実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

下立松原神社(南房総市千倉町)

下立松原神社(しもたてまつばらじんじゃ)は 『古語拾遺』〈大同2年(807年)〉に記される神武天皇元年の安房開拓に纏わる忌部氏の伝承が残る古社です 鎌倉幕府を開いた源頼朝が自らが書写した大般若経600巻を奉納しています 又 同名下立松原神社が千倉町白浜町にそれぞれ鎮座していて 双方ともに式内社の論社となっています 

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

下立松原神社(Shimotatematsubara Shrine)
(しもたてまつばらじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

千葉県南房総市千倉町牧田193

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天日鷲命(Ameno hiwashi no mikoto)
   木花開耶姫命(Konohanasakuyahime no mikoto)
   月夜見命(Tsukiyomi no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

下立松原神社
健田村牧田の中央旭ヶ関と称する處に在り。境内540坪。神殿の背後山嶺を繞らし、喬松老杉亭々として轟立し、閑寂幽遠荘厳を極む。

(イ)由緒
神武天皇即位の初年、阿波忌部の孫 美努射持(ミヌエモチ)命、其の祖 天日鷲命を奉祀せし所にして 延喜式に載す。
治承4年(1180)9月 源頼朝本社に参拝し、社後の岡上に登り、朝旭の海上より昇るを拝し、武運の長久を祈る。故に旭ヶ岡の称あり。

(ロ)神寶
大般若経
源頼朝の奉納したる書写 の大般若経六百軸は 年々誦読の式盛なりしが、歳月を歴るに従ひ缺損す
仍て 近年 其の残存する所の数十巻を収め、石函を造りて之を蔵す。
弓箭及び馬柄杓数種
此の神社もと珍奇の社寶を多く蔵したりしが、嘉吉年中(1441~1444)安西氏と丸氏との戦争によりて、其の多く失ひたりと云ふ。

『千葉県安房郡誌(Chibaken Awa Gun Shi)』〈大正15年(1926)著〉に記される伝承
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『千葉県安房郡誌』大正15年(1926)著者 千葉県安房郡教育会 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980721映像利用『千葉県安房郡誌』1 『千葉県安房郡誌』2

【由  (History)】

由緒

当社は 天日鷲命を祀る社で、昔、天富命が 天日鷲命の孫 由布津主命が、祖神を祀ったのが当社である。
当時 鹿などの獣が 住民の農作物を荒すので、神々が狩りを行い、獣の害を除いた神恩に感謝する祭が 今も神狩の祭として行われ、また 狩りで捕えた大鹿の角が社宝として現存している。
武将の尊崇も厚く、源頼朝公、里見義実公も太刀を献納し武運を祈っている。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社 (Other deities within the precincts)】

八雲神社稲荷神社天神社子安神社

Please do not reproduce without prior permission.

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています

・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)安房国 6座(大2座・小4座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)朝夷郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 下立松原神社
[ふ り が な ]しもたちまつはら かみのやしろ)
[Old Shrine name]Shimotachimastuhara no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

Please do not reproduce without prior permission.

式内社「下立松原神社」 もう一つの論社

・下立松原神社(南房総市白浜町滝口)

一緒に読む
下立松原神社(南房総市白浜町滝口)

下立松原神社(しもたてまつばらじんじゃ)は 『古語拾遺〈大同2年(807年)〉』に記される神武天皇元年の安房開拓に纏わる忌部氏の伝承が残る古社ですが 同名の下立松原神社が 白浜町と千倉町にそれぞれ鎮座していて 双方ともに『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社の論社となっています

続きを見る

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

安房の式内社〈6座〉について

安房國の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている 安房國の6座(大2座・小4座)の神社のことです

一緒に読む
安房國の 式内社〈6座(大2座・小4座)〉について

安房國(あわのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている当時の官社です 安房國には 6座(大2座・小4座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

続きを見る

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

千倉駅から 西へ350m程度 徒歩約5分

県道187号沿いに社号標には「延喜式内 下立松原神社」と刻まれています
県道脇で さほど広い境内でもなく 騒音がしても良いのですが 何故か静まり返ったような印象を受けます 境内には古木もあり ご神威が漂っています
下立松原神社(Shimotatematsubara Shrine)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

階段を上りると 左側に手水舎があり その先には 杉の大木の神木が2本聳えています 注連縄柱か鳥居の如く 注連縄が掛けられています

Please do not reproduce without prior permission.

一礼をして 注連縄をくぐり
拝殿にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『古語拾遺(kogojui)』〈大同2年(807年)〉に記される伝承

神武天皇元年に神武天皇の命を受けた天富命(ameno tomi no mikoto)が 肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸して開拓したその後 さらに肥沃な土地を求めて 阿波忌部氏の一部を率い房総半島に上陸したと記されています

古語では 麻を総(フサorヌサ)と言います 現在の上総・下総の2国の名です

【意訳】

天富命(ameno tomi no mikoto)は 更に肥沃な土地を求めて 阿波の斎部(imbe)を分けて 東の国に率いて往き 麻(nusa)・穀(kaji=木綿)を播き殖えました 良い麻(nusa)が生育しました 故に この国を總国(fusa no kuni)と言います

穀穀(kaji=木綿)・木の生育したところは これを結城郡(yufuki no kori)と言います 古語に麻(nusa)を總(fusa)といい 今 上總(kamitsu fusa)・下總(shimotsu fusa)の2国がこれです

阿波の忌部(imbe)が居るところを 安房郡(awa no kori)と言いいます 今の安房の国がこれです
天富命(ameno tomi no mikoto)は その地に「太玉命の社」を建てました 今は安房社(awa no yashiro)と言います それで神戸(kamube)に斎部氏(imbe uji)が在ます

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『訂正古語拾遺』選者:斎部広成 大同2年(807年)編纂/校訂者:猿渡容盛 刊本,明治02年,木村正辞
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047473&ID=&TYPE=&NO=画像利用

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』〈815年(弘仁6年)〉から 松原臣は大彦命の子孫と記しています

【意訳】

下立松原(シモタテマツハラ)神社

姓氏 松原臣 阿倍朝臣 同祖 大彦命の後(スエ)なり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

Please do not reproduce without prior permission.

『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

牧田村〈現 千倉町牧田〉の下立松原神社を 論社と記しています

【意訳】

下立松原神社

下立松原は 志毛多知末都波良と訓ずべし
〇祭神 天日鷲命 地名記
〇牧田村に在す

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

牧田村〈現 千倉町牧田〉の下立松原神社を 論社と記しています

【意訳】

下立松原神社

祭神 天日鷲命
祭日 11月7日8日
社格 村社
所在 牧田村 字下田(安房郡健田村大字牧田)

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

下立松原神社(Shimotatematsubara Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

『安房國の式内社〈6座〉について』に戻る

一緒に読む
安房國の 式内社〈6座(大2座・小4座)〉について

安房國(あわのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている当時の官社です 安房國には 6座(大2座・小4座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています