおさき・大崎)の地に座して中国地方を平定し、ついにこの地で神避りました後、御祖(みそ・江良)の地(玉の岩屋)に葬り、その威霊を祀たのが当社の起源とし創建年月は不詳であるが、以後、玉造連玉祖氏が祭祀を司ったと思われ、史料にも天平10年(738)の周防国正税帳に祢奇(祢宜)玉造部五百背の名が、更に長徳四年(九九八)今昔物語巻十七に宮司玉祖惟高の名が見える。
社記には景行天皇12年(82)筑紫行幸の砌、周防裟婆(さば)に行在所を設けられたのが玉祖神社北方の宮城の森であると伝え、その節剣を奉納されたが、今御殿奥深くに宝剣として奉安されている。
また、仲哀天皇・神功皇后西征の折も寄江(よりえ・神社の西南)という浜に着船、高田の土を以て沢田長(佐野焼陶工の始祖)に三足の土鼎(なべ)とHIRAKA(はち)を作らせ、神供を備えて軍の吉凶を卜された。これが今も伝わる占手神事の起源である。
確実な史料で沿革をたどると、
天平8年(736)より10年までの3年間、玉祖神社領の田租穀39石2斗8升を奉免翌年周防国の正税より頴稲3834束を以て神税として奉納された。神命に依て祢奇玉作部五百背にも200束が給される。
大同元年(806)には従来の封戸10戸のほかに5戸を賜わる。
貞観9年(867)3月10日、神階従四位下より従三位に昇る。
延長5年(927)延喜式神名帳に玉祖神社2座と載る。
康保元年(964)4月2日、神階正二位から従一位を授る。
平安時代には田島庄、小俣庄、高墓庄の3荘園が寄進される。
長徳4年(998)今昔物語中に周防国一宮玉祖大神と全国一ノ宮の初見となる。
天治2年(1125)安芸權介藤原實明によって荘園並びに神社敷地ともども鳥羽天皇中宮の待賢門院に寄進される。
保延3年(1137)實明の寄進状及び公験に基づいて京都花園の法金剛院に寄進。
永萬元年(1165)神祇官から名神諸社に進物が下された際、大榑(材木)300寸が給される。
建久6年(1195)8月5日、俊乗坊重源周防に下向、東大寺再興の功を偏に玉祖大明神の加護によるところとし、当社造替の工を起し、神宝を調進し、9月28日遷宮の儀を終える。日別供料の料田として10町歩の田地を奉免する。同日、造替目録を作成し改築の趣旨を述べる。
建武2年(1335)9月、大内弘幸が社殿・神宝を造営。
正平11年(1356)僧命俊、九曜巴文双雀鏡を奉納。
長禄元年(1457)8月、田島(防府市中関)の氏子分離し岡庄(中関南山手)に玉祖神社を祀る。
文明11年(1479)12月8日、大内政弘に差出した一宮玉祖社御神用米在所注文は大前(崎)村、宇野令、湯田保、黒河保、千代丸、下松出作、富海保、西仁井令、佐波令平井の10個所に及ぶ。
明応6年(1497)4月16日、大内義興参詣し神馬を寄進。
天正17年(1589)11月2日、毛利輝元、社領200石を寄進。
この年より文禄5年(1596慶長元年)4月23日までの打渡坪付に法金剛院、得楽坊、菊楽坊、正満坊善得坊、正法院、宝持院、藏満坊、行泉坊の名が見える。
慶長3年(1598)9月、社殿、社坊、社人の屋敷等も悉く焼亡す。
慶長14年(1609)9月、毛利秀就社殿再興。
寛永21年(1644正保元年)8月、鳥居建立。
明暦3年(1657)8月、毛利就信(右田毛利)馬場に大鳥居建立。
寛保元年(1741)9月19日、往昔供僧12口ありしが、11ケ寺はことごとく断絶寺屋敷も不明となり、別当得楽坊のみが残存す。
寛延3年(1750)7月、毛利宗広により社殿造替。同時、滝長ANIが玉祖神祠記他三巻を納む。文中に「源義経平家追討の時、吉包の太刀を御社に奉りて必勝を祈らる。尊氏将軍筑紫より進発の時、猛房の太刀を奉りて大功の成就せんことを祈らる。二振の太刀今に伝へて神器とす」とあり、宝暦9年(1759)3月23日付一宮御宝物入日記に二振の太刀が記載されている。
嘉永7年(1854安政元)社殿大修繕。
明治4年(1871)大政官布告により国幣小社に列す。
明治6年佐野若宮社が玉祖神社摂社に列格。
明治10年浜宮御祖神社も玉祖神社摂社に列格。
明治11年官費により大修繕。
大正4年国幣中社に昇格。
戦後は社格制度が廃止され、旧官国幣社は別表にかかげる神社として一般の神社と区別され、別表神社となる。
昭和50年御神庫(宝物殿)新築。
昭和52年9月御神殿、拝殿、神門等屋根総葺替
昭和57年4月8日、山陽自動車道建設に伴い浜宮御祖神社を旧社地北方約150メ-トルの地に遷す。この年本社参道も短縮される。祭事暦1月1日 歳旦祭 2月11日 建国記念祭 2月17日 祈年祭 3月10日 若宮社例祭
3月中 厄除祭 大崎・佐野地区の氏子の中で 厄年に当る33歳の女37、42、61、70歳の男女が協議し吉日をトして執行す。同 勧学祭
4月10日玉の祭 八坂瓊曲玉をおつくりになられた御祭神の御神徳を仰ぎ奉り、眼鏡・時計カメラ・宝石等を業とする者、玉作御祖大神の総本宮と崇め、全国各地より参詣し御神恩に感謝し、併せて斯業発展と家内安全を祈願する。眼鏡焼上神事、占手神事も執行される。
4月29日 天長祭 5月上辰の日 玉の岩屋祭 玉祖命の御墓所と伝える玉の岩屋にて執り行なわれる。6月30日 大祓式 7月中 御回在祭(田道御幸)
9月25日に近い日曜日 例大祭 前日に釣垂神事(つりたれのしんじ)が、前夜祭では占手神事が執り行なわれ、大祭当日早朝、3足の土鼎で白飯・黒飯を炊いてHIRAKAに盛合せ神饌に献供する。日没後浜宮御祖神社へ御神幸。いずれも古来よりの特殊神事である。太陽暦になる以前は8月14・15日が大祭であった。
11月15日 七五三祭 11月23日新嘗祭 12月31日除夜祭特殊神事
斎竹祭(おはけ) 例祭前に新しく注連縄をつくり忌竹と共に飾りつける神事である。宝暦3年(1753)、神主土屋家の記録に「八月朔日斎竹祭、御祭礼折・・大鳥居切餝相済、祖社之両神之注連、内鳥居注連祭り相調申候。是朔日之社役筋ニテ御座候・・」とあり、古来大崎居合の宮付(みやつき)と称する家18戸が注連縄をつくり、鳥居には忌竹を飾付け、終れば一の鳥居の下に案を据え、神酒と塩水桶を献備し、神職が大祓詞を読み、塩水桶をとって修祓する。その後宮付の者神酒を拝載してこの神事を終了したが、現今は大崎・佐野地区の自治会単位で順送りに注連縄づくりと忌竹飾りをつとめている。
釣垂神事(つりたれのしんじ) 大祭の前日、神職が田島浦(防府市中浦)へ出向し、海辺に神籬を差立て、神饌のほかに釣具などを供え、中浦漁業組合の人等が参列して、神事の由ならびに豊漁海上安全の祈願祭典を執行する。後に組合員が出漁して獲た魚を、大祭当日本社へ持参し神饌として奉献する。当社の古記録に「8月御祭礼、往古は15日 月之出YORI於御祖神社(浜宮御祖神社)舞楽始り 亦釣垂之遊有り 釣舟田島浦より船三艘を奉例なり 社官鮮魚を釣て奉供 是当社釣垂之神KOTOと申伝候。右比釣舟いつとなく中絶 其船之代りに田島より御祭礼之時に加輿丁相勤来り候・・」とあり、往昔の神事の様子を知ることが出来る。現在の釣垂神事は昭和15年紀元2600年を記念に再興し、戦後の混乱期も中絶することなく引続き執行されている。
占手神事(うらてのしんじ)山口県指定無形民俗文化財である。例祭の前夜祭で神門前に注連縄を張り廻らし、庭燎をたいて執行する。社伝に神功皇后三韓征伐の砌、当社へ戦勝の御祈願遊ばされ、この神事を御執行、出帥の吉凶を手により占ひ給いし、茲来当社の特殊神事として今日に及ぶ。周防地誌提要案に「仲哀天皇神功皇后もまた詣せ給へり・・この時軍の吉凶を神前にトはしめ給へる由にて、今にト手小相撲(らうてのこずもう)といふ式など残れり」と、また天保13年(1842)の防長風土注進案にもト手小相撲として「宵殿祭之式也」と附加している。この古式は丑の刻(午前1時~3時)に執行されたことから夜相撲ともいう。宝暦3年(1753)の当社の記録に、夜子ノ刻(午後11時~午前1時)に御神楽をすませ、玉垣の外に出てうら手の相撲を行なったとあり、その形が相撲に似ていることから占手相撲ともいう。神事は、宮司・祭員が神門前に着座した後はじまる。裃を着用した首座(しゅざ)が判士をつとめ、軍士と呼ばれる行事所役二人が裸体に白の褌をしめ、東西に分れて着座、相撲の蹲踞に似た姿勢で両手を腰の上部につけ、右左右、左右左と両脚をくの字型に折り曲げながら進み出て、行き合うと各人の手のひらを見せ、己の腰を叩く。3回くりかえして1回の行事が終り、これを都合三度行なう。最後の段階で軍士は掌を組みあい、東と西が入れかわって地上を叩く。平年はその数12、閏年は13回叩き、叩き終ると神前に向って両手を上げ鬨の声を上げると神事が終了する。鬨の声以外は全く無音の敬虔な神事である。
例祭特殊御供 例祭当日の早朝、3足の土鼎2個を以って、白飯(白米)黒飯(玄米)を炊き、これをHIRAKAに半分ずつ盛合せて神饌に献供する。これは神功皇后御祈願の時より始るといい、沢田長(さわたのおさ)(佐野焼陶工の始祖といい、防府市大字佐野の中に沢田の地名を残す)の子孫が代々この祭器を毎年調進する古例があり、昭和30年頃まで続いたが中絶したため古器にて炊いていたが、昭和五57年9月、佐野焼保存会の願意により毎年の調進が行なわれるようになった。
風土注進案に「昔仲哀天皇 神功皇后 筑紫を征伐し給ふ時、当所に御船を寄せられ、澤田の長(澤田中頃土田と称し今ハ内田と申候、当時弥三郎家なり)に命じて高田の土(高田は姫山の麓なり)を以て三足の土鍋を作り御供を炊き、大HIRAKAに盛り 玉屋の明神に備へて軍の吉凶をトひ祭り給ふ例にて当天保12年丑年迄1641年之間闕如なく毎年8月一ノ宮大祭会之節澤田家筋より鍋を備奉候・・・」とある。この土鍋は素焼製で、往古当地方の日常品であったと推測できる。これらの破片が弥生式土器、瓮等の破片と共に等地方一帯から出土する。即ち玉祖神社特殊の祭器ではなく、神功皇后は祈願のため、得に新調を命じられたのである。
尚、社伝では佐野若宮に鎮座する若宮社は、沢田の長の子孫が玉祖命の御分霊を祀り、壺神様として崇め奉り、焼物業の加護を祈念したという。玉祖神社ゆかりの地
宮城森 ミヤキノモリともいう。神社北方3百メ-トルの田中にある。
景行天皇12年に九州の熊襲部族が反乱。西征の途中周防国裟麼(佐波)に神夏磯媛と名乗る女酋が勢力を張っていた。天皇至るときくや、神夏磯媛は磯津山(しずやま)から賢木(さかき)を採り、8握剣・8咫鏡・8尺瓊(玉)を上中下の枝にそれぞれに掛け、白旗を船の舳先に立て天皇を奉迎し恭順の意を示していることが日本書紀に載っているが、天皇は玉祖神社へ戦勝祈願され、その時の行在所の跡が宮城の森という。玉祖神社附属地。八籠山 当社の北々西約600メ-トルにある。通称霞山。糘山(すくもやま)。景行天皇宮城の森に行宮を設けられた際、
この山に八神(神皇産霊神・高皇産霊神=天地萬物・人類はことごとくこの二神の力によって鎔造化育された。生産霊神=生成活動の神足産霊神=充足完備の神。魂留産霊神=霊魂を身体中に鎮め留むる神。
大宮売神=和平を図る神。御膳都神=食物を主宰する神。
事代主神=国土経営の神)を祭られ、その時の祭器を埋められたところからこの名があるという。玉の岩屋(たまのいわや)「玉屋命、大崎の閭(村里のこと)に隠れさせたまひ 御神体を納め奉るを玉の岩屋といふ。当社の後3町餘隔てる江良に有之 天正のころまでは歴然たり、今は其形少残れり、依て近歳石の小祠を立て験とす、4月上辰日祭・・・・・」と風土注進案に見えるが、現在の玉の岩屋は明治6年修築したもので、祭典は五月上辰日に執行される。神社北方約500メ-トルにある。玉祖神社附属地。
主な宝物 重要文化財 周防国一宮造替神殿宝物等目録 一巻 建久6年(1195)3月、10年の歳月をかけて東大寺大仏殿の再建をなしとげた重源が玉祖大明神の加護に感謝するため、同年8月5日に周防国に下向し、同月7日から9月28日までの間に玉祖神社の造替えを行なった社殿以下の建物及び御帳台・神輿・御束帯など宝物類の目録である。
末尾に趣旨を述べ、裏書で日別供料の料田として10町歩の田地を奉免する。附 周防国一宮玉祖神社神祠重建目録 一巻 重源の造替から140年目に行われた造替の目録で、社殿の規模をはじめ社領、神事祭礼神官、供僧の数まで記載されている。
大内弘幸加判の建武2年(1335)9月のものである。附 周防国一宮玉祖神社御神用米在所注文 一巻 文明11年(1479)12月に大内政弘に差出した玉祖神社の御神用米の社領の所在と面積を書き上げたもので、前記目録とともに玉祖神社が重源以後も東大寺領周防国の一宮として、その規模を保持していた様子を伝える貴重な資料である。重要美術品 銅製 九曜巴紋双雀鏡 一面 正平11年(1356)僧命俊が奉納して伝えられたもので、慶長3年(1598)社殿が火災にあった時火中し、鏡面の肌が傷んではいるが、文様は原形をよくとどめている。
市指定文化財 太刀 銘吉包 1口 古備前最後の刀工の1人といわれる吉包(よしかね)の作で、長さ80.5センチ、反り2センチ、鎬造り、庵棟(いすりむね)、直刀でである。
社伝では源義経が平家追討の際戦勝祈願し奉納したという。市指定文化財 太刀 伝信国 1口 南北朝時代の著名な刀工信国の作と伝えられ、長さ73.4センチ、反り2.2センチ、鎬造り、庵棟、直刀で茎(なかご)は摺り上げ茎である。
「信国 正真長サ2尺4寸1分半無銘表裏樋有之 代金子10枚延宝7年未 5月3日 本阿(花押)」と書かれた阿弥の折紙が添えられている。近藤清石の奉納である。その他古鏡、文書等多数。天然記念物
日本鶏 黒柏(くろかしわ)山口県と島根県の一帯にわずかに飼育されている貴重な日本鶏。
昭和26年6月9日文化財保護委員会より天然記念物の指定を受けた。
羽毛は金属光沢を持つ緑紫黒色。小国系統の長尾鶏、長鳴鶏。
社伝では天照大神の天の岩戸隠の時、常世長鳴鶏を集めて鳴かせたのがこの黒柏で、その後玉祖命がこの鶏をつれて、ここ大崎の地に留まられたという。
黒柏発祥の地として神社境内でも飼育されている。(注一)一の宮 国中第一の神社をいい、原則として一国に一社ある。恐らく最初から全国的に定まったものではなく、神位・信仰・勢力等の最も著しい神社をその国の一宮として尊崇したのが起りで、それが漸次全国的に普及すると共に、準公的な権威・社格をもつに至ったと考えられる。平安中期に現われ、鎌倉時代には全国的になっていた。今昔物語の中に周防一ノ宮玉祖大明神と書かれているのが全国一宮の最初の記録である。
(注二)国幣社 明治4年太政官布告による社格の一つ。この布告で国家自らが経営する神社を官社、それ以外の神社を諸社と称することに定められた。官社には官幣大社・官幣中社・官幣小社・国幣大社・国幣中社・国幣小社の6つ、諸社には府社・藩社・県社・郷社・村社の6つが設けられた。明治6年に官社のうちに新たに別格官幣社が加えられた。別格官幣社は歴史上の功臣で神に祭られた神社で、官幣社には例祭に際して皇室から、国幣社には同じく国庫から幣帛料が供進された。この社格制度は戦後廃止され、旧官社は現在別表神社として一般の神社と区別さていれる
(注三)式内社 醍醐天皇の詔命によって延喜7年(907)編纂に着手し、20年を要して延長5年(927)に完成した延喜式(五十巻)の第九・十巻〔神名帳〕にその名を登載された神社を式内社という。玉祖神社二座と載る。当時の制で、毎年2月祈年祭にあたり、神祇官或は国司より奉幣に預るものを官舎といい、他の一般神社と別の待遇を得た。
(注)文中のHIRAKAは「皿」偏に央です。YORIは古文書の「より」、KOTOは「こと」です「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・濱宮御祖神社《主》天鏡尊
・若宮社《主》玉祖命
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)周防国 10座(並小)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)佐波郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 玉祖神社 二座
[ふ り が な ](たまのをやの かみのやしろ ふたくら)
[How to read ](tama no woya no kamino yashiro futakura)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
玉祖神社(防府市)は 玉祖神社の総本社です
大阪府八尾市にある玉祖神社は 710年(和銅3年)に周防国の玉祖神社から分霊を勧請したものとされれています
玉祖神社(八尾市)の記事もご覧ください
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玉祖神社(八尾市神立)
玉祖神社(たまのおやじんじゃ)は 和銅3年(710)周防国一之宮「玉祖神社」から分霊を勧請したもので 御祭神は櫛明玉命です 通称「高安明神」とも呼ばれていて 高安11ヶ村の氏神です 鎮座地は 生駒・信貴連山の中腹の高台にあり 社頭にある「大楠」から一望する 河内平野は絶景です
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
山陽自動車道防府西I.Cから 車で5分程度
防府駅から 県道54号経由 約4.6km程 車10分程度
玉祖神社(tamanoya shrine)(防府市) に到着
玉祖神社参道に「一の鳥居」が建ちます すぐ右手に第2駐車場があります
社頭には 石灯篭 鳥居 右脇にご由緒が建ちます
一礼して 鳥居をくぐり抜けて 境内へ
文化九年(1812年)寄進と書かれた「狛犬」が構えます
石碑が建ちます「天然記念物 日本鶏 黒柏発祥之地」と刻まれています
神門があり再び 狛犬が構えます
一礼して神門をくぐり抜けます
神幕に御神紋が染められていて 良く見ると 勾玉の紋の中に亀甲 の御神紋です
先程の石碑「黒柏」が飼育されている鶏小屋があります
やはり 天孫降臨と共に来た鶏で 長鳴きどり と呼ばれていたそうです
黒柏の鳴き声は7~8秒 長いものでは10秒に達する時もあるそうです
拝殿にすすみます 拝殿内の扁額には「玉祖一宮」と掲げられています
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
裏手に回り 本殿を仰ぎます
参道を戻ります
神門をくぐり 鳥居をくぐり 振り返り一礼します
境内に神札授与所がありますが 不在の場合は 一の鳥居の横の ご神官宅でと書かれている張り紙がありましたので 一の鳥居迄戻り 授与して頂きました
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記(kojiki)』天の岩戸屋 に記される伝承
有名な『日本神話』天照大御神が 岩戸に隠れられた際に「玉祖命に命じて八尺の勾玉を数多く長い緒に貫き通した玉飾りを作らせ」とあり「常世の長鳴き鳥」も登場します
意訳
「 天照大御神は 見て恐れ 天の石屋の戸を開き 中にお籠りになられました そうして 高天原はすっかり暗くなり 葦原中国も全く暗くなりました こうして夜がずっと続いいました
そこで 多くの神々の騒ぐ声は 五月ごろに湧き騒ぐ蠅(はえ)のように一杯になり あらゆるわざわいがすべて起こりました
この事態を受けて 八百万の神は 天の安の河原に自ずから集まり 高御産巣日神の子の思金神に考えさせました
まず 常世の長鳴鳥を集めて鳴かせ
天の安の河の川上にある堅い石を取り 天の金山の鉄を取って 鍛冶の天津麻羅(アマツマラ)を捜し出し
伊斯許理度売命に命じて鏡を作らせ
玉祖命に命じて 八尺の勾玉を数多く長い緒に貫き通した玉飾りを作らせ
天児屋命と布刀玉命を呼んで 天の香山の雄鹿の肩の骨をそっくり抜き取ってきて 天の香山のははか(カニワ桜)を取って(その皮を焼いて)鹿の骨を焼いて占わせ
天の香山の茂った榊を根こそぎ掘り取ってきて その上方の枝に八尺の勾玉を数多く長い緒に貫き通した玉飾りをつけ 中ほどの枝に八咫の鏡をかけ 下方の枝には白い幣と青い幣をさげて このさまざまな品は 布刀玉命が尊い御幣として捧げ持ち 天児屋命が尊い祝詞を寿ぎ申し上げ
天手力男神が戸の脇に隠れ立ち
天宇受売命が天の香山の日影蔓を襷にかけ 真析蔓を髪飾りにして 天の香山の笹の葉を採物に束ねて手に持ち 天の石屋の戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし 神がかりして胸乳を露出させ 裳の紐を女陰までおし垂らしたすると 高天原が鳴り響くほどに数多の神々がどっと笑った
そこで 天照大御神は不思議に思われて 天の石屋の戸を細めに開けて 戸の内側から仰ったことには「私がここに籠もっているので 天原は自然に暗く また葦原中国もすべて暗いだろうと思う どうして天宇受売は楽をし また八百万神は みな笑っているのか」と仰った
そこで天宇受売が申し上げたことには「あなた様よりも貴い神がいらっしゃいますので 喜び笑って楽をしているのです」と こう申し上げている間に天児屋命と布刀玉命は鏡を差し出して 天照大御神にお見せ申し上げた時
天照大御神はいよいよ不思議に思って 少しずつ戸から出て鏡に映ったお姿をのぞき見なさるその時 脇に隠れ立っていた手力男神がそのお手を取って外へ引き出すやいなや 布刀玉命が注連縄を天照大御神のうしろに引き渡して申し上げたことには「これから内へおもどりになることは出来ません」と申し上げたこうして天照大御神がお出ましになられた時 高天原も葦原中国も自然と照り明るくなりました 」
【原文参照】『古事記』刊本 明治03年選者:太安万侶/校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用
『日本書紀(nihon shoki)』第九段一書 天孫降臨 に記される伝承
天孫降臨についての状況が 御神勅とともに記されています
御祭神は 大神が天孫に付き従わせた「5部の神」の一柱として 「玉屋命(tamanoya no mikoto)」として記されます
意訳
「 二柱の神は天に上って復命し「葦原中国(ashihara no nakatsuku)は皆すでに平定しました」と言われました
その時に 天照大神(amaterasu omikami)が勅(choku)して
「それならば すぐ我が子を降らせよう」と言われましたそのまさに降らせようとする時に 皇孫がお生まれになりました
お名を「天津彦彦火瓊瓊杵尊(amatsu hiko hikoho ninigi no mikoto)」と云いますそこで天忍穗耳尊(ameno oshihomimi no mikoto)が申し上げました
「この皇孫を 私の代りに降らせられませ」そこで天照大神は、瓊瓚杵尊(ninigi no mikoto)に対して
八坂瓊曲玉(yasakani no magatama)
八咫鏡(yata no kagami)
草薙剣(kusanagi no tsurugi) の「三種の神器」を賜わりました
また中臣氏の遠祖 天児屋命(ameno koyane no mikoto)
忌部(imbe)の遠祖 太玉命(futotama no mikoto)
猿女(sarume)の遠祖 天鈿女命(ameno uzume no mikoto)
鏡作(kagamitsukuri)の遠祖 石凝姥命(ishikoridome no mikoto)
玉作(tamatsukuri)の遠祖 玉屋命(tamanoya no mikoto)
全部で「五部の神」たちを配して 付き従わせました
そして 皇孫へのご神勅(shinchoku)は
「葦原(ashihara)の千五百秋(chiihoaki)の瑞穂(mizuho)の国は
我が子孫が王たるべき国である
皇孫のあなたが行って治めなさい お行きなさい
寶祚(amatsu hitsugi)が栄えるかぎり 天地と共に永遠に窮りないであろう」というものです 」
【原文参照】『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ
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『日本書紀(nihon shoki)』景行天皇 大足彦忍代別天皇 に記される伝承
熊襲・諸賊・土蜘蛛の討伐に この地の「神夏磯媛(kamunatsuso hime)」を長とする一族が 神器を捧げ 恭順を示し このとき景行天皇は玉祖神社で戦勝祈願したと伝わります
意訳
「 十二年秋七月 熊襲(kumaso)がそむいて朝廷に貢物をしませんでした八月十五日 天皇は筑紫(tsukushi)に向かわれました
九月五日 周芳(suwa no kuni)の娑麼(saba)(現 山口県佐波)に着かれましたそのとき天皇は 南方を眺めて群卿(mahetsu no kimitachi)に言われました
「南の方に煙が多くたっている きっと賊がいるのだろう」そこにとどまり まず多臣(oo no omi)の祖の武諸木(takemoronoki)国前臣(kunisaki no omi)の祖の菟名手(unate)物部君(mononobe no kimi)の祖の夏花(natsu hana)を遣わして その様子を見させられた
そこには女がいて 神夏磯媛(kamunatsuso hime)といいます
その手下は非常に多く 、一国の首長です天皇の使者がやってきたことを聞いて 磯津山(shitsuno yama)の賢木(sakaki)を抜きとり 上の枝に八握剣(yatsukano tsurugi)をかけ 中枝に八咫鏡(yatano kagami)をかけて 下枝に八尺瓊(yasakani)をかけ 素幡(白旗)を舟の舳先に立てて 参り出て言いました
「どうか兵を送らないで下さい 私と属類(仲間)には 背く者はおりません
すぐにでも帰順いたしますただ 他に悪い賊がいます
その一つを鼻垂(hanatari)といいます みだりに主の名を語って 山谷に騒がしく集まって 菟狹(usa)の川上に屯しています
その次の者は 耳垂(mimitari)といいます 倉庫の蓄えを奪い 貪り食い しばしば人民をさらいます これは御木(mike)の川上にいます
第三の者は 麻剝(asahagi)といいます 密かに仲間を集めて 高羽の川上におります
第四の者は 土折猪折(tsuchioriiori)といいます 緑野の川上に隠れており 山川の険しいことで 人民を掠めとっています
この四人は 住んでいるところが皆 要害の地であります それぞれ その仲間を従えた 各地の長となっています
皆『皇命には従わない』と言っています
速やかに討たれるのがよいでしよう 逃さないようにして下さい」と申しあげましたそこで武諸木(takemoronoki)たちが まず麻剝(asahagi)を誘い出しましたそして 赤い上衣や袴 種々の珍しい物を与えて 従わないという三人をもおびき出しました
それぞれ仲間をつれてやってきたところを 全員捕えて誅殺しました 」
【原文参照】『日本書紀』 刊本 文政13年選者 舎人親王[旧蔵者]内務省 国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用
社伝では『日本神話』で有名な「天照大神の天の岩戸隠」の時に 集めて鳴かせた常世長鳴鶏を 御祭神「玉祖命」が この地に この鶏をつれて留まられたとして「黒柏発祥の地」としています 黒柏は 天然記念物に指定されて境内で飼育されています
玉祖神社(tamanoya shrine)(防府市)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
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周防国(すおうのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 周防国の官社のことで 10座(並小)゛周防国には 10座(並小)゛熊毛郡2座・佐婆郡6座・吉敷郡1・都濃郡1座゛の神が坐しま゛の神が坐します
周防国(すおうのくに) 延喜式内社 10座(並小)について