多田神社(ただじんじゃ)は 『延喜式神名帳』では若狭国遠敷郡の筆頭に挙げられる「多太神社(Tata no kamino yashiro)」の比定社です 元は 多田大明神 多田明神 多太明神社と呼ばれていました 「社伝に 天平神護二年(766年)創建すと傳ふ」と記されている古社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
多田神社(Tada Shrine)
(ただじんじゃ)
【鎮座地 (location) 】
福井県小浜市多田16宮ノ下9
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴命(onamuchi no mikoto)
《配》應神天皇(ojin tenno)
【御神格 (God's great power)】
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
「社伝に 天平神護二年(766年)創建すと傳ふ」
⑧多田寺・多田神社 未指定 史跡指定予定
資産の概要
若狭国遠敷郡筆頭の多太(多田)神社は、多田ヶ岳を神体として成立したと考えられ、多太(多田)寺はその神宮寺の可能性が高い。
多田寺には奈良期の仏像を多く伝え、創建の僧「勝行」との関連も指摘されており、わが国の初期神仏習合の成立との関連が深い。世界遺産 暫定一覧表記載資産候補提案書 2007福 井 県
―提案資産名―「若狭の社寺建造物群と文化的景観」―神仏習合を基調とした中世景観 https://www1.city.obama.fukui.jp/file/page/400/doc/4.pdf
【由 緒 (history)】
神仏習合・仏教の展開
〇 奈良時代以前
縄文時代から続く自然崇拝は、農耕生活の普及と地域共同体の形成過程の中から、清浄な不入の聖地として姿の美しい山や印象的・象徴的な山を信仰の対象とする神体山信仰として全国的に成立していく。
若狭では『延喜式』に挙げられる若狭国遠敷郡の筆頭の多太神社や若狭比古神社などが山麓に創建されていることから、前代から多太山(多田ヶ岳)が地域でもっとも信仰される神体山であったことが考えられる。すでに、弥生時代以降、多田ヶ岳周辺には多くの人々が居住し生活を営んでいたことが遺跡の調査や立地などから明らかである。この居住や生産に最も影響を与える洪水などの気象の変化は、山に宿る荒ぶるカミの仕業とされ、これを鎮める祭祀からの成立も考えられる。
また、小浜湾から望む多田ヶ岳は三角錐の最も秀麗な山容を示しており、日本海を行き交う人々や海外の人々からも特別視された山であったことが想定される
継続審議案件の検討状況報告書
「若狭の社寺建造物群と文化的景観」― 神仏習合を基調とした中世景観
2007福井県・小浜市 https://www1.city.obama.fukui.jp/file/page/400/doc/3.pdf
【境内社 (Other deities within the precincts)】
本殿向かって右の合祀社
・天照皇太神宮(Tenshokotai jingu)
《主》天照皇太神(amaterasu omikami)
軻遇突如神(kagutsuchi no kami)
素戔嗚尊(susanowo no mikoto)
本殿向かって左
・山乃神社(Yamanokami Shrine)
祭神不詳 The enshrined god is unknown.
・八幡神社(Hachiman Shrine)
祭神不詳 The enshrined god is unknown.
・六所神社(Rokusho Shrine)
祭神不詳 The enshrined god is unknown.
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)若狭国 42座(大3座・小39座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)遠敷郡 16座(大2座・小14座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 多太神社
[ふ り が な ](たたの かみのやしろ)
[How to read ](Tata no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
「多太(多田)神社」の神宮寺である可能性の高い「多田寺の創建時期」について
多太(多田)神社の南隣にある 多田寺の創建は
天平勝宝元年(749年)に第46代孝謙天皇の勅願によって勝行上人が創建したと伝えられます
多田神社の創建とされる天平神護二年(766年)とは僅かに17年の差です
多田神社と多田寺は 深い関係にあったであろう事は 容易に推測ができます
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
東小浜駅から R27号経由 約1.8km 車5分程度
日も暮れて 辺りは暗闇の中
多田神社(Tada Shrine)に到着
カメラのバッテリー不足フラッシュの調子が悪く 車のヘッドライトで照らしながらの撮影でした 境内入り口のみの撮影出来ました
社号標には「式内 多田神社」とあります
狛犬が座し 注連縄の架かる木製の鳥居が建ちます
一礼して鳥居をくぐります
参道の階段を進みます
ここから先は撮影が出来ていません
覆屋の中に鎮座する本殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
参道を戻り 社殿に振り返り一礼をします
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『若狭遠敷郡誌(wakasa oniyugun shi)』 1922(大正11)に記される伝承
「社伝に 天平神護二年(766年)創建すと傳ふ」と記されています
多田神社
村社にして同村多田字宮ノ下にあり、元 多田大明神 多田明神 多太明神社と称す、
祭神は 大己貴命にして
社紀に 天平神護二年創建すと傳ふ、
延喜式に多太神社とあり、本国神階記に従二位多太大明神 康和五年六月卜部兼良の奏文に若狭国多大神とあり、神名帳考證には埴安神云云とあり、
境内に
天照大御神社あり、祭神は天照皇太神・軻遇突如神・素戔嗚尊なり、
山ノ神社 祭神不詳は明治四十二年字池町より合併
八幡神社 祭神不詳は同年字若宮より合併
六所神社 祭神不詳は同年字宿石より合併す。
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『若狭遠敷郡誌』著者: 遠敷郡教育会 編; 出版者: 帝国地方行政学会; 出版年月日: 1922(大正11)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876697
多田神社(Tada Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』では
同じく若狭国遠敷郡に所載される 若狭一の宮の2つの神社
若狭彦大神(Wakasahiko no okami)を祀る
若狹彦神社 上社(Wakasahiko Shrine Kamisha)の記事をご覧ください
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若狹彦神社 上社(小浜市)
若狹彦神社は 上社「若狭彦神社」と下社「若狭姫神社」の総称で 2つの神社で若狭国の一宮とされています 上社「若狭彦神社」は 和銅7年(714年)今の遠敷郡下根来村白石に創られたと云われ 霊亀元年(715年)に現在の地に遷座しました 下社「若狭姫神社」は 上社から北1.5kmの遠敷(onifu)の里にあり 6年の後の養老5年(721年)の鎮座と伝わります
若狭姫大神(Wakasahime no okami)を祀る
若狹姫神社 下社(Wakasahime Shrine)の記事をご覧ください
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若狹姫神社 下社(小浜市)
若狹姫神社 下社は 若狭彦神社 上社と2社で一つの神社「若狭国一の宮」とされています 上社「若狭彦神社」は 和銅7年(714年)に今の遠敷郡下根来村白石に創られたと云われ 霊亀元年(715年)に現在の地に遷座しました 下社「若狭姫神社」は 上社から北1.5kmの遠敷(onifu)の里にあり 6年の後の養老5年(721年)の鎮座と伝わります
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若狭国(わかさのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 若狭国には 42座(大3座・小39座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
若狭國 式内社 42座(大3座・小39座)について