宿那彦神像石神社(すくなひこかむかたいしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 古老の云うところには 少彦名命(スクナヒコナノミコト)が 海から依り憑き 阿良加志比古神(アラカシヒコノカミ)と協力して 郷民を害す毒虫 及び 妖鳥を亡ぼし この地方の平定を成し遂げた その神の上陸の地に一種の神像に代わる霊石として祀られたのが御神体の「像石(カタイシ)」であると伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
宿那彦神像石神社(Sukunahikokamukataishi Shrine)
(すくなひこかむかたいしじんじゃ)
[通称名(Common name)]
薬湯の神(やくとうのかみ)
【鎮座地 (Location) 】
石川県七尾市黒崎町ヘ28-3
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》少彦名命(Sukunahikona no mikoto)
《合》健御名方命〈諏訪神社 合祀〉
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創祀年代は不詳
※神社は 元々は 現在地より1km程南下した 富山湾沿いの海食崖に鎮座していたが 明治42年(1909)現在地に鎮座していた諏訪神社を合祀して その後遷座しました
御神体の「像石(カタイシ)」は その後も旧地に鎮まっていたが 国道の新設に伴い 現在は国道沿いの祠に鎮まっています
【由 緒 (History)】
勧請暦不詳なるも、延寳5年 神主家明細お届書に據れば、
天平宝字8年 勅使 藤原永平、口能登大呑熊郡別山東(ワカヤマサキ)邑に熊武都(クマブツ)の長者(タケヲ)と諱(イミナ)賜比祀らる。
大呑熊六合郷里大(ト)宮にと玖郎前関(クラウサキセキ)に坐す貞宿那彦神像石社とに神鏡弐面を賜り 再興会宣旨を給うと所載されている。延長弐年、藤原忠平撰集「延喜式巻第十」府能登郡17座末行 阿良加志比古神ノ社末筆貞宿那彦神像石社登録す 第122代 明治天皇14年 辛巳(カノトミ)歳遷暦「大解除式(オホハラヘのノリ)」第20回解齋とあるを逆算すれば初回は 聖武帝 神亀天平13年辛巳(カノトミ)歳「蔵闢良岐(クラビラキ)」されたこととなる。
亦、奈良正倉院の御物、丹物の調庸銘が当大宮の鎮座地名に合致。
萬葉集の國守、家持卿の出擧の歌3881珠洲能宇美(スヅノウミ)に朝闢(アサビ)らきして榜(コ)ぎ来れ波奈我濱の浦に月照りに家里右、治布に遷(カヘ)る時、之を作る。
註に、治布は大沼郡(オホヌミヤコホリ)(元の郡名)今、大呑熊郡別山東邑(ワケヤマサキムラ)宇治布夫(ジブデ)の地名、其れならむ。神護院霊夢山眞吾布陀樂寺別当舎跡地波治布大門なり。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・諏訪神社《主》健御名方命 本殿に合祀
元々は この地は 諏訪神社の境内であったが 宿那彦神像石神社が遷座し 諏訪神社は合祀されています
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
旧鎮座地 神像石(七尾市)
元々は 現在地より1km程南下した 富山湾沿いの海食崖に鎮座していたが その後 現在地に遷座
御神体の「像石(カタイシ)」は その後も旧地に鎮まっていたが 国道の新設に伴い 現在は国道沿いの祠に鎮まっています
・宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(七尾市)
宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(カムカタイシ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社の旧鎮座地です 古老の云うところには 少彦名命(スクナヒコナノミコト)が 海から依り憑き 阿良加志比古神(アラカシヒコノカミ)と協力して 郷民を害す 毒虫 及び妖鳥を亡ぼして この地方の平定を成し遂げたと伝わり その神「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」の上陸の地に一種の神像に代わる霊石として祀られたのが御神体の「神像石(カムカタイシ)」縦七尺二寸 下幅三尺八寸 上幅二尺五寸の巨石とされます
宿那彦神像石神社〈旧鎮座地 神像石〉(七尾市)御神体の「神像石(カムカタイシ)」は縦七尺二寸 下幅三尺八寸 上幅二尺五寸の巨石と伝わります
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)能登国 43座(大1座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)能登郡 17座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 宿那彦神像石神社(貞)
[ふ り が な ](すくなひこのかみのかたいしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sukunahikonokami no kataishi no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
能登国を平定した 2柱の大神〈大国主神 少彦名命〉を「像石(カタイシ)」として祀る神社が 能登国にはあります
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「能登國 能登郡 宿那彦神像石神社(貞)」の論社は 4神社あります
①・宿那彦神像石神社(中能登町)
宿那彦神像石神社(すくなひこのかみかたいしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社です 社伝によれば 神代の昔 御祭神 少彦名命が 大名持命とともに能登国を巡行し 国土平定の後 大己貴命は氣多崎に 少彦名神は此地に 神霊を石に留めたと伝わります この神代の2柱神に因んで 氣多大社の例大祭 平国祭は 氣多大社の神輿が 3月20日夕刻 本社〈宿那彦神像石神社〉拝殿で一泊 翌朝 祭神〈少彦名命〉が 右神輿に遷座せられ 七尾の気多本宮に神幸し 23日午前に右神輿が 本社に還御あって祭典を奉仕します
宿那彦神像石神社(中能登町金丸)少彦名神が神霊を石に留めたと云う
➁・宿那彦神像石神社(七尾市)
宿那彦神像石神社(すくなひこかむかたいしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 古老の云うところには 少彦名命(スクナヒコナノミコト)が 海から依り憑き 阿良加志比古神(アラカシヒコノカミ)と協力して 郷民を害す毒虫 及び 妖鳥を亡ぼし この地方の平定を成し遂げた その神の上陸の地に一種の神像に代わる霊石として祀られたのが御神体の「像石(カタイシ)」であると伝わります
宿那彦神像石神社(七尾市)神の上陸の地に祀られた御神体「神像石(カムカタイシ)」と伝わります
➂・宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(七尾市)
宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(カムカタイシ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社の旧鎮座地です 古老の云うところには 少彦名命(スクナヒコナノミコト)が 海から依り憑き 阿良加志比古神(アラカシヒコノカミ)と協力して 郷民を害す 毒虫 及び妖鳥を亡ぼして この地方の平定を成し遂げたと伝わり その神「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」の上陸の地に一種の神像に代わる霊石として祀られたのが御神体の「神像石(カムカタイシ)」縦七尺二寸 下幅三尺八寸 上幅二尺五寸の巨石とされます
宿那彦神像石神社〈旧鎮座地 神像石〉(七尾市)御神体の「神像石(カムカタイシ)」は縦七尺二寸 下幅三尺八寸 上幅二尺五寸の巨石と伝わります
④・阿良加志比古神社(七尾市)
阿良加志比古神社(あらかしこひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社で その鎮座の由来について 阿良加志古神(アラカシコノカミ)が年老いた時 郷民を害す 毒虫及び妖鳥が棲んでいた この時に 少彦名神(スクナヒコナノカミ)が 海から漂い憑き 力を合わせて これを亡ぼし国土を平定し 土民を安堵させ それにより 神として祭られたと 古老の伝えがあります
阿良加志比古神社(七尾市)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「能登國 羽咋郡 大穴持像石神社」の論社は 4神社あります
①大穴持像石神社(羽咋市)
大穴持像石神社は 民俗学者・折口信夫(おりくちしのぶ)博士〈明治20年(1887)2月11日~昭和28年(1953)9月3日〉が 論文集『古代研究』で「漂着神(よりがみ)を祀ったタブの杜」と紹介した神社で タブノキの大樹に覆われた社叢も知られます 氣多大社の摂社で祭神も同じ 大己貴命(オホナムチノミコト)相殿神に少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祀ります 神社名の「像石(カタイシ)」は 神が降臨した際に現われた自然石とされ 一種の神像に代わる霊石「地震石」とされ 地元では産土神「オナッサマ」とよばれ信仰されています
大穴持像石神社(羽咋市)神が降臨し現われた霊石は神像に代わる「像石(カタイシ)」とされ境内に鎮まります
➁身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉
身代神社(みしろじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載「能登国(ノトノクニ)羽咋郡(ハクイノコオリ)」の条にある2つの式内社「大穴持像石神社」と「久麻加夫都阿良加志比古神社」の論社でもあります 社伝よれば「出雲国より舟に乗りて 当村に着かれた大真石が 御神体として仰がれている」とされていて かつては神社名称を 大穴持身代社(オヲナモチミシロノヤシロ)を称していました
身代神社(羽咋郡志賀町)〈大穴持美代神社〉
➂八千鉾神社(羽咋郡志賀町)
八千鉾神社(やちほこじんじゃ)は 「町八千鉾神社古墳」〈円墳 径6m、横穴式石室の天井石露出〉の上に鎮座しています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社でもあり 大穴持像石神社とも称せられたといいますが 明治の初期に至り 八千鉾神社と改称された伝わります
八千鉾神社(羽咋郡志賀町)
④天神神社(羽咋郡志賀町)
天神神社(てんじんじんじゃ)は 口碑によると 鎮座する穴口村は 穴持村といわれ 本神社は 大穴持像石神社であるとも伝えられています 故に『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社でもあります
天神神社(羽咋郡志賀町穴口)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
七尾駅から R160号経由 約16km 車20分程度
R160号の真上 空には鳶が舞い飛び 長閑な富山湾の海岸沿いの海食崖の山上に鎮座します
参道は かなりの急勾配の細い道を上がっていきます
暫くすると 右手の上に 鳥居が見えてきます
社号標と鳥居が建ち どちらも社号「宿那彦神像石神社」と刻まれています
宿那彦神像石神社(Sukunahikokamukataishi Shrine)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 階段を上がります 階段を中程まで進むと拝殿がはっきっりと見えてきます
境内は落ち着いた空間で 波が岩に砕けるような音が聞こえていて 不思議な静けさの中に建っている 予想以上に立派な社殿の佇まいに 再び頭を垂れて境内に足を踏み入れます
拝殿にすすみます 賽銭箱がないので 扉を開くと 拝殿の中央奥に本殿が鎮座 拝所に神輿が置かれていました
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内の右手の崖の直ぐ下は 磯場の海岸で 大きな岩がゴロゴロとしています
参道を戻ると富山湾がよく見えていて
ちょうど ここから1.5km程南下したところに鎮座する御神体の「像石(カタイシ)」を祀る祠に向かいます
・宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(七尾市)
宿那彦神像石神社(旧鎮座地)神像石(カムカタイシ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社の旧鎮座地です 古老の云うところには 少彦名命(スクナヒコナノミコト)が 海から依り憑き 阿良加志比古神(アラカシヒコノカミ)と協力して 郷民を害す 毒虫 及び妖鳥を亡ぼして この地方の平定を成し遂げたと伝わり その神「少彦名命(スクナヒコナノミコト)」の上陸の地に一種の神像に代わる霊石として祀られたのが御神体の「神像石(カムカタイシ)」縦七尺二寸 下幅三尺八寸 上幅二尺五寸の巨石とされます
宿那彦神像石神社〈旧鎮座地 神像石〉(七尾市)御神体の「神像石(カムカタイシ)」は縦七尺二寸 下幅三尺八寸 上幅二尺五寸の巨石と伝わります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承
官社に列したと記されています
【意訳】
貞観2年(860)6月9日 戊子の条
能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)
宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)
二前 並び於いて 官社に列す
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承
式内社として 安倍屋村(アブヤ村)にあり 赤衾(アカブスマ)産神(ウブスナノカミ)と 比定しています
【意訳】
宿那彦神像石神社(スクナヒコノカミカタイシノカミノヤシロ)
三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す〇今 安倍屋村(アブヤ村)にあり 赤衾(アカブスマ)産神(ウブスナノカミ)
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承
式内社として 金丸村に鎮座すると 比定しています
【意訳】
宿那彦神像石神社
宿那彦は 須久奈比古(スマナヒコ)と訓ずべし
像石は 前に同じ〇祭神 明らかなり
〇金丸村に在す 神社帳官社
三代実録 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』1 『神社覈録』2
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
式内社の論社2神社〈金丸村と黒崎村〉について どちらも確証がなく 比定できていません
【意訳】
宿那彦神像石神社
祭神 少彦名命
官社
清和天皇 貞観2年(860)6月9日 戊子の条 能登国(ノトノクニ)
大穴持神(ヲアナモチノカミ)宿那彦神像石神(スクナヒコノカミカタノイシノカミ)二前 並び於いて 官社に列す所在
今 按〈考えるに〉
鹿島郡金丸村 同郡黒崎村 両村ともに 従来 宿那彦神像石神社と称し
各石を神寶とす
金丸村は 貞享2年(1685) 由来書に記し
黒崎村は 享保7年(1722) 由来書にのせたるのみにて更に確証なし
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承
【意訳】
石川縣能登國鹿島郡金丸村
郷社 宿那彦神像石(スクナコノカミカタイシノ)神社
祭神 少彦名命(スクナヒコナノミコト)
當社は延喜式内の舊社にして、
神名帳考証に、今在蟲屋村赤衾アブスマ産土神也、
又
新校に貞観2年6月9日 能登大穴持命 宿那彦神像石神 二前並列 官社 大穴持 上能登生國 玉比古神社 是乎とあり。
古老傳及社記に曰く、上古 草味の世 國中 妖魔残賊多く、人民疾苦す、大己貴命少彦名神深く之を憂ひ給ひ、越の北邊より船にて此國に渉り、竟に諸妖を退治し、国内を平定し給ふ、而して 神尚其餘孽の再び郷民を悩まさん事を恐れ、大己貴命は氣多崎に、少彦名神は此地に神霊を石に留め、以て後世迄 守護し給へり、爰を以て 人民漸く蕃殖し、山野開けたりと、崇神天皇の朝 大己貴命の神霊を氣多崎に、少名彦命の霊石を當社に安置し、以て其 高大深遠の神恩に報答し給へり。(其の霊石傳へて今尚存ぜりと)
是 當社 創立の起源にして、社號の依て起る所也、然るに、後世 星移り物變り 神威漸く衰へ給ひしかば、
清和天皇 貞観2年6月9日捿井宿基継を勅使として 當社に参向せしめ、官社に列せられ、崇敬最も厚く、此より社運日に月に盛大に赴き、宮殿壮麗諸般の結構宏大なりしが、
中古数度の兵火に遭ひ社運 遂に衰へ、今は全く 其の舊観を失せり。當社 往古より宿那彦神像石神社と称へ来たりし所、
明治6年6月 金丸射と改称 村社に列し、明治10年3月氣多神社 摂社に列せられ、更に 宿那彦神像石神社と復称し、13年3月郷社に列す。
尚 社内に気多神社 御着石とて鳥居の内左側にあり。
建物は本殿、拝殿、神饌所、手洗舎等あり、境内210坪を有し、松杉茂り、神池釣瓶塚、鳥居塚等其の近傍に散在し、共に其の古跡を留む。後方 眉丈山の麓にして老樹蒼生し神域として尊崇すべし。
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』
宿那彦神像石神社(Sukunahikokamukataishi Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
能登国 式内社 43座(大1座・小42座)について に戻る
能登国(のとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 能登国には 43座(大1座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
能登國(のとのくに)の 式内社 43座(大1座・小42座)について