多家神社(たけじんじゃ)は 延喜式に載る 安藝国 名神大社 多家神社(おほいえの かみのやしろ)の後継社です 中世になると社運が衰え 江戸時代には南氏子(松崎八幡宮 まつざきはちまんぐう)と北氏子(総社 そうじゃ)が 互いに多家神 埃宮を主張して論争対立が絶えず 明治六年(1873)松崎八幡宮と総社を合わせ現在の社地「誰曽廼森(たれそのもり)」に多家神社を復興したものです
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
多家神社(Take shrine)
[通称名(Common name)]
・埃宮(えのみや)
・えの宮さん(えのみやさん)
【鎮座地 (Location) 】
広島県安芸郡府中町宮の町3丁目1-13
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》神武天皇(じんむてんのう)
安芸津彦命(あきつひこのみこと)
《配》神功皇后(じんぐうこうごう)
大己貴命(おほなむちのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・勝利開運、事始、政治の神など
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の後継社
【創 建 (Beginning of history)】
安芸国開祖(あきのくにかいそ)
多家神社(たけじんじゃ)(埃宮 えのみや)主祭神
神武天皇(じんむてんのう)
(神倭伊波礼毘古尊、勝利開運、事始、政治の神)
初代天皇(紀元前六六〇年即位)安芸津彦命(あきつひこのみこと)
(安芸国の開祖神)相殿神
神功皇后(じんぐうこうごう)
(第十四代 仲哀天皇の皇后){交通、厄難除、安産、育児の神}応神天皇(おうじんてんのう)
(第十五代天皇)大己貴命(おおなむちのみこと)
(大国主神、招福開運、商業、医薬、健康、縁結びの神)摂末社
貴船神社(きふねじんじゃ)
(高竜神、別雷神、大山津見神)由 緒
この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。『古事記(七一二年完成)』に阿岐国(あきのくに)(安芸国 あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)に神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が七年坐(いま)すとあり。『日本書紀(七二〇年完成)』には埃宮(えのみや)に坐すとある。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式(えんぎしき)」(九二七年完成)に安芸国の名神大社(みょうじんたいしゃ)三社の一つとして多家(たけ)神社の名が記され、伊都岐島(いつきしま゜)神社(厳島(いつくしま)神社)、速谷(はやたに)神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々であった。
中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮 まつざきはちまんぐう)と北氏子(総社 そうじゃ)に分れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった。そこで明治六年(一八七三)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森(たれそのもり)」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。明治七年県社となった。その後、多くの村内小社を廃して多家神社に合祀した。大正四年(一九一五)九月、社殿を焼失したが、全県的な奉賛を得て大正十一年四月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備を行った。なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重である。
現在、県指定文化財となっている。たれその森について 「誰曽廼森」と記されている。神武天皇が、当地の者に「曽(そ)は誰(たれ)そ」とお尋ねになったことからこの名がついたといわれている。
現地案内板より
【由 緒 (History)】
多家神社と宝蔵(たけじんじゃとほうぞう)
今から1000年以上前の延喜式神名帳によると、安芸国式内社は速谷神、伊都伎島神と多家神の三神しか記載されていません。
「延喜式」とは、平安中期の律令の施行細則のことで、後の律令政治の基本法となったもので、この延喜式に載っている神を祀る社を「式内社」といいます。多家神を祀る社「式内社」は安芸郡の地に造営されながら所在がわからなくなっていました。
この「多家神」をめぐって古くから総社と松崎八幡の氏子同士の争いが絶えなかったことから、明治7年(1874年)広島城三の丸にあった稲荷社を浅野氏から譲り受け、総社と松崎八幡を合祀して現在地に造営されましたが、大正4年(1915年)火災により校倉を残して社殿焼失、大正11年(1922年)に再建されました。「たけい神」または「多祁理神」の名をとって多家神社を称したともいわれています。
現在、神武天皇を主祭神として合併祈神54坐を祀り、別名 多祁理宮または埃宮と称し、町民の間では「えの宮さん」の名で親しまれています。
榎川沿いに府中大橋から神社まで続く松並木は、明治時代からの参道の名残りです。また、多家神社は、府中町「水と歴史のウォーキングロード」の出発点となっています。
多家神社宝蔵【宝蔵(広島県重要文化財)】
江戸時代初期に造られたといわれる木造のひわだぶきの校倉造りで、通常は三角の木を組んで周囲の壁を形成するのですが、この宝蔵は不等辺六角形の木を組んだ珍しいもので、「信貴山縁起絵巻」に描かれている以外に例を見ず、日本に現存するものでは当宝蔵だけです。
また、広島城内から移築された建物としても現存する唯一のものといわれています。昭和29年広島県重要文化財に指定されました。
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・貴船神社《主》高龗神 別雷神 大山津見神
貴船神社(きふねじんじゃ)
多家神社の境内地にあり、元の社は規模も小さく朽ち果てた後、明治43年(1910年)の寺社合併に際し町内12の神社を合祀するとともに、山田稲生社の社殿と鳥居を移築し、名を貴船神社として現在に至っています。
貴船とは、神武天皇東征伝説と関係があり、この地に御船を寄せられたといわれているのに因んでいます。
・天神社《主》菅原道真公
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・総社旧跡石標(安芸郡府中町本町)
総社跡(そうじゃあと)は 安藝国 府中の在庁官人(ざいちょうかんにん)となった田所氏が平安時代終わり頃に創建した総社と思われます 江戸時代には『延喜式神名帳927 AD.』記載 多家神社〈名神大〉(おほいえの かみのやしろ)の所在をめぐり南部の八幡社と総社との争いが絶えず 明治7年(1874)創建した多家神社に合祀されて廃社となった総社の旧跡です
総社跡(安芸郡府中町本町)
・松崎八幡宮跡(安芸郡府中町宮の町)
松崎八幡宮跡(まつざきはちまんぐうあと)は 平安時代末~鎌倉時代初めに 京都石清水八幡宮の別宮として創建と伝わり 元暦2年(1185)源頼朝の下文に「松崎別宮」と記されます 江戸時代には 境内 たけい社を『延喜式神名帳927 AD.』記載 多家神社〈名神大〉(おほいえの かみのやしろ)であると主張して総社との争いが絶えず 明治7年(1874)創建した多家神社に合祀されて廃社となった松崎八幡宮の旧跡です
松崎八幡宮跡(安芸郡府中町宮の町)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条
○廿七日甲申 京畿七道の諸神に進む階(くらい)を及ひ 新(あらた)に叙つ 惣て 二百六十七社なり
奉授に 淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品
・・・・・
・・・・・
・・・・・安藝國
正五位下 伊都岐嶋神(いつきしまのかみ)
從五位上 速谷神(はやたにのかみ) 並びに 從四位下
從五位下 多家神(おほいえのかみ)に 從五位上・・・
卷二貞觀元年(八五九)四月廿七日〈壬子〉の条
○廿七日壬子
授くに 安藝國 從五位上 多家神(をほいえのかみ)に 從四位下を
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・多家(おほいへの)神社 一座 巳上 安藝國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)安芸国 3座(並大)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)安芸郡 1座(大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 多家神社(名神大)
[ふ り が な ](おほいえの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ohoie no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 多家神社(名神大)(おほいえの かみのやしろ)の論社について
式内社 多家神社(名神大)(おほいえの かみのやしろ)の論社であった 総社と松崎八幡宮の両社は 互いに埃宮を主張して 激しい論争対立が絶えず 明治6年(1873)に廃止しされて 松崎八幡宮と総社を合祀して「誰曽廼森(たれそのもり)」に多家神社を復興し社殿を造営した経緯があります
・多家神社(安芸郡府中町宮の町)
多家神社(たけじんじゃ)は 延喜式に載る 安藝国 名神大社 多家神社(おほいえの かみのやしろ)の後継社です 中世になると社運が衰え 江戸時代には南氏子(松崎八幡宮 まつざきはちまんぐう)と北氏子(総社 そうじゃ)が 互いに多家神 埃宮を主張して論争対立が絶えず 明治六年(1873)松崎八幡宮と総社を合わせ現在の社地「誰曽廼森(たれそのもり)」に多家神社を復興したものです
多家神社(安芸郡府中町宮の町)
・総社旧跡石標(安芸郡府中町本町)
総社跡(そうじゃあと)は 安藝国 府中の在庁官人(ざいちょうかんにん)となった田所氏が平安時代終わり頃に創建した総社と思われます 江戸時代には『延喜式神名帳927 AD.』記載 多家神社〈名神大〉(おほいえの かみのやしろ)の所在をめぐり南部の八幡社と総社との争いが絶えず 明治7年(1874)創建した多家神社に合祀されて廃社となった総社の旧跡です
総社跡(安芸郡府中町本町)
・松崎八幡宮跡(安芸郡府中町宮の町)
松崎八幡宮跡(まつざきはちまんぐうあと)は 平安時代末~鎌倉時代初めに 京都石清水八幡宮の別宮として創建と伝わり 元暦2年(1185)源頼朝の下文に「松崎別宮」と記されます 江戸時代には 境内 たけい社を『延喜式神名帳927 AD.』記載 多家神社〈名神大〉(おほいえの かみのやしろ)であると主張して総社との争いが絶えず 明治7年(1874)創建した多家神社に合祀されて廃社となった松崎八幡宮の旧跡です
松崎八幡宮跡(安芸郡府中町宮の町)
初代 神武天皇 御東征の伝承地
多家神社(安芸郡府中町宮の町)由緒書きには
「この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。『古事記(七一二年完成)』に阿岐国(あきのくに)(安芸国 あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)に神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が七年坐(いま)すとあり。『日本書紀(七二〇年完成)』には埃宮(えのみや)に坐すとある。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。」とあります
初代 神武天皇の東征の軌跡について 神社史研究会「神武天皇東遷の軌跡をたどる」が明解ですので参照してください
広島 多家神社(埃宮)が当社になります
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
鎮座地の府中町は安芸国府があったといわれる由緒ある地域で 総社旧跡のすぐ近くには 奈良時代以前の安芸国造であった飽速玉命を祖神とする田所氏〈五日市から府中に移り 以後国府の在庁官人として安芸国の政治を掌るとともに 厳島神社の厳島国府上卿として祭主も務めた〉が居住し 大正5年(1916年)に・国庁神社(厳島遥拝所)・槻瀬明神・大黒社を合祀して 田所明神社が創建されています
広島デルタの6河川のうち最も東側を流れる猿猴川(えんこうがわ)の支流 府中大川の川筋に当たる府中町に鎮座します
神武天皇の東征の伝承地である府中町は 古代は一面の海であったと伝承されています
多家神社(安芸郡府中町宮の町)に参着
境内鳥居の扁額には”多家神社”と刻まれています 一礼をして鳥居をくぐります
鳥居の先には 誰曽廼森(たれそのもり)と呼ばれた丘陵へと続いています
境内の右手〈南側〉には 社務所があり 神武天皇東征御留嗶霊地の石碑が建ちます
境内の左側〈北側〉は えの宮公園になっていて その手前に境内社の貴船神社が鎮座します
この貴船神社は もともとからこの地に鎮座していたようです 由緒には「貴船とは、神武天皇東征伝説と関係があり、この地に御船を寄せられたといわれているのに因んでいます」とあります
誰曽廼森(たれそのもり)の階段を上がります
階段を上がると 鳥居が建ち 整地された境内に社殿があります
二の鳥居をくぐると 左手には手水舎 正面には宝物殿
手水舎の奥には玉垣が廻されている社殿の建つ境内地があります 参道には注連縄柱が建っています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 東南を向いて建てられていて どうやら その延長線上には厳島神社があるように思われます
拝殿の奥には 透塀に囲まれて本殿が建ちます
社殿に一礼をして 参道階段を下ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内 多家神社について 厳島神社の地御前とも 府中村の八幡とも 府中村の埃宮 諸説を挙げて記しています
【抜粋意訳】
多家神社
多家は假字詳ならず・印本 オホイエ・古本 タケ・又一説 オホノミ
〇祭神詳ならず
〇在所詳ならず
〇当国三宮なり 考証
〇式三 臨時祭 名神祭 二百八十五座 中略 安藝國 多家神社 一座藝洲志に 在 佐西郡 海濱 去 厳島海面一里許 是亦 市杵島命也 一説 市杵島命之御母也
然則 合祭 天照大神 須佐之男尊 者乎 中略 今考之 埃宮恐謂 地御前宮乎 また到 今 厳嶋造営之日 地御前共改に造之 然則 多家為 地御前也 果為必者乎 と云ふは両説を挙たるか詳ならず
また府中村 八幡宮也という説もあり 埃宮は府中村 地御前は地御前村に在り」
古事記傳 巻十八に 今 府中村に在て惣社といふ この多家は意富能美と 此 惣社の神主世々 大呑(オホノミ)氏なるを証にして 家を能美と云例は 伊勢國壹志郡に今も新家(ニヒノミ)村といふあり 是らなりといへるは 例の志ひごとなるべし 當れるや否志られず もし地御前なる時は 此例たたずやあらん神位
三代実録
貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉
安藝國 從五位下 多家神(おほいえのかみ)に 從五位上卷二貞觀元年(八五九)四月廿七日〈壬子〉
授くに 安藝國 從五位上 多家神(をほいえのかみ)に 從四位下
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内 多家神社について 所在は 府中村と記しています
【抜粋意訳】
多家神社
神位
三代実録
貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉
安藝國 從五位下 多家神(おほいえのかみ)に 從五位上卷二貞觀元年(八五九)四月廿七日〈壬子〉
授くに 安藝國 從五位上 多家神(をほいえのかみ)に 從四位下社格 縣社
所在 府中村(安藝郡府中村大字府中)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
廣島縣 安藝國 安藝郡府中村大字准曾廻森
縣社 多家(タガノ)神社
祭神
神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)伊邪邪岐命(いざなぎのみこと)
伊邪那美命(いざなみのみこと)
天照大御神(あまてらすおほみかみ)
天之菩卑命(あめのほひのみこと)
天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
天津日子根命(あまつひこねのみこと)
建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)
活津日子根命(いくつひこねのみこと)
多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)
字氣母智神(うけもちのかみ)
市寸島比賣命神(いちきしまひめのみこと)
熊野久須昆命(くまくすびのみこと)
高御産巣日神(たかみむすびのかみ)
玉依毘賣命(たまよりひめのみこと)
多紀都比責命神(たぎつひめのみこと)
神御産巣日神(かみむすびのかみ)
咲耶毘賣命(さくやひめのみこと)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
事代主神(ことしろぬしのかみ)
奥津日子神神(おきつひこのかみ)
神功皇后(じんぐうこうごう)
大穴牟遅神(おほあなむちのかみ)
奥津日賣神(おきつひめのかみ)
玉留魂神(たまつめむすびのかみ)相殿
御饌津神(みけつのかみ)
生魂神(いくたまのかみ)
大宮乃賣神(おほみやのめのかみ)
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
和久産巣日神(わくむすびのかみ)
火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)
屋船句々廼智神(やふねくくめちのかみ)
屋船豊宇氣比賣神(やふねとようけひめのかみ)
大直日神(おほなほびのかみ)
八十禍津日神(やそまがつびのかみ)
・・・・・
・・・・・創建年代詳ならず、藝洲志に曰、在 佐西郡海濱 去厳島海面一里許と見え、往昔延喜の制 名神大社に列す、
三代実録に、
「貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉
安藝國 從五位下 多家神(おほいえのかみ)に 從五位上卷二貞觀元年(八五九)四月廿七日〈壬子〉
授くに 安藝國 從五位上 多家神(をほいえのかみ)に 從四位下」とあり、多家の訓オホイエ(印本)、タケ(藝藩通志、神祇志料)、オホノミ(古事記傳、地名辞典)等いひて一定せず、
通志に曰く、
「土佐國安藝郡にも多氣神社といふあり、多家 多氣 同音にしてタケとよめり、又按に、古事記に神武天皇の行宮 多祁理宮を載せたり、祁も氣家と同じく古書皆ケとよめり、理はたけの伸音なり、倭姫世紀にも皇大神の御杖代として多氣宮造ることあり、(伊勢多氣郡に竹宮あり)、因て考ふれば上古質朴にて假宮など竹を用いて造りたるが、後に社号となりしにてもあらむか」地名辞典に曰く、
「今按に、多家(オホノミ)は古言 三宅(ミヤケ)と同じかるべし、また大家(オホヤケ)といふにも同じ、この多家を古代の屯倉(ミヤケ)なりと論断せらるる因由は、この地は神武天皇駐師の形勝にして、又、国府の要衝にあたる古代屯倉の有りしことも物の当然なり、
但 安閑紀に「虚城郡連枳苣喩獣 安藝國過戸虚城部屯倉以贖女罪」とあり、過戸舊訓コベシとありてその地を知らず(虚城郡は本州佐伯郡にあり)、又備後の膽年部膽殖の屯倉を和名抄 安那深津の二部に各 大家(オホヤケ)と挙げたる例を以て、過戸屯倉は必定この多家神社の邑とす、大家(オホヤケ)多家(オホノミ)その名義相通じて戻らず、こは寶にこそと想はる、文字の上より多祁理に類似すればとて埃宮址といふは決して信ずべからず、」
往時は三宮と称せり(神名帳考証、神社覈録、厳島道芝記、神祇志料、地名辞書)文禄年間 毛利氏廣島に入城以来、社殿を造営せられ、但社領若干を寄附せられ、今に其古文書を蔵すといふ、(地誌)明治四年郷社に列し、同七年縣社に昇格す。
境内神社 貴船神社
【原文参照】
多家神社(安芸郡府中町宮の町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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安藝国(あきのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 安藝国 3座(並大)の神社です
安藝国 式内社 3座(並大)について