高千穂神社(たかちほじんじゃ)は 垂仁天皇の御世 創建と伝わり 高智保皇神(たかちほのすめかみ)として 六国史『続日本後記』『三代実録』に記述がある国史見在社ともされます 天慶年問(938~947年)豊後国の豪族 大神惟基の子・政次が 高知尾(高千穂)氏を興し 十社大明神を高千穂18郷(高千穂八十八社)の総社として崇め 広く郷民の信仰を集めたといいます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
高千穂神社(Takachiho shrine)
[通称名(Common name)]
・高千穂宮(たかちほのみや)
・十社大明神(じっしゃだいみょうじん)
・十社さま(じっしゃさま)
【鎮座地 (Location) 】
宮崎県高千穂町三田井1037
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》高千穂皇神(たかちほすめがみ)
天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)
木花開耶姫命(このはなのさくやひめ)
彦火火出見尊(ひこほほでみ の みこと)
豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえず の みこと)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
《配》十柱大明神〈三毛入野命(みけぬのみこと)、鵜目姫(命うのめひめのみこと)、御子太郎命(みこたろうのみこと)、二郎命(じろうのみこと)、三郎命(さぶろうのみこと)、畝見命(うねみのみこと)、照野命(てるののみこと)、大戸命(おおとのみこと)、霊社命(れいしゃのみこと)、浅良部命(あさらべのみこと)〉
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・国運の隆昌
・縁結び・交通安全・厄除けの神さま
【格 式 (Rules of dignity) 】
・国史見在社
・別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
高千穂宮御由緒
当宮は 初め 高智保皇神(たかちほすめがみ)と申し上げて、この地に宮居をさだめられた天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)、木花開耶姫(このはなさくたひめ)以下三代の神々をお祀りし、千百余年前の仁明、清和両朝には日向国最高の御神階が授けられたことが六国史に記されております。
神武天皇の皇兄 三毛入野命(みけぬのみこと)が御東征の途次 高千穂に帰られて日向御三代をおまつりされたのが初めで、その子孫が長く奉仕されて後(のち)には三毛入野命(みけぬのみこと)御夫婦と八柱の御子とを合祀して十社大明神の神名で親しまれ、古くより高千穂八十八社の総社として崇められてきました。
源頼朝は 畠山重忠を代参として 多くの宝物を奉納し 重忠手植の秩父杉は八百年を経た今も社頭高くそびえています。
文永、弘安の役には勅使が見え、南北朝の頃 征西将軍 懐良親王(かねながしんのう)御祈願等、古記録や宝物も多数残っています。
天正年間 三田井氏が滅んで延岡領となりましたが、歴代藩主はそれぞれ社領を寄進し 例祭にはたえず奉幣して 明治に及びました。
大正十四年 秩父宮御成をはじめ 十数家の皇族の御参拝もあり、昭和四十六年七月一日 別表神社に列せられました。
天孫降臨、神武天皇ゆかりの高千穂宮は、今日では国運の隆昌と、縁結び、交通安全、厄除けの神さまとして広く信仰されております。
例祭日 四月十六日
猪懸祭 旧暦十二月三日現地案内板より
【由 緒 (History)】
高千穂神社
御祭神は、上古 高千穂皇神と申し上げ 別名十社大明神という神号で親しまれています。十一代垂仁天皇の御代の御創建で、六国史にも掲載されている国史見在社です。天慶年間には高千穂十八郷八十八社の総社として、特に往昔、武神、農産業、厄払い、縁結びの神として広く信仰を集め、鎌倉幕府をひらいた源頼朝は、畠山重忠を代参として天下泰平の祈願をし、皇室発祥の聖地に対する尊皇のまことを表しました。秩父杉・夫婦杉
境内には、源頼朝の代参・畠山重忠手植えの樹齢約800年の「秩父杉」や、二本の杉の幹が一つになった「夫婦杉(めおとすぎ)」がそびえています。この夫婦杉の周りを大好きな人と手をつないで3回廻ると幸せになるといわれています。鎮石(しずめいし)
垂仁天皇の命により伊勢神宮と高千穂神社に設置された石。願いを込めて祈ることで、世の中の乱れや人の悩みが鎮められるといわれています。高千穂町企画観光課HPより
https://www.town-takachiho.jp/top/kanko_bunka/kanko_supotto/812.html
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・荒建四皇子社
《合》猿田彦命,天鈿女命,稲飯命,五瀬命,三毛入野命,神日本磐余彦命,事勝国勝長狭命,大年神,羽居高天神,比波里天神,《配》大神惟基
荒立神社と四皇子社
県文化財指定
荒立神社の御祭神は猿田彦大神と天鈿女命(あめのうずめのみこと)で交通安全縁結び芸能の神様として信仰されています
四皇子社には神武天皇とその御兄弟四柱の神(五瀬命・いつせのみこと)(稲氷命いねひのみこと)(三毛入野命みけぬのみこと)(佐野命さぬのみこと)が祭られ日本建国に功績を残された神々です。
高千穂神社 高千穂町教育委員会現地案内板より
・秩父杉〈源頼朝の命で畠山重忠が代参し植えたとされる〉
・夫婦杉
夫婦杉 由来記
此の二本の杉は夫婦杉と申しまして根元が一つになって如何なる事があっても別れられない形を現しております 此の廻りを手をつないで三回廻ると夫婦 友人 睦まじく 家内安全で 子孫は繁昌の三つの願いが叶ふと伝はって居ります 夫婦 友人 婚約者の方が手をつないで廻って居る姿が絶えません
日向なる逢初川(あいそめがわ)の畔(はた)にこそ
幾世(いくせ)むすびの神ぞまします (高千穂神楽歌)
高千穂宮現地立札より
・高千穂宮 鎮石
高千穂宮 鎮石(しずめいし)の由来
第十一代 垂仁天皇の勅命により 我国で始めて 伊勢神宮と当高千穂宮が創建された際用いられた鎮石と伝えられます。
尚、住古、関東鹿島神宮 御社殿御造営の際 高千穂宮より鎮石が贈られ 同宮神域に要石として現存しています
またこの石に祈ると人の悩みや世の乱れが鎮められると言われています現地案内板より
要石(かなめいし)を祀る神社について
鹿島神宮 御社殿御造営の際 高千穂宮より鎮石が贈られた
茨城県鹿嶋市の鹿島神宮
・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮
鹿島神宮(かしまじんぐう)は 武甕槌大神(たけみかづちのおほかみ)を祀る鹿島神社〈全国に約600社〉の総本宮です 『常陸国風土記713AD.』には 香島天之大神(かしまのあめのおほかみ)・『延喜式神名帳927 AD.』には 名神大社 鹿島神宮(かしまの かむのみや)と記されています
鹿島神宮(鹿嶋市宮中)〈延喜式内社名神大社・常陸國一之宮〉
千葉県香取市の香取神宮
・香取神宮(香取市)下総国一之宮
香取神宮(かとりじんぐう)は 『延喜式神名帳927 AD.』の中で「神宮」の称号を持つ 3所〈伊勢大神宮・香取神宮・鹿島神宮〉の一つです その所載には 下緫國 香取郡 香取神宮(かとりの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)と記され 古来国家鎮護の神としての官幣大社です 又 人々の崇敬を集める下總國一之宮です
香取神宮(香取市)下總國一之宮
三重県伊賀市の大村神社
・大村神社(伊賀市阿保)
宮城県加美町の鹿島神社
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・市之神社
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
国史見在社(こくしげんざいしゃ)〈六国史に記載のある神社〉「高智保神(高智保皇神)」とも伝わります
『続日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
