実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

静岡浅間神社(静岡市)

静岡浅間神社(しずおかせんげんじんじゃは 神部神社・淺間神社・大歳御祖神社の3つの本社と4つの境内社を総称して 静岡浅間神社(通称 おせんげんさま)と言い 古くから駿河国総社として崇敬を受けています 徳川家康公(幼名 竹千代)が 元服式を行ったので 幕府の崇敬が厚く 現在の社殿は 江戸時代に60年の歳月をかけて再建され 総漆塗り極彩色の豪壮華麗な建築群で 大拝殿の高さは25mの大建築物です 社殿26棟の全てが国の重要文化財に指定されています

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

静岡浅間神社Shizuokasengen Shrine)
(しずおかせんげんじんじゃ

※神部神社・浅間神社(二社同殿)及び 大歳御祖神社の三社を総称
(* A general term for the three shrines of Kanbe Shrine, Sengen Shrine, and Otoshi Mioya Shrine.)

 [通称名(Common name)]

おせんげんさま(osengen sama)

【鎮座地 (Location) 

静岡市葵区宮ヶ崎町102-1

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

・神部神社(Kambe Shrine)
《主》大己貴命Onamuchi no mikoto)
※大国主命(Okuninushi no mikoto)の別称

・浅間神社(Sengen Shrine)
《主》木花開耶姫命Konohanasakuyahime no mikoto)

神部神社・浅間神社(二社同殿)

・大歳御祖神社(Otoshimioya Shrine)
《主》大歳御祖命Otoshimioya no mikoto)
神大市姫命(Kamuoichihime no mikoto)の別称

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

・神部神社(Kambe Shrine)延命長寿・縁結び・除災招福
・浅間神社(Sengen Shrine)安産・子授け・婦徳円満
・大歳御祖神社(Otoshimioya Shrine)諸産業繁栄守護

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社
・ 駿河国総社(suruganokuni soja)
・ 別表神社

【創  (Beginning of history)】

神部神社

第十代崇神天皇の御代、約2100年前に駿河開拓の祖神・駿河の国魂の大神として鎮座され、延喜式内社であり、平安時代には駿河国総社となる。『国内神名帳』には美和明神と記され、『類聚国史』に従一位と記載されており、この地方最古の神社である。

浅間神社
延喜元年(901)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮より分祀され、爾来 富士新宮として国司の尊崇を受ける。

大歳御祖神社
応神天皇4年(273)今から1700年ほど前に、古代この地方の物流の拠点、商業の中心地であった「安倍の市」の守護神として創祀され、延喜式内社であり、『国内神名帳』に正二位 奈古屋明神と記され、静岡市の地主神である。

公式HPより

【由  (history)】

神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社を総称して静岡浅間神社(通称おせんげんさま)といい、何れもご創立は千古の昔にさかのぼる。
三社とも鎌倉時代以降、歴代幕府の崇敬を受け、この頃から駿府浅間社と称せられた。
明治21年三社夫々に国幣小社に列せられた。

神部神社(駿河国総社)
●祭神 大己貴命(大国主命の別名)境内社 少彦名神社の祭神とともに、この国土の経営にあたられた。そのご神徳により、延命長寿・縁結び・除災招福の神として信仰される。
●例祭 4月1日~5日 廿日会祭
●神紋 輪宝
●本殿 比翼三間社流造極彩色 31坪余 〔重文〕

浅間神社(富士新宮)
●祭神 木花開耶姫命 天孫瓊々杵尊の御妃神にまします。その御神徳により安産・子授け・婦徳円満の神として信仰される。
●神紋 棕櫚葉
●本殿 神部神社と同殿。

大歳御祖神社(奈吾屋大明神)
●祭神 大歳御祖命 別名を神大市姫命と申し、往古の安倍の市の守護神である。農・漁・工・商業等諸産業の繁栄守護の神として信仰される。
●神紋 立葵
●本殿 三間社流造 10坪 〔重文〕

〔特殊神事〕廿日会祭・節分祭の鬼やらい神事・昇祭・降祭東海の日光

おせんげんさま
当社は、神部神社・浅間神社(以上二社同殿)及び大歳御祖神社の三社を総称して、静岡浅間神社(通称おせんげんさま)と申し上げ、古くから駿河国総社として広く信仰されている。
江戸時代には徳川氏のあつい崇敬を受けて、寛永・文化年間両度の大造営が行われた。ことに文化元年(1804)から60年の歳月と、当時の金額で10万両の巨費を投じて建築されたのが、現在の社殿群である。
境内は4万5千m2 。宏壮華麗な社殿群は、いずれも漆塗りの極彩色で、とくに楼閣造りの大拝殿は浅間造りの代表的なもので、高さ25mあり、殿内は132畳敷きの広さがある。昭和46年6月22日、社殿24棟が、国の重要文化財に指定された。まさに”東海の日光”と 呼ばれるにふさわしいたたずまいである。また、当社は海外雄飛で有名な山田長政公の産土神としても知られている。
玉鉾神社
本社の北側に鎮座。社殿は伊勢神宮の御古材にて昭和51年再建された。例祭 3月29日祭神は羽倉東麿・岡部真渕・本居宣長・平田篤胤。国学の四大人明治9年県内神官により 官許を得て創祀され、受験・学問の神と仰がれている。
八千戈神社〔重文〕
本社の左側に鎮座。もと摩利支天社。漆塗極彩色(莫に虫つくり・かえる)股の二十四孝彫刻が有名。例祭 10月15日八千戈命(本社神部神社の大己貴命の荒御魂)を主神とし、境内の元の末社18社の神々を相殿に祀る。スポーツ・武道・開運の守護神。
少彦名神社〔重文〕
境内北部に鎮座。漆塗極彩色。(kaeru)股の十二支の彫刻が有名。例祭 18日少彦名命を主神とし、本社神部神社の元の末社14社の神々を相殿に祀る。当社はもと神官司薬師社と称し、古くから医薬業者の信仰があつい。
麓山神社〔重文〕
古来、賤機山に鎮座。「山宮」と称せられた。本社の別宮。漆塗極彩色。例祭 4月22日大山祇命を主神とし、日本武尊を配祀する。主神は本社浅間神社の木花開耶姫尊の御父神にまします。当社は宮元八ケ町の氏神でもある。
史蹟賤機山古墳
6世紀頃(今から1500年前)の築造とされ、その規模は大きく、県下随一の 家形石棺を有し出土品の豊富華麗なことは、東海地方に類を見ない。出土した装身具・武器・馬具・祭祀遺品等多数を、浅間神社の宝物とともに境内の文化財資料館に展示している。(昭和28年国指定史蹟)
祭儀廿日会祭(はつかえさい)
当社の大祭で、毎年4月1日より5日まで行われる。家康公奉納の稚児舞楽が今も伝承され踟と称する山車屋台の曳廻しもあり、参詣者数十万に及び、全市内が大いに賑わう。

<宝物>
当社の宝物類は、その点数も多く、品目も多岐にわたっている。その一部は境内の”文化財資料館”に収蔵又は展示され、一般に公開されているが、特に重要な物件は、宝蔵に収蔵されている。重要文化財の各社殿は極彩色の彫刻や絵画で飾られている。
<当社所蔵の宝物類の品目>
1.古文書・古記録(今川家・武田家・豊臣家・徳川家等)
2.書画・絵図(山田長政戦艦図・大象図・寛文絵図等)
3.棟札(寛永・文化・文政・天保度のもの等多数)
4.扁額・絵馬(三十六歌仙・楼門掲額・大絵馬114面外)
5.古墳(六鈴鏡・神鏡・御正体)
6.楽器(琵琶・和琴・鼓など)
7.武器・武具(太刀・長巻・鎧・腹巻・弓・靭・軍配など)
8.神輿(三代将軍家光公奉納)
9.調度品(狛犬・神服・御杯)
10.宣命(幣帛目録6通など)
11.その他(鉄製釣灯篭・紫石硯・文庫・神宮式年遷宮御神宝・史蹟・賤機山古墳出土品など。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社 (Other deities within the precincts)】

麓山神社Hayama Shrine)

《主》大山祇命(oyamatsumi no mikoto)
《配》日本武尊(yamatotakeru no mikoto)

少彦名神社Sukunahikona Shrine)

《主》少彦名命(sukunahikona no mikoto)

※相殿に神部神社 末社14社
《合》伊弉諾命,健御名方命,高皇産霊命,天照大御神,幡千千姫命,味耜高彦根命,大山祇命,大己貴命,誉田別命,多賀神,三女神,稲田姫神,素盞嗚尊,熊野大神

 

八千戈神社Yachihoko Shrine)

《主》八千矛命(yachihoko no mikoto)

※相殿に1873年(明治6年)以降合祭された18社13柱の神々
(浅間神社末社九社・大歳社末社三社・麓山神社末社三社・旧安倍郡城内鎮座稲荷神社・旧安倍郡明屋敷村鎮座国分天神、騎射御霊)
《合》瓊瓊杵命,誉田別命,豊受姫命,天児屋根命,天満大自在天神,火闌降命,高皇産霊尊,素盞嗚命,保食神,三女神,伊弉冊命,日本武尊,崇道尽敬皇帝

 

玉鉾神社Tamaboko Shrine)

《主》羽倉東丸,岡部真渕,本居宣長,平田篤胤(国学の四大人)

 

賤機山古墳Shizuhata yama Tumulus

 

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

神部神社 及び大歳御祖神社
2つの神社が 各々『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載の論社です

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)駿河国 22座(大1座・小21座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)安倍郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社


神部神社
[旧 神社 名称 ] 神部神社
[ふ り が な ](かむへの かみのやしろ)
[Old Shrine name]kamuheno kamino yashiro) 

大歳御祖神社
[旧 神社 名称 ] 大歳御祖神社
[ふ り が な ](おおとしみおやの かみのやしろ)
[Old Shrine name](otoshimioyano kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

 

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

鎮座する 賤機山Shizuhata yama)について

遠く山梨県の安倍峠から 安倍川の東側に連なる安倍東山稜と呼ばれる山域が延びてきて 静岡市内に突き出る形で「賤機山(Shizuhata yama)」があります
こうした山の先端(岬・鼻)には 神が宿り御神威があると考えられてきましたので その意味で 静岡平野を見渡せる最も良い位置にあると言えます

Google Earth

 

静岡(シズオカ)の地名「シズ」の発祥の地として知られていて
古代から神聖な神奈備山(カンナビヤマ)として 人々の精神的支柱でした 山の南側半分は浅間山(センゲンサン)と呼ばれていて 南麓には「静岡浅間神社(Shizuokasengen Shrine)」が鎮座しています

賤機山古墳Shizuhata yama Tumulus」と秦氏Hata uji)について

同じく「賤機山(Shizuhata yama)」の南麓には 古墳群があり 古墳時代中期(5世紀)から終末期(7世紀)のものとされています
「賤機山古墳(Shizuhata yama Tumulus)」(国の史跡)は 6世紀後半この静岡平野の豪族の墳墓であるとされています

「賤機山古墳(Shizuhata yama Tumulus)」には「ハタ」の音もあり
また 静岡市葵区建穂には
秦(ハタ)氏 所縁の寺社
氏寺の「建穂寺Takyo ji)
式内社「駿河国 安倍郡 建穂神社Takyo Shrineがあります

建穂神社の記事をご覧ください

一緒に読む
建穂神社(静岡市葵区建穂)〈延喜式内社 建穂神社の論社〉

建穂神社(たきょうじんじゃ)は かつて隣村の服織(はとり)〈現 静岡市葵区羽鳥(はとり)〉の「木枯森(コガラシノモリ)」の辺りに 境内を構えていたとされます この羽鳥(ハトリ)の地名は 機織(ハトリorハタオリ)の秦氏(ハタ ウジ)から発祥しています 駿府の「秦氏(Hata uji)」の拠点であったところです

続きを見る


さらに
日本平の久能山久能寺(kuno ji)も 秦(ハタ)氏の 開山とされています

明治元年(1868)の神仏分離令までは「久能寺(kuno ji)」があり 「静岡浅間神社(Shizuokasengen Shrine)」の別当寺とされていた寺院です

現地案内板によれば

推古天皇の御代(7世紀頃)に 秦氏の「秦久能忠仁(ハタ ノ クノウ タダヒト)」が
初めて山を開き 一寺を建て 観音菩薩の像を安置し 補陀落山久能寺と称したことに始まります 久能山の名称もここから起こりました・・

と記されています

※有名な渡来系氏族である「秦氏(Hata uji)」の中でも 特に有名な人物として「秦河勝(ハタ ノ カワカツ)」がいます
聖徳太子に仕え 京都の太秦に広隆寺を創建したことで知られます
「秦久能忠仁(ハタ ノ クノウ タダヒト)」は その秦河勝の子 又は 孫とされています

この秦氏の直系「秦久能忠仁(ハタ ノ クノウ タダヒト)」との関連の深い「久能寺(kuno ji)」は 「静岡浅間神社(Shizuokasengen Shrine)」の別当寺とされていた寺院でもあり

秦氏の祖神を「賤機山(Shizuhata yama)」に祀ったのが「静岡浅間神社(Shizuokasengen Shrine)」の発祥であるともいわれています

 

秦氏Hata uji)」の「養蚕に因む地名」

秦氏(Hata uji)の氏寺とれる「建穂寺Takyo ji)(現在は廃寺)も 式内社駿河国 安倍郡 建穂神社Takyo Shrineも 住所は「建穂(Takyo)」です
しかし 建穂神社Takyo Shrineのかつての鎮座地は 静岡市西部の服織(ハトリ)(現 静岡市葵区羽鳥)の木枯森(コガラシノモリ)の辺りに 境内を構えていたとされます
この羽鳥(ハトリ)の地名は 機織(ハタオリ)の秦氏(Hata uji)が開拓した地域から発祥しています

木枯森(コガラシノモリ)は 現在の京都市右京区太秦(ウズマサ)にかつて(平安期までは)あった森も「木枯森(コガラシノモリ)」とよばれていたらしく 清少納言(セイショウナゴン)が『枕草子(マクラノソウシ)』で「森はこがらしの森」とたたえている地については 静岡・羽鳥説や京都・太秦説など諸説あるようです

 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の「〇〇坐天照御魂神社と「太陽祭祀の信仰」

さらに
「秦氏(Hata uji)」の本拠地である京都の太秦(ウズマサ)には 機織(ハタオリ)に欠かせない養蚕を守る「養蚕の社(カイコノヤシ)」があります
正式名称木嶋坐天照御魂神社(コノシマニマスアマテルミタマジンジャ)といい その名の通り「天照御魂(アマテルミタマ)」とあって 太陽祭祀に関わる神社と捉えることが出来ます

木嶋坐天照御魂神社の記事をご覧ください

一緒に読む
木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)

木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)〈蚕の社〉は 京都市内最古の神社の一つと云われます 境内にある「元糺(モトタダス)の池」には「三柱鳥居(ミハシラノトリイ)」と呼ばれる正三角形に柱を組んだ鳥居があり その正三角形の中心点には円錐形に小石を組みあげた神座が座して御幣が依代として立てられています 「秦氏(はたうじ)」の祭祀に深く関わる神社とされています

続きを見る

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)には「〇〇坐天照御魂神社」がいくつかありますが いずれも太陽祭祀に関わりがありそうです

大和国(奈良県)
(大和國城下郡 鏡作坐天照御魂神社 大)

(大和國城上郡 他田坐天照御魂神社 大)

この2つの神社は 辰巳の方角には 三輪山があり 冬至に三輪山から昇る太陽を遥拝したのであろうと云われています

摂津国(大阪府)
(攝津國嶋下郡 新屋坐天照御魂神社 三座 並名神大)

一緒に読む
新屋坐天照御魂神社(西福井)

新屋坐天照御魂神社(にいやにます あまてるみたまじんじゃ)は 第10代 崇神天皇〈推定在位 BC97~BC30年〉が 伊香色雄命(いかがしこをのみこと)に命じ 天照御魂大神(あまてるみたまのおほかみ)を奉祀とあり 亦名を 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(アマテル クニテルヒコ アメノホアカリクシダマ ニギハヤヒノミコト)と云い 神武天皇即位前に大和国を治められていた尊い神であるとされます 創建から2100余年の長い歴史と高い社格を誇る延喜式内名神大社です(西福井)(宿久庄)(西河原)に3社の論社があり その中で中心的な存在が 一般に当神社(西福井)です

続きを見る

このすぐ傍には「秦氏(Hata uji)」に関係の深い

「攝津國嶋上郡 神服神社(カムハトリジンジャ)」があります

一緒に読む
神服神社(高槻市宮之川原元町)

神服神社(かむはとりじんじゃ)は 第19代 允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の時代に服部氏の氏神として創建し「服部神(ハトリノカミ)」と称した古社です この地は服部連(ハトリノムラジ)の本拠地であったとされ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に「神服神社(カムハトリノカミノヤシロ)」と所載されます 

続きを見る

いずれも古代の日知りの地に鎮座すると云われていて 日知りとは日読み」のこと 太陽の動き(軌道) 冬至・夏至など季節の節目を読むこととされています

「静岡浅間神社(Shizuokasengen Shrine)」の発祥と 秦氏(Hata uji)

こうした事実を加味して 秦氏(Hata uji)が その祖神を「賤機山(Shizuhata yama)」に祀ったのが「静岡浅間神社(Shizuokasengen Shrine)」の発祥であるともいわれています
この事を考慮して賤機山古墳Shizuhata yama Tumulusを秦氏(Hata uji)の駿河の中心地として考慮します

①「建穂神社Takyo Shrine」〈秦氏(Hata uji)の氏寺「建穂寺(Takyo ji)」〉
➁「賤機山古墳Shizuhata yama Tumulus」〈秦氏(Hata uji)の祖神を「賤機山(Shizuhata yama)」に祀った〉
③ 日本平の久能山久能寺(kuno ji)」〈秦氏(Hata uji)の開山〉

この3ヶ所が建穂神社Takyo Shrine」から辰巳の方角(南東)〈冬至の日の出方向〉へと直線上にあることに気付きます

建穂神社Takyo Shrine」の旧鎮座地の付近とされる「木枯の森(kogarashi no mori)」からは 夏至の頃に 三保の松原に鎮座する「御穂神社(Miho Shrine)」へと直線が結ばれます

建穂神社Takyo Shrineから見ると 賤機山古墳Shizuhata yama Tumulusがあり その先には 冬至の頃には 大平洋から昇る朝陽が 日本平の久能山久能寺(kuno ji)から輝き始めるのでしょう
この並びは おそらくですが「秦氏(Hata uji)」の太陽信仰に起因するように想われます

参考までに グーグルマップを作製しました

https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?hl=ja&hl=ja&mid=1XhYt9ycQ1PEQaIU5nuxCoAFGY6otywSE&ll=34.970477331992655%2C138.37986013327384&z=13

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

静岡駅から県道27号を北西へ約2km 車5分程度
新静岡駅から約1.5km 徒歩20分程度

駿府城の東南にある馬場町に一の鳥居が建ちます

ここから 浅間通りを進みます
正面に見えるのは 大歳御祖神社(Otoshimioya Shrine)の赤鳥居です

一礼をして 鳥居をくぐると 神門があります
静岡浅間神社Shizuokasengen Shrine)に参着

大歳御祖神社Otoshimioya Shrine)拝殿にすすみます 

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

拝殿の左脇からは 本殿裏手の「賤機山古墳(Shizuhata yama Tumulus)」に小道が通じています
神門をくぐり戻ると 先程歩いてきた参道と鳥居の手前に出ます

ここで 境内を北東方向に右手に斎館を見ながら進みます

広い境内に出ると 左手に境内社がありお詣りをします
八千戈神社Yachihoko Shrine)
《主》八千矛命(yachihoko no mikoto)

八千戈神社(Yachihoko Shrine)の向かって左手には

麓山神社Hayama Shrine)
《主》大山祇命(oyamatsumi no mikoto)
《配》日本武尊(yamatotakeru no mikoto)

賤機山古墳Shizuhata yama Tumulusへと通じる階段があります

階段下が遥拝所になっていてお詣りをします

浅間神社は 廻廊で囲まれていて こちらからも進めますが 一旦 表通りに出てから 総門から入りたいと思います

総門には「神部神社 浅間神社」と刻まれた社号標が立ちます

一礼をして「総門」をくぐると境内は「楼門」が建ち「廻廊」で囲まれています
楼門の先には「舞殿」その先には「大拝殿」が建っています

見事な龍神が刻まれている手水鉢があり 清めます

舞殿にすすみます
舞殿から遥拝をするようになっています
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

「大拝殿」を含め 特に彫刻には「諏訪大社 下社 秋宮(suwataisha shimosha akiumiya)」を手がけて名声を高めた 信州諏訪の宮大工の棟梁「立川和四郎富棟(tatekawa washiro tomimune)(1744~1807)」親子三代や弟子一門が 携わり その見事な功によって 立川和四郎は 幕府より内匠の号を賜っています

諏訪大社 下社 秋宮(suwataisha shimosha akiumiya)」の記事をご覧ください

一緒に読む
諏訪大社 下社 秋宮(下諏訪町)

諏訪大社 下社 秋宮は 諏訪湖北側の下諏訪町に位置しています 下社は「春宮と秋宮」に分かれていて「半年ごとに神様が遷座して移る」という特徴があります ご祭神は2月から7月まで春宮に鎮座し 8月1日の御舟祭で秋宮に遷座し 翌2月1日に春宮に帰座されます 又 厳冬の諏訪湖で見られる「御神渡り」では 上社の御祭神の男神(彦神)が 下社の女神に通った「神様の通り道の跡と」されています

続きを見る

廻廊の北側に「参拝口」と書かれた出入口があり進みます

その先にある境内社にお詣りをします

少彦名神社Sukunahikona Shrine)
《主》少彦名命(sukunahikona no mikoto)

少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)(重要文化財)

例祭日 1 月 8 日

本社は 少彦名命を主神とし 他に神部神社末社 14 社の祭神を相殿とする
もと神宮寺薬師社と称し 薬師十二神を祀っていたが 維新後神仏分離に際し臨済寺に遷され 現在は少彦名命をご祭神とする
社殿は入母屋造銅瓦葺 朱塗で 細部に彩色を施し 特に欄間に飾られた立川流彫刻「十二支」は名作として著名である
古来境内社として 病気平癒の信仰がすこぶる篤く 御例祭には市内薬業関係者多数の参列がある  平成 5 年 9 月吉日 静岡浅間神社

左手奥にある境内社にお詣りをします

玉鉾神社Tamaboko Shrine)
《主》羽倉東丸,岡部真渕,本居宣長,平田篤胤(国学の四大人)

再度 廻廊の中に入り「大拝殿」に一礼をします

廻廊を抜けて 大歳御祖神社(Otoshimioya Shrine)の方向へ戻ります

鳥居をくぐり抜けて 振り返り一礼をします

神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『東海道名所図会(tokaido meishozue)』寛政9年(1797)に記される伝承

現在とあまり変わらない境内の様子(社殿の向き配置など)が記されています
当時は 延喜年中に富士山本宮より分祀され 富士新宮と呼ばれている
日本中の神社の中で 美麗なのは 日光の東照宮が一番で 次いで 2番目だとも記されています

意訳

浅間社(せんげんのやしろ)

賤機山(しずはたやま)の麓(ふもと)にあり 当 府内生土神(ふないうぶすなしん)となす
例祭 四月初申日 十一月同日

(家集)

祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
左 瓊々杵尊(ににぎのみこと)
右 萬機姫命(よろずはたひめのみこと)

惣社(そうじゃ) 社内にあり
祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)

奈吾屋祠(なごやのやしろ) 本社の側にあり 祭神 大山祇命

貝原益軒(かいはらえきけん)『吾嬬路記(あづまぢのこと)』にいわく
当社は富士浅間(ふじせんげん)の新宮(しんぐう)なり
延喜年中 富士の本宮をここに勧請(かんじょう)す

本社二所 北にありて 卯(東)に向かう
〈・神部神社(Kambe Shrine)・浅間神社(Sengen Shrine)〉

摂社(せつしゃ)南に立ちて巳(南南東)に向う
〈・大歳御祖神社(Otoshimioya Shrine)〉

山の宮〈・麓山神社(Hayama Shrine)〉 石壇(石段)百四級(104段)あり 同所南の山に穴あり〈賤機山古墳(Shizuhata yama Tumulus)〉 そこしらずという

当社の宮づくり 美麗(びれい)なる大社なり
日本にて神社の美麗(びれい)なる事 日光を第一とし 浅間(せんげん)を第二とすという
社宮は新宮左近、惣社宮内とて両人ありと書けり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『東海道名所図会』著者:秋里籬島/刊本 ,寛政9年(1797)[書誌事項]活版 ,大正07年
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003048&ID=M2019050910293952044&TYPE=&NO=画像利用

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』文化10年(1813年)に記される伝承

式内社論社「・神部神社(Kambe Shrine)・大歳御祖神社(Otoshimioya Shrine)」2神社が記されています

意訳

神部(カムヘ)神社

[旧事]
素戔嗚尊(スサノヲ ノ ミコト)10世孫の「田々彦命(タタヒコ ノ ミコト)は
瑞籬朝(ミズガキチョウ)〈第10代 崇神天皇(スジン テンノウ)の王朝〉に「神部直(カンベアタイ)」の姓を賜る

[和抄]
安倍郡美和

大歳御祖(オオトシミヲヤ)神社

〇府中の西の方にあり 別雷社とも云う〈静岡県静岡市葵区七間町の別雷神社〉
一説に この大歳御祖(オオトシミヲヤ)神社なりと云う

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

文中で 大歳御祖(オオトシミヲヤ)神社とされている 別雷神社(静岡市)について

論社
別雷神社(静岡市)

別雷神社(わけいかづちじんじゃ)は 社伝によれば 創建を 第15代 応神天皇4年(273年頃)とする古社で 大宝3年(703)に創市の「安倍の市(静岡)」と称する物資交流の中心地の守護神とされていて 祭神は別雷神(ワケイカヅチノカミ)と玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を祀ります 静岡市葵区の七間町に鎮座する(927年12月編纂)『延喜式神名帳』所載社の論社です 

続きを見る

『特選神名牒(Tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876年)に記される内容

式内社論社「・神部神社(Kambe Shrine)・大歳御祖神社(Otoshimioya Shrine)」2神社が記されています

意訳

神部神社(カムベノ カミノヤシロ)

祭神 大己貴命(オオナムチ ノ ミコト)

今 按(考えるに)

社伝に祭神・大己貴命(オオナムチ ノ ミコト)・彦々火瓊々杵尊(ヒコヒコホノニニギ ノ ミコト)・栲幡萬幡姫命(タクハタヨロズハタヒメ ノ ミコト)とあれど
萬幡姫(ヨロズハタヒメ)は 志豆機山(シズキヤマ)の名より云う出て この姫神の御名によって 瓊々杵尊(ニニギノミコト)を祀っている
実は 大己貴命(オオナムチ ノ ミコト)が主祭神なるべし 今は一座を記しています

祭日 3月3日
社格 縣社(明治21年5月 國幣社に加列す)
所在 静岡 志豆機山(静岡市宮ケ崎町 國幣小社 神部神社)

今 按(考えるに)
一説に当社の神明社であるとも 又 庵原郡(イハラ ノ コオリ)河合村の神明社とも云われるが詳しくわからず 今は注進状(チュウシンジョウ)に従う

大歳御祖神社(オオトシミヲヤノ カミノヤシロ)

祭神 大歳御祖神(オオトシミヲヤノカミ)

今 按(考えるに)

皇太神宮儀式帳(コウタイジングウギシキチョウ)に
湯田社(ユタノヤシロ) 一處(一つ所にあって)称す 鳴震雷(ナルミ イカヅチ)

又 大歳御祖命(オオトシミオヤノミコト)とある同神とみえたり されば この神社を奈吾屋本社(ナゴヤノホンシャ)と云うなり
安倍郡(アンベノコオリ)奈吾屋火雷地祇(ナゴヤカライノチギ)とあるも由ありけりなり

祭日 3月3日
社格 縣社
所在 静岡 賤機山麓(シズキヤマフモト)

今 按(考えるに)
静岡の市中にある「雷宮(イカヅチ ノ ミヤ)」〈静岡県静岡市葵区七間町の別雷神社〉を近世 大歳御祖皇神社(オオトシミオヤコウノカミ ノ ヤシロ)といへど
その神社は 神階帳に従五位上 安倍郡(アンベ ノ コオリ)奈吾屋火雷地祇(ナゴヤ カライ ノ チギ)と見えて
古へに 当社(大歳御祖神社)を移し祭れりしにて 中世までは すなわち 別宮摂社の如くなり
しかば式に載られし社(ヤシロ)は 当社なる事云も更なり
かの「雷宮(イカヅチ ノ ミヤ)」は 有度郡(ウドノコオリ)にて 郡も違へれば かたがた由なし

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒(tokusen shimmyo cho)』出版 大正14年(1925年)磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155
・神部神社(Kambe Shrine)B1-1
・大歳御祖神社(Otoshimioya Shrine)B1-2

静岡浅間神社Shizuokasengen Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

建穂神社の記事をご覧ください

一緒に読む
建穂神社(静岡市葵区建穂)〈延喜式内社 建穂神社の論社〉

建穂神社(たきょうじんじゃ)は かつて隣村の服織(はとり)〈現 静岡市葵区羽鳥(はとり)〉の「木枯森(コガラシノモリ)」の辺りに 境内を構えていたとされます この羽鳥(ハトリ)の地名は 機織(ハトリorハタオリ)の秦氏(ハタ ウジ)から発祥しています 駿府の「秦氏(Hata uji)」の拠点であったところです

続きを見る

木嶋坐天照御魂神社の記事をご覧ください

一緒に読む
木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)

木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)〈蚕の社〉は 京都市内最古の神社の一つと云われます 境内にある「元糺(モトタダス)の池」には「三柱鳥居(ミハシラノトリイ)」と呼ばれる正三角形に柱を組んだ鳥居があり その正三角形の中心点には円錐形に小石を組みあげた神座が座して御幣が依代として立てられています 「秦氏(はたうじ)」の祭祀に深く関わる神社とされています

続きを見る

鏡作坐天照御魂神社の記事をご覧ください

他田坐天照御魂神社の記事をご覧ください

新屋坐天照御魂神社の記事をご覧ください

一緒に読む
新屋坐天照御魂神社(西福井)

新屋坐天照御魂神社(にいやにます あまてるみたまじんじゃ)は 第10代 崇神天皇〈推定在位 BC97~BC30年〉が 伊香色雄命(いかがしこをのみこと)に命じ 天照御魂大神(あまてるみたまのおほかみ)を奉祀とあり 亦名を 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(アマテル クニテルヒコ アメノホアカリクシダマ ニギハヤヒノミコト)と云い 神武天皇即位前に大和国を治められていた尊い神であるとされます 創建から2100余年の長い歴史と高い社格を誇る延喜式内名神大社です(西福井)(宿久庄)(西河原)に3社の論社があり その中で中心的な存在が 一般に当神社(西福井)です

続きを見る

神服神社の記事をご覧ください

一緒に読む
神服神社(高槻市宮之川原元町)

神服神社(かむはとりじんじゃ)は 第19代 允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の時代に服部氏の氏神として創建し「服部神(ハトリノカミ)」と称した古社です この地は服部連(ハトリノムラジ)の本拠地であったとされ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に「神服神社(カムハトリノカミノヤシロ)」と所載されます 

続きを見る

「大拝殿」を含め 特に彫刻には「諏訪大社 下社 秋宮(suwataisha shimosha akiumiya)」を手がけて名声を高めた 信州諏訪の宮大工の棟梁「立川和四郎富棟(tatekawa washiro tomimune)(1744~1807)」親子三代や弟子一門が 携わり その見事な功によって 立川和四郎は 幕府より内匠の号を賜っています

諏訪大社 下社 秋宮(suwataisha shimosha akiumiya)」の記事をご覧ください

一緒に読む
諏訪大社 下社 秋宮(下諏訪町)

諏訪大社 下社 秋宮は 諏訪湖北側の下諏訪町に位置しています 下社は「春宮と秋宮」に分かれていて「半年ごとに神様が遷座して移る」という特徴があります ご祭神は2月から7月まで春宮に鎮座し 8月1日の御舟祭で秋宮に遷座し 翌2月1日に春宮に帰座されます 又 厳冬の諏訪湖で見られる「御神渡り」では 上社の御祭神の男神(彦神)が 下社の女神に通った「神様の通り道の跡と」されています

続きを見る

駿河国 式内社 22座(大1座・小21座)について に戻る       

一緒に読む
駿河國 式内社 22座(大1座・小21座)について

駿河国(するかのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 駿河国には 22座(大1座・小21座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています