住吉神社(すみよしじんじゃ)は 『日本書紀』に記される 神功皇后が三韓征伐より凱旋の折 神託を得て 住吉三神の荒魂(あらみたま)を穴門 山田邑(現在地)に奉斎したとこれが住吉神社の起こりとされます 式内社 住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)(すみよしにゐますあらみたまの かみのやしろ みくら)・長門国一之宮です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
住吉神社(Sumiyoshi shrine)
[通称名(Common name)]
・住吉荒魂本宮(すみよしあらみたまほんぐう)
・住吉さん
【鎮座地 (Location) 】
山口県下関市一の宮住吉1丁目11-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
第一殿
《主》住吉三神荒魂(表筒男命・中筒男命・底筒男命の荒魂を祀る)
第二殿 応神天皇(おうじんてんのう)
第三殿 武内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)
第四殿 神功皇后(じんぐうこうごう)
第五殿 建御名方命(たけみなかたのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・祓の神・産業興降・水陸交通の神・開運長寿の神・また文道風月の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社 名神大社
・ 長門国一之宮
・ 旧 官幣中社
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
長門一宮 住吉神社
御祭神 (本殿向って左から拝しまつる)
第五殿 建御名方命(たけみなかたのみこと)
第四殿 神功皇后(じんぐうこうごう)
第三殿 武内宿祢命(たけうちのすくねのみこと)
第二殿 応神天皇(おうじんてんのう)
第一殿 住吉大神・荒魂〈主神〉(すみよしのおおかみ・あらみたま)御由緒
今から一七八四年前、住吉大神の御神託により、神功皇后が現在地に、その『荒魂』を鎮祭され、爾来、延喜式内・名神大社、長門国一宮、国幣中社(明治四年)、官幣中社(同四十四年)、神社本庁別表神社(昭和二十二年)として現在にいたる。
拝殿には『住吉荒魂本宮』の懸額がある。御神徳
『荒魂』とは、積極果敢に物事を成就させ給う御神威の顕現(お示し)であり、古来特に勝神としての信仰が強く、交通安全、(新車祓) 海上安全、厄祓、清祓等の祈願が多く、(特有性)家内安全、商売繁昌、五穀豊穣、 学力向上、当病平癒等はもとより(通有性)こうした『進路守護』の御神徳は、何時の世も高く仰がれるところである。祭 典(主なるもの)
和布刈祭・旧元旦 御田植祭・五月第三日曜日
神幸式・九月秋分の日 河渡祭・十二月十五日
御齋祭・十二月八日~十四日 例祭・十二月十五日
御社殿 本殿(国宝) 拝殿(重文)外 別掲
宝 物 銅鐘(重文) 唐鞍(重文)外 別掲
社 叢 八〇余種の樹林(県指定) 別掲現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
住吉大神は神代の昔、伊弉諾尊が、筑紫の日向の小戸の橘の阿波岐原で禊除をされ、黄泉国の穢れをお清めになった時、出現された神であります。
仲哀天皇の9年、神功皇后さまが新羅国を征討されるため、自ら神主となって斎宮に入り、天神地祇に戦勝をご祈願になった時、再びあらわれて、「吾和魂は玉身に服いて寿命を守り、荒魂は先鋒となりて師船を導かん」とお教えになりました。
皇后さまはその神託のまにまに進軍し、ご神助のもと、刃に血ぬらさずして新羅をご征討、続いて高麗、百済の両国をも降伏させて凱旋されました。凱旋ののち、「吾荒魂を穴戸の山田邑(現在地)に祀れ」との御神誨を仰ぎ、神恩奉謝のため、この地に祠を立てて、住吉三神の荒魂をお祀りになり、穴戸直の祖践立を神主として奉仕させられました。これが住吉神社の起こりであります。
下って醍醐天皇の延喜の御代、式内社として名神大社に列し、続いて長門国一の宮と仰がれ明治の御代に及び、同4年に国幣中社に列格、同44(年官幣中社にご昇格になりました。
戦後は制度が改まり、神社本庁所属の別表神社として、そのご神威はいよいよ高く、ご神徳はますます赫々で、お祓の神、産業興降、水陸交通の神、開運長寿の神、また文道風月の神として霊験いちじるしく、上下一般の広く深い崇敬をおうけになっております。
海遠く月をも西にあふぎつつ 筒の男の神の昔をぞ思ふ(藤原季種)
うき雲のおひ風まちて天の原 神代に照らせ日のひかりみむ (今川貞世)
やはらげる光もらすなしらなみの 檍原にいでし月影( 同 )
以上の信仰は神代より上代中世を通じて、現在に至るまで、絶えることなく、強く生き続けております。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
由緒
当社は、延喜式に載せる名神大社で、のち、長門國一宮を称しているが、古く仲哀天皇の御きさき、神功皇后の創祀。仲哀天皇の崩御は、天皇が神の教えを信じなかったためで、皇后の征韓は神の教えに従われた結果であった。凱旋の時、再び神から「吾が荒魂を穴門の山田村に祀れ」との神誨をうけられた。そこで、神恩奉謝のために、この地に祠を立てて三神の荒魂を祀られた。これが当社の起源である。
『西暦200、日本書紀』。伊弉諾大神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で、禊ぎ祓いされ、住吉の大神が出生されたことにより、古来住吉の大神が禊ぎ祓いの神として、朝野の厚い崇敬をお受けになっている理由から、厄除け・方位除(進路守護)、海上・交通・工事安全、家内安全、安産・初宮詣・初誕生祭・七五三詣、合格、年祝い、商売繁昌、社運隆昌、心願成就、病気平癒、出向祭典の地鎮祭、竣工・開所・家祓など広く祈願を午前8時30分から午後4時まで予約不要で受付。神前結婚式は重要文化財の拝殿と冷暖房完備の儀式殿の二つの挙式場がある。(結婚式・出向祭典は事前予約)。また、御神符・お守りも願意に副って120種。荒魂とは積極果敢に物事を成就させ給う御神威の顕現(お示し)であり、古来特に勝神としての信仰が強く、進路守護の御神徳は何時の世も高く仰がれるところである。
古くから多くの文化人の崇敬を集め、有名な中世の歌人宗祇の「新撰菟玖波集」をはじめ、「銅鐘、住吉神社法楽百首和歌、金銅牡丹唐草透唐鞍」(重要文化財)など40点を宝物館に保管(休館日、旧暦元旦、5月第三日曜日、9/23、12/8から12/15、年末年始)
現在の本殿(国宝)は応安3年(1370)に大内弘世の寄進、拝殿(重文)は天文8年(1539)に毛利元就が奉建。
また、本社東に境内摂社の蛭子社(事代主神)、若宮神社(穴門直践立命)、境内末社の田尻社(山田大宮司家祖神)、七社(伊勢・八幡・加茂・春日・松尾・平野・稲荷の京都七社)、稲荷社(宇賀の御魂神)、 高元社(須佐之男命)、本社北に采女社(山田家祖先のうちの女神)、本社西に検非違使社(火須勢理命)、本社南に嚴島社(市杵嶋姫命・田心姫命・湍津姫命)、
境外末社が本社西に天神社(菅原道真公)、本社東に打下社「貴船社を合祀」(猿田彦命・高龗神・大歳神・菅原道真公)、がある。
住吉神社の境内を覆いつくすように生い茂る樹林は住吉神社社叢として、古来より神域として崇められ保護されてきた。(昭和28年、山口県天然記念物に指定)敬神婦人会・氏子青年会の崇敬団体も有り、希望者は入会可。兼務社は下関市内一覧表の住吉神社の下記7社)山口県神社庁HPより
国宝(建造物)住吉神社本殿
重要文化財(建造物)住吉神社拝殿
国宝(建造物)住吉神社本殿 一棟
九間社流造、正面五ヵ所千鳥破風附、檜皮葺
附 玉殿5基、棟札4枚昭和二十八年十一月十四日指定
応安(おうあん)三年(1370)長門国守護(ながとこくしゅご)大内弘世(おおうちひろよ)が再建、以後、何度も修理が施されていますが、再建当時の室町初期の神社建築様式をよく留めています。
祭神を祭る本殿は、一間社流造の五つの社殿を相の間(あいのま)で連結した九間社流造の様式を採っていますが、正面に千鳥破風が設けられ、流造としては異例です。身舎(もや)側面は一間で、正面には浜床(はまゆか)および浜縁(はまえん)が取りついています。
また、組物、軒廻り、蟇股(かえるまた)(一部後補)などの構造意匠は非常にまとまりがよく、優れています。重要文化財(建造物)住吉神社拝殿 一棟
桁行三間、梁間一間、一重、切妻造、妻入、檜皮葺
昭和二十九年九月十七日指定
天文八年(1539)、安芸国(広島県)の戦国大名毛利元就(もうりもとなり)が建立した、四方吹放ちの建物です。木鼻(きばな)、蟇股、組物などの細部手法に創建時の特徴が見られます。
この種の拝殿を縦長に配置する例は少なく、本殿とともに貴重な文化財です。山口県教育委員会 下関教育委員会
現地案内板より
・御神橋
・随神門
・随神門内の随神像〈鎌倉時代の作〉
・随神門天井方位盤
・正面の鳥居
・西側の鳥居
【境内社 (Other deities within the precincts)】
東側の境内社へは 東門から進みます
〈本社東〉三社合殿〈・七社・蛭子社・若宮神社・田尻社〉と高元社
境内摂社・蛭子社《主》蛭子神・事代主神
境内摂社・若宮神社《主》穴門直践立命
境内末社・七社(伊勢・八幡・加茂・春日・松尾・平野・稲荷の京都七社)
《主》伊勢神,八幡神,加茂神,春日神,松尾神,平野神,稲荷神
境内末社・田尻社《主》山田大宮司家祖神
境内末社・ 高元社《主》須佐之男命
〈本社東〉境内末社・稲荷社《主》宇賀御魂命《配》大宮乃売命・猿田彦命
稲荷神社由来
御祭神 宇迦逎御魂尊 猿田彦命 大宮賣命
祭日 十月第一亥の日
当社は天保十年(1839)総本社、伏見稲荷大社より勧請
勝山村大字楠乃字上山に祭祀される。
昭和六年(1931)九月移転 住吉神社境内に鎮座。
平成十五年(2003)旧来により本殿拝殿造込朱塗瓦葺入母屋破風造として新築す。立札より
・武内宿禰命(たけうちすくねのみこと)お手植の楠
武内宿禰命(たけうちすくねのみこと)お手植の楠
武内宿禰は孝元(こうげん)天皇(人皇第八代)の曽孫で、景行(けいこう)、成務(せいむ)、仲哀(ちゅうあい)、応神(おおじん)、仁徳の五朝(いつつのみかど)に仕えたといわれる。
仲哀天皇に従って熊襲(くまそ)を征ち、天皇が崩御(おかくれ)になると、神功皇后をたすけて、新羅(しらぎ)を服(したが)えるなどの偉功(てがら)があった。 本社では第三殿に祀(まつ)られている。 その手植の楠の古株から新根が生え、根廻りは約60メートル余にも及ぶ大木となっている。
住吉神社社務所立札より
〈本社北〉・采女社《主》大宮司家祖神〈山田家祖先のうちの女神〉
〈本社西〉・検非違使社《主》火須勢理命
・鐘楼
・神籠石(こうごいし)
宮地築始(みやじきづきはじめ)紀念碑
神籠石(こうごいし)
東の斎宮(いわいのみや)の旧跡と相応するもの 東に祀る祭の庭のしるしである。
立札より
〈本社南〉・嚴島社《主》市杵嶋姫命・田心姫命・湍津姫命
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
境外末社〈本社西〉・天神社《主》菅原道真公
境外末社〈本社東〉・打下社(貴船社を合祀)
《主》猿田彦命・少彦名命・高龗神・大歳神・菅原道真公
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条
○廿七日甲申
京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社 奉授
淡路國无品勳八等伊佐奈岐命一品 備中國三品吉備都彦命二品・・・
長門國 從五位下 住吉荒魂神 從五位上
・・・
【原文参照】
巻二十七 貞觀十七年(八七五)十月八日〈丁巳〉の条
○八日丁巳
授長門國 從五位上 住吉荒御影神 正五位下
・・・
【原文参照】
巻二十七 貞觀十七年(八七五)十二月五日〈甲寅〉の条
○五日甲寅
授 長門國 從四位下 住吉荒魂神 四位上
・・・
【原文参照】
巻四十九 仁和二年(八八六)十一月十四日〈己丑〉の条
○十四日己丑
園韓祭 如常
授 長門國 從四位上 住吉荒魂神 正四位下
・・・
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・
住吉荒御魂神社 三座 長門國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式(えんぎしき)巻3-4』〈延長5年(927)〉神祇について
封戸について記されています
【抜粋意訳】
巻3神祇 臨時祭
凡住吉社の長門国の封租穀者、令に封戸の徭夫を運送 除の運功を之遺 令進に徭分用に修社料に 但し豊浦郡の封戸徭夫は者便に留充てよ御蔭社に
【原本参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)長門国 5座(大3座・小2座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)豊浦郡 5座(大3座・小2座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)
[ふ り が な ](すみよしにゐます あらみたまの かみのやしろ みくら)
[Old Shrine name](Sumiyoshiniimasu aramitama no kamino yashiro mikura)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
”住吉神社”(すみよしじんじゃ)と住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉について
住吉神社は 主に住吉三神を祀る神社で 日本全国に約2300社以上あると云われます
住吉三神とは 次の三柱神の総称 古来 航海の守護神として篤く信仰されてきている
・底筒男命〈底筒之男命〉(そこつつのをのみこと)
・中筒男命〈中筒之男命〉(なかつつのをのみこと)
・表筒男命〈上筒之男命〉(うわつつのをのみこと)
住吉大神と号する場合は
住吉三神と息長帯姫命〈神功皇后〉を併せ祀ります
住吉三神は 日本神話に登場する航海の神
伊奘諾尊が 黄泉の国の穢れを清めるために 筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊をしたとき 水底で身をすすぐと底筒男命 水中では中筒男命 水上では表筒男命が このとき顕われたとされる
『古事記』では 水の底にもぐって 身を洗い清められる時に成った底筒之男命 水の中程で洗い清められる時に成った中筒之男命 水の表面で洗い清められる時に成った上筒之男命が それぞれ生まれます
その後『日本書紀』には 神功皇后の段に新羅征討の際に 神託・守護・先導などに深くかかわったと記されています
三柱〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われる理由について
福岡の現人神社〈博多 住吉神社と大阪 住吉大社の元宮とされる〉には 三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉が 住吉三神と云われるようになった理由を社伝で伝えています
「元々は 現人神〈筒男三神〉であったが 神功皇后が三韓征伐の時 神告により神田を定め 天神地祇に禱祈して 那珂川の水を引いた所が現人神社である
神功皇后が 大和への御帰還に際し 霊験な現人神〈筒男三神〉をご奉持され 眞住吉之国(住よい国)〈摂津(大阪)〉に祀らた為に住吉三神と称され始めます 筑前国一之宮 福岡の住吉宮も後にここより御分霊された 故に 全国津々浦々にある住吉三神の本津宮とされます」
住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説
「筒男(ツツノヲ)」の字義についての諸説
①航海の神 ツツは夕月(ゆうづつ)のツツに通じ 夕方の月 宵の明星 星を指し 星は航海の指針に用いられることから
②海神を示す説
➂「津の男」に見る説
④「ツツ」を船の呪杖に見る説
➄船霊を納める筒に見る説
⑥対馬の豆酘(つつ)に関連し「豆酘の男」に見る説
➆航海に従った持衰の身を「ツツシム」に見る説
住吉神社の発祥について
現在 住吉神社の総本社は 一般的には 大阪府大阪市住吉区の住吉大社とされますが
下関の住吉神社は 住吉三神の荒魂(あらみたま)
大坂の住吉大社は 住吉三神の和魂(にぎみたま)は 神功皇后が三韓征伐の帰途に祀られた事が『日本書紀』に記されています
実際には 神功皇后の「三韓征伐」伝承とともに 西から順に 壱岐・対馬〈長崎県〉から博多・下関・瀬戸内海を渡り 大坂の住吉大社へと分祀されたものとおもわれます
このため・壱岐の住吉神社・博多の住吉神社 や現人神社などは 住吉神社の発祥の地と称しています
『日本書紀』には 神功皇后の新羅征討の段に 次のように記されています
仲哀天皇の御代 熊襲 隼人など大和朝廷に反乱蜂起した時 神功皇后が神がかりして「まず三韓を征討せよ」との神託を得た しかし 仲哀天皇はこの神託に従わず 翌年崩御された
その翌月 再び神託を得た神功皇后は 自ら兵を率いて三韓へ征伐に向かう このとき 住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り 荒魂は突風となり 神功皇后の船団を守護し 三韓をおおいに苦しめた
神功皇后は 三韓を平定し 凱旋の折 住吉三神の神託を得て 大神の荒魂(あらみたま)を穴門(山口県)山田邑(下関市)に奉斎します また 和魂(にぎみたま)を大津〈大きな港〉の渟中名倉の長峡〈現 大阪・住吉大社のある場所〉で 行き交う船を見守ると鎮めて 住吉大神を祀った
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される”住吉神社 七社”(すみよしのかみのやしろ ななやしろ)について
『延喜式神名帳』所載の七国〈対馬・壱岐・筑前・長門・播磨・摂津・陸奥〉各々に七社の住吉神社が鎮座します
これを住吉七社(すみよしななしゃ/すみよししちしゃ)とも総称します
格式の高さが際立つ 住吉七社
内訳は次の通り
住吉七社の内 一之宮が三国〈筑前・長門・摂津〉
住吉七社の内 五社が名神大社〈対馬・壱岐・筑前・長門・摂津〉
『古事記』では「墨江之三前大神(すみのえのみまえのおほかみ)」と総称され
住吉の地名については 古くはスミノエと呼ばれ「住吉」「墨江」「清江」などと表記されましたが 平安時代以降は スミヨシとも呼ばれるようになったとされます
外交にまつわる航海の守護神として国家的な祭祀をうけていて 大和朝廷にとって特別な意義を有する神社でした
遣唐使時奉幣の祝詞や六国史には 遣唐使出発の際にこの神を祭ったことが見えています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』〈927年12月編纂〉に記される 住吉七社と その論社について
①對馬嶋 下縣郡
住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)
・住吉神社(対馬 鴨居瀬)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 九州から対馬島へと渡る゛鴨(かも)と云う名の小舟゛が着く゛鴨居瀬(かもいせ)゛に鎮座 山幸彦命と 豊玉姫命の出産故事 日本の皇室の歴史の始まりを造った神の生誕を祀る霊地です 後世になり 神功皇后が その故事に倣い 行宮とされて 住吉三柱神を祀ったのが 神社としての始まりとされています
住吉神社(鴨居瀬)(対馬市美津島町鴨居瀬字住吉)
・鷄知住吉神社(対馬 鶏知)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 下縣郡 住吉神社 名神大」の論社です 式内社の「住吉神社」は もともとは 鴨居瀬(カモイセ)に鎮座し それを後に 鶏知(ケチ)に遷座したのは確かです しかし 遷座の時期は古く 一説には〈延喜式(927年)制定の前とも伝わり 制定時はすでに鶏知(ケチ)に遷座していた〉ともあり 双方が式内社であるとしています
住吉神社(対馬 鶏知)
➁壹岐嶋 壹岐郡
住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)
・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 社伝によれば 神功皇后が住吉神の護神により三韓を征伐し 凱旋の時〈郷ノ浦に上陸 足形を石面に残した時〉住吉三神を祀られたと云う 後に 住吉神の神託により「波の音の聞こえぬ地」をお選びになり 現在地に遷座したと云う 式内社 住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)で 住吉神社 発祥の地と伝えています
住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)
➂筑前国 那珂郡
住吉神社 三座(並名神大)(すみよしの かみのやしろ みくら)
・住吉神社(博多区住吉)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 延喜式神名帳に所載「筑前国那珂郡 住吉神社三座 名神大」とされ 筑紫国一之宮です 社伝には 伊弉諾尊が黄泉國から戻り祓い清めた地「筑紫の日向の橘の小戸の檍原の古蹟」〈住吉三神の御出生の地〉とされ神代より此地に鎮座 後に 神功皇后が三韓征韓の途中に祭祀を行ったので 住吉本社 又 日本第一住吉宮と伝えています
住吉神社(福岡市博多区住吉)
・若久住吉神社(福岡市南区)
若久住吉神社(わかひさすみよしじんじゃ)は 「御鎮座は 遠い遠い神代のことで年代を定めることは出来ませんが 全国的にも九州でも最も古いお宮様の一つです」と由緒にあり 式内社 住吉神社 三座(並 名神大)(すみよしの かみのやしろ みくら)とする説 筑前国福岡藩初代藩主 黒田長政によって江戸期前期頃の創建造営とする説もあります
若久住吉神社(福岡市南区若久)
・現人神社(那珂川市)
現人神社(あらひとじんじゃ)は 神功皇后が三韓征伐の時 神告により神田を定め 天神地祇に禱祈して 那珂川の水を引いた所 大和への御帰還に際し 霊験な現人神〈筒男三神〉をご奉持され 眞住吉之国(住よい国)〈摂津(大阪)〉に祀らた為に住吉三神と称され始めます 筑前国一之宮 福岡の住吉宮も後にここより御分霊された 故に 全国津々浦々にある住吉三神の本津宮とされます
現人神社(那珂川市仲)
④長門国 豊浦郡
住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)(すみよしのあらみたまの かみのやしろ みくら)
・住吉神社(下関市)長門国一之宮
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 『日本書紀』に記される 神功皇后が三韓征伐より凱旋の折 神託を得て 住吉三神の荒魂(あらみたま)を穴門 山田邑(現在地)に奉斎したとこれが住吉神社の起こりとされます 式内社 住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)(すみよしにゐますあらみたまの かみのやしろ みくら)・長門国一之宮です
住吉神社(下関市一の宮住吉)長門国一之宮
➄播磨国 賀茂郡
住吉神社(すみよしの かみのやしろ)
・上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 創立は不詳ですが 厳格な宮座制度を脈々と守り続け 約700年間受け継がれてきた神事舞〈国指定 重要無形民俗文化財 住吉神社神事舞〉が有名です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 播磨国 賀茂郡 住吉神社(すみよしの かみのやしろ)の論社です
上鴨川住吉神社(加東市上鴨川)
・住吉神社(加東市下久米)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 『播磨鑑』に白雉2年(651)の創立と記されているが 甚だ疑わしく猶それ以前に勧請せられたものと推測されています 續左丞抄住吉神領年紀によると 久米庄(当地方)が神功皇后(201~220)の御代 既に摂津 住吉大社の神領地であったとあり 式内社 播磨国 賀茂郡 住吉神社(すみよしの かみのやしろ)の論社でもあります
住吉神社(加東市下久米)
・小野住吉神社(小野市垂井町)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 社伝には 人皇10代の時とも養老6年(722)とも云われ もと河内山田に鎮座していたが 市場村喜多島に奉遷鎮座し 後に現在の地に奉遷したと伝わります 式内社 播磨国 賀茂郡 住吉神社(すみよしの かみのやしろ)の論社です
小野住吉神社(小野市垂井町)
・秋津住吉神社(加東市秋津)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 神功皇后の勅願社の伝承が残り 摂津 住吉大社の別宮であったと考えられ 創始は古墳時代後期とされています 奈良時代後期に現在の鎮座地・秋津字清水に遷座し 水田に由来して恒田明神と称され今日に至るので 二つの式内社〈住吉神社・垣田神社〉の論社となっています
住吉神社〈恒田大明神〉(加東市秋津)
⑥摂津国 住吉郡
住吉坐神社四座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(すみよしの かみのやしろ)(すみのえにます かみのやしろ)
・住吉大社(大阪市住吉区)摂津国一之宮
住吉大社(すみよしたいしゃ)は 『日本書紀』に神功皇后が三韓征伐の帰路 住吉三神の神託を得て 住吉大神の和魂(にきみたま)を鎮めて祀ったのが創建と記される 全国に2000社余ある住吉神社の総本社で 摂津國一之宮です 延喜式内社 住吉坐神社四座(並 名神大月次相嘗新嘗)(すみのえにます かみのやしろ しくら)です
