多賀神社(たがじんじゃ)は 創建年代は不明ですが 境内には 古代の祭祀遺跡「上多賀宮脇遺跡」があり 1958年(昭和33年)に発掘調査が実施されて 発掘品から古墳時代から飛鳥・奈良時代の祭祀跡と推定されています 延喜式内社 伊豆國 田方郡 白浪之彌奈阿和命神社(しらなみのみなあわのみことの かみのやしろ)の論社です
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
多賀神社(Taga shrine)
【通称名(Common name)】
・〈江戸時代の旧称〉日少宮(ひのわかのみや)・日野明神
【鎮座地 (Location) 】
静岡県熱海市上多賀741-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冊尊(いざなみのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
多賀神社(熱海市上多賀)の創建年代は不明です
『延喜式』の論社ですので 延喜年間(901~923)には存在していた可能性があります
また 境内には 古代の祭祀遺跡「上多賀宮脇遺跡」があり 1958年(昭和33年)に発掘調査が実施されて 発掘品から古墳時代から飛鳥・奈良時代の祭祀跡と推定されています
延喜年間以前から神聖視されていた霊場であったことがわかっています
祭祀遺跡 磐座(いわくら)
千五百年以前頃の住民が 神々の降臨を仰ぎ 盛大に祭典を行った場所である 現在の社殿を造営するに当たり 磐座に小祠を造り 地主神の台座として保存してあった 昭和三十三年八月国学院大学教授大場磐雄博士 沼津女子高等学校小野真一先生等の指導の下に 当處を発掘し其の出土品を研究調査した結果 白銅鏡一面 祭祀用青銅鏡五面 有孔円盤句王 其の他各種の出土品があつた 祭祀用青銅鏡の発見は 我が国で四番目だったと言われている 依って之を記念す
昭和三十八年七月吉日 多賀神社
現地石碑文より
Please do not reproduce without prior permission.
追記
萬壽四年(一〇二七)六月 多賀神社再建の記録が残されていた 後世 文政十二年(一八二九)棟札に 往古の宮殿に覆殿 中殿(祝詞殿)拝殿を再建の事が明記されており 古き年代の神社再建の歴史を伝えている。
祭礼縁起
往古より隔年の祭礼であったが いつの頃からか毎年(旧暦)六月二十八日に宵祭り(宵宮)二十九日に本祭りとして行われるようになり 今日に至っている 以上
現地石碑文裏面より
Please do not reproduce without prior permission.
【由 緒 (History)】
多賀神社 由来
一 所在地 熱海市上多賀字宮脇
一 祭 神 伊弉諾尊(イザナギノミコト) 伊弉冊尊(イザナミノミコト)
一 神社名の沿革
本神社の由緒についてはあまり詳しくは解っていない 正徳年間(西暦一七一一)に近江(滋賀県)の多賀神社の祭神 伊弉諾尊、伊弉冊尊の二神を勧請し 以後 日少宮(ヒノワカミヤ)と称し 明治六年に多賀大明神と改称するまで一六〇年間 日少宮と唱えられていた
一説に平安朝初期 延寺五年(九〇五)に延喜式神名帳が制定され 宮廷の諸行事の規範とともに神社の位階を定めて 延喜式内社が制定された
静岡県下における式内社は 遠江国六十二社 駿河国二十二社、 伊豆国九十二社となっており その内 伊豆国の田方郡は二十四座の式内社が認められている
この中に上多賀の神社として白波之彌奈阿和命神社(シラナミノミナアワノミコトジンジャ)があるこれは日本神社の研究書として著名な 大日本史神祇志、特選神名牒、伊豆国式社考略、南豆神祇志、豆州志稿、日本地理志稿、静岡県史の七書において 上多賀の多賀神社であることを立証している
かつての昔 白波之彌奈阿知命神社は 通称 阿和神社として また多賀明神として 縄文弥生、古墳時代の祭祀遺跡のある地 宮脇の聖地に祭られ 古い伝承や神事があることなど多賀の氏神として尊崇されてきた平成八年七月吉日 多賀神社
現地石碑文より
Please do not reproduce without prior permission.
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・〈本殿の奥〉上多賀宮脇遺跡(かみたがみやわきいせき)
〈1958年(昭和33年)に発掘調査実施〉古墳時代から飛鳥・奈良時代の祭祀跡と推定される
Please do not reproduce without prior permission.
・多賀神社 社殿〈拝殿・幣殿・本殿覆屋〉
Please do not reproduce without prior permission.
・多賀神社 拝殿
Please do not reproduce without prior permission.
・〈本殿向かって右横 境内社〉8社合殿
天神社 日月社 山神社 水神社 八幡社 稲荷社 金山社 三峯社
Please do not reproduce without prior permission.
・〈本殿向かって左 境内社〉祖子社
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
・〈社殿向かって左〉御神木クスノキ
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
・二の鳥居
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
・一の鳥居
Please do not reproduce without prior permission.
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆國 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田方郡 24座(大1座・小23座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 白浪之彌奈阿和命神社
[ふ り が な ](しらなみの みなあわのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shiranamino mina awanomikoto no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 伊豆國 田方郡 白浪之彌奈阿和命神社(しらなみのみなあわのみことの かみのやしろ)の論社について
・多賀神社(熱海市上多賀)
多賀神社(たがじんじゃ)は 創建年代は不明ですが 境内には 古代の祭祀遺跡「上多賀宮脇遺跡」があり 1958年(昭和33年)に発掘調査が実施されて 発掘品から古墳時代から飛鳥・奈良時代の祭祀跡と推定されています 延喜式内社 伊豆國 田方郡 白浪之彌奈阿和命神社(しらなみのみなあわのみことの かみのやしろ)の論社です
多賀神社(熱海市上多賀)〈『延喜式』白浪之彌奈阿和命神社〉
・下多賀神社(熱海市下多賀)
下多賀神社(しもたがじんじゃ)は 『豆州志稿』に「多賀両村の總鎮守にして大祠也 末社四十ありしを 皆 近村に移す」とあり 近隣の崇敬を集めた由緒深い神社で もともとは多賀大社と云うと里人は伝え 延喜式内社 伊豆國 田方郡 白浪之彌奈阿和命神社(しらなみのみなあわのみことの かみのやしろ)の論社となっています
下多賀神社(熱海市下多賀)〈『延喜式』白浪之彌奈阿和命神社〉
・大瀬神社(沼津市西浦江梨)
大瀬神社(おおせじんじゃ)は 白鳳十三年(684)大地震で 土佐国で多くの土地が海中に没し 当地では突然 盛り上がり島が誕生した 土佐国から土地を引いてきた伝説もあり その神霊(引手力命)を祀った 延喜式内社 伊豆國 田方郡 引手力命神社(ひきたちからのみことの かみのやしろ)とも 白浪之彌奈阿和命神社ともされます
大瀬神社(沼津市西浦江梨)〈『延喜式』引手力命神社・白浪之彌奈阿和命神社〉
・淡島神社〈厳島神社〉(沼津市内浦重寺淡島)
・多賀神社(三島市谷田)
多賀神社(たがじんじゃ)は もと三嶋大社 摂社の一つで田川神社とも田河とも称されました 2つの式内社〈・石徳髙神社(いはとくのたかの かみのやしろ・劔刀乎夜尓命神社(けむとをやにのみことの かみのやしろ)〉の論社で 又 白浪之彌奈阿和命神社(しらなみの みなあわのみことの かみのやしろ)との説もあります
多賀神社(三島市谷田)〈『延喜式』石徳髙神社・劔刀乎夜尓命神社〉
・大朝神社(沼津市下香貫)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR伊東線 伊豆多賀駅から北西方向へ約750m 徒歩11分程度
多賀神社には 祭神が海から漂着したとの口伝があります
御祭神は 最初 海からやって来たと云う 多賀神社の南 戸又海岸に神(木像の神像とも伝える)が漂着されたので 里人は青草を刈り 海岸に敷き 小麦の強飯を捧げ奉り 神にお休み頂いた その後 現在の多賀神社の位置まで御供して(その道順は現在の「神の道」)奉祭したのが神社の始まりと云う
神が漂着の場所が 現在の戸又海岸です
写真の右にある三角錐の山が標高227mの向山で 一説によると 往古 その山中に゛山王の祠゛があり 近世になって 日の御影と呼ばれる木像が浜に流れ着いたため 山王の祠を 現在の場所〈向山の麓〉に遷し 伊弉諾尊・伊弉册尊の二柱を祀ったと云います
Please do not reproduce without prior permission.
多賀神社(熱海市上多賀)に参着
Please do not reproduce without prior permission.
社頭には社号標があり゛多賀神社゛と刻字されています
鳥居は 一の鳥居と二の鳥居の二連 鳥居の扁額には゛多賀神社゛
一礼をして二連の鳥居をくぐります
Please do not reproduce without prior permission.
境内にはクスノキなどの大木があり 歴史を感じます
Please do not reproduce without prior permission.
拝殿にすすみます
Please do not reproduce without prior permission.
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
Please do not reproduce without prior permission.
社殿の向かって右側には 8社合殿の境内社〈天神社 日月社 山神社 水神社 八幡社 稲荷社 金山社 三峯社〉が祀られています
Please do not reproduce without prior permission.
社殿の向かって左側には 境内社があり その奥には゛上多賀宮脇遺跡(かみたがみやわきいせき)゛があります
社殿の向かって左手前の大木は 御神木のクスノキ です
Please do not reproduce without prior permission.
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 白波之彌奈阿和命神社について 所在は゛シケテラ村に在す゛〈現 淡島神社〈厳島神社〉(沼津市内浦重寺淡島)〉と記しています
【抜粋意訳】
白波之彌奈阿和命神社
白波之は 志良奈美乃と訓べし、枕詞也、」彌奈阿和は假字也、
○祭神明か也
○シケテラ村に在す、〔國圖〕 例祭
考証云、今伊豆権現下宮、去に上宮五町許在に海濱、故呼曰に濱宮
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 白波之彌奈阿和命神社について 所在は゛今 下多賀村にあり、多賀神社と云、゛〈現 下多賀神社(熱海市下多賀)〉と記しています
【抜粋意訳】
白波之彌奈阿和命(シラナミノミナアワノミコトノ)神社
今 下多賀村にあり、多賀神社と云、〔式社考証、足柄縣式社取調書〕
〇按 一説、多賀は彌奈阿和の字音、皆 淡を顚倒して、タムカイと云ひしがタガと轉りしにて、白波は水淡の冠辞なりと云り、
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 白波之彌奈阿和命神社について 所在は゛上多賀村(田方郡多賀村大字上多賀)゛〈現 多賀神社(熱海市上多賀)〉と記しています
他の説として
゛君澤郡重寺村の處に記され 延喜式攷異に案國圖有彌奈阿波島と見えたるが此村 海中に淡島と云 一巖島有て頂上に辨天゛〈現 淡島神社〈厳島神社〉(沼津市内浦重寺淡島)〉
゛駿河國駿東郡 香貫村に在て豆志に大朝神社なりと云る社゛〈現 大朝神社(沼津市下香貫)〉
゛君澤郡谷田村小山鎭座 多賀明神ならむか゛〈現 多賀神社(三島市谷田)〉
【抜粋意訳】
白波之彌奈阿和命(シラナミノミナアワノミコトノ)神社
祭神
祭日
社格 (明細帳 上多賀村なし 谷田村に多賀神社あり右ならんか無社格)(村社)所在 上多賀村(田方郡多賀村大字上多賀)
今按 式社攷證に國圖に君澤郡重寺村の處に記され 延喜式攷異に案國圖有彌奈阿波島と見えたるが此村 海中に淡島と云 一巖島有て頂上に辨天と稱する小社ありと云ひ
又 一説に駿河國駿東郡 香貫村に在て豆志に大朝神社なりと云る社ならむか 其は神階記にタムカイの明神有て 此海濱の舊地名タムカイと云し山なれば 此なるべきか
又 君澤郡谷田村小山鎭座 多賀明神ならむか 豆志に多賀神社 又田川神社と稱す 田河は多賀也 神階記に所謂タムカイは 美奈阿和を轉倒して字音に唱たる稱なるが 現今 當社の神名を或はタムガと稱し 或は田川と稱するは 皆タムカイの轉訛と聞ゆ 斯て神號の白波は彌奈阿和へ係る冠辞 彌奈阿和は 御社の川流近く鎭座なるより 例の實地の形勝に因て負せたる也と云るなど 何れも明證と云難し
又 上多賀村鎭座 多賀神社には非じかと思ふ因(ヨシ)有り 村名の多賀は神名より出 神名の多賀は彼タンカイより起たる稱と思はれ 社地の海濱に近きと海上より憑來玉へると云 社傳の白波云々の神號に合ひ
又 寛永の上梁文に祭神を阿波命神社と記したる小緣(オホロケ)ならず聞ゆと云るはいと由あり 縣の註進狀にも此地と定めたれば今之に從ふ
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
多賀神社(熱海市上多賀)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る
伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豆国には 92座(大5座・小87座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
伊豆國 式内社 92座(大5座・小87座)について