蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)は 日本武尊が東征の際 走水海で暴風雨に遭い 后の弟橘姫が同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じ それを鎮めました 社伝には その一人 蘇我大臣の娘 蘇我比咩は浜に打上げられ 里人により蘇生し都に帰った これを知り応神天皇が国造に任命した蘇我氏により 春日神・比咩神を祀り創建と云う
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
蘇我比咩神社(Sogahime shrine)
【通称名(Common name)】
春日大明神(かすがだいみょうじん)
【鎮座地 (Location) 】
千葉県千葉市中央区蘇我2丁目2−7
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》蘇我比咩大神(そがひめのおほかみ)
千代春稲荷大神(ちよはるいなりのおほかみ)
《配》天照皇大御神(あまてらすおほみかみ)
春日大明神(かすがだいみょうじん)〈経津主神(ふつぬしのかみ)武甕槌神(たけみかづちのかみ)天児屋根神(あめのこやねのかみ)天児屋根比売神(あめのこやねひめのかみ)〉
八幡大神(はちまんのおほかみ)〈応神天皇(おうじんてんのう)神功皇后(じんぐうこうごう)比咩大神(ひめのおほかみ)〉
御霊の大神
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由来
当社は、今から千五百年前から建てられていたといわれている。
古記によりますと、第十二代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊命が東国地方を統一すべく勅命を受け弟橘姫を始め多数の家来を引きつれ軍船に乗りて、千葉沖に差しかかったとき、風雨が強くなり船は進まず沈没の危険にあった。
このとき弟橘姫は「龍神の怒りに触れた」とこれを静め和げんと同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じた。そして日本武尊命は、無事航海をつづけた。
身を投じた五人の姫の中に蘇我大臣の娘たる比咩がおり、この方がこの下の海岸に打ち上げられた。里人等の手厚い看護で蘇生することが出来た。そして無事に都に帰ることが出来ました。又 里人達は日本武尊命が日嗣の皇子でありながら東征の途中にて崩ぜられ皇位を継承するに及ばなかった事を聞き及んでその霊をなぐさめんと社を建て神として祭った。
この里人等の行為に深く感激した第十五代 応神天皇は、特別の命により蘇我一族をこの周辺の国造として派遣し政治をおこなわせた。蘇我一族は、代々「春日神社」「比咩神社」を守護神としており、両神社の御分霊をいただき「蘇賀比咩神社」を建立した。「延喜式巻九神祇神名帳千葉群記載。」その徳は山より高く海より深く「春日様」「下總の国香取神明様」と下總の国の守護神として人々に敬神された。
江戸時代には、徳川家康も敬神され一〇石を献上した。この所は江戸又上総、香取への街道の要所にもあたり参勤する大名また人々の集まる宿場町であったため参詣する賑わいをみせた。明治五年社格郷社となり皇室、国家の守護となり皇族の尊宗をうけ参拝もあり、御手植の松もありましたが、明治の大火事で神社も社宝、古文書、御手植の松すべて焼災してしまったが今もって海難防止、民政安定、家運繁栄、五穀豊穣、諸病消除、延命息災など神威をこよなくあらたかな神として近隣の人々に敬拝されています。
現地案内板より
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【由 緒 (History)】
『千葉県誌 : 稿本』巻上〈大正8年〉に記される内容
【抜粋意訳】
蘇我比咩神社
千葉郡蘇我町大字曾我野字中宿に在り、境内四百九十九坪、祭神及び鎮座年月詳ならず。延喜式載する所の古社にして上代には千葉一郎の總鎮守たり、天正十九年德川家康 社領十石を寄附す、明治五年三月郷社に列せらる。文化年中火災に罹り社殿 神器 及び 別當寺院等 焼失し 爾桑 舊観に復せす。〔明治三十九年十二月幣饌料供進指定〕
【原文参照】
千葉県 編『千葉県誌 : 稿本』巻上,多田屋書店,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/960652
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・〈境内社〉天照八幡宮
・〈境内社〉八大龍王社
・〈境内社〉2社合殿〈大山阿布利神社・大三輪神社〉
・〈境内社〉招魂社《主》護国の英霊
・〈道路を挟んで東隣地 境内社〉三峯神社《主》伊邪那支神,伊邪那美神
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)下総國 11座(大1座・小10座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)千葉郡 2座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 蘇賀比咩神社
[ふ り が な ](そかひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sokahime no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
日本武尊と弟橘比賣命の゛走水(はしりみず)゛の伝承に ゆかりの式内社について
房総半島には 日本武尊と弟橘比賣命の伝承が 数多く残っていますが ゆかりある式内社もありますので ご紹介します
・姉埼神社(市原市姉崎)と島穴神社(市原市島野)は 同じ創建の由緒を持ちます
姉埼神社と島穴神社の共通の創建由緒について
日本武尊が東征の折 走水の海(浦賀水道)で暴風雨に遭い 走水の海が荒れたのは龍神の怒りであると悟った妃の弟橘姫は 大和国 龍田大社の風鎮めの神に 船の安全航行を祈願し 成就した時には この地に神社を建立することを約束し 海原に身を投じた この犠牲によって 日本武尊は 無事に上総に上陸することができたと『記紀神話』に述べられています
この弟橘姫を慈しみ 日本武尊は 弟橘姫をしのび 風の神を祀ったのが 姉埼神社と島穴神社の創建と伝わります
姉埼神社と島穴神社の御祭神について
かつては 神輿が 両社を行き来していたと云われてています この関係の深い両社の御祭神は
島穴神社の祭神は 志那津比古尊(しなつひこのみこと)
姉崎神社の祭神は 支那斗辨命(しなとべのみこと)
両神は 夫婦神(姉弟神とも)とされています
姉埼神社には 夫婦神としての伝承があります
この事にまつわる伝承の一つとして 姉埼神社(市原市姉崎)の境内には 松(マツ)が一本も植えられていません
これは祭神 志那斗弁命が 夫神である島穴神社(市原市島野)の祭神 志那都彦命に大変待たされ「待(マツ)つ身はつらい」と言ったと伝わり この゛待(マツ)゛の音が通じている゛松(マツ)゛を避けたためと云われます
姉埼神社(市原市姉崎)の氏子は 正月に門松を立てず 竹と榊を用いた飾りを立てる風習があり 又 かつては 松(マツ)を薪(まき)としなかった これらは皆 神の忌給うによると伝わっています
姉埼神社と島穴神社は 両社ともに 上緫国 海上郡の延喜式内社です
延喜式内社 上緫国 海上郡 姉埼神社(あねさきの かみのやしろ)
・姉埼神社(市原市姉崎)
姉埼神社(あねさきじんじゃ)は 社伝には 日本武尊が御東征の際 走水の海で暴風雨に遭い お妃の弟橘姫の犠牲によって無事上総の地に着かれ この地 宮山台でお妃を偲び 風神 志那斗弁命を祀ったのが創建と云う その後 景行天皇が日本武尊を祀った 延喜式内社 上緫国 海上郡 姉埼神社(あねさきの かみのやしろ)です
姉埼神社(市原市姉崎)〈『三代實録』姉前ノ神『延喜式』姉﨑神社〉
延喜式内社 上緫国 海上郡 嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)
・島穴神社の旧鎮座地〈島穴社原地碑〉
島穴神社が 現在地に遷座する天長3年(826)までの旧鎮座地
島穴社原地碑(しまあなしゃげんちひ)は 社伝には日本武尊が東征の時 風神 志那津比古命を祀り創建 景行天皇が日本武尊・倭比賣命を合祀 昔 この地〈この丘〉にある深坎(しんかん)から常に清風が起り 島穴の社名の由来となった 延喜式内社 上緫国 海上郡 嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)の旧鎮座地で天正3年に現在地に遷座
島穴社原地碑(市原市島野)〈式内社 島穴神社の旧鎮座地〉
・島穴神社(市原市島野)
島穴神社(しまあなじんじゃ)は 第12代 景行天皇の御代 日本武尊が東征の時 走水の海で暴風に遭われ 弟橘姫命が大和国の風鎮神 龍田の神を拝み 海中に身を投じ暴風が止んだ 無事に上陸ができた尊は 妃のご祈誓に従い ここに風鎮の神 志那都比古尊を祀られたと云う『延喜式』嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)です
島穴神社(市原市島野)〈『三代實録』嶋穴ノ神『延喜式』嶋穴神社〉
延喜式内社 下緫国 千葉郡 蘇賀比咩神社(そかひめの かみのやしろ)
荒れた走水の海に弟橘姫と共に入水した゛5人の姫達を祀る 式内社 蘇我比咩神社゛について
日本武尊が東征の折 走水の海(浦賀水道)で暴風雨に遭い 走水の海が荒れたのは龍神の怒りであると悟った妃の弟橘姫は 大和国 龍田大社の風鎮めの神に 船の安全航行を祈願し 成就した時には この地に神社を建立することを約束し 同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じました
身を投じた五人の姫の中に蘇我大臣の娘たる比咩がおり この方がこの地(現在の千葉市中央区蘇我)の海岸に打ち上げられました 里人等の手厚い看護で蘇生することが出来 無事に都に帰りました
この里人等の行為に深く感激した第十五代応神天皇は 特別の命により蘇我一族をこの周辺の国造として派遣し政治をおこなわせました 蘇我一族は 代々「春日神社」「比咩神社」を守護神として 両神社の御分霊をいただき「蘇賀比咩神社」を建立したと伝わります
・蘇我比咩神社(千葉市中央区蘇我)
蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)は 日本武尊が東征の際 走水海で暴風雨に遭い 后の弟橘姫が同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じ それを鎮めました 社伝には その一人 蘇我大臣の娘 蘇我比咩は浜に打上げられ 里人により蘇生し都に帰った これを知り応神天皇が国造に任命した蘇我氏により 春日神・比咩神を祀り創建と云う
蘇我比咩神社(千葉市中央区蘇我)〈『延喜式』 蘇賀比咩神社〉
延喜式内社 上総國 長柄郡 橘神社(たちはなの かみのやしろ)
弟橘比賣命の櫛が 流れ着き 弟橘媛の櫛を納めて御陵が作られた橘樹神社(茂原市本納)
橘樹神社(茂原市本納)の社伝では 日本武尊が弟橘媛の御陵を作り 弟橘媛の櫛を納めて 橘の木を植えて祀ったことを創始と伝えます
・橘樹神社(茂原市本納)
橘樹神社(たちばなじんじゃ)は 『古事記』に「日本武尊の后・弟橘比賣命が走水の海に身を投じて 七日の後 后の櫛が海辺に依りき その櫛を取りて御陵を作り治置きき」と記され 社伝では 尊が后の櫛を納めた御陵を作り 橘の木を植えたのが創祀と伝える 延喜式内社 上総國 長柄郡 橘神社(たちはなの かみのやしろ)です
橘樹神社(茂原市本納)〈『三代實録』橘樹ノ神『延喜式』橘樹神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR内房線 外房線 蘇我駅から南方向へ約1.2km 徒歩で16分程度
房総往還の道路を南へ進むと左手〈東側〉に案内板があります
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社殿 境内 社頭は南向きで 社頭には鳥居が建ちます
蘇我比咩神社(千葉市中央区蘇我)に参着
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一礼をしてから鳥居をくぐると 石畳の参道がまっすぐに社殿へと通じています
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鳥居をくぐると すぐ右手に手水舎があります
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参道の向かって右手には社務所 左手には境内社が祀られています
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石燈籠があり その奥に御神木 イチョウの木が拝殿の前にあります
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拝殿にすすみます
拝殿の扁額には゛蘇我比咩神社゛と記されます
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 蘇我比咩神壮について 所在は゛曾我野村に在す゛〈現 蘇我比咩神社(千葉市中央区蘇我)〉と記しています
【抜粋意訳】
蘇我比咩神壮
蘇我比咩は假字也
〇祭神明か也
〇曾我野村に在す、〔地名記〕例祭 月 日、
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 蘇我比咩神壮について 所在は゛今 池田郷蘇我野村にあり゛〈現 蘇我比咩神社(千葉市中央区蘇我)〉と記しています
【抜粋意訳】
蘇我比咩(ソガヒメノ)神社、
今 池田郷蘇我野村にあり、〔巡拝舊祠記、神名帳考土代、下総式社考、〕〔〇按 新撰姓氏録、阿部朝臣蘇我並に孝元天皇に出つ、續日本紀、池田臣萬呂、本姓 阿部池田の朝臣を賜ふ、之に據るに疑らくは阿部朝臣 此地に住者、其 祖神を祭る乎、姑附て考に備ふ、〕
凡 九月十四日 十五日祭を行ふ、〔千葉縣神社調〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 蘇賀比咩神社について 所在は゛曾我野村〔字仲宿〕(千葉郡蘇我町大字蘇我野)゛〈現 蘇我比咩神社(千葉市中央区蘇我)〉と記しています
【抜粋意訳】
蘇賀比咩神社 稱 春日明神
祭神 蘇我比咩神
祭日 九月十四日 十五日
社格 郷社所在 曾我野村〔字仲宿〕(千葉郡蘇我町大字蘇我野)
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
蘇我比咩神社(千葉市中央区蘇我)について 郷社として記されています
【抜粋意訳】
○千葉縣 下總國 千葉郡蘇我野町大字會我野
郷社 蘇我比咩(ソガヒメノ)神社
祭神 不詳
創立年代詳ならずと雖も、廷喜の制式内の小社に列せらる。當国十一座の一に坐ます、中世以来 春日大明神と號せしが、徳川家康、関東所領に當り、後陽成天皇 天正十九年十一月、社領として朱印十石を寄進す、寛文五年の朱印状、諸社朱印写に在り、云く。
「春日大明神社領、下総國千葉郡曾我野郷之内拾石事、任に天正十九年十一月日、元和三年三月二十三日、寬永十三年十一月九日、先判之旨、永不可有に相違者也(寛文五年七月十一日)」と、
口碑に云く、先是 鎌倉時代 武将社領の寄進ありしと、其年月、及何人なるを知らず、別當を春光院と云ひ、新義真言宗たり、明治の初 社號を古に復し、同同六年十二月郷社に列す、社殿は假殿、境内四百九十九坪、(官有地第一種)あり、
下総國旧事考に、「社ノサマ今ハ聊カ形ノミ残レド、敷地ハイト大キャカニテ、古キ木立モムラムラニ残リ、尋常ナラヌヤウニ見ユ云々」と見ゆ、
又本社祭神に就き。神名帳考証云「蘇我比咩神社、古事記云、速須佐之男命白に于天照大御神、我心清明、故我所生之子得手弱女、
日本記云、清地此云 素鶴、按 蘇我比咩 道主貴也、能登国 菅忍比咩神社、」
又 地理志料云、「按 姓氏録、孝元皇別、有池田、蘇我二氏、今此郷曰 池田、祠曰 蘇賀、可知其族居此、祀祖神也、又按、雄略紀有紀小弓宿禰、為 蘇我氏族、亦 豈其邑耶、」とあるも未だ決定するに至らずと云ふ。
【原文参照】
明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244
明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244
蘇我比咩神社(千葉市中央区蘇我)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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下緫国 式内社 11座(大1座・小10座)について に戻る
下緫国(しもふさのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 下緫国には 11座(大1座・小10座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
下総國 式内社 11座(大1座・小10座)について