住吉大社(大阪市住吉区住吉)〈摂津國一之宮〉
➆陸奥国 磐城郡
住吉神社(すみよし かみのやしろ)
・住吉神社(いわき市小名浜住吉)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 社伝に第12代 景行天皇の時に武内宿弥が勅命を奉じて東北を巡視した折 海陸共に要害の地であったこの地を東北の関門 総鎮守として航海安全と国家鎮護として祀ったとあり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される”住吉神社 七社”の一つ 式内社 陸奥国 磐城郡 住吉神社(すみよし かみのやしろ)であり 東北一社とも称しています
住吉神社(いわき市小名浜住吉)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR新下関駅から県道34号を南下 約1.5km 徒歩20分程度
社頭には 神池があり 鳥居が建ちます
社号標には 長門一宮 住吉神社 と刻字されます
住吉神社(下関市一の宮住吉)長門国一之宮に参着
一礼をして鳥居をくぐると石畳の参道には 朱色の神橋があります
左手の神池には 嚴島社が祀られています
参拝当時は コンクリート製の狛犬のレブリカ〈現在は 青銅製に戻っている〉
手水舎で清めて 石段を上がると随神門が建ちます
門をくぐり抜けると すぐに拝殿があります
拝殿にすすみます 扁額には「住吉荒魂本宮」とあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 5社殿が連なる国宝(建造物)住吉神社本殿が祀られています
拝殿の鈴の緒の数が 最初は住吉三神の三本 次の参拝は御祭神の五本になっていました
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』神功皇后の段に記される伝承
神功皇后の段に 穴門の山田邑に゛住吉三神の荒御魂(あらみたま)゛を祀るとあり この穴門の山田邑に立てた神社が 住吉坐荒御魂神社〈現 住吉神社(下関市一の宮町)〉になります
その後 廣坂王・忍熊王との戦いに際して 神勅があり゛住吉三神の和魂(にきみたま)゛を大津の淳名倉の長峡〈現 住吉大社(大阪市住吉区)〉と記されています
【抜粋意訳】
神功皇后の段〈神功皇后摂政前紀〉
軍に従った神の表筒男(うわつつのを)・中筒男(なかつつのを)・底筒男(そこつつのを)の三神(みはしらのかみ)は 皇后に
「我が荒魂(あらみたま)を穴門(あなと)の山田邑(やまだのむら)に祭りなさい」と言われたその時 穴門直(あなとのあたい)の祖先の踐立(ほむたち)・津守連(つもりのむらじ)の祖先の田裳見宿禰(たもみのすくね)は
「神の居たいと思われる土地を必ず定め 奉りましょう」と皇后に申し上げた
それで即ち 踐立(ほむたち)をもって荒魂(あらみたま)を祭る神主(かむぬし)とした
よって 穴門(あなと)の山田邑(やまだのむら)に祠(やしろ)を立てました新羅(しらぎ)を討たれた翌年春二月 皇后は群卿(まへつきみたち)百寮(もものつかさ)を率いて 穴門(あなと)豊浦宮(とようらのみや)に移られた
天皇〈仲哀天皇〉の喪(もがり)〈遺骸〉を収めて 海路(うみのみち)より京(みやこ)〈奈良〉に向かわれた
そのとき 籠坂王(カゴサカノミコ)忍熊王(オシクマノミコ)〈仲哀天皇の皇子〉は 天皇が崩御して 皇后が新羅(しらぎ)を討たれ また皇子が新たに生まれたと知り 密かに謀って
「今 皇后は子があり 群臣(まへつきみたち)は皆従っている きっと共に議って幼い主(みこ)を立てるだろう 我らは兄であるのに どうして弟に従うことができようか」と言った
そこで天皇の為に 陵(みささぎ)を造ることにした 播磨(はりま)に行って山陵(みささぎ)を赤石〈明石〉に作ることにして 船を編んで〈船団〉淡路島に渡し その島の石を運び造った
人々に武器を取らせて皇后を待っていた犬上君(いぬかみのきみ)の先祖の倉見別(くらみわけ)と 吉師(きし)の先祖の五十狭茅宿禰(いさちのすくね)は共に 籠坂王(カゴサカノミコ)の側についた それで将軍として東国の兵を起こしました
籠坂王(カゴサカノミコ)と忍熊王(オシクマノミコ)は 共に菟餓野(とがの)に出て 祈狩(うけいがり)〈神意を伺う占い〉をして
祈狩は于氣比餓利(ウケイガリ)という
「もしこのことが成すのなら きっと良い獣(しるし)〈神から与えられた獲物〉が得るだろう」と言い
二人の王は假庪(さずき)〈神招(お)ぎの場(桟敷席)〉におられた
すると 赤い猪が急に飛び出してきて假庪(さずき)に登り 籠坂王(カゴサカノミコ)を喰い殺しました
軍士(いくさびと)たちは 皆 怖気(おじけ)づき 忍熊王(オシクマノミコ)は 倉見別(くらみわけ)に語りました
「これはこれから成す事の大きな怪(しるし)だ ここでは敵を待つことはできない」
軍を率いて 更に帰り 住吉(すみのえ)に駐屯した
そのとき皇后は 忍熊王(オシクマノミコ)が 師(いくさ)を率いて待ち構えていると知っていて 武内宿禰(たけのうちのすくね)に命じて 皇子を預けて 迂回させ 南海(みなみのみち)から出て 紀伊水門(きいのみなと)に停泊しました
皇后の船は まっすぐ難波(なにわ)に向った ところが 船は海上でぐるぐる回って進めなかった
それで務古水門(むこのみなと)〈武庫の港(武庫川・西宮)〉に還って 占いをした
すると 天照大神(あまてらすおほみかみ)が教えて云うには
「我が荒魂(あらみたま)を皇后の近くに置くのは良くない 広田国(ひろたのくに)〈現 西宮・廣田神社〉に居るべきだ」
すぐに 山背根子(やましろのねこ)の娘 葉山媛(はやまひめ)に祭らせた
また 稚日女尊(わかひるめのみこと)〈天照大神の妹神〉が教えて云うには
「吾(われ)は 活田長峡国(いくたのながおのくに)〈現 神戸三宮・生田神社〉に居る」
そこで 海上五十狭茅(うなかみのいさち)に祭らせました
また 事代主命(ことしろぬしのみこと)が教えて云うには
「吾(われ)を 長田国(ながたのくに)〈現 神戸・長田神社〉に祀れ」
これは 葉山媛(はやまひめ)の妹の長媛(ながひめ)に祭らせました
表筒男(うはつつのを)中筒男(なかつつのを)底筒男(そこつつのを)の三神が教えて云うには
「吾(われ)の和魂(にきみたま)を大津の淳名倉(ぬなくら)の長峡(ながお)〈現 大阪・住吉大社〉に居るべきである そうすれば 行き交う船を見守る」
そこで 神の教えのままに鎮めて祀りました
するとすぐに 平穩に海を渡ることができるようになりました
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)
住吉は 須三與之、荒御魂は 阿良美多麻と訓べし
〇祭神 底筒男命・中筒男命・表筒男命
〇一宮村に在す
〇当国一宮なり
式三 名神祭 二百八十五座 中略 住吉荒御魂神社 三座 長門國〇永萬記云 一宮
〇日本紀 於是、從軍神、表筒男・中筒男・底筒男三神、誨皇后曰「我荒魂、令祭於穴門山田邑也。」時穴門直之祖踐立・津守連之祖田裳見宿禰、啓于皇后曰「神欲居之地、必宜奉定。」則以踐立爲祭荒魂之神主、仍祠立於穴門山田邑頭注云
神功皇后十一年 垂跡干長門国豊浦云々 遂到播州之地 宣言曰 眞住吉々々々之国也 因鎮座其地 名曰 住吉 豊浦之住吉 那珂之住吉 由播州地名 而通称之類社
摂津国 住吉郡 住吉坐神社の條見合すべし神位 三代実録・・・
封戸
式三 臨時祭
凡住吉社長門国封租穀者、令封戸徭夫運送、除運功之遺、令進徭分、用修社料、但豊浦郡封戸徭夫者、便留充御蔭社社職・・・
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
住吉坐荒御魂神社三座(並名神大)
祭神
底筒之男尊・中筒之男尊・表筒之男尊
神位 清和天皇 三代実録・・・・・
祭日 十二月七日 至 十五日 十二月晦日
社格 國幣中社(官幣中社)
所在 楠野村(豊浦郡勝山村大字楠乃)
【原文参照】
住吉神社(下関市一の宮住吉)長門国一之宮に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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長門国(ながとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 長門国 5座(大3座・小2座)の神社です
長門国 式内社 5座(大3座・小2座)について
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
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