実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

瀧尾高徳水神社(日光市)

瀧尾高徳水神社(たきのお たかとく すいじんじゃ)は 奥吉野(奈良県吉野郡東吉野村)の水の宗社丹生川上神社 中社(にうかわかみじんじゃ ちゅうしゃの御祭神 罔象女(みずはめのみこと)の御分霊を勧請し 昭和52年(1977)11月26日 当時の栃木県知事 横川信夫氏 より藤原町高徳の鬼怒川沿いに鎮座していましたが 1998年(平成10年)道路拡幅のため現在地に遷座しました

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name

瀧尾高徳水神社Takinoo takatoku sui Shrine)
(たきのお たかとく すいじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

水神社Sui Shrine)

【鎮座地 (location) 

栃木県日光市山内

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》罔象女(mizuhanome no mikoto)

【御神格 (God's great power)】

・開運 Good luck
・水難除け Exclude water disasters
・祈雨 Pray for rain
・止雨 Stop the rain

【格  (Rules of dignity)

日光二荒山神社Nikko Futarasan Shrineの末社

【創  (Beginning of history)】

昭和52年(1977)11月26日

【由  (history)】

瀧尾高徳水神社 由来

この社は、奥吉野(奈良県吉野郡東吉野村)の水の宗社 丹生川上神社の御祭神 罔象女神(みずはのめのかみ)の御分霊を祀り、天照大神の姉君として水に関する一切の御親徳を授けられた神であります。

この社は、ときの栃木県知事 横川信夫氏により 昭和521126日県内 藤原町高徳に創建されましたが、県道拡幅のため平成10627日この地に遷座され災害防止・開運の神としても崇敬されています。

This shrine enshrines the Goddess of Water "Mizuhanome Kami" of the Niukawakami Jinjya in Higashi Yoshinomura,Yoshino-gun, Nara prefecture,who is the elder sister of the Sun God "Amaterasu Omikami" believed to be the creator of Japan.
The shrine was dedicated to the Goddess by Nobuo Yokokawa, exgovernor of Tochigi prefecture at Takatori, Fujiwara-machi, Tochigi on 26th November, 1977,but due to the expansion of the prefectural road it was transferred to the present site in 1998.
Visitors come to the shrine to pray for Safety and Fortune.

境内案内板より

神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

日光二荒山神社Nikko Futarasan Shrineから 約1.6km 徒歩25分程度
稲荷川に沿って遡る道沿いに 瀧尾神社入口右側に鎮座しています

瀧尾高徳水神社Takinoo takatokusui Shrine)に到着

神社の前面は駐車スペースにもなっていて広く整地されています
その奥に石組で基壇が設けられていて 案内板と社号標「瀧尾高徳水神社」があり 鳥居と本殿が建ちます

創建も遷座も最近の神社なのですが 石垣や玉垣等も苔生して 古社の様な雰囲気を醸し出しています
やはり 白糸の滝の直ぐ近くに鎮座して 御神威が益々高まったかのような感です

本殿にすすみます 狛犬ならぬ 狛蛙と狛亀 が置かれています 何故置かれているのかは不明です 判るのは 水に関わる生き物で縁起がよさそうとしかわかりません

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

勧請もとの丹生川上神社 中社Niukawakamijinja nakasha)」について
奈良のむかしばなし』(県民だより奈良)に記される伝承

奈良のむかしばなし』(県民だより奈良) 第10話

蟻通明神 (ありどおしみょうじん)

「蟻通(ありどおし)明神」、「蟻通神社」という、
ちょっと変わった名で知られる 丹生川上神社中社(にうかわかみじんじゃなかしゃ)。

吉野郡東吉野村小(おむら)の、四郷(しごう)、高見(たかみ)、日裏(ひうら)の三つの川が合流するあたりにある。
静寂の中、深い杉木立(すぎこだち)に囲まれて古式な社殿が建つ。

 この「蟻通」にまつわるお話。
 昔、ある天皇が、都から老人を追放した。ところが、ある中将だけは、老父母をひそかに家に住まわせていた。
 その頃、唐(とう)の皇帝が日本征服を狙い、知恵試しの難題をふっかけてきた。困った天皇は、中将にその難題を解かせた。
 曲がりくねって、中に細い穴のあいた玉に紐(ひも)を通せというもの。

中将は考えあぐね、こっそり老父母に相談した。「穴の一方に甘い蜜(みつ)をつけ、他方から糸を結びつけた蟻を入れるといい」。蟻は蜜の甘い香りに誘われて玉の中を見事に通り抜け、紐を通した。

唐の皇帝はほかにも難題を出したが、どれも老人の知恵で解決。唐はついに日本の征服を諦(あきらめ)めたという。

そして、老人の大切さが分かり、都にはまた老人が戻った。

中将は死後、蟻通明神として祀(まつ)られた。
 「蟻通明神」は和泉国(いずみのくに)(大阪府泉佐野市)にもあり、こちらは紀貫之(きのつらゆき)の和歌や『枕草子(まくらのそうし)』、世阿弥(ぜあみ)の能『蟻通』にも登場する。東吉野村の蟻通神社は、平安時代末、ここから勧請(かんじょう)されたという。

 ところで、丹生川上神社は、もともと平安時代の記録にある古い神社で、祭神は、水を司る神の「罔象女神(みづはのめのかみ)」。

農耕の守護神として尊ばれ、降雨、止雨の祈願が、天皇やその使いによってたびたび行われた。

だが、戦国時代の争乱で神社も衰退し、所在も不明となっていた。
やがて、大正11年、ここが丹生川上神社中社に比定され、官幣大社(かんぺいたいしゃ)に昇格した。

 一方で、蟻通神社は、小川郷(おがわごう)八カ村の土地神として敬われ、今も地元の人々から「蟻通さん」と親しまれている。
10月中旬には、境内で、豊作を祝う村をあげての「秋祭り」が賑(にぎ)やかに行われる。

奈良県庁 広報広聴課 公式HPより
http://www.pref.nara.jp/koho/kenmindayori/tayori/t2007/tayori1910/naranomukashi1910.htm

瀧尾高徳水神社Takinoo takatokusui Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

それぞれの記事をご覧ください

・日光二荒山神社 本社Nikko Futarasan Shrineの記事をご覧ください

一緒に読む
日光二荒山神社 本社(日光市山内)〈世界遺産「日光の社寺」〉

日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)は 標高2486m霊峰「男体山(二荒山)」をご神体として 古くから日光における信仰の中心となってきました 残存する最も古い記録には 767年に勝道上人が 日光山を開基したとあり 世界遺産「日光の社寺」の一群で 日光東照宮と日光山輪王寺の中間の位置に鎮座します

続きを見る

 

日光二荒山神社【別宮

本宮神社Hongu Shrine)
《主》味耜高彦根命(ajisukitakahikone no mikoto)

本宮神社Hongu Shrine)の記事をご覧ください

一緒に読む
本宮神社(日光発祥の地)

本宮神社(ほんぐうじんじゃ)は 神護景雲元年(766年)勝道上人(shodo shonin)が「山菅の蛇橋」(現在の神橋)を渡りこの地(日光)に神仏を祀り 庵を結んだのが始まりとされています ここは日光の原点であり 二荒山神社発祥の地であり 開運の神社と言われます 古くは 新宮(現在の二荒山神社)と滝尾神社と共に 日光三社と呼ばれていました

続きを見る

 

滝尾神社Takinoo Shrine)(霊石安産子種石・酒の泉)
《主》田心姫命(tagorihime no mikoto)

尾神社Takinoo Shrine)の記事をご覧ください

一緒に読む
瀧尾神社(日光市山内)〈弘仁11年(820)弘法大師空海が創建 日光瀧尾女躰権現〉

滝尾神社(たきのおじんじゃ)は 弘仁11年(820)弘法大師空海(くうかい)が創建したと伝え 江戸時代までは 日光山を信仰する三社の1つとして 日光三社権現(にっこうさんしゃごんげん)(滝尾権現・新宮権現・本宮権現)と呼ばれていました 女峰山を御神体山と仰ぎ 田心姫命(たごりひめのみこと)を祀り「女体中宮」とたたえます

続きを見る

 

日光二荒山神社【摂社末社】

本社周辺

・若子神社(Jakko Shrine境内には寂光の滝があります
《主》下照姫命(shitateruhime no mikoto)

祭日:10月30日
弘仁11年(820年)に空海が滝尾神社に続いて この地で修行したと伝わり
元の名称は「寂光寺」または「寂光権現」と呼ばれていて
室町時代には七堂伽藍が立ち並び 釘念仏道場として栄えたとされます
・池石(生石)(ikeishi)寂光の滝へ向かう参道
若子神社遥拝所 本社と若子神社の中間に鎮座する遥拝所(前立て)大きな磐座が祭られ その岩の上にある窪みの水が枯れないことから名前が付いたとされます

若子神社(Jakko Shrine)の記事をご覧ください

一緒に読む
若子神社(日光市)& 池石(生石)(ikeishi)

若子神社(じゃっこじんじゃ)は 弘仁11年(820)日光を訪れた弘法大師(空海)が 「白糸の滝」で修行し滝尾神社(たきのおじんじゃ)を開き 次いで この「寂光の滝」で修行した時 夢の中で女神のお告げを受け ここに祠を建てたと伝えられます 往時は神仏習合し 寂光権現と称していましたが 明治以降「若子神社」と改められます 境内の直下には日光八景に数えられる「寂光の滝」があります

続きを見る

 

・北野神社Kitano Shrine)滝尾道(稲荷川に沿う道)に鎮座
《主》菅原道真公(sugawara no michizane ko)

祭日:8月25日
寛文元年(1661年)筑紫安楽寺の大鳥居信祐が太宰府天満宮より勧請 梅鉢の紋を掘り込んだ巨岩もあります

北野神社Kitano Shrine)の記事をご覧ください

一緒に読む
北野神社(日光市)

北野神社(きたのじんじゃ)は 日光二荒山神社(Nikko Futarasan Shrine)の末社です 寛文元年(1661)大宰府天満宮(福岡県)の別當である大鳥居氏の一族「大僧都法印(Daisozu hoin)菅原信祐(Sugawara no shinyu)」(亀戸天神の創建者)が 天神信仰を広めるために「社殿建立の志」を立てて諸国を巡った時 大宰府天満宮よりこの地に勧請された由緒を持つ神社です

続きを見る

 

滝尾高徳水神社Takinotakatokusui Shrine)滝尾神社の参道入り口に鎮座
《主》罔象女大神(mizuhanome no okami)

祭日:10月10日
通称:水神社 昭和52年(1977)横川信夫県知事が藤原町高徳の鬼怒川沿いに鎮座の丹生川上神社より勧請 1998年(平成10年)道路拡幅のため現在地に遷座

滝尾高徳水神社Takinotakatokusui Shrine)の記事をご覧ください

一緒に読む
瀧尾高徳水神社(日光市)

瀧尾高徳水神社(たきのお たかとく すいじんじゃ)は 奥吉野(奈良県吉野郡東吉野村)の水の宗社「丹生川上神社 中社(にうかわかみじんじゃ ちゅうしゃ)」の御祭神 罔象女命(みずはめのみこと)の御分霊を勧請し 昭和52年(1977)11月26日 当時の栃木県知事 横川信夫氏 より藤原町高徳の鬼怒川沿いに鎮座していましたが 1998年(平成10年)道路拡幅のため現在地に遷座しました

続きを見る

 

・滝尾稲荷神社Takinoinari Shrine)滝尾神社の本殿裏に鎮座
《主》倉稲魂神(ukano mitama no kami)(稲荷大明神)

祭日:3月25日(例祭)5月25日(講社大祭)
弘仁11年(820年)に空海が滝尾神社と共に開いたと伝わります

滝尾稲荷神社Takinoinari Shrine)の記事をご覧ください

一緒に読む
滝尾稲荷神社(日光市 滝尾神社境内) 

瀧尾稲荷神社(たきのおいなりじんじゃ)は 弘仁11年(820年)弘法大師(空海)が 滝尾神社と共に開いたと伝わる古社です 「昔 瀧尾上人が朝のお供えを忘れると 稲荷の神が化けて出ては 催促した」という伝説が残っています 東照宮ができる以前は 日光山として仏教の栄えた聖地「白糸の滝」がある滝尾神社本殿奥の境内に鎮座します

続きを見る

 

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています