実践和學 Cultural Japan heritage

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菅田神社(小野市菅田町)〈鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命を祀る〉

菅田神社すがたじんじゃは 鍛冶の神天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔とされる「菅田(すがたの)首(おびと)」が祀った神社と云われ 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり当社にも住吉神が祀られていきました

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

菅田神社Sugata shrine

通称名(Common name)

・旧称 菅田山王権現ノ社(すがたさんのうごんげんのやしろ)

【鎮座地 (Location) 

兵庫県小野市菅田町568

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天目一箇神(あめのまひとつのかみ)
〈別名 天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)〉

《配》住吉大神(表筒男命,中筒男命,底筒男命,気長足姫命
   大山咋神(おほやまくひのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

由 緒

 延喜式所載の菅田神社の分霊にして、保安年間(1120~1123)、今の地に遷座。住吉三神を合祀し、住吉神社と称すも、後、日吉神社を合祀し、山王権現と崇める。あるいは、式内菅田神社を当社とする説もあり。

 延久2年(1070)、万治3年(1660)、社殿再建。

 明治以降、菅田神社と改称。
 明治7年(1874)、村社に列せられる。

 2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6311073.html

『下東条村治一斑』〈大正6年(1917)に記される内容〉

【抜粋意訳】

第十社寺ノ部 神社

 

村社 菅田神社

ー、現在位置、下東條村菅田字源左夫垣内に鎮座す

二、創  立、年月日不詳 延久二年四月再建 明治七年二月村社格に列せらる

三、社地の変遷、本村内菅田村字南垣内二菅田神社は 鎭座ありしを人皇七十四代鳥羽天皇 保安年間故ありて 本村大字中番字島のかいちへ移轉の際 御神霊を現社地に奉遷したるものなりとぞ

四、祭  神、表筒男命•中筒男命、底筒男命三柱 及 息長足媛命

五、建築改築、現今の社殿は 人皇七十一代御三條天皇 延久二年四月の再建にかかる

六、現社地境内、面積千七百八十三坪

七、記  錄、當神社の事を記載せる書籍は左の如し
  イ、延喜式   口、伊呂波字類抄   ハ、神社覈録   二、播磨鑑   ホ、播陽事始經歷考 へ、大日本地名辞書   卜、村社菅田神社御由緖調査書

【原文参照】

『下東条村治一斑』,下東条村,大正6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/907872

【由  (History)】

『加東郡誌』〈大正12年(1923)〉に記される内容

【抜粋意訳】

第九編 神社 第三章 村社

菅田神社

 菅田山王権現ノ社ふ 加東郡菅田村にあり (中略)ここより一里半上みにあつとしと神社あり 其神より例年九月八日に神の御使として大猿ーつ來る違ふことなし云不思議といふべし【式内神社考

【原文参照】

加東郡教育会 編『加東郡誌』,加東郡教育会,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/978702

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・社殿〈拝殿・幣殿・本殿覆屋〉

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・拝殿

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・〈境内北側の境内社 六宇の石祠〉

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・社頭の鳥居

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・宮の池

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ

記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承

天一神社の鎮座地 東徳久(ひがしとくさ)では 平成4年平成8年にかけて 東徳久遺跡の発掘調査があり 古代製鉄遺跡(炭窯跡)が発見されました 製鉄操業が盛んな地であったことが裏付けられています

明治20年(1887)頃には 北に隣接する平松地区で弥生時代の銅剣が出土して 兵庫県指定文化財となっています 一説に天一神社の御神体とも云い 天一神社の宝剣とされています

讃容郡(さよのこほり)〈中川里〉の条には 蛇行剣(蛇のようにうねった刃をもつ剣)の出土が 記されていますので 関係性はあると想います

【抜粋意訳】

讃容郡(さよのこほり)〈中川里〉

 近江天皇の御世天智天皇 在位668~672年

丸部(わにべの)具(そなう)という者が 仲川里いた この 河内国の免寸(とのき)の村人が持ってを買い取った
得て以後 はこぞってび亡くなってしまった

れから 苫編部(とまみべ)の犬猪(いぬゐ)が かの地の墟〈滅んだ家の跡地に圃(はたつくり)畑を作り〉をすると 土の中に この劔を得た
土を取り去ると 劔 廻り一尺(約30cm)ばかり その(え) 朽ち失せていたが その渋(さ)びず 光明は鏡の如くであった
ここ犬猪(いぬゐ)は 怪しんでを取り家に帰った すぐに鍛人(かぬち)鍛冶を招き その刃を焼かせた
の時 この劔は 蛇の如く 伸び縮みして 鍛人は いにき つくらずに止めてしまった
そこで 犬猪(いぬゐ)は (あやしきつるぎ)であると 朝廷に献上された

