実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

須原大社(伊勢市一之木)

須原大社(すはらおおやしろ)は 社号の須原は「州原」 宮川の支流静川の流域で このあたりが一面の原であったことを意味すると云われ 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原坐國生神社(かわはらのます くなりの かみのやしろ)の論社 高河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉月夜見宮の境内に祀られる)の旧鎮座地とされます

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

須原大社(Suhara ohoyashiro

通称名(Common name)

 大社(たいしゃ)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市一之木 1-3-6

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊,天之穂日尊,天津日子根尊,活津日子根尊,熊野久須日尊,多岐賣理比賣命,市木島比賣命,多紀津比賣命

《合》木花開耶姫命,大山祇神,菅原道真公 不詳一座

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【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

須原大社(すははらたいしゃ)

所 在 三重県伊勢市一之木 1丁目36

主祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊ら八王子
    ほかに大山祇神 木花開耶姫命などを合祀 山田産土神八社の一つ

例 祭 九月十五日

特殊神事 二月十一日御頭神事
宝 物 獅子頭一個

 須原は「州原」で、宮川の支流静川の流域で、このあたりが一面の原であったことを意味していると言われます。

 外宮の門前町山田には大きな勢力として、須原方・坂方・岩淵方などがありました。
 須原大社は、この須原方の産土神(うぶすなかみ)ありました

 ご祭神の八王子とは、アマテラスオオミカミがスサノオノミコトと誓約した時に生まれたとされる五男三女の神々のことといいます

社頭の案内板より

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【由  (History)】

由緒

 当社は古来、「大社」とのみ称されていたが、近年「須原」の二字を加えて須原大社と唱えるようになった。
須原というのは、天福2年(1234)正月処分状によれば、「沼木郷山田村内の一地区」であり、既に天治元年(1124)に外宮禰宜に補せられていた度会高行を「須原の三」といい、その子忠行は、建仁2年(1202)に禰宜であったが「須原の長」とも称されていた。このことからも、古くから須原の地名が存したことが判かる。
須原の邑の取部(地区)は、東は宮後田中世古豊川、南は中館表宮後利下之久保、西は大世古、北は一之木走下となっていた。これは現在の氏子地域とほぼ重なっている。
即ち、当社の創祀については不詳であるが、往古より須原地区の産土神として奉祀とされて来た社であることが判る。
 また、合祀祭神には、大山祗神(元社地宮後町)、木花開耶姫命(元社地大世古町北宮川)、菅原道真公(元社地本町)、菅原社(元社地一志久保町)、久保菅原社(元社地大世古町)、梅林菅原社、拝田社があり、現在に至っている。
 尚、当社には、神宮式年遷宮に際して、御造営に伴う古材の拂下げを受て、神宮の還宮の2年後に、当社の社殿、鳥居等を造替する御遷座祭を執り行なうのが古例となっている。

<特殊神事>
 2月11日 獅子舞の奉納は、氏子の青年に依り継承されている。
祭典当日より前の休日に奉加奉仕をする全員が 二見輿玉神社にて 晴め祓いを灸け祭典当日は 早朝 神前にて奉納の後 午後9時頃出発 氏、季区域を 囲むように 厄払いの舞を要所要所にて奉仕 午後5時半頃神社に戻り、全段にわたり奉納後 太刀により厄災を断ち昇神の義を疼える。

 伊勢の山田には 氏神社 七社において 天文の頃には 御領舞の 神事が行われていた記録があり 大社に於いて4神事が行われていたと見られるが 詳細は不詳である。太平洋戦後 一時途絶えていた 神事は 昭和五十年の 御神遷を機会に復活 我等の青年により奉仕されている。

皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会と三重県神社庁教化ホームページ委員会HPより

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

須原大社の社殿

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・並社(ならうのやしろ)

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『三重県神社誌』

【抜粋意訳】

  • 境内社 並社(ナラウノヤシロ)

一、祭神

不詳二座
大山祇神(オホヤマヅミノカミ)
木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)
稻荷(イナリ)神
菅原(スガハラ)神

  • 由緒
    當社は元石神社と稱せしが 明治四十一年二月十四日 大字本町無格社菅原社 同境内社稻荷社 大字一志久保町無格社久保菅原社 大字大世古町同拜田社 大字宮後町同三吉稻荷社 同山神社 同稻荷社 大字一之木町同火除稻荷社を同年三月九日 大字大世古町無格社浅間社 同梅林菅原社 同稻荷社二社を合祀 並社と改稱するの許を受け同四十二年四月ー日合祀せり
  • 不詳一座  石神社鎮座にして由緒は「明細帳 Jに「古老の説に云 當社は往昔 近邊民家の井より一つの石を堀出し路傍に置きしより 此所通行の人々怪我する者多くあり 是此石の崇りならんと 南世古なる組合の者 協議し石神社と奉祀せしに 其後無異なれは彌信從し 毎年祭事なし來りしに明治廿年六月街路取締規則発布により同廿二年二月願済同年三月須原大社境内に移轉祭 祀せり社殿無之」とあり
  • 稲荷神
    ※以下略

【原文参照】

三重県神職会 編『三重県神社誌』 第1,三重県神職会,大正8-15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/943709

三重県神職会 編『三重県神社誌』 第1,三重県神職会,大正8-15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/943709

・須原稲荷神社(すはらいなりじんじゃ)

《主》宇迦之御魂神,火除稲荷大明神,三吉稲荷大明神,長谷稲荷大明神,鬼頭稲荷大明神,勘蔵稲荷大明神,桜林石麿稲荷大明神

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 川原坐國生神社
[ふ り が な ](かはらのます くなりの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kaharanomasu kunari no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原坐國生神社(かわはらのます くなりの かみのやしろ)の論社について

神宮司庁 編『神宮要綱』には

「式内社 川原坐國生神社(かわはらのます くなりの かみのやしろ)が もと月夜見宮の東方に鎭座ましませることは、神名祕書及ぴ社記の記賊によりて明かなり。
寛文攝社再興記に、其の奮跡福島助六の所有地内にあり、山田奉行を經て交涉せしめん希望の由見えたれども、乏を其の地に再興する能はずして月夜見宮の宮域内に於てしたるは、交涉不調の結果なるべし。」と記されています

゛其の奮跡福島助六の所有地内゛とは〈現 須原大社(伊勢市一之木)〉の事で 現在は 月夜見宮の境内に祀られています

・高河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
高河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉(月夜見宮 域内)

高河原神社(たかがわらじんじゃ) は 豊受大神宮(外宮)の摂社です 『延喜式神名帳927 AD.』所載 伊勢國 度會郡 川原坐國生神社(かわはらのます くなりの かみのやしろ)とされます その後 応永26年(1419)に焼失し 近世には社地不明となりましたが 寛文3年(1663)現社地(月夜見宮 域内)に再興されました

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・須原大社(伊勢市一之木)
〈高河原神社の旧 鎮座地〉

一緒に読む
須原大社(伊勢市一之木)

須原大社(すはらおおやしろ)は 社号の須原は「州原」 宮川の支流静川の流域で このあたりが一面の河原であったことを意味すると云われ 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原坐國生神社(かわはらのます くなりの かみのやしろ)の論社 高河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉(月夜見宮の境内に祀られる)の旧鎮座地とされます

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

月夜見宮から見て 道路を挟んで 西隣に鎮座します

・月夜見宮〈豊受⼤神宮(外宮)別宮〉

一緒に読む
月夜見宮〈豊受⼤神宮(外宮)別宮〉

月夜見宮(つきよみのみや)は 古くは 高河原(たかがわら)と呼ばれ 農耕の神を祀る神社であったと云います 延喜式〈927年12月編纂〉式内社 伊勢國 度會郡 月夜見神社(つきよみの かみのやしろ)の時は 外宮摂社の首位でした その後 土御門天皇の承元四年(1210)土宮の嘉例に淮じ豊受大神宮(外宮)の別宮に昇格しました

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月夜見宮〈豊受神宮(外宮)別宮〉の社頭から徒歩2分

須原大社(伊勢市一之木)に参着

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鳥居の横に 社号標゛須原大社゛とあります

社頭は 境内の東側にあり 社殿は〈向かって右手〉南を向いています
正面は 社務所です

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社殿は 南を向いて 三殿が並んでいて
向かって右から須原大社・並社・須原稲荷神社

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殿にすすみ お祈りをしま

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 境内を出て 月夜見宮の北側を歩き 伊勢市駅へと

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 川原坐國生神社について 所在は沼木郷月宮地内東に在す〈現 高河原神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

川原坐國生神社

川原は加波良と訓べし、國生は前に同じ

○祭神 月夜見神御玉
○沼木郷月宮地内東に在す、神名略記

○式四、伊勢大神官 度曾宮所摂十六座の第十に載す、
○神名略記云、今 高河原社祭祀之、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 川原坐國生神社について 所在は山木郷山田村 月讀宮東にあり〈現 高河原神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

川原坐國生(カハラニマスクナリノ)神社

又 髙河原社と云、延暦儀式帳、延喜式、神名秘書、
〇按 儀式帳に、髙河原社、川原社、川原淵社を挙げて延喜式に川原社を川原大社に作る時は、髙川原 即 川原國生神なる事 明らかなり、附て考に備ふ

今 山木郷山田村 月讀宮東にあり、神名秘書、神名帳考証、神境紀談
國生神を祀る、延喜式〇按 神祇本源神名秘書
醍醐天皇 延喜の制、祈年神甞の祭に預る、延喜式

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 川原坐國生神社について 所在は山田宮後町 月讀宮域内〈現 高河原神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

川原坐國生神社

祭神
祭日 六月九月十二月 並十八日
社格 外宮所攝 十五所之一

所在 三重縣(月讀宮域内)沼木郷山田宮後町 月讀宮域内

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

須原大社(伊勢市一之木) (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

一緒に読む
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について

伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です

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  • B!

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