実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

賣布神社跡(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社跡(めふじんじゃ あと)は 延喜式内社 但馬國 氣多郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)の跡地です 往古は禰布ヶ森に鎭座し 洪水で社殿が流され 中世に天神山中腹に遷宮 萬延元年(1860)本殿再建 文久二年(1862)この地に遷座 令和元年(2019)中世の鎮座地〈現 荒神神社に合祀遷座〉へと戻りました

Please do not reproduce without prior permission.

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

賣布神社跡(Site of Mefu Shrine)

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

兵庫県豊岡市日高町国分寺字山ノ脇797

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大賣布命(おほぬふのみこと)

《配》毘沙門天(びしゃもんてん)
   稻荷大明神(いなりだいみょうじん)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

式内社 賣布(めふ)神社跡

 豊岡市日高町国分寺字山ノ脇七九七 旧石立村

由緒

 祭神 大賣布命

 創社 朱雀三年

当社往古は 祢布ケ森にあったが 字天神山中腹に遷宮する。

万延元年(一八六〇年)本殿再建する。
 後に、大雨の為、境内が破損し文久二年(一八六二年)現在地に遷宮する。

明治六年(一八六七年)格式制度廃止により村社となる。
明治九年(一八七九年)石立村と国分寺村が合併し国保村となる。
大正十年(一九二一年)屋根替えする。
昭和二十七年(一九五二年)近隣の国府村と聞き間違い多く再び国分寺村に改名し現在は国分寺区となる。

令和元年(二〇一九年)荒神神社に遷座合祀する。

神社合祀実行委員会

[追記]
式内社 平安時代前期、延喜式の巻九、十の神名帳に記載された神社で(官幣社、国幣社)三千百三十二座の記載がある由緒ある神社。

令和二年三月吉日

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

【由  (History)】

『式内社調査報告第十九巻』昭和59年に記される内容

【抜粋】

但馬国氣多郡 賣布(ヒメフ)神社
【社名】

 延喜式九條家本中院家本・吉田家本ともに

「賣布(ヒメフ)神社」とんでる。一般には「賣布(メフ)神社」であら

う。また、「布ヶ森明」とも通される。

【由緒】

 創立年不詳だが、一説(『但馬國司文書、故事記』、『日高町郷土史』では朱鳥三年(六八八)。延喜式では小社に列せられる。
往古は布ヶ森と呼ばれるところに座してたが、洪水で社殿が流され、中世に天神と呼ばれる山腹に遷座したとへられる。萬延元年一八六〇)府村の上より、社殿新築で不用になった用材を購入して本殿を再建し、文久二年一八六二現鎭座地に移った。
明治六年村社に列せられ、大正十三年に本殿の屋根がへられた。昭和三十三年にも屋根され、合掌造から造になった。

【所在】

 兵庫縣城郡日高町保字山ノ脇。國蔭線江原驛下車、北西へ五〇〇メートル(地図Ⅲ地點)。國分寺の集落の西端標高五〇メートルの傾斜變換線上に位する。
また中世から文久二年までの鎭座地と推定されてるのがⅡ地點で、天神山とよばれる標高約一〇〇メートの山腹である。現在も小があり、跡地は明確に残ってゐる。
創立初の座地とへられてるのは地點で、稲葉川合流點に近い氾濫原である。ここは縄文後期・彌生布ヶ森遺跡にあたる場所である。

 この付近一帶は古代の山陰道からははづれてるが、丹後府から出石盆地経由で但馬國府を通り、再び山陰道に合流する古代の重要な交通路から至近の距離に位置する。

また昭和四十八年からの發掘によつて但馬國分寺の金堂の位置がほぼ確定されたが、そこから地點ともに四〇○メートルと隔たらない。また和名抄の日置にあたるか。

【祭神】

 。『但馬國國文書、氣多郡故事記』および日高町郷土史』は大賣布命とし、「神名では埴とする。

『式内社調査報告第十八・十九巻』著者 式内社研究会編纂.刊行年.昭和59年.出版社 皇学館大学出版部より

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・〈境内社〉稲荷神社or三柱神社

Please do not reproduce without prior permission.

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・〈創立当初の鎮座地〉布ヶ森遺跡(にようがもりいせき)

Please do not reproduce without prior permission.

布ヶ森遺跡(にようがもりいせき)は 平安時代の國府の跡とされます

賣布神社は 往古は布ヶ森と呼ばれるところに座していたが 洪水で社殿が流され 中世に天神と呼ばれる山腹〈現 荒神神社(豊岡市日高町国分寺)〉に遷座したとへられています

・〈現在の合祀先〉荒神神社(豊岡市日高町国分寺)

・〈中世~文久二年(1862)までの賣布神社の鎭座地 中世の鎮座地〉

・〈令和元年(2019)荒神神社に賣布神社を遷座合祀 現在の合祀先〉

 荒神神社(豊岡市日高町国分寺)の社地は〈中世文久二年1862までの賣布神社の鎭座〉とされています
荒神神社は 明治維新の際 国分寺境内より現在地に遷座されたものです
賣布神社は 令和元年(2019荒神神社に遷座合祀されています

・荒神神社(豊岡市日高町国分寺)については こちらの記事を参照
〈令和元年(2019)賣布神社を合祀〉

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
『續日本紀』延暦16年(797)完成
『日本後紀』承和7年(840)完成
『續日本後紀』貞観11年(869)完成
『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)但馬國 131座(大18座・小113座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)氣多郡 21座(大4座・小17座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 賣布神社
[ふ り が な ](ひめふの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Himefu no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「(ひめふの かみのやしろ)」について

八社があり それぞれの式内論社について

延喜式内社 尾張國 中嶋郡 賣夫神社(大貞)(めふの かみのやしろ)

・賣夫神社(稲沢市平和町嫁振)

・天神社(一宮市萩原町西宮重東光堂)

延喜式内社 攝津國 河邊郡 高賣布神社(たかひめふの かみのやしろ)

・高賣布神社(三田市酒井)

延喜式内社 攝津國 河邊郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

・賣布神社(宝塚市売布山手町)

延喜式内社 丹後國 竹野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

・賣布神社(京丹後市網野町木津女布谷)

一緒に読む
賣布神社(京丹後市網野町木津女布谷)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社(めふじんじゃ)は 垂仁天皇90年 但馬国造 田道間守は 勅を奉じて常世國に渡航し 不老不死の香菓たる橘を得て 景行天皇元年に帰国しました この時 報賽の爲めに この地〈田神山〉に神籬を設けて奉祀したのが 当社の創始と伝わります 延喜式内社 丹後國 竹野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)です

続きを見る

延喜式内社 丹後國 熊野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

・賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡)

一緒に読む
賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社(ひめふじんじゃ)は 『丹後一覧記』等によると第11代 垂仁天皇の御代 川上麻須の勧請に係れりと云う 延喜式内社 丹後國 熊野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)です 当初の鎮座地は「久美浜町谷の足洗井戸があり 祭神が始めて留りし地であり 野中 安養寺を経て船にて女布に着き小字舟處に上陸された」と伝わります

続きを見る

・布森神社〈布杜神社〉(京丹後市久美浜町女布)
〈賣布神社の神幸時の御旅所〉元宮であるとも云う

一緒に読む
布森神社〈布杜神社〉(京丹後市久美浜町女布)〈『延喜式』賣布神社〉

布森神社〈布杜神社〉(ふもりじんじゃ)は 由緒など不祥ですが 賣布神社の神幸時の御旅所で 元宮であるとも云います 里での呼称も 賣布神社を大宮 布杜神社を小宮と呼んでいます 延喜式内社 丹後國 熊野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)の参考論社とも考えられています

続きを見る

延喜式内社 但馬國 氣多郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

布ヶ森遺跡公園(豊岡市日高町祢布)
〈賣布神社の当初の鎮座地〉

・賣布神社跡地(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇)
〈令和元年(2019)荒神神社に合祀〉

一緒に読む
賣布神社跡(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社跡(めふじんじゃ あと)は 延喜式内社 但馬國 氣多郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)の跡地です 往古は禰布ヶ森に鎭座し 洪水で社殿が流され 中世に天神山中腹に遷宮 萬延元年(1860)本殿再建 文久二年(1862)この地に遷座 令和元年(2019)中世の鎮座地〈現 荒神神社に合祀遷座〉へと戻りました

続きを見る

・荒神神社(豊岡市日高町国分寺)
・〈中世文久二年1862までの賣布神社の鎭座地 中世の鎮座地
・〈令和元年(2019)荒神神社に賣布神社を遷座合祀 現在の合祀先

延喜式内社 出雲國 意宇郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

一緒に読む
賣布神社(松江市和多見町)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社(めふじんじゃ)は 遠く神代に始まると伝わり 『出雲風土記』に賣布の社 『延喜式神名帳』に賣布神社と列記される古社です 摂社の御祭神「櫛八玉神(くしやたまのかみ)」が 速秋津比賣神(はやあきつひめのかみ)〈大祓詞のなかにある潮の流れの神(水戸ノ神 祓戸ノ神)〉をお祀りになられたのが起源とされます

続きを見る

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR山陰本線 江原駅の西口から北西へ約700m 徒歩での所要時間は10~12分程度

国指定史跡 但馬国分寺跡の西280m程
国分寺トンネルの西側出口の下辺りになります

賣布神社跡地の前の道路は 歩いて進みます

Please do not reproduce without prior permission.

社号標「式内 賣布神社」が建っています

賣布神社跡地(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

参拝日は令和3年(2021)7月25日です

境内の案内板によると 「式内社 賣布(めふ)神社跡」となっています

〈令和元年(2019)荒神神社に賣布神社を遷座合祀〉しています

Please do not reproduce without prior permission.

昨年頃までは 社殿も残っていたようですが 現在は参道の正面は更地になっています

Please do not reproduce without prior permission.

境内向かって右手には 境内社の祠が一宇 しっかりと祀られて残っています

Please do not reproduce without prior permission.

境内向かって右手には 神庫が残っています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

社殿は 取り壊してありますので 境内社にお参りをします

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

一礼をして境内跡地を戻ります
ここから南方向へ500m程の所に「〈創立当初の鎮座地〉布ヶ森遺跡(にようがもりいせき)」があります

布ヶ森遺跡(にようがもりいせき)は 平安時代の國府の跡とされます

Please do not reproduce without prior permission.

賣布神社は 往古は布ヶ森と呼ばれるところに座していたが 洪水で社殿が流され 中世に天神と呼ばれる山腹〈現 荒神神社(豊岡市日高町国分寺)〉に遷座したとへられています
万延元年(1860)本殿再建
後に 大雨の為 境内が破損し文久二年(1862この地に遷宮
その後 賣布神社は 令和元年(2019〈中世の鎮座地〉荒神神社に遷座合祀されています

・荒神神社(豊岡市日高町国分寺)

・〈中世文久二年1862までの賣布神社の鎭座地 中世の鎮座地
・〈令和元年(2019)荒神神社に賣布神社を遷座合祀 現在の合祀先

神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 賣布神社について 祭神・所在は記されていません

【抜粋意訳】

賣布神社

賣布は假字也

○祭神詳ならず

類社
 攝津國 河邊郡 賣布神社の條見合すべし

【原文参照】

Please do not reproduce without prior permission.

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 賣布神社について 所在は゛石立村にあり、゛〈現 賣布神社跡地(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇)〉と記しています

【抜粋意訳】

賣布(メフノ)神社、

 石立村にあり、

 九月十六日祭を行ふ、〔神社明細帳、豐岡縣式社取調帳、〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 賣布神社について 所在は゛石立村゛〈現 賣布神社跡地(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇)〉と記しています

【抜粋意訳】

賣布神社

祭神
祭日 九月十六日
社格 村社

所在 石立村

【原文参照】

Please do not reproduce without prior permission.

賣布神社跡地(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

但馬国 式内社 131座(大18座・小113座)について に戻る

一緒に読む
但馬國 式内社 131座(大18座・小113座)について

但馬国(たじまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 但馬国には 式内社 131座(大18座・小113座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています