実践和學 Cultural Japan heritage

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古代氏族 倭文氏に祀られた『延喜式神名帳』(927年編纂)所載社について

古代氏族 倭文氏(しとりうじ)は 「天羽雷命(あめはいかづちのみこと)〈建葉槌命(たけはつちのみこと)〉」を祖神とします 全国各地に祀られた式内社は 「倭文(しとり しずり しどり しとおり)」を社名に持ち 倭文氏の祖神を祀る式内社とされ 各国に13社が記されています それぞれの現在の論社も紹介します

倭文(しとり しずり しどり しとおり)について

倭文は〈古代に植物の繊維で格子などを織り出した布〉をさし 日本古代の織物「倭文織(しずおり)」の意で 「倭文布(しづり)」から来ています
「文」は「あや」 文布(あやぬの)の意です

倭文織(しずおり)に 使用された植物の繊維とは

倭文織(いずおり)に 使用された植物の繊維は ①麻(あさ)と ②栲樹(たくのき)〈梶の木(カジノキ)〉と伝わり この木皮等からの繊維で 木から綿を作り 文様を織り出したとされています

①麻(あさ)と神道の関係について

古来より神道において非常に重要な植物繊維として扱われてきました

麻が神道で重んじられる理由には

・清浄の象徴

麻は「穢れ(けがれ)」を祓う性質があるとされ 清浄・潔白の象徴

神道では「清め」は最も大切な概念のひとつであり 麻はその象徴的な素材

・生命力と繁栄の象徴

麻は成長が早く まっすぐにすくすく伸びるため 生命力・成長・繁栄の象徴とされました

古くは子供の成長を祈って麻糸を身につける風習もありました

・神々の依代(よりしろ)

麻の繊維や糸は 神の霊力(たま)を宿すものと考えられました

祭具や神衣に用いられるのも 神霊を迎え、清めるためです

神道における麻の具体的な用途例
用途 説明
注連縄(しめなわ) 麻を撚って作ることが多く 神域を示し 穢れの侵入を防ぐ結界として用いる
大幣(おおぬさ)・祓串(はらえぐし) 麻の繊維を垂らし 祓い清めに使う
神職の衣(麻衣・あさぎぬ) 神官が着る装束に麻が使われ 神前に立つにふさわしい清浄を表す
御幣(ごへい) 紙垂(しで)とともに麻が使われることがあり 神霊を宿す依代
神棚・御神体への供え物 「麻」と「木綿(ゆう)」を供える「麻績(おみ)」の習俗あり

②栲樹(たくのき)〈梶の木(カジノキ)〉と神道の関係について

 「栲(たく)」や「栲樹(たくのき)」は 古代日本では 神聖視された木であり 神に捧げる布(神衣)を作るための原料として特に重要な意味をもちました

「栲(たく)」は 楮(こうぞ)・三椏(みつまた)・楡(にれ)などの樹皮繊維を指す古語とされます

これらの繊維を水に晒して白くしたものが「白栲(しろたへ)」
「白栲(しろたへ)」は 神事や祭祀に用いる布(神衣・幣)などの素材とされました

神衣・神服(しんぷく)・祭衣の材料

「栲布(たくぬの)」として衣や布に加工され、神への奉納布や祭服に用いられました

神璽・神具・神棚用の装飾

祭具に掛ける布(瑞垣、幣帛)・神饌や幣帛の包みなどに神聖な布素材として栲布が使われした

幣帛・御幣の材料

「幣(ぬさ)」や「御幣(ごへい)」の紙や麻と同じく 栲の繊維は清浄性が高いとされ 晒した白栲布を神前に捧げ 神聖な素材でした

織物・呪具(まじない具)

栲の繊維は丈夫で 古代の神事用紐(ひも)・結界縄などにも用いられ 特に「栲縄(たくなわ)」として 神域の結界や祭壇の装飾に使用されました

古代の信仰と神木としての「栲樹(たくのき)」

神への供え物としての布「栲幣(たくぬさ)」「白栲幣(しろたへぬさ)」は 『古事記』『日本書紀』『延喜式』などにも多く登場します

これを作る木として「栲樹(たくのき)」は 神聖な布を生み出す樹木=神木として尊ばれました

特定の樹種ではなく 繊維を採取して神衣や幣帛に用いた木の総称とも云います

『古事記』天照大神の岩戸隠れの段 に示される ①麻(あさ)と ②栲樹(たくのき)について

『古事記』の天照大神の岩戸隠れの段

天香山の五百津の真賢木(まさかき)を根から掘り取り
上枝に八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)を掛け
中枝に八咫鏡(やたのかがみ)を掛け
下枝に白丹寸手(しろにぎて)・青丹寸手(あおにぎて)を垂らし

 ・・・とあります

天照大神が岩戸に隠れた際 天児屋命・布刀玉命ら神々が 三種の神器と同等に扱い ①麻(あさ)と ②栲樹(たくのき)を「天の真榊の枝」に飾ったと伝えられています

上枝 八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま) 三種の神器の一つ
中枝 八咫鏡(やたのかがみ) 三種の神器の一つ

下枝 白丹寸手(しろにぎて)⇒白栲幣(しろたへぬさ)
下枝 青丹寸手(あおにぎて)⇒麻の青い幣帛

白栲と青和幣は 三種の神器と同等の 清らかな神聖なもの として神への供物・神衣として「天の真榊の枝」に掛けられています

「倭文織(しずおり)」の織物技術を伝えた氏族「倭文氏(しとりうじ しどりうじ しずりうじ)」について

倭文氏は 古代日本の織物技術者の氏族で 特に神に奉る神衣(かんみそ)〈神の衣服を織る氏族〉

五世紀後半の百済系帰化技術民渡来の以前からの氏族で 倭文部という古い織布技術を持った氏族

倭文に関する人名・地名・神社名などは広く分布し
・大和・山城・河内・伊勢・駿河・甲斐・伊豆・常陸・近江・上野・下野・磐代・磐城・越前・丹波・但馬・出雲・美作・淡路等にみられます

倭文氏の祖神は

機織の神 建葉槌命(たけはつちのみこと)『日本書紀』
又は
天羽槌雄神(あめのはづちをのかみ)『古語拾遺』〈天照大御神を天岩戸から誘い出すために 神衣和衣を織ったとされる神〉
〈天羽雷命・天羽槌雄・武羽槌雄など〉

別称 倭文神(しとりがみ)

『常陸国風土記』久慈郡の条にある「静織の里」には「静(しず)神社」が鎮座 武葉槌命を主祭神とします

織物の神 機織の神として信仰され 全国の倭文神社などで祀られています

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の13社「倭文神社」と論社について

倭文氏の祖神「天羽雷命(アマハイカヅチノミコト)=建葉槌命」を祀る式内社とされ 各国に13社が記されています

又 近江國には 滋賀郡 倭(シトリ)神社がありますので それぞれの現在の論社もご紹介します

1.畿内 大和國 葛下郡 葛木倭文坐天羽雷命神社(大 月次 新嘗)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載

・葛木倭文座天羽雷命神社(葛城市加守)

一緒に読む
葛木倭文座天羽雷命神社(葛城市加守)〈『三代実録』葛木倭文天羽雷命神〉

葛木倭文座天羽雷命神社(かつらきしとりにいます あめのはいかづちのみことじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 葛下郡 葛木倭文坐天羽雷命神社(大月次 新嘗)(かつらきの しとりにゐます あめのはづちのみことの かみのやしろ)とされ 相殿には加守神社と葛木二上神社が祀られ 二上山の雄岳山頂「葛木二上神社」の里宮とも云われます

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博西神社(葛城市寺口

2.東海道 伊勢國 鈴鹿郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載

加佐登神社(鈴鹿市加佐登町)
加佐登神社が 
明治41年(1908)高宮内の17神社を合祀した中に椎山の下方に鎮座していた熊野神社の境内にあった倭文神社の祠を合祀〉

3.東海道 駿河國 富士郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載

倭文神社(静岡県富士宮市)

一緒に読む
倭文神社(富士宮市星山)〈『延喜式』倭文神社〉

倭文神社(しどりじんじゃ)は 古代 布織技術を誇った倭文氏が祖神 健羽雷神〈織物の神〉を祀った延喜式内社 駿河国 富士郡 倭文神社(しとりのかみのやしろ)です 鎮座地の星山は 星神 香々背男との関連も示唆し 常世国神を奉じて大和朝廷に反した大生部多(おおうべの おお)〈不尽河〈富士川〉の辺に住む人〉の伝承にも通じます

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4.東海道 伊豆國 田方郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載

・倭文神社(伊豆市大野)

一緒に読む
倭文神社(伊豆市大野)

倭文神社(しどりじんじゃ)は 伊豆市大野にある倭文山の山頂に鎮座する『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 式内社゛倭文神社(しとりの かみのやしろ)゛の論社です 縄文遺跡もあり この地が古くから 渡来文化(機織技術など)で開けていたことを示すものとされています

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・鍬戸神社(三島市長伏)

一緒に読む
鍬戸神社(三島市長伏)

鍬戸神社(くわとじんじゃ)は 江戸期には 鍬手明神と云われていました 同じ境内地の中に 同じく延喜式内社の高橋神社〈東北東向き〉と背中合わせに 鍬戸神社の本殿〈南南東向き〉が並び建てらけて お祀りされています

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・小坂神社(伊豆の国市小坂)に合祀

一緒に読む
小坂神社(伊豆の国市)

小坂神社(おさかじんじゃ)は 明治6年(1873) に 地区内各所に祀られていた17の神社が合祀されました その中の一祠は 古来から葛城山の山頂に鎮座し 合祀当時は 山麓の寺に遷されて小祠として祀られていた「葛城神社」〈式内社「倭文神社(しとりの かみのやしろ)」の論社〉です

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・聖神社(伊豆市月ヶ瀬)

一緒に読む
聖神社(伊豆市月ヶ瀬)

聖神社(ひじりじんじゃ)は 聖ヶ森に鎮座していた聖宮大明神を明治9年(1876)この社殿に合祀し主神として祀ったものです 最古の上梁文に永正9年(1512)のものがあり 村名に「槻瀬村」とあり 現在の地名『月ヶ瀬』の由来を示す者とされています

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5.東海道 甲斐國 巨麻郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載

・倭文神社本宮(山梨県韮崎市)

一緒に読む
本宮倭文神社(韮崎市穂坂町柳平)〈延喜式内社の元宮〉

本宮倭文神社(ほんぐうしずりじんじゃ)は 延喜式内社 甲斐國 巨麻郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされる倭文神社降宮明神(宮久保)の山宮であった棚機宮〈七夕社〉が 神明社(上村組)・貴船神社(窪村組)・天神社(武田の烽火台と云われる城山)と貴船神社の地に(1959)合併し 本宮倭文神社と社名を改めたものです

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・倭文神社降宮明神(山梨県韮崎市)

一緒に読む
倭文神社〈降宮明神〉(韮崎市穂坂町宮久保)〈延喜式内社〉

倭文神社(しずりじんじゃ)は 古代 穂坂御牧(ほさかのみまき)の役人の妻や娘などが織った精巧な織物の技芸上達を祈り祀ったのが起りとされ 山宮(柳平)の古社地より現在地へ降られた伝承と織宮(おりみや)の意から 降宮(おりみや)と呼称される 延喜式内社 甲斐國 巨麻郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)の論社です

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・諏訪大神社(山梨県甲斐市)

一緒に読む
諏訪大神社(甲斐市宇津谷)(日本武尊が創始 延喜式内社)

諏訪大神社(すわだいじんじゃ)は 倭建命(やまとたけるのみこと)が北山・武川・逸見の賊を平定し 残党の復起せぬよう平穏を祷り 鎮護の神として倭文神 建葉槌命を祀り 良民初めて安居するを得て 初在家の名これより起ると口碑に伝わる 延喜式内社 甲斐國 巨麻郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)の論社です

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6.東海道 常陸國 久慈郡 靜神社(名神大)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載

・靜神社(茨城県那珂市)

一緒に読む
靜神社(那珂市静)〈常陸二ノ宮 延喜式内名神大社〉

静神社(しずじんじゃ)は 『常陸國風土記(713年)』には 初めて織物(綾織 しずおり)を織った「静織の里(しどりのさと)」と呼ばれたと伝えられ 『三代實録(901年)』に゛静神゛として 神位 從五位上を授かったと記載のある 延喜式内社 常陸國 久慈郡 靜神社 名神大(しつの かみのやしろ)であるとされます

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7.東山道 上野國 那波郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載

・倭文神社(群馬県伊勢崎市)

一緒に読む
倭文神社(伊勢崎市東上之宮町)〈上野國九之宮〉

倭文神社(しとりじんじゃ)は  第十一代 垂仁天皇の御代の創建と伝えられ 貞観元年(859)には官社に列せられています 上野国九之宮とされる 式内社 倭文神社(しとりの かみのやしろ)です 利根川北岸に鎮座し 南岸に鎮座する式内社 火雷神社(上野国八之宮 下之宮)に対して「上之宮(うえのみや)」と称されます

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8.山陰道 丹後國 加佐郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載

・倭文神社(京都府舞鶴市)

一緒に読む
倭文神社(舞鶴市今田 小字津ノ上)〈延喜式内社 倭文神社〉

倭文神社(しどりじんじゃ)は 927 AD.延喜式内社 丹後國 加佐郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされ 創立は それより相当古くから当地に鎮座されていた云う 伝説によれば 一条天皇正暦元年(990)源頼光が大江山の鬼退治に出陣の途中 当神社に山伏の姿で武運の長久を祈願したとも伝えられています

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9.山陰道 丹後國 與謝郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載

・倭文神社(京都府与謝郡与謝野町)

一緒に読む
倭文神社(与謝郡与謝野町三河内)〈延喜式内社〉

倭文神社(しどりじんじゃ)は 和銅五年(712)この地で綾錦を織ることとなり 丹後國一之宮 籠神社 海部直愛志(あまべのあたいえし)が勅命を奉じて 倭文神を祀り創建した 延喜式内社 丹後國 與謝郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされ 貞応二年(1223)ご神託があり 筬(おさ)村から現今の石崎の社に奉遷されました

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10.山陰道 但馬國 朝來郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載

・倭文神社〈鮭の宮〉(兵庫県朝来市)

一緒に読む
倭文神社〈鮭の宮〉(朝来市生野町円山)〈延喜式内社論社〉

倭文神社(しどりじんじゃ)は 和銅5年(712年)創建された 延喜式内社 但馬國 朝來郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)と伝わります 正徳3年(1713年)遷宮の時 偶然下流から鮭が遡上し 村人達は めでたい前兆として喜び〈鮭の宮〉と呼ぶようになったと伝わります

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・妙見宮〈国常神社〉(兵庫県朝来市)

一緒に読む
國常神社〈妙見宮〉(朝来市生野町円山)〈『延喜式』倭文神社〉

國常神社(くにのとこじんじや)は 北辰信仰の妙見宮(みょうけんぐう)とも呼ばれ 国常立尊(くにのとこたちのみこと)を祀ります この地は 式内社 倭文神社〈鮭の宮〉(ここから500m程の 円山川の下流)の旧鎮座地とされる 円山字鹽谷であると伝わります

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11.山陰道 因幡國 高草郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載

・倭文神社(鳥取県鳥取市)

一緒に読む
倭文神社(鳥取市倭文)〈延喜式内社 倭文神社〉

倭文神社(しとりじんじゃ)は 倭文(しとり/しづり)」とも読み「しづ織り」という絹織物のことを指し 機織り(はたおり)を業(なりわい)とする倭文部の民がこの地に居住し 祖神「倭文神・建葉槌命(たけはづちのみこと)」を奉斎したと伝わる 延喜式内社 因幡國 高草郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)です

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12.山陰道 伯耆國 川村郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載

・倭文神社(鳥取県湯梨浜町) 伯耆 一之宮

一緒に読む
倭文神社(湯梨浜町)安産の神として崇敬される伯耆国の一之宮

倭文神社(しとりじんじゃ)は 云い伝えによれば 大国主命の娘神「下照姫命」が 一匹の海亀の導きによって 宇野の海岸に着船し この小高い丘からの眺めに癒され 住居を定め 農業指導や 医薬普及に努めたと云い 人々は敬い 古くから格式高く 伯耆国の一之宮として 湯梨浜町(ゆりはまちょう)に鎮座します 境内には「安産岩」と呼ばれる岩があり 安産の神様としても知られます

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13.山陰道 伯耆國 久米郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載

・倭文神社(鳥取県倉吉市) 伯耆 三之宮

一緒に読む
倭文神社(倉吉市志津)伯耆国三之宮

倭文神社(しとりじんじゃ)は 御祭神の武葉槌神(一説には 経津主神とも)が 出雲の国譲りの際 豊原中国を平定せよとの詔勅により 出雲へ出陣をされます この時 御陣営をかためられたのがこの地で 倭文神社はこの神跡であると伝えられています

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〈参考〉東山道 近江國 滋賀郡 倭神社(しとりの/やまとの かみのやしろ)

・倭神社(大津市坂本)

一緒に読む
倭神社(大津市坂本)〈『延喜式神名帳』倭神社〉

倭神社(やまとじんじゃ)は 創祀年代は不詳ですが 由緒伝えには 第13代 成務天皇(西暦131年即位)の御代に創立したとされます 古来「森本社」と称し 日吉大社の「社外末社百八社」の一つで 日吉大社に次ぐ古社と伝えられる 延喜式内社 近江國 滋賀郡 倭神社(しとりの/やまとの かみのやしろ)の論社です

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・倭神社(大津市滋賀里)

一緒に読む
倭神社(大津市滋賀里)〈『延喜式神名帳』倭神社〉

倭神社(しどりじんじゃ)は 赤塚古墳の上に鎮座しています 被葬者が倭姫〈第38代 天智天皇の皇后〉だとする伝承があり 御祭神となっています 学術的に推定される築造年代は5世紀前半とのことで 7世紀の天智天皇の時代とは食い違いはあります 延喜式内社 近江國 滋賀郡 倭神社(しとりの/やまとの かみのやしろ)の論社です

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『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「倭文氏(しとり しずり しどり しとおり)」によって祀られた式内社 (hai)」(90度のお辞儀)

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