高智保皇神(たかちほのみめかみ)として 対馬 豊後 日向の神々と並んで 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻十三 承和十年(八四三)九月甲辰の条
○甲辰 始て置に 陸奧國 鎭守府府掌一員を 令に帶を刀を把笏せ也
對馬嶋 无位(むい)雷命神
豐後國 无位(むい)健男霜凝日子并比咩神 无位(むい)早吸比咩神
日向國 无位(むい)高智保皇神(たかちほのすめかみ)无位(むい)都濃皇神
並に 奉り授くに 從五位下
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
高智保神(たかちほのかみ)として 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻一 天安二年(八五八)十月廿二日己酉の条
○廿二日己酉
授くに
日向國 從五位上 高智保神(たかちほのかみ)都農神 等從四位上
從五位上 都萬神 江田神 霧嶋神 並從四位下
伊豫國 正六位上 布都神 從五位下
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
鬼八(きはち)の慰霊の神事 猪掛(ししかけ)祭(旧暦12月3日) について
鬼八伝説に由来する霜よけの神事 猪々掛祭(ししかけまつり)
祭りの発祥伝説では 祭神 三毛入野命(みけぬのみこと)に退治された鬼八(きはち)の悪霊が 早霜を降らせ田畑に災いをもたらしたため その霊(みたま)を三つに切り離して埋めた
里人は 鬼八の霊(みたま)を慰めるために 霜が降る頃 生贄〈人身御供〉として乙女をささげていた
天正年間(1573~93年)三田井氏の家臣 日之影岩井川城主 甲斐宗摂がこれを悪習と嘆き 乙女の身代わりに高城山で巻狩を行って獲た16頭の猪(しし)を代わりに捧げ、以後「鬼餌の狩」と称する狩りで獲た猪を捧げるようになったと伝える今でも神事は続けられていて
社頭で笹振り神事があり 神前に1頭の猪を丸ごと献饌して 鬼八の魂を鎮める「鬼八眠らせ歌」〈「しのべやたんぐあぁん さありやさそふまあどかや ささふりたちばな」〉を唱えながら 太鼓と笛の音に合わせ笹を左右に振る「笹振り神楽」が舞われる これによって鬼八は神へと昇華し 霜害を防ぐ「霜宮」に転生するという「笹振り神楽」は 「地祇(ちぎ)の舞」とも呼ばれ 高千穂神楽の祖型とされます
https://www.the-miyanichi.co.jp/chiiki/category_3/_59031.html
鬼八(きはち)を退治する三毛入野命の彫刻〈高千穂神社本殿回廊〉
祭神 三毛入野命(みけぬのみこと)が 鬼八(きはち)を退治した鬼八伝説をモチーフとした 鬼八を退治する三毛入野命の像が 本殿回廊の東側にあります
阿蘇に伝わる 鬼八(きはち)伝承 火焚神事(ひたきしんじ)
高千穂には 鬼八伝説に由来する 高千穂神社「霜よけの神事”猪々掛祭(ししかけまつり)”」があり 今も受け継がれています
阿蘇にも 鬼八伝説に由来する霜神社「霜よけの神事”火焚神事(ひたきしんじ)”」があり 今も受け継がれています
火焚神事(ひたきしんじ)(阿蘇の農耕祭事)
国指定重要無形民俗文化財 昭和57年1月14日指定
火焚神事(ひたきしんじ)は、8月19日から10月16日まで、霜神社(しもじんじゃ)の火焚殿(ひてきでん)で農作物に霜の害がでないよう、火焚乙女(ひたきおとめ)が火を燃やし続ける神事です。上役犬原(かみやくいんばる)・下役犬原(しもやくいんばる)・竹原(たかわら)地区の氏子による輪番制(りんばんせい)で代々受け継がれています。
火焚神事には、次のような神話が伝えられています。
「阿蘇を開拓した健磐龍命(たけいわたつのみこと)は、毎日のように弓の稽古をしていました。家来の鬼八(きはち)は九十九本までは命(みこと)に矢を拾い届けましたが、百本目の矢は疲れて蹴り返しました。これに命は腹を立て、逃げる鬼八の首を切ると、その首は天に昇りました。
鬼八は首の傷が痛むため、早霜(はやじも)を降らせて人々を困らせました。命は、鬼八の恨みをしずめるため、霜神社を建てて鬼八を祀り、火焚きの行事を始めました。」
火焚神事の日程
期 日 名 称
8月13日 注連卸(しめおろ)し
8月19日 乙女入(おとめい)れ
9月15日 温(ぬく)め綿(わた)入(い)れ
10月16日 乙女揚(おとめあ)げ
10月18日 夜渡(よど)
10月19日 霜神社秋季例祭
10月29日 満願日(まんがんび)
平成18年3月阿蘇市教育委員会現地案内板より
・霜神社(阿蘇市役犬原)
霜神社(しもじんじゃ)は 伝承によれば 阿蘇を開拓された健磐龍命(たけいわたつのみこと)が 鬼八(きはち)の首を切り落とした すると農作物に霜を降らせる祟りがあり これを鎮める為に 阿蘇の中央に位置する役犬原に 御神体を綿に包み 鬼八の霊を祀る霜宮を創建した 御神体の肌を温め霜の害から農作物を守ったので これが火焚き神事の始めとされます
霜神社(阿蘇市役犬原)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
高千穂峡からも近く 高千穂の中心部に鎮座します
高千穂神社(高千穂町三田井神殿)に参着
参道を進み 石段を上がると 拝殿が建ちます
拝殿にすすみます
扁額には 浮き彫りに刻まれた文字 高千穂神社 とあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥 透塀の内 本殿が鎮座します
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
鬼八伝説に由来する 高千穂神社「霜よけの神事”猪々掛祭(ししかけまつり)”」について
高千穂に伝わる 鬼八(きはち)伝承は 阿蘇とは少し違います
鬼八を退治するのは 初代神武天皇の皇兄 三毛入野命(みけいりののみこと)です
伝承は次のようなものです
昔 神様たちが住まわれていた頃
高千穂の二神山の巌谷(いわや)に 鬼八(きはち)という悪い鬼が棲んでいた
里を荒らして 里人は苦しんでいた 山を下りて 鬼ヶ岩に住み付いて 鵜目姫(うのめひめ)を無理矢理に妻にしていた
鬼八が乱暴にしていた高千穂に 三毛入野命(みけいりののみこと)が戻って来た
ある日 三毛入野命が五ヶ瀬川の辺を歩いていると 水面(みなも)に憂いた鵜目姫(うのめひめ)の姿が写っていた
「どうなされた」と尋ねると「鬼八というものに無理矢理に連れられてと 悲しんでおります」と泣いておられた
「それはおつらいですね」
三毛入野命は 鬼八を成敗しようと 数多の家来を連れて攻めると 鬼八の足は速く 山を谷を越えて逃げたが 二神山の巌谷(いわや)に戻ろうとして 遂に倒されたしかし 鬼八は強い霊力があり 亡骸を埋めても 一夜で蘇(よみがえ)った
そこで 三毛入野命は 鬼八の身体を三つに切り分けて 別々に亡骸を埋めたところ 鬼八は蘇(よみがえ)らなかったその場所は「首塚」「胴塚」「手足塚」と云う 今も高千穂にある
しかし その後 里には早霜(はやしも)が降り 作物が育たない
里人は「鬼八の祟り」と恐れ 慰霊祭りをすると 霜が降りるのが 遅くなり作物は良く育つようになった
これが高千穂神社の猪々掛祭(ししかけまつり)となった三毛入野命(みけいりののみこと)に助けられた 鵜目姫(うのめひめ)は 命の妃となり 8柱の御子が生まれた
これが 高千穂の十社大明神〈三毛入野命(みけぬのみこと)と妃神 鵜目姫(うのめひめ)命と八柱の御子神〉です
八柱の御子神は〈・御子太郎(みこたろう)命、二郎(じろう)命、三郎(さぶろう)命、畝見(うねみ)命、照野(てるの)命、大戸(おおと)命、霊社(れいしゃ)命、浅良部(あさらべ)命)〉
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
祭神については 詳らかではないと 記しています
【抜粋意訳】
日向國 式外神 高智保神社
祭神 詳ならず、和名鈔 郡名部 智保
神位
続日本後紀 承和十年(八四三)九月甲辰 日向國 无位(むい)高智保皇神(たかちほのすめかみ)並に奉り授くに 從五位下
日本三代実録 天安二年(八五八)十月廿二日己酉 授くに 日向國 從五位上 高智保神(たかちほのかみ)等從四位上
【原文参照】
高千穂神社(高千穂町三田井神殿)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)