その後 浄御原朝廷(天武天皇の御世)
甲申の年〈天武12年684)〉七 曽禰連麿(そねのむらじまろ)を遣わせて 本處〈元の所還しられた 今は この里の御宅に安置されている

【原文参照】

『播磨国風土記』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2538170

『播磨国風土記』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2538170

託賀郡(たかのこほり)賀眉里(かみのさと)の条には 天目一(あのまひとつのみこと(火を見て片目となる)一つ目の神で 鍛冶の神〉の記載があり やはり製鉄に関する神についての記述だと想われます

゛後に その田は荒れてしまったので 故に荒田村と名付けた゛とある文については
現実的な考証をすると 古代 砂鉄の採集としての鉄穴(かんな)流し タタラ製鉄の際の木材の伐採などによる 流域に大量の土砂が堆積して 田が荒れて 荒田(あらた)か?

【抜粋意訳】

託賀郡(たかのこほり)賀眉里(かみのさと)
大海山(おおうみやま)荒田村(あらたむら)

賀眉(かみ) 川上〈加古川の川上〉にあったので名付けられた 大海と名付けられた所以は 昔 明石郡の大海里の人が到り来て この山の麓に居住した 故に大海山と云う 此処には松が生えている

荒田と名付けられた所以は この處(ところ)に在す神 道主日女命(みちぬしひめのみこと)父(夫)なくして み児を生みましき
その時 盟酒(うけひざけ)を醸(かも) 田を七町作ると 七日七夜の間に稲が成熟し その米で酒を醸(かも)し 諸神を集めて振る舞うと の御子に養〈父神〉に酒を注ぐように命ずる その子は 天目一命(あまのまひとつのみこと)に酒を奉りましたので その父だと知ることとなりました
後に その田は荒れてしまった 故に荒田村と名付けられました

【原文参照】

『播磨国風土記』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2538170

『播磨国風土記』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2538170

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 8座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 菅田神社
[ふ り が な ]すかた かみのやしろ
[Old Shrine name]Sukata no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛について

天目一箇神は 鍛冶の神とされ
『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶であった゛天津麻羅(あまつまら)゛と同神ともされ 別名も多く 天目一命(あまのひとつめのみこと)とも呼ばれます

神名の゛目一箇(まひとつ)゛とは 鍛冶師は 製鉄の時 片目をつぶり 鉄の色を見て温度を見た事によるとも 鍛冶の職業病として 鉄を打つ火の粉によって片目を失明する゛一つ目(片目)゛の意味であろうとされます

式内社 天目一箇神社(あめのまひとつのかみやしろ)の論社が 多くある「多可町」には ゛鍛冶屋(かじや)と云う 地名があるのも頷けます゛

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゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を祀る 播磨國の式内社について

播磨国は 古くから製鉄や鍛冶が行われていたと伝わり 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を信仰する製鉄・鍛冶の拠点に祀られたと考えられます

①播磨國 佐用郡 天一神玉神社(貞)(あめのひとつかんたま かみのやしろ)

・天一神社(佐用町東徳久)

一緒に読む
天一神社(佐用郡佐用町東徳久)〈播磨國風土記・六国史・延喜式に所載の社〉

天一神社(てんいちじんじゃ)は 社伝には゛今より約二千年前(彌生時代)に創立 日本でも最古の神社で寶剣(銅剣)が御神體なるは天智記に「安置御宅」゛と記され 『六国史』天安元年(857)天一神に從五位下が奉授 その7日後に官社に列すと記され 『延喜式』播磨國 佐用郡 天一神玉神社(あめひとつかんだまの かみのやしろ)です

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②播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社

式内社 天目一神社は 江戸時代には所在不明となっていました

所在地が不明であった天目一神社について 明治以降に多可郡内の数カ村の神社が名のりを上げました

・天目一神社(西脇市大木町)

一緒に読む
天目一神社・平野神社(西脇市大木町)〈天目一箇命を祀る古社〉

天目一神社(あめのまひとつじんじゃ/てんもくいちじんじゃ)は 天正八年(1580)兵火にあい記録類を失い 江戸時代には社地も不明でした 明治維新の後 当時 惣堂天王社のあったこの地を式内社 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の跡地と定め 鎮守である平野神社も合祀され 大正12年(1923)復興されたものです

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・青玉神社(多可町加美区鳥羽)

一緒に読む
青玉神社(多可郡多可町加美区鳥羽)〈祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命〉

青玉神社(あおたまじんじゃ)は 伝承では 祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命で 初め三国岳の山頂に祀られていた ある時 鳥羽(とりま)の村人が三国山に狩りに行くと 急に背中が重くなり不思議に思いながら下山した 村はずれで急に背中が軽くなり「背中に乗った神様が降りられた」として社を建てたのが現在の社地と云う

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・稲荷神社(多可町中区糀屋)

・天目一神社(多可町中区間子)
〈加都良神社 境内社〉

一緒に読む
式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)〈加都良神社の境内摂社〉

式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)は 式内社 加都良神社の境内摂社として祀られています 天目一命は 多可町内では他に 青玉神社(山寄上やまよりかみ) ・青玉神社(鳥羽とりま)・西宮神社(清水きよみず)で主祭神として 大歳金比羅神社(鍛冶屋かじや)・加都良神社(間子まこ)では 摂社として祀られています

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・荒田神社(多可町加美区的場)天目一神社(的場 御田上

一緒に読む
荒田神社(多可町加美区的場)〈播磨國二之宮〉

荒田神社(あらたじんじゃ)は 社伝に゛孝謙天皇 天平勝寶元年(749)゛少彦名命゛が降臨し創建と云う 一方『播磨国風土記』〈霊亀元年(715)頃〉には゛天目一命゛と゛道主比賣命゛の伝承が語られ 延喜式内社 播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)とも 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)とも云います

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〈参考論社〉
・大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉

一緒に読む
大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉

大歳金刀比羅神社(おおとしこんぴらじんじゃ)は 往古は 鍛冶の神 天目一命(あまのまひとつのかみ)を奉祀したと推測され 現在も本殿相殿・境内摂社に天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が祀られています 明治44年(1911)在来の大歳神社に〈摂社〉金刀比羅神社〈寛政6年(1794)讃岐琴平宮より勧請〉を合祀し 現社号に改称

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③播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)

『新撰姓氏録』に〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔として「菅田首」があり 「菅田氏」が祖神を祀った神社とされています

・菅田神社(小野市菅田町)

一緒に読む
菅田神社(小野市菅田町)〈鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命を祀る〉

菅田神社(すがたじんじゃ)は 鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔とされる「菅田(すがたの)首(おびと)」が祀った神社と云われ 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり当社にも住吉神が祀られていきました

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・住吉神社(小野市中番町)

一緒に読む
住吉神社(小野市中番町)〈延喜式内社 菅田神社(すかたの かみのやしろ)〉

住吉神社(すみよしじんじゃ)は 「菅田首(すがたのおびと)」が祀ったとされる 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)が分祀し 保安年間(1120~1123)今の地へ遷座したものとされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり 住吉大社の神領として 住吉三神を配祀し 住吉神社と改称されています

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・山王神社(加東市厚利)

・八坂神社(小野市中番町)

「菅田氏」が居住し 祖神を祀った式内社 菅田神社について

菅田神社小野市菅田町と同様に 祖神 天目一箇神を祀る式内社

菅田(すがたの)首(おびと)の一族は 大和国添上郡筒井郷(現在大和郡山市)と近江国蒲生郡桐原郷でも鍛冶を営んでいたとされ この両郡には 式内社の菅田神社が建立されています

菅田神社と号されるのは どちらも 菅田首が 播磨国加茂郡(のちの加東郡)東条の菅田を発祥地としたからであるとの説もあります

延喜式内社 大和國 添下郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社

・菅田神社(大和郡山市八条町)〈全国 鍛冶の神の総社〉

延喜式内社 近江國 蒲生郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社

・菅田神社(近江八幡市中小森町)

・竹田神社(東近江市鋳物師町竹田)

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

神戸電鉄栗生線 小野駅から北東方向へ約7km 車15分程度

鳥居の前には 階段状の地形が広がっています これは東條川の川の流れに沿ってつくられた河岸段丘 ( かがんだんきゅう ) です

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北側を流れている東條川の対岸には 同じく 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社となっている住吉神社(小野市中番町)があります

これは 式内社 菅田神社は 元々は 東條川の南岸の字 南垣内の宮山と呼ぶ地に鎮座していたと云い
その後 氏子の増加に伴い 氏子が川の両岸に住むようになって 参詣をする便宜上 争いを生じて ついに社殿を分散して二ヶ所に分けて遷座したと云う 

保安年間(1120~1124年)
一社は 現在地(
菅田神社小野市菅田町
もう一社は 東条川を挟んで北側 住吉神社(小野市中番町)と社名を変更したと伝わります

住吉神社(小野市中番町)については 別の記事を参照して下さい

一緒に読む
住吉神社(小野市中番町)〈延喜式内社 菅田神社(すかたの かみのやしろ)〉

住吉神社(すみよしじんじゃ)は 「菅田首(すがたのおびと)」が祀ったとされる 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)が分祀し 保安年間(1120~1123)今の地へ遷座したものとされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり 住吉大社の神領として 住吉三神を配祀し 住吉神社と改称されています

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菅田神社 社頭の鳥居は西を向いています

鳥居の脇には゛宮の池(みやのいけ)゛という溜池があります

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菅田神社小野市菅田町に参着

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一礼をして鳥居をくぐり抜けて 境内に進むと 左手には境内社の石祠が祀られています

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の床下に 見事な゛鬼瓦゛が置かれています

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拝殿の奥には幣殿 本殿の覆屋の中に本殿が鎮座しています

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社殿に一礼をして 境内を戻ります

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鳥居から出ると 東條川の川の流れに沿ってつくられた河岸段丘 ( かがんだんきゅう ) が広がります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 菅田神社について 所在は゛條中村に在す ,今住吉明神と゛〈現 住吉神社(小野市中番町)〉と記しています

又 播磨鑑の説として゛菅田村は川越故川北に移す、宮ヶ坂と云、菅田村の内也、゛〈現 菅田神社(小野市菅田町)〉とも記しています

【抜粋意訳】

菅田神社

菅田は須賀多と訓べし

〇祭神 菅田首祖神欺

〇賀條中村に在す ,今住吉明神と、〔播磨鑑〕

例祭 九月九日

 播磨鑑に、菅田村は川越故川北に移す、宮ヶ坂と云、菅田村の内也、」式社記、古跡便覽、共に菅田村山王権現也と云う、國圖を見るに、束條川の南に中番村・同北に菅田村あり、
されば皆 地名の違へるにあらず、考の違へる也、

類社
 大和國添下郡菅田神社の條見合すべし

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 菅田神社について 所在は゛今 加東郡菅田村にあり、゛〈現 住吉神社(小野市中番町)〉と記しています

【抜粋意訳】

菅田(スカタノ)神社

今 加東郡菅田村にあり、〔神名帳考証、神名帳打聞、飾磨縣神社調〕

盖 菅田首の祖 天目一命を祀る、〔参酌新撰姓氏録、延喜式〕

凡 其祭 十月十八日を用ふ〔飾磨縣神社調〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 菅田神社について 所在は゛菅田村 (加東郡下東條村大字菅田)゛〈現 菅田神社(小野市菅田町)〉と記しています

又 菅田と中番村は もと一村だったが 川を隔ていて別れたのか証拠がないが ゛一説加東郡中番村住吉神社を菅田神社云ひ゛〈現 住吉神社(小野市中番町)〉とする説もある と記しています

【抜粋意訳】

菅田神社

神 天久斯麻比止都命

今按 新撰姓氏録 菅田 天久斯麻比止都命之後也とみえ 播磨風土記にも此神の此國に住ませる事みえて 田神社の條に引るか如く  神崎郡にも天目一神社あるを合せ考るに 社に祭れるは菅首の祖神にます事明かなり

祭日 十月十日
社格 村社

所在 菅田村 (加東郡下東條村大字菅田)

今按 一説加東郡中番村住吉神社を菅田神社云ひ 其社の十町許辰己に字菅田谷と云地ありと云をとし  組合の七ヶ村古へは姿の里と云などもみえたれと他になければとらず され神社覈録に式社記 古跡便覧 共に菅田村 山王権現也と云り をみるに東條川の南の中番村同北に菅田村ありされは皆地名の違へるにあらす考の違へる也と云る如く 菅田と中番ともと一村なりしか 川を隔たるを以て 別れたりけんも知るへからす 今は菅田の名正しく存れる菅田村の方ありて聞ゆれは之に從へり

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

菅田神社小野市菅田町 (hai)」(90度のお辞儀)

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播磨国 50座(大7座・小43座)の式内社に戻る

一緒に読む
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について

播磨国(はりまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 播磨国 50座(大7座・小43座)の神社です 播磨国は 和銅6年(713) の詔によって『播磨国風土記』が編纂されていますので 7世紀には成立したとされています

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  • B!

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています