実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

須山浅間神社(裾野市須山)

須山浅間神社(すやませんげんじんじゃ)は 古くより「富士山」を神体として仰ぎ 度重なる噴火とも関連して 山麓に浅間神社を祀り 岳神の霊を慰め奉ったのが始まりとされます 遅くても 大永4年(1524)には存在していたことが 現在残る棟札から確認されています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

浅間神社Sengen shrine

 [通称名(Common name)]

須山浅間神社(すやませんげんじんじゃ)

【鎮座地 (Location) 

静岡県裾野市須山柳沢722

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

《配》天津彦火瓊々杵命(あまつひこほににぎのみこと)
   天津彦火々出見命(あまつひこほほでみのみこと)
   大山祇命(おやまみのみこと)
   天熊大人命(あめのくまうしのみこと)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・富士山 世界文化遺産 構成資産

【創  (Beginning of history)】

南口下宮 須山浅間神社

祭神
 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

相殿
 天津彦火瓊々杵命(あまつひこほににぎのみこと)大山祇命(おおやまみのみこと)
 天津彦火々出見命(あまつひこほほでみのみこと)
 天熊大人命(あまくまうしのみこと)

由緒
 当社は往古富士山東口の社であったが、後に登山道の増設に伴い 南口登山道の冨士浅間の下宮(しものみや)として祭られた。
社伝によると人皇十二景行天皇の御代(一一〇)日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐(とういせいばつ)の時、奇瑞(きずい)により創祀そうしされたとある。

其の後、欽明天皇の御代(五五二)に曽我稲目が再興し 天元四年(九一)には平兼盛が修理奉幣している。
何れにしても古くから山岳信仰として「富士山」を御神体として仰ぎ奉っており、当時の度重(たびかさ)なる噴火とも関連し山麓に浅間大神を祭り、岳神の霊を慰め奉ったのが始まりと思われる。

武門の崇敬も篤く、源頼朝を始め武田信虎勝頼、今川家代々の戦勝祈願から、徳川時代になると小田原城主より毎年奉幣がされていた。

舊除地三反十三歩を有し、明治八年郷社に列し、同四十年には神饌幣帛料共進社に指定された。
境内には、五百有余年の老杉がうつ蒼として幽邃を極め神社庁の御神木に指定され、裾野市の文化財指定にもなっている。

祭日
 春祭り 四月十七日 秋祭り 十一月二十三日

神事
 元旦祭 一月一日
 開山式 七月一日     閉山式 八月三十一日
 大禊式 十二月三十一日
平成九年六月吉日 富士山須山口登山道保存会

現地案内板より

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浅間(せんげん)神社

鎮座地 裾野市須山柳沢七二二
御祭神 木花開耶姫命・外四柱
例祭日 四月十七日・十一月二十三日

由緒
当社は往古、富士山東口の社なるも登山道増設に伴い南口富士浅間の下宮として奉斎された。東海道本線開通までは登山参拝者多く、
社伝に、「第十二代景行天皇の御代、日本武尊東夷征伐の際、奇瑞により創祀せり」とある。後に欽明天皇の御代、蘇我稲宿禰が本社を再興した。天元四年九月、駿河国司、平兼盛は修理奉幣し、文治二年源頼朝戦勝を祈願し、武田・今川・徳川氏の崇敬篤かった。

境内案内板より

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【由  (History)】

須山浅間神社の由緒

 当社は往古富士山東口の社であったが、後に登山道の増設に伴い南口登山道の冨士浅間の下宮として祀られた。社伝によると日本武尊が蝦夷征伐の際、創祀されたとある。その後、蘇我稲目が再興し、平兼盛が修理奉納している。
 いずれにしても古くから山岳信仰として「富士山」を御神体として仰ぎ奉っており、度重なる噴火とも関連し、山麓に浅間大神を祀り、祭神の霊を慰め奉ったのが始めと思われる。
武門の崇敬も篤く源頼朝を始め、武田信虎・勝頼、今川家代々の戦勝祈願から、徳川時代になると小田原城主より毎年奉幣があった。
 神社は、舊除地三反十三歩を有し、明治八年郷社に列し、同四十年には神饌幣帛料共進社に指定された。
 境内には、五百有余年の老杉がうつ蒼として幽邃を極め神社庁の御神木に指定され、裾野市の文化財指定にもなっている。また平成二十三年二月には国の史跡に指定された。
渡邊徳逸撰文

現地石碑より

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御由緒

当社は往古富士山東口の社であったが、後に登山道の増設に伴い、南口登山道の冨士浅間の下宮として祭られた。社伝によると日本武尊が東夷征伐の時、奇瑞により創祀され、其の後曽我稲目が再興し、平兼盛が修理奉納したとある。武門の崇敬も篤く、源頼朝を始め武田信虎・勝頼、今川家代々の戦勝祈願、徳川時代になると小田原城主より毎年奉幣がされていた。

静岡県神社庁HPより

【境内社 (Other deities within the precincts)】

・御神木

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

社伝に 登山道の増設に伴い南口登山道の冨士浅間の下宮として祀られた とあります

・富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)駿河国一之宮

一緒に読む
富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)

富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は 第7代 孝霊天皇の時 富士山の噴火で国内が荒れ果てた この山霊を鎮祭する為 第11代 垂仁天皇が 浅間大神を山足の地に祀ったのが創祀 第12代 景行天皇の時には 日本武尊が 山宮の地に大神を祀り 大同元年(806)には 坂上田村麿が勅命に依り 社殿を現在の大宮の地に造営し 神霊を遷座した東海最古の名社です

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

現在の社殿は 文政6年(1823)再建 拝殿は 平成25年(2013)改修

社伝には 神代あるいは 第12代景行天皇御世40年(110)日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷征伐(えみしせいばつ)時 この地淺間大神祀り 更に欽明天皇13年(552)に蘇我稲目が再興したとあります

古くより「富士山」を神体として仰ぎ 度重なる噴火とも関連して 山麓に浅間神社を祀り 岳神の霊を慰め奉ったのが始まりとされ

天元4年(981)には平兼盛が神社を修理
武門からの崇敬も厚く 建久4年(1193)この地で巻狩をした源頼朝を始め 武田信虎・勝頼、今川家代々の戦勝祈願 徳川時代になると小田原城主より毎年弊帛が贈られています

何回か修理があり 現在残る棟札の内 社殿の棟札2枚のうち1枚は 大永4年(1524)と判読され 他の文面は判読できない 遅くても 大永4年(1524)には存在していたことが確認されています

 【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産として 世界文化遺産に登録されています

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世界遺産 富士山
信仰の対象と芸術の源泉

世界遺産として登録された範囲は、山そのものだけではなく、信仰や芸術と関係する山麓の神社や湖・湧水地・滝・松原などの25カ所です。

5/25
須山浅間神社 Suyama Sengen-Jinja Shrine

須山口登山道の起点となる神社で、富士山の東南麓において、登拝に重要な位置を占めていたことが知られています。古代から近代現代に至る山岳信仰のあり方を考える上で重要であることから、八合目以上の山頂部、登山道等とともに史跡に指定されています。

現地案内板より

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須山口 登山道の変遷について

興准后 歌碑

富士山登山道として須山口が歴史上に現われたのは鎌倉時代 正治二年(一二〇〇)富士宮浅間神社 権宮司 大炊頭定隆が書いた記録「末代証據のため三ヶ村立合書」「東口珠山(須山)」と記されているのが最初と伝えられています
その後須山が文献に出てくるのは道興准后の「廻国雑記」の中です。
道興准后は京都聖護院の門跡を持ち、歌人としても有名で、室町幕府の文明十八年(一四八六)に日本海側の国々から関東の国々を巡り、相模から箱根山を超えて三嶋に入り、あしたか山をながめながら、かつら山を超えて真冬の須山口を訪れたと「廻国雑記」にあります。
その時次の一首が詠まれています。

すはま口といふより ふじのふもとにいたりて 雪をかきわけて

よそにみし ふしのしら雪 けふ分ぬ 心のみちを 神にまかせて

 この様に すはま口と言う言葉を使って富士山須山口登山道を紹介しています。
 尚、連歌師で有名な宗祀とは連衆(仲間)でした。

平成十五年七月 財団法人 須山振興会

現地案内板より

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世界文化遺産登録名称「須山浅間神社」は 須山口登山道の起点となった浅間神社の意

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富士山 須山口 登山歩道

 須山口登山道は、世界遺産構成資産の須山浅間神社を起点とし 山頂部に至った登山道です
文献によると室町時代には使用されており 宝永の大噴火(1707年)より登山道の中間部分が吹き飛ばされましたが 1780年には復興 1800年の御縁年には5.398人登山者を集めました
しかし 明冶時代に須山口の二合八勺に合流する御殿場口が開設され 須山口利用者は減少し さらに登山道の一部が旧陸軍演習場となると通行自体ができなくなりました

 現在の須山口登山歩道は 平成9年から平成11年にかけて 地元須山の人たちが再興したものです

 かつての須山口の二合八勺(標高2080m)から山頂にいたる登山道(現御殿場口登山道)と須山御胎内周辺から幕岩上までの遊歩道が 須山口登山道として構成資産(世界遺産としての登録資産)の範囲となっています

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR御殿場線 岩波駅から 県道24号経由 北西へ約9.2km 車15分程度

須山の町の北側を流れる用沢川の対岸に鳥居が建ちます

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用沢川を渡る朱色の欄干ある橋を渡ります

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川沿いに参道があり 社頭へと出ます

須山浅間神社(裾野市須山)に参着

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社号標二つ「史跡富士山 須山浅間神社」「郷社 淺間神社」

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一礼をして 鳥居をくぐると 杉の老木が立ち並ぶ 右手には手水舎

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狛犬が構える中石段を上がります

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石段を上がると 砂利が敷き詰められた境内に社殿が建ちます

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拝殿にすすみます
扁額には 淺間神社 と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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境内には 授与所 手水舎 や お堂があります

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かたわらの看板には

世に汚隆有り 野に賢有り

汚隆齋しく 岳蓮を仰ぐ

高高師表 岳蓮に在り

猶且雄姿 齋天を待つ
          犀東

世の中には、いろいろの人がいるが、誰でも日本の美しい自然の象徴たる富士山を仰いでいる。最高のお手本は、富士山である。
一層の発展を期待して止まない。と富士山を対象にした郷土開発を激励された作品である。

裾野市立 富士山資料館

現地看板より

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富士山への愛にあふれた境内

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

社伝に云う「人皇十二代景行天皇御宇、日本武尊、討蝦夷時 云々」とは 固(もと)より信ずるに足らず と記しています

【抜粋意訳】

○静岡縣 駿河國 駿東郡須山村大字須山字柳沼

郷社 淺間(アサマノ)神社

祭神 木花開耶姫(コノハナサクヤヒメノ)

相殿 天津彦火瓊々杵(アマツヒコホノニニギノ
   天津彦火々出見(アマツヒコホホデミノ
   大山祇(オホヤマツミノ)命
   天熊大人(アメノクマノウシノ)命

当社は所謂富士南口の下宮なし、一に富士浅間とも称せり、創立年代詳ならず、但し、慶長三年五月、大禰宜 渡邊安古手記の社記に云く、

「当社者、人皇十二代景行天皇御宇、日本武尊、討蝦夷時、暫時屯于此依奇瑞所祭・・・云々」

固(もと)より信ずるに足らず、今明細帳に、正治三年の創立、大永四年再建棟札在すとせり、当社には、年暦不詳八月十七日の武田信虎の願文、及天正七年二月二日の、安西平右衛門尉安臣の心願書を蔵し、又天正七年十二月の、武田勝頼の文書をも蔵せるが、天正十八年十二月二十八日、豊臣秀吉朱印、杉田郷安臣領三十四石寄進云々の文書あり、後ち徳川幕府となり、除地三反十三歩を附せられき、明治八年二月郷社に列す。

社殿は本殿.爾覆.拝殿.其他神饌所.社務所、神輿庫等を具備し、境内は一千一百九十六坪(官有地第一種)あり。

境内神社 八幡(ヤハタノ)神社

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

須山浅間神社(裾野市須山) (hai)」(90度のお辞儀)

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富士山 世界文化遺産 構成資産と浅間神社 の記事を見る

一緒に読む
富士山 世界文化遺産 構成資産 と 浅間神社について〈Fuji World Heritage Sites and Sengen Shrine〉

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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