宿那彦神像石神社(すくなひこのかみかたいしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社です 社伝によれば 神代の昔 御祭神 少彦名命が 大名持命とともに能登国を巡行し 国土平定の後 大己貴命は氣多崎に 少彦名神は此地に 神霊を石に留めたと伝わります この神代の2柱神に因んで 氣多大社の例大祭 平国祭は 氣多大社の神輿が 3月20日夕刻 本社〈宿那彦神像石神社〉拝殿で一泊 翌朝 祭神〈少彦名命〉が 右神輿に遷座せられ 七尾の気多本宮に神幸し 23日午前に右神輿が 本社に還御あって祭典を奉仕します
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
宿那彦神像石神社(Sukunahikonokami kataishi Shrine)
(すくなひこのかみかたいしじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
石川県鹿島郡中能登町金丸よ1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》少彦名命(Sukunahikona no mikoto)
《合》健御名方命〈元 鎌宮諏訪神社〉
中筒男命〈元 住吉神社〉
大名持神〈元 春日神社〉
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
・崇神天皇の朝
古老傳及社記に曰く、
上古 草味の世 國中 妖魔残賊多く、人民疾苦す、大己貴命 少彦名神 深く之を憂ひ給ひ、越の北邊より船にて此國に渉り、竟に諸妖を退治し、国内を平定し給ふ、
而(シカ)して 神尚其餘孽の再び郷民を悩まさん事を恐れ、大己貴命は氣多崎に、少彦名神は此地に神霊を石に留め、以て後世迄 守護し給へり、爰を以て 人民漸く蕃殖し、山野開けたりと、崇神天皇の朝 大己貴命の神霊を氣多崎に、少名彦命の霊石を當社に安置し、以て其 高大深遠の神恩に報答し給へり。(其の霊石傳へて今尚存ぜりと)
『明治神社誌料』より
【由 緒 (History)】
式内 宿那彦神像石神社 御由緒
祭神 少彦名命 健御名方命 中筒男命 大名持神
由緒
神代の昔、祭神の少彦名命は 大名持命とともに、能登国を巡行、多気倉長命と力をあわせて 国土の平定開発に神功をたて遂にその霊を神石に留めて、金丸宮地の地に鎮まり給うた。崇神天皇の朝、この神石を当社に奉安した。
清和天皇、貞観2年6月9日 桜井宿祢基継を勅使として 当社に参向せしめ、位階 正三位 神地四丁余を賜い、官社に列せらる。
醍醐天皇の朝、延喜式に国幣の小社としてその名をつらねる。
明治10年3月内務省より 国幣中社 気多神社の摂社とせられ、
同13年3月25日郷社に列し、同41年 神饌幣帛供進神社に指定せらる。
祭神の中、建御名方命は 鎌宮諏訪神社、中筒男命は住吉神社、大名持命は春日神社の祭神で、明治41年合併された。祭儀
祭典多き中にも平国祭、勅使祭は大祭である。
平国祭は3月20日夕刻に、気多神社の神輿が本社の拝殿で一泊、翌朝本牡の祭神が右神輿に遷座せられ 七尾市所口に神幸、23日午前に右神輿が本社に還御あって祭典を奉仕する、この時 宮地区より調進の白団子を盛り、カツキの箸をそえて青菜・干大根と ともに献ずる。
勅使祭(例祭)は 貞観2年6月9日(現在は7月9日)に官社に列したのを記念して行う。一に「麦まつり」ともいう。
昭和61年2月18日 宮司 梶井重雌 識社頭の案内石板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・氣多大社の 御着石
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
鎌打ち神事が執り行われる 2神社
・鎌宮諏訪神社(中能登町)《主》建御名方神
鎌宮諏訪神社(かまみやすわじんじゃ)は 社頭に鳥居がありますが 社殿や本殿はありません 境内に玉垣が巡らされたご神域があり その中に御神体として 御神木「タブの木」が祀られています この御神木には 特殊な「鎌打ち神事」という神事があり その祭典は「日足鎌」とも「左鎌」とも呼び 2丁の鎌を タブの神木に打ち込む神事です 由来は 神代の昔 大巳貴命〈大国主命の別名〉と少彦名命の2柱神と力を合わせて 御祭神の建御名方命(タケミナカタノミコト)〈大巳貴命の御子神〉が この鎌で道を開いて 村人を苦しめていた毒蛇や化鳥を退治したことにちなむとされます
鎌宮諏訪神社(中能登町金丸)鎌打ち神事
・住吉神社《主》中筒男命
当神社は 気多大社(羽咋市)能登国一之宮の摂社です
・気多大社(羽咋市)
氣多大社(けたたいしゃ)は 北陸の大社として朝廷からの尊崇も厚く 文献に最初に登場するのは『万葉集』大伴家持が 越中国守として赴任の時〈天平20年(748)〉能登を巡行し「気太神宮」に赴いたとの歌がみえ 927年12月編纂の『延喜式 巻3 臨時祭』では名神大に列している由緒ある古社です 大正時代に国幣大社に列したことから 現在は「気多大社」として親しまれています
気多大社(羽咋市)能登国一之宮「入らずの森」の社
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)能登国 43座(大1座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)能登郡 17座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 宿那彦神像石神社(貞)
[ふ り が な ](すくなひこのかみのかたいしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sukunahikonokami no kataishi no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
氣多大社の神幸祭 平国祭〈ヘイコクサイ〉(おいで祭り)について
平国祭(おいでまつり)は 気多大社の大国主神が 少彦名命とともに能登を平定した往時をしのぶ行事とされ 現在は 神馬を先頭に50余名で2市3町(羽咋市 七尾市 志賀町 宝達志水町 中能登町)300キロメートルの行程を 5泊6日かけて巡幸します
能登国を平定した 2柱の大神を「像石(カタイシ)」として祀る神社が 能登国にはあります
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「能登國 能登郡 宿那彦神像石神社(貞)」の論社は 4神社あります
①・宿那彦神像石神社(中能登町)
宿那彦神像石神社(すくなひこのかみかたいしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社です 社伝によれば 神代の昔 御祭神 少彦名命が 大名持命とともに能登国を巡行し 国土平定の後 大己貴命は氣多崎に 少彦名神は此地に 神霊を石に留めたと伝わります この神代の2柱神に因んで 氣多大社の例大祭 平国祭は 氣多大社の神輿が 3月20日夕刻 本社〈宿那彦神像石神社〉拝殿で一泊 翌朝 祭神〈少彦名命〉が 右神輿に遷座せられ 七尾の気多本宮に神幸し 23日午前に右神輿が 本社に還御あって祭典を奉仕します
宿那彦神像石神社(中能登町金丸)少彦名神が神霊を石に留めたと云う
➁・宿那彦神像石神社(七尾市)
宿那彦神像石神社(すくなひこかむかたいしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 古老の云うところには 少彦名命(スクナヒコナノミコト)が 海から依り憑き 阿良加志比古神(アラカシヒコノカミ)と協力して 郷民を害す毒虫 及び 妖鳥を亡ぼし この地方の平定を成し遂げた その神の上陸の地に一種の神像に代わる霊石として祀られたのが御神体の「像石(カタイシ)」であると伝わります
宿那彦神像石神社(七尾市)神の上陸の地に祀られた御神体「神像石(カムカタイシ)」と伝わります
➂・宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(七尾市)
宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(カムカタイシ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社の旧鎮座地です 古老の云うところには 少彦名命(スクナヒコナノミコト)が 海から依り憑き 阿良加志比古神(アラカシヒコノカミ)と協力して 郷民を害す 毒虫 及び妖鳥を亡ぼして この地方の平定を成し遂げたと伝わり その神「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」の上陸の地に一種の神像に代わる霊石として祀られたのが御神体の「神像石(カムカタイシ)」縦七尺二寸 下幅三尺八寸 上幅二尺五寸の巨石とされます
宿那彦神像石神社〈旧鎮座地 神像石〉(七尾市)御神体の「神像石(カムカタイシ)」は縦七尺二寸 下幅三尺八寸 上幅二尺五寸の巨石と伝わります
④・阿良加志比古神社(七尾市)
阿良加志比古神社(あらかしこひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社で その鎮座の由来について 阿良加志古神(アラカシコノカミ)が年老いた時 郷民を害す 毒虫及び妖鳥が棲んでいた この時に 少彦名神(スクナヒコナノカミ)が 海から漂い憑き 力を合わせて これを亡ぼし国土を平定し 土民を安堵させ それにより 神として祭られたと 古老の伝えがあります
