鹽竈神社は 「塩土老翁神(shiotsuchi no oji no kami)」が 東北を平定する「武甕槌命&経津主神」の両神を先導されて この地に至った折に ここに留まり 里人に製塩を教えたことに始まると伝えられます 全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社です 元々は当地には 鹽竈神社のみが鎮座していましたが 明治時代に志波彦神社が境内に遷座されて 現在は正式名称を「志波彦神社・鹽竈神社」として1つの宗教法人となっています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
鹽竈神社(Shiogama shrine)
(しおがまじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (location) 】
宮城県塩竈市一森山1-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
別宮(特別な社 Special shrine)
《主》塩土老翁神(shiotsuchi no oji no kami)
左右宮の左宮
《配》武甕槌神(takemikazuchi no kami)
左右宮の右宮
《配》経津主神(futsunushi no kami)
【同じ境内に鎮座する名神大社(A special shrine that sits in the same precincts)】
・志波彦神社(shiwahiko shrine)
(しわひこじんじゃ)
《主》志波彦大神(shiwahiko no okami)
鹽竈神社との双方の社殿の位置関係は
明治に遷座する時までは 鹽竈神社の二階建ての社務所が建っていた場所に新たに造営
志波彦神社(shiwahiko shrine)の記事をご覧ください
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志波彦神社(塩竈市一森山)
志波彦神社(しはひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の名神大社として由緒ある國幣神社でしたが 社地狭隘の為に もとの鎮座地〈仙台市岩切の冠川〉から〈明治7年(1874)鹽竈神社の境内に〉遷座 現在は「志波彦神社・鹽竈神社」として1つの宗教法人となっています 御祭神は「鹽竈神(しおがまのかみ)」にご協力されたと伝わる「志波彦神(しはひこのかみ)」をお祀りします
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・安産守護 Watch over healthy and safe childbirth
・延命長寿 Healthy and longevity
・海上安全 Maritime safety
・大漁満足 Good harvest and big catch
・家内安全 Pray to God that the home is peaceful
・産業開拓 Open up undeveloped industries
・武神 God of armed forces
【格 式 (Rules of dignity) 】
・陸奥国一之宮(mutsu no kuni ichinomiya)
・別表神社
・式外社(shikige sha)
【創 建 (Beginning of history)】
当社は古くから東北鎮護・陸奥国一之宮として、朝廷を始め庶民の崇敬を集めて今日に至りました。
鹽竈神社の創建年代は明らかではありませんが、その起源は奈良時代以前にります。
平安時代初期(820)嵯峨天皇の御代に編纂された『弘仁式』主税帳逸文には「鹽竈神を祭る料壱萬束」とあり、これが文献に現れた初見とされています。
当時 陸奥国運営のための財源に充てられていた正税が六十萬三千束の時代ですから、地方税の60分の1という破格の祭祀料を受けていた事が伺われます。
しかし 全国の各社を記載した『延喜式』(927年完成)の神名帳にはその名が無く、鹽竈神社は「式外社」ではありましたが 中世以降、東北鎮護・海上守護の陸奥國一宮として重んじられ、奥州藤原氏や中世武家領主より厚い信仰を寄せられてきました。
特に江戸時代にはいると伊達家の尊崇殊の外厚く、伊達政宗以降歴代の藩主は全て大神主として奉仕してまいりました。よって江戸時代の鹽竈神社には歴代の宮司家が存在せず、実質祭祀を行っていた禰宜家がおりました。鹽竈神社が発展してきた大きな要因に鎮守府としての国府多賀城の存在が考えられます。
多賀城の地に国府が置かれると、その東北方向つまり「鬼門」に位置し、蝦夷の地に接していた当社が国府の守護と蝦夷地平定の精神的支えとして都から赴任してきた政府の人々に篤く信仰されたものと考えられます。
その流れが今度は武家社会に入ると陸奥國総鎮守として一層尊崇を集めてきたものでしょう。
鹽竈神社 公式HPより
【由 緒 (history)】
鹽竈神社は別宮に鹽土老翁神・左宮に武甕槌神・右宮に経津主神の御三神をお祀りしております。
安産守護・延命長寿・海上安全・大漁満足・家内安全・産業開発の神として、全国から信仰されております。当社は古くから東北鎮護・陸奥国一之宮として、朝廷を始め庶民の崇敬を集めて今日に至りました。
当神社 創建の年代は詳らかではありませんが、平安時代初期、嵯峨天皇の御代に編纂された『弘仁式』、更に醍醐天皇の延長5年(西暦927)に編纂なった『延喜式』にも「鹽竈神を祭る料10,000束」と記され、当時陸奥国より603,000束の正税が徴収されていた時代に、この様な厚い祭祀料を授かっていたことが知られます。
つまり、奈良時代国府と鎮守府を兼ねた多賀城(九州太宰府と同等の政庁)が当神社の西南5〓余の小高い丘(現在多賀城市川)に設けられ、その精神的支えとなって信仰されたと考えます。その後平安時代の後一條天皇の寛仁元年(西暦1017)には、御一代一度の奉幣使を遣わされ数々の神宝を奉献せられました。
武家社会になってからは、東北の権力者であった平泉の藤原氏・鎌倉幕府の留守職であった伊沢氏等武将・豪族の崇敬も並々ならぬものがあり、殊に伊達氏は慶長5年政宗公が玉造郡岩出山から仙台に居城を移し、慶長12年6月社殿を造営し奉斎の誠を捧げ、明治に至るまで歴代の藩主は大神主として神社を治め、社領・太刀・神馬等を寄進し自ら社参して衣服を改め神前に祈願されました。
なお、江戸時代 桜町天皇の延享5年(西暦1748)には正一位を贈られました。現在の社殿は、第4代藩主 伊達綱村公が元禄8年神社造営の計画をたてて工事に着手し、第5代藩主吉村公の宝永元年(西暦1704)まで9ヶ年の歳月をかけて竣功されたもので、拝殿の擬宝珠には当時の藩主・普請奉行等関係者の名前が彫り刻まれております。本殿は三社とも木造素木流桧皮葺、三方に勾欄の縁があります。別宮並びに左右宮拝殿は何れも朱漆塗入母屋造銅板葺で、宝永以降20年に一度御屋根葺替の式年遷宮の制度が設けられ現在に至っております。
昭和34年本殿・拝殿・四足門(唐門)・廻廊・随神門・石鳥居などが宮城県重要文化財に指定されました。
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から
【境内社 (Other deities within the precincts)】
末社4社 向かって右から
・神明社(shimmei sha)
《主》天照大神(amaterasu okami)
豊受大神(toyoke no okami)
・八幡社(hachiman sha)
《主》八幡大神(hachiman no okami)
・住吉社(sumiyoshi sha)
《主》底筒男神(sokotsutsuo no kami)
中筒男神(nakatsutsuo no kami)
上筒男神(uwatsutsuo no kami)
・稲荷社(inari sha)
《主》宇迦之御霊神(ukanomitama no goreishin)
・御釜神社(okama shrine)
《主》塩土老翁神(shiotsuchi no oji no kami)
奥津彦神(okitsuhikonokami)
奥津姫神(okitsuhimenokami)
・牛石藤鞭社(ushiishifujimuchi sha)
《主》牛石藤鞭大神(ushiishifujimuchi no okami)
御釜神社の記事をご覧ください
・曲木神社(magaki shrine)
《主》曲木大神(magaki no okami)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
陸奥国一之宮「鹽竈神社(Shiogama shrine)」について
『国史』所載・『一宮諸社根源記』・『諸国一宮神名帳』『一宮記』等何れも鹽竈神社を陸奥国一之宮としています
平安時代初期(820年編纂)『弘仁式(konin shiki)主税帳逸文(shuzeicho itsubun)』には「陸奥国正税六十萬三千束(中略)鹽竈神を祭る料 壱萬束」とあります
陸奥国の運営の財源が 地方税として「六十萬三千束」を充当した時代に地方税の60分の1という破格の祭祀料を受けた重要な神社である事が記録されています
しかし 約100年後の官社一覧『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)には記載がなく その後 鹽竈神社は多くの崇敬を受けながらも「式外社」として扱われます
この事実は その100年の間に 大きな政情の変化等「蝦夷(emishi)の地(東北)への大和朝廷の最前線が多賀城であった頃から その後の蝦夷(emishi)と大和朝廷の関係の変化によって 「鹽竈大神」の位置づけが変化したのでしょうか?」
事実としては 大和朝廷から厚い崇敬を受けていた「鹽竈大神」は 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』の頃には 大きな霊力を恐れられながらも 大和朝廷の祀る神ではなくなったという事になります
鹽竈神社の公式HPには次のように記されています
歴史の謎
鹽竈神社は祭祀料として正税壱万束を受けていた事は前述しましたが、当時全国で祭祀料を寄せられていたのは、他に伊豆国三島社二千束、出羽国月山大物忌社二千束、淡路国大和大国魂社八百束の三社で共に『式内社』でありますが当社に比べ格段の差があり、国家的に篤い信仰を受けていたにも拘わらず『延喜式』神名帳にも記載されず、その後も神位勲等の奉授をうけられていないというこの相反する処遇はどう解すべきなのでしょうか
公式HPより抜粋
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
参道や社殿の変遷について
古代・中世の鹽竈神社の参道の変遷について
鹽竈神社の創建時から 参道は 七曲坂のみであったと伝わります
坂の途中はつづら折れです
七曲坂は、鹽竈神社参道(表坂・七曲坂・裏坂)の中で最も古く、その形成は、神社の創建と同時期の奈良時代頃と推測されている
往時(古代・中世)は国府・多賀城から香津(国府津‐古代市街地/第一小学校周辺)へ至る東海道(あづまかいどう)を鳥居原(とりいはら)(古代の市場/塩釜高校校庭)で江尻へ下り、入り江となっていた祓川(はらいがわ)を舟(鎌倉時代に架橋「御?の橋」)で渡って当坂へ至る道筋であった。さらに上野原(古代の野菜採取場)や利府春日、松島方面へ通じる重要な生活道路ともなっていた。なお、当坂下の四方石(よもせき)辺りは、作道時の排出土砂を用いて海面を埋め立てて造成されたもので、神社創設以来の神官阿部家が江戸期初期まで約1000年間 屋敷を構えて参道口を守っていたと伝えられている。
享保16年(西暦1731年)から近年まで、祭礼のときには御輿の帰る道筋となっていた。
塩竃市教育委員会
現在の様子 表参道から塩釜高校周辺を望む
古代・中世には 参道の前は 入り江となっていたので「江尻」と呼ばれていた
この付近は古代・中世にかけて海が入り込み、入江の最奥部をなしていたことから江尻と呼ばれたようです。Yの字形をなす道路も、そうした地形の痕跡とみられます。古くはこの辺りまで船が入りこみ停泊していたことでしょう。
さらにここを起点として、南の丘に登る道は、古代多賀城への古道とされ、また北に登る七曲坂は鹽竈神社への最古の参道とされています。
このように江尻は、鹽竈の港町の発祥の地ともいえる場所なのです。
社殿の変遷について 慶長の社殿の造営
その時の棟札(鹽竈神社蔵)に【慶長12年(1607年)6月20日「御遷宮」「大檀那」「政宗」】とあり 仙台藩祖の「伊達政宗公」が 鹽竈神社の社殿を造営したと名が記されています
拝殿はなく 本殿が二棟並んで廊下で結ばれているものであったと云われます
寛文の社殿の造営
4代藩主「伊達綱村公」は 社殿の造営(寛文3年(1663年)4月6日完成)と奉納 そして縁起の作成が行われました
新しい社殿のようすは 塩竈大明神絵図(『御修復帳』宮城県図書館蔵)や陸奥国松島之勝景(東北歴史博物館蔵)などによって詳細が伝わっています
本殿は一棟 廊下で拝殿と繫がる
拝殿の東側に 貴船・只洲の二社が建つ配置となっていたと伝わります
元禄の造営「別宮」(主祭神)と「左右宮」の社殿の位置関係の謎
現社殿はこの元禄期のもので元禄8年(1695)から9年の歳月をかけ宝永元年(1704)に竣功しました
鹽竈神社の公式HPには次のように記されています
通常の神社は鳥居ないし門を入った正面に主祭神を祀っておりますが、鹽竈神社は正面に左右宮(鹿島・香取の神)が南向きに、門を入って右手に主祭神たる塩土老翁神を祀る別宮が松島湾を背に西向きに立っております。
→これは伊達家の守護神たる鹿島・香取の神を仙台城の方角に向けて建て、大神主たる藩主が城から遙拝出来る様に配し、海上守護の塩土老翁神には海難を背負って頂くよう海に背を向けているとも言われております。
配置図を見ると良くわかります
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
本塩釜駅から 西に約1km 徒歩15分程度
松島湾を見下ろせる一森山(ichimori yama)に鎮座します
「表参道」「東参道」「七曲坂」と3つの参道がありますが
今回は「表参道」から
道路に面して社号標「東北鎮護 鹽竈神社」が建ちます
鹽竈神社(Shiogama shrine)に到着
石灯篭と鳥居が建つ 境内へと続く表参道には 202段の石段が続きます
鳥居には青銅の扁額があり「陸奥國一宮」と刻まれています
一礼して 鳥居をくぐり抜けます
長い石段を上がります 石段の両脇の斜面には 灯籠が並び立ちます
石段の中間あたり踊り場には 立派な青銅の燈籠が建ちます
石段を上がると馬場があり 楼門が建ちます
楼門をくぐると 左手に手水舎かあり 清めます
その奥に末社4社が鎮座します お詣りをします
境内社(稲荷社・住吉社・八幡社・神明社)
参道の正面には「唐門」があります
唐門に沿って廻廊が廻っていて ご神紋にもなっています「鹽竈桜」(花弁が40もある大輪の八重桜 天然記念物)が植わっています
東側には東参道からの「東神門」があります
舞殿があり 塩釜神楽保存会による奉納神楽が演じられていました
「唐門」をくぐると社殿が建ちます
正面に建っている拝殿は「左右宮」その奥に左宮・右宮の本殿が各々建ちます
右手建っているのが「別宮」と呼ばれる本宮です
各々の拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内には江戸期の「松尾芭蕉(matsuo basho)」によって『奥の細道』に書かれている「文治の燈籠」があります
文治3年(1187年)の奉納とあり 奥州藤原氏が源頼朝に滅ぼされる少し前になります 案内板には
元禄二年五月九日(陽暦六月二十五日)朝、芭蕉は鹽竈神社に詣でこの燈籠を観る。扉の碑文に「文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」とある。「…神前に古き宝燈あり。……五百年来の俤(おもかげ)、今目の前に浮かびてそぞろ珍し。かれは勇義忠孝の士なり。…」と奥の細道に綴った。
その横に別の「鹽竈桜」があり 階段を降りると 大木が倒れるように立つ場所に通称「イボ取り神社」があり お詣りをします
志波彦神社(shiwahiko shrine)へ向かいます
志波彦神社(shiwahiko shrine)の記事をご覧ください
下りは 「東神門」からの東参道(裏坂)を戻ります
東参道の二の鳥居をくぐり 振り返り一礼します
能登半島の塩田で使用されていた塩釜などがあります
緩やかな東参道(裏坂)を下ります
東参道の一の鳥居をくぐり抜けて 振り返り一礼をします
御釜神社に向かいます
御釜神社の記事をご覧ください
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『春日権現験記(kasugagongen genki)』巻一の第一段の冒頭 に記される伝承
左右宮の「左宮の御祭神」
《配》武甕槌神(takemikazuchi no kami)について
そもそも鹿島神宮の武甕槌命(takemikazuchi no mikoto)は はじめ「陸奥国の塩竃浦」に天下り その後 「常陸国の鹿島」に遷り 最後に「大和国 御(三)笠山に遷って春日の神」になったと記されています
この伝承は異説とされています
一般の説では 鹿島の武甕槌命は 香取の経津主命(futsunushi no mikoto)と共に 中央から陸奥国へ下っていって 蝦夷(emishi)を征伐したと説かれていますが
この説では 武甕槌命の伝承だけで経津主命は存在していません
そして なによりも 武甕槌命は 通常の説とは正反対の行程で 塩竃に天下ってから 南下して鹿島の神となり さらに大和の春日へと遷られた 北方からの神としています
この伝承は そうした理由から異説として軽視されていますが
平安期には 天下の中枢を担った藤原氏が 最も崇敬しているであろう春日大社に 自らの祖神の誕生について 「春日明神」の霊験を描いて 奉納した絵巻物『春日権現験記(kasugagongen genki)』(鎌倉時代後期 延慶2年(1309)作成)の巻一の第一段の冒頭に これほど明確に記した祖神「武甕槌神(takemikazuchi no kami)」の伝承について 重要視すべき事柄のように思えます 一般の説のように「記紀神話」のみを重視して 他の説を軽視すべきではなく 藤原氏が後世に残そうとしている意図が必ずあると思えるからです
意訳
「その源を尋ぬれば
昔 我が朝 悪鬼・邪神明け暮れ戦ひて 都鄙(都から遠く離れて文化の至らない地)安からざりしかば
「武甕槌命(takemikazuchi no mikoto)」是を哀れみて 陸奥国塩竃浦に天降り給ふ
邪神は 霊威に畏れ奉りて 或ひは逃げ去り 或ひは従ひ奉る
その後 常陸国跡の社より 鹿嶋に移らせ給ふ
遂に神護景雲二年(768年)春 法相擁護の為に 御笠山(春日大社)に移り給ひて 三性五重の春の花を弄び 八門二悟の秋の月を嘲り給ふ・・・・・」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『春日権現験記絵目録』鎌倉時代の延慶2年(1309)作成の絵巻物 「群書類従」刊本(跋刊)[旧蔵者]外務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000037302&ID=M1000000000000061086&TYPE=&NO=映像利用
鹽竈神社(Shiogama shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
同じ境内に鎮座する名神大社
志波彦神社(shiwahiko shrine)の記事をご覧ください
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志波彦神社(塩竈市一森山)
志波彦神社(しはひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の名神大社として由緒ある國幣神社でしたが 社地狭隘の為に もとの鎮座地〈仙台市岩切の冠川〉から〈明治7年(1874)鹽竈神社の境内に〉遷座 現在は「志波彦神社・鹽竈神社」として1つの宗教法人となっています 御祭神は「鹽竈神(しおがまのかみ)」にご協力されたと伝わる「志波彦神(しはひこのかみ)」をお祀りします
「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について