実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

園相神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

園相神社(そないじんじゃ)は ゛園作神曽奈比比古命゛が皇大神に御園を奉り これ祝い 倭姫命が社を定めたと伝わる古社 皇大神宮(内宮)摂社27社中 3位と格式高い神社ですが 中世には頽廃して社地も不明となり 寛文3年(1663)河邊精長が度会郡積良村に再興 この再興地に疑義があり 元禄1694大中臣長春が津村を旧社地と定め 現在地へ遷座しました

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

園相神社(Sonai shrine

通称名(Common name)

白木さんしろきの宮

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市津村町字白木723

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》曽奈比比古命(そなひひこのみこと)〈別称 園作神(そのつくりのかみ)
   御前神(みまえのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

歯痛にご利益があるという信仰が かつて存在した

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・〈皇大神宮(内宮)摂社〉

【創  (Beginning of history)】

倭姫命巡幸の時 この地で園作神(そのつくりのかみ)が 天照大神への御園を奉られたことを祝い 社をめた
中世には 頽廃して社地も不明となる
寛文1663大宮司 大中臣河辺精長が社地を城田郷積良に定め再興
元禄1694大宮司 大中臣長春が津村を旧社地と定め 現在地へ遷座する

『内宮私考』〈明33年(1900)〉に記される内容

【抜粋意訳】

園相神社

此社は 度會郡宮本村大字津村に在りて 神殿二區 内中絶 御同座祭神は 曾奈比比古命に坐せり 但皇太神宮延曆儀式帳に據る

【原文参照】

薗田氏熹 (荒木田) 著『内宮私考』,薗田氏熹,明33.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815896

薗田氏熹 (荒木田) 著『内宮私考』,薗田氏熹,明33.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815896

【由  (History)】

『神宮要綱』〈昭和3年(1928〉に記される内容

【抜粋意訳】

園相神社

鎭座地  三重縣度會郡宮本村大字津村

殿舎
正  殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、板扉付・・・壹間
玉  垣 連子板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其
神宮司庁造替

園相(ソナヒ)神社亦、皇太神宮儀式帳の所謂 造宮使造替六社の一にして、延喜大神宮式及び神名式に載す。
太神宮本記に倭姫命 皇大神を奉戴して宮所を覚めましゝ時 ,久求小野(ククノヲノ)より幸行の御途上に園作(ソノツクリ)神の奉迎して、御園地を献うしこと見ゆ。本社は其の園作神卽ち曾奈比々古(ソナヒヒコ)命を奉祀せる所とす。
中世殿舎 頽廃して社地不明なりしを、寛文三年 大宮司 大中臣精長の神宮攝末社を再興せる時、本社を度會郡積良村に造立したりしが、元祿七年 大宮司 長春 其の舊地を考定して、現今の地に移造す。然れども此の地 猶 儀式帳所載の四至に合はず。一説 沼木村大字圓座(エンザ)字曾奈布の地に擬す。蓋し圓座を以て園相に充つるなり。本社 御前社を奉祀せることは、文永遷宮記によりて知らる。但し寬文の再興に與らざりしを以て、今日猶建造を見るに至らず。社域は明治二十五年上地官林一反七畝二步を復舊して現狀を成せり。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

園相神社は 皇大神宮(内宮)摂社です

・皇大神宮(内宮)

一緒に読む
皇大神宮〈内宮〉(伊勢市宇治館町)〈伊勢神宮〉

皇大神宮(こうたいじんぐう)は 私たち日本人の総氏神「伊勢へ行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」と全国の人々で賑わう伊勢詣が有名です 通称を゛伊勢の内宮(ないくう)゛鎮座は゛垂仁天皇26年〈今から2000年前〉 御祭神は゛皇祖神 天照大御神゛御神体は皇位のしるし三種の神器の一つ゛八咫鏡(やたのかがみ)゛です

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭並預゛と記されます 

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】
瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】 

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座。
太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社

度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社
山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社

右諸社,並預祈年、神嘗祭

以下略

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 國津御神社
[ふ り が な ]そのふの かみのやしろ
[Old Shrine name]Sonofu no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

内宮・外宮の摂社・末社・所管社について

お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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内宮・外宮の摂社・末社にある゛御前神(みまえのかみ)゛について

本社とする神社の御前(みまえ)にある神の意です

朝熊御前神社 (あさくまみまえじんじゃ)〈内宮域外の摂社(朝熊神社境内)〉

・朝熊御前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》朝熊御前神(あさくまみまえのかみ)

一緒に読む
朝熊神社&朝熊御前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

朝熊神社(あさくまじんじゃ)&朝熊御前神社(あさくまみまえじんじゃ)は 五十鈴川と朝熊川の合流する東岸丘にあり 垂仁天皇27年(BC3)倭姫命が石と化した大歳神(おほとしのかみ)を祀ったのが創祀と伝える 皇大神宮(内宮)の27摂社の内 第1摂社です『延喜式神名帳』では 伊勢国 度會郡 朝熊神社(あさくまの かみのやしろ)と記されています

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園相神社(そないじんじゃ)に御同座 御前神(みまえのかみ)

・園相神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》曽奈比比古命(そなひひこのみこと)〈別称 園作神(そのつくりのかみ)
   御前神(みまえのかみ)

一緒に読む
園相神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

園相神社(そないじんじゃ)は ゛園作神〈曽奈比比古命〉゛が皇大神に御園を奉り これを祝い 倭姫命が社を定めたと伝わる古社 皇大神宮(内宮)摂社の27社中 第3位と格式高い神社ですが 中世には頽廃して社地も不明となり 寛文3年(1663)河邊精長が度会郡積良村に再興 この再興地に疑義があり 元禄七年(1694)大中臣長春が津村を旧社地と定め 現在地へ遷座しました

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鴨神社(かもじんじゃ)に御同座 御前神(みまえのかみ)

・鴨神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》石己呂和居命(いしころわけのみこと)
   御前神(みまえのかみ)

一緒に読む
鴨神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

鴨神社(かもじんじゃ) は 皇大神宮(内宮)の摂社で『延暦儀式帳』〈延暦23年(804)〉によれば ゛倭姫命の祝ひ定め給ふ所゛と伝わり その後 中世に頽廃しましたが 寬文三年(1663)攝社として再興され この時は 本村字竈谷の地゛氷室洞くつ゛の所に本社が造立されています 明治九年(1876)更に神宮司廳に於て 現在の地に移造されています

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田乃家御前神社 (たのえみまえじんじゃ)〈田乃家神社御同座〉

・田乃家神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》大神御滄川神(おおかみのみさむかわのかみ)

一緒に読む
田乃家神社〈御同座 田乃家御前神社〉〈皇大神宮(内宮)摂社〉

田乃家神社(たのえじんじゃ)〈御同座 田乃家御前神社(たのえみまえじんじゃ)〉は 創建は 第21代 雄略天皇の御代(457~479年)と伝わる皇大神宮(内宮)の摂社 かつて造宮使造替六社の一つで高い格式がありましたが ここも中世に頽廃し 寬文三年(1663)に再興されました その際 御前神は正殿に御同座し〈昔は二殿あり〉 現在に至ります

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蚊野神社〈御同座 蚊野御前神社(かのみまえじんじゃ)

蚊野神社〈御同座 蚊野御前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》大神御蔭川神(おおかみのみかげかわのかみ)
〈御同座〉蚊野御前神社《主》御前神(みまえのかみ)

一緒に読む
蚊野神社〈御同座 蚊野御前神社〉〈皇大神宮(内宮)摂社〉

蚊野神社(かのじんじゃ)御同座する 蚊野御前神社(かのみまえじんじゃ)は 第21代 雄略天皇(457~479年)が定めたと伝え 皇大神宮(内宮)の27摂社の第7位と格式があります 規定では 造替使がその任に当り 20年に1度正宮と並び正殿を造替える神社でしたが 中世には頽廃してしまいます 寬文三年(1663)大宮司 河邊精長により 現社地に再興され 現在に至ります

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田上大水御前神社 (たのえおおみずみまえじんじゃ)〈外宮域外の摂社〉

・田上大水神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
田上大水神社〈御同座 田上大水御前神社〉〈豊受大神宮(外宮)摂社〉

田上大水神社(たのえおおみずじんじゃ)・御同座 田上大水御前(たのえおおみずみまえ)神社は 『止由気宮儀式帳〈延暦23年(804)〉』に記載ある古社ですが 中世に頽廃してしまい 権禰宜 出口延良が承応元年(1652)度会四門の氏人らとともに現地に再建したものです 寛文三年の再興では取り上げられず 明治四年の神宮御改正までは氏人により社殿の造替えが続けられました

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佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)〈伊雑宮 所管社〉

・佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)《主》佐美長御前神

一緒に読む
佐美長神社・佐美長御前神社(磯部町恵利原)〈伊雑宮所管社〉

佐美長神社(さみながじんじゃ) ・佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)は ともに『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に記される伊雑宮の所管社です 『延喜式神名帳(927)』志摩国 答志郡 同島坐神乎多乃御子神社(おなしきしまにます かむをたのみこの かみのやしろ)の論社でもあります

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鏡宮神社(かがみのみやじんじゃ)〈内宮の末社〉

鏡宮神社は 朝熊神社の御前神とされます 朝熊神社の境内に朝熊神社が建てられたため 現在地に遷座

・鏡宮神社〈皇大神宮(内宮)末社〉
《主》岩上二面神鏡霊(いわのうえのふたつのみかがみのみたま)
〈朝熊神社の御前神 岩上二面神鏡霊で御鏡を鎮祭する〉

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鏡宮神社〈皇大神宮(内宮)末社〉

鏡宮神社(かがみのみやじんじゃ)は 朝熊神社の御前神゛御神鏡゛〈岩上二面神鏡霊(いはのうえふたつのみがみのみたま)〉を鎮祭する皇大神宮(内宮)の末社です かつて二面の神鏡は 二つの川の合流点にある神聖な岩の上に祀られていた〈虎石(とらいし)〉(神域内〈朝熊川の岸〉木柵の中にある)とも〈潮干石(しほひいし)(五十鈴川の川中にある)とも伝わります

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR参宮線 伊勢市駅から県道22号経由 約7.7km 車15分程度

県道22号沿いに境内の入り口があります
注連縄柱のように二本の木がありますが これは自然木です

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園相神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に参着

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参道は砂利が敷き詰められていて 整然としていますが 曲がりくねるように進みます

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更に 参道に木々が生えていたり どんなに迂闊な方でも間違って 正中を進んだりは出来ません 神様には失礼にはなりません

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殿にすすみ お祈りをしま

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます

古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待つ〉

古代には 御前神を祀る御前社が存在し二殿であったと伝えます
文永3年(1266)の造替から 社殿の造替えは中座し その後に御前社は建てられていないので 御前神は御本社に御同座して坐ます

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 園相神社について 所在は沼木郷積良村に在す寛文3年(1663)大宮司 河邊精長が度会郡積良村に再興の地〉と記し

創建については゛倭姫内親王定祝゛と記しています

【抜粋意訳】

園相神社

園相は曾奈比と訓べし

〇祭神 曾奈比比古命

〇沼木郷積良村に在す、神名略記

〇式四、伊勢大神宮 大神宮所摂廿四の第二に戴す、
○倭姫世記云、于時久求都彦白久、造大宮処有白支、其処爾幸行志天、園作神参相支、御薗地進支、其処悦給、園相社定給支、』
儀式帳云、薗相神社、稱に大水上 曾奈比比古命、形石坐、倭姫内親王定祝、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 園相神社について 所在は積良村にあり寛文3年(1663)大宮司 河邊精長が度会郡積良村に再興の地〉と記し

諸書は 積良村に在りとしているが 四至(しいし/しし)に合わない
円座村の村南の畠字を「そのふ」と呼び 円座村の座神社ではないだろうか と疑問を投げかけています

【抜粋意訳】

園相(ソチヒノ)神社

今 沼木郷上薗生村の隣邑 積良村にあり、神祇本源、延暦儀式解、神名帳考証、
〇按 伊勢國式内社検録に、諸書 積良村にあれと、儀式帳の四至に合わず、今沼木郷に円座村あり、村南の畠字を「そのふ」と呼ぶ、園相を音読にして、神風抄衣佐御圖に作る、
衣佐は園相の訛音にして、円座村の座神社 尤も舊祠 且古色あり、其東に津村川流る、其の地 儀式帳の四至に符へれば、是即ち本社なる事、著しと云り、

大水上 曾奈比比古命を祀る、形石に坐せり、
垂仁天皇 御世、倭姫命之を定祝奉る、延暦儀式帳、

醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式、

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 園相神社について 所在は度會郡宮本村大字津〈現 園相神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記し

神社検録の説として 積良村に造立した〈現 園相神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉の旧社は 円座村の産神であろう 四至(しいし/しし)に一致すると記しています

【抜粋意訳】

園相神社

祭神 曾奈比比古命 大水上神兒

祭日 二月十一月十二日

社格 内宮所攝 二十四所の一

所在 三重縣沼木郷津村 (度會郡宮本村大字津 )
今按 神社検録 寛文三年 大宮司精長神社 再恐らくは再の下 興の字を脱せしならんの時 域田郷積良村に造立し元祿七年今の地に遷さる 舊社は津村の隣なる円座村の産神ならむ 圓座は園相の假音にて社域儀式帳の四至にかなへりとあり

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

園相神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

一緒に読む
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について

伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です

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  • B!

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