阿良加志比古神社(七尾市)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「能登國 羽咋郡 大穴持像石神社」の論社は 4神社あります
①大穴持像石神社(羽咋市)
大穴持像石神社は 民俗学者・折口信夫(おりくちしのぶ)博士〈明治20年(1887)2月11日~昭和28年(1953)9月3日〉が 論文集『古代研究』で「漂着神(よりがみ)を祀ったタブの杜」と紹介した神社で タブノキの大樹に覆われた社叢も知られます 氣多大社の摂社で祭神も同じ 大己貴命(オホナムチノミコト)相殿神に少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祀ります 神社名の「像石(カタイシ)」は 神が降臨した際に現われた自然石とされ 一種の神像に代わる霊石「地震石」とされ 地元では産土神「オナッサマ」とよばれ信仰されています
大穴持像石神社(羽咋市)神が降臨し現われた霊石は神像に代わる「像石(カタイシ)」とされ境内に鎮まります
➁身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉
身代神社(みしろじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載「能登国(ノトノクニ)羽咋郡(ハクイノコオリ)」の条にある2つの式内社「大穴持像石神社」と「久麻加夫都阿良加志比古神社」の論社でもあります 社伝よれば「出雲国より舟に乗りて 当村に着かれた大真石が 御神体として仰がれている」とされていて かつては神社名称を 大穴持身代社(オヲナモチミシロノヤシロ)を称していました
身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉
➂八千鉾神社(羽咋郡志賀町)
八千鉾神社(やちほこじんじゃ)は 「町八千鉾神社古墳」〈円墳 径6m、横穴式石室の天井石露出〉の上に鎮座しています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社でもあり 大穴持像石神社とも称せられたといいますが 明治の初期に至り 八千鉾神社と改称された伝わります
八千鉾神社(羽咋郡志賀町)
④天神神社(羽咋郡志賀町)
天神神社(てんじんじんじゃ)は 口碑によると 鎮座する穴口村は 穴持村といわれ 本神社は 大穴持像石神社であるとも伝えられています 故に『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社でもあります
天神神社(羽咋郡志賀町穴口)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
金丸駅から 県道2号経由 約550m 徒歩8分程度
かつての邑知潟(おうちがた)を干拓した田園あたりから 眉丈山を眺めます
眉丈山を背後に南東向きに参道が延びていて 入口に鳥居と社号標「宿那彦神像石神社」とあり
宿那彦神像石神社(Sukunahikonokami kataishi Shrine)に参着
社頭の明神鳥居に一礼をして くぐり抜けます 「秋祭り」10月7日午前11時と張り紙があります
杉の古木の中を参道が上っていて 森の中に入るとまったく別世界のような神気が漂っています
参道の先には 数段の石段があり その両脇に 注連縄柱のように 2本の杉が立ち並んでいます
空が開けて 明るさのある境内地に出ると 正面には 立派な社殿が建っています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿向かって右手から 斜面を上がり本殿へと進みます
本殿前には 狛犬が座しています
この本殿に「御祭神が神霊を石に留めたという像石(カタイシ)」が鎮まっているのでしょうか
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
振り返ると 幣殿と拝殿の瓦葺の屋根があります 本殿に一礼をして下がります
下りの参道は 行きに感じていよりも急勾配でした
下まで降りてくると 邑知潟(おうちがた)の対岸の山々が見えて来て 古代の人々は この高台に居を構え すぐ下には干潟が広がり 海の幸 山の幸に恵まれた豊かな暮らしがあったであろうことを感じながら 鳥居を抜けて 振り返り一礼をします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承
官社に列したと記されています
【意訳】
貞観2年(860)6月9日 戊子の条
能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)
宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)
二前 並び於いて 官社に列す
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承
式内社として 安倍屋村(アブヤ村)にあり 赤衾(アカブスマ)産神(ウブスナノカミ)と 比定しています
【意訳】
宿那彦神像石神社(スクナヒコノカミカタイシノカミノヤシロ)
三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す〇今 安倍屋村(アブヤ村)にあり 赤衾(アカブスマ)産神(ウブスナノカミ)
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承
式内社として 金丸村に鎮座すると 比定しています
【意訳】
宿那彦神像石神社
宿那彦は 須久奈比古(スマナヒコ)と訓ずべし
像石は 前に同じ〇祭神 明らかなり
〇金丸村に在す 神社帳官社
三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』1 『神社覈録』2
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
式内社の論社2神社〈金丸村と黒崎村〉について どちらも確証がなく 比定できていません
【意訳】
宿那彦神像石神社
祭神 少彦名命
官社
清和天皇 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す所在
今 按〈考えるに〉
鹿島郡金丸村 同郡黒崎村 両村ともに 従来 宿那彦神像石神社と称し
各石を神寶とす
金丸村は 貞享2年(1685) 由来書に記し
黒崎村は 享保7年(1722) 由来書にのせたるのみにて更に確証なし
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承
【意訳】
石川縣能登國鹿島郡金丸村
郷社 宿那彦神像石(スクナコノカミカタイシノ)神社
祭神 少彦名命(スクナヒコナノミコト)
當社は延喜式内の舊社にして、
神名帳考証に、今在蟲屋村赤衾アブスマ産土神也、
又
新校に貞観2年6月9日 能登大穴持命 宿那彦神像石神 二前並列 官社 大穴持 上能登生國 玉比古神社 是乎とあり。
古老傳及社記に曰く、上古 草味の世 國中 妖魔残賊多く、人民疾苦す、大己貴命少彦名神深く之を憂ひ給ひ、越の北邊より船にて此國に渉り、竟に諸妖を退治し、国内を平定し給ふ、而して 神尚其餘孽の再び郷民を悩まさん事を恐れ、大己貴命は氣多崎に、少彦名神は此地に神霊を石に留め、以て後世迄 守護し給へり、爰を以て 人民漸く蕃殖し、山野開けたりと、崇神天皇の朝 大己貴命の神霊を氣多崎に、少名彦命の霊石を當社に安置し、以て其 高大深遠の神恩に報答し給へり。(其の霊石傳へて今尚存ぜりと)
是 當社 創立の起源にして、社號の依て起る所也、然るに、後世 星移り物變り 神威漸く衰へ給ひしかば、
清和天皇 貞観2年6月9日捿井宿基継を勅使として 當社に参向せしめ、官社に列せられ、崇敬最も厚く、此より社運日に月に盛大に赴き、宮殿壮麗諸般の結構宏大なりしが、
中古数度の兵火に遭ひ社運 遂に衰へ、今は全く 其の舊観を失せり。當社 往古より宿那彦神像石神社と称へ来たりし所、
明治6年6月 金丸射と改称 村社に列し、明治10年3月氣多神社 摂社に列せられ、更に 宿那彦神像石神社と復称し、13年3月郷社に列す。
尚 社内に気多神社 御着石とて鳥居の内左側にあり。
建物は本殿、拝殿、神饌所、手洗舎等あり、境内210坪を有し、松杉茂り、神池釣瓶塚、鳥居塚等其の近傍に散在し、共に其の古跡を留む。後方 眉丈山の麓にして老樹蒼生し神域として尊崇すべし。
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』
宿那彦神像石神社(Sukunahikonokami kataishi Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
能登国 式内社 43座(大1座・小42座)について に戻る
能登国(のとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 能登国には 43座(大1座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
能登國(のとのくに)の 式内社 43座(大1座・小